卒業パーティー、異常なし 〜氷の令嬢はフラグをへし折り、完璧なエンディングを迎える〜
拙作に足をお運び頂きありがとうございます。
春先の柔らかな陽射しが差し込む自室。公爵令嬢 フロワードは、隣国から流入したその恋愛小説をパタン、と乾いた音を立てて閉じた。
サイドテーブルの白磁のカップに手を伸ばすが、紅茶は既に冷めきり、水面には薄い膜が張っている。
「……『身分差を越えた真実の愛』、ですか」
指先でこめかみをぐっと押さえる。眉間に刻まれた深い皺は、彼女がこの「若者の熱病」をどれほど危険視しているかを物語っていた。
「おとぎ話としては優秀ですが……貴族の婚姻が『家と家との契約』であることを理解していないわけがありませんわ。あまりに目に余るようなら、焚書も辞しませんことよ」
彼女は冷めた紅茶を一口だけ啜り、不味そうに眉をひそめた。
◇
王立学園入学式をあと一週間後に控えた、麗らかな午後。
重厚な革張りのソファが置かれた理事長室には、対照的な二人の姿があった。
王太子・グランディールは、膝の上に置いた拳を固く握りしめ、背筋を強張らせている。対するフロワードは、まるで自邸のサロンにいるかのように優雅に足を組み、扇子をもてあそんでいた。
「さて、本題に入ろう。今年度の入学試験の結果についてだが……」
理事長が書類をめくる乾いた音が、室内に響く。
「首席はフロワード嬢、次席はグランディール殿下。三席はルペティール嬢という結果であった」
グランディールの喉仏がごくりと動く。
「……やはり、届かなかったか」
彼は小さく息を吐き出し、強張っていた肩をわずかに落とした。だが、すぐに顔を上げ、王族としての矜持をその瞳に宿す。
「承知いたしました。新入生代表のスピーチ、謹んでお引き受けいたします」
「それは僥倖。二人は婚約者であり、戦友となる。期待しているぞ」
理事長の言葉が終わるや否や、フロワードが扇子を閉じた。パチリ。その音が、鞭のように空気を叩く。
彼女は凍てつくような視線を王太子に向けた。
「殿下。政務を言い訳に学業を疎かにするようでは、総代の座はわたくしが頂きますわ」
「……フロワード」
「この国の王となる方が、臣下に劣る知性でよろしいのですか? 婚約者とはいえ、一切容赦しませんから。……覚悟なさいませ」
その言葉は、冷徹な宣告でありながら、最も強烈な激励でもあった。
グランディールは反論を飲み込み、唇から血が滲むほど強く噛み締める。だが、その碧眼の奥には、確かな闘志の炎が灯っていた。
その炎を見た瞬間、フロワードは誰にも気づかれぬほど微かに、満足げに口角を上げた。
◇
走り梅雨の季節。古都の石畳は連日降り続く雨に濡れ、空気はねっとりと重く肌にまとわりついていた。
その湿り気と同様に、不快な噂が学園内にカビのように増殖している。
平民聖女、ルペティール。
貴族学舎の前にある楢の大樹の下、濡れた子犬のような瞳で男子生徒を見上げる彼女の姿が、連日目撃されていた。
「誰にでも媚びを売っているわ」
「学業も上の空らしいわ」
サロンに集まった令嬢たちの報告を聞きながら、フロワードは優雅に扇子を揺らしていた。
だが、その手元が止まる。
三席。平民というハンデを跳ね除け、彼女が勝ち取ったその順位は、まぎれもない才能の証だったはずだ。それが、こんなくだらない「色恋ごっこ」で腐り落ちようとしている。
バキッ。
サロンに硬質な音が響いた。
令嬢たちが息を呑む。フロワードの手の中で、鼈甲の扇が無残にも二つに折れ曲がっていた。
「……あら。湿気のせいで脆くなっていたようですわ」
フロワードは表情一つ変えず、折れた扇をゴミ箱へ放り投げた。その瞳は、外の雨空よりも暗く、冷たく澱んでいた。
「言語道断ですわね。宝石を泥の中に放置するような愚行……わたくし、我慢なりませんの」
◇
調査結果は明白だった。
元凶は「放任主義」を気取る無能な教育係と、流行病のような恋愛脳。悪の華が咲き誇るには十分すぎる土壌だ。
フロワードは即座に執務室のグランディールを訪ねた。
「彼女は、手綱なしでは走れぬ駄馬です。ですが、鞭さえあれば名馬になり得る」
フロワードはチェスの駒を動かすように、淡々と告げた。
「殿下。彼女には『師』が必要です。それも、骨の髄まで清貧を叩き込むような、劇薬が」
グランディールは苦笑し、書類から顔を上げた。
「……あの御方か。公爵家と教会庁のパワーバランスが崩れかねんぞ」
「ご心配なく。毒を以て毒を制す。教会にとっても悪い話ではありませんわ」
「いいだろう、任せた。王家の名が必要なら使うといい」
全権委任。その言葉に、フロワードは獲物を狙う猛禽のような笑みを浮かべ、優雅にカーテシーを行った。
◇
雨脚は強まるばかりだったが、教会庁の応接室は別世界のように静まり返っていた。
華美ではないが、最高級の調度品。清貧を謳う国教の総本山にしては、いささか脂の匂いが強い。
「フロワード様。この度は多大なるご寄付、神に代わり感謝いたします」
ふくよかな大司教が、揉み手をして出迎えた。
「敬虔な信徒として当然の務めですわ」
フロワードは最高級の茶葉で淹れられた紅茶に口をつけることなく、切り出した。
「ところで大司教猊下。学園での『聖女様』の惨状……ご存じかしら?」
「は……? 何かございましたか?」
フロワードはわざとらしく溜息をつき、視線を鋭く細めた。
「このままでは、聖女様は学園から排除、ひいては廃籍される可能性がございます。……王家も、既にこの事態を『憂慮』しておいでですの」
「王家」という単語が出た瞬間、大司教の顔から血の気が引いた。張り付いていた営業スマイルが、安っぽい漆喰のように崩れ落ちる。
「そ、それほどまでに事態は逼迫していると……?」
かかった。
フロワードは内心で舌なめずりをしつつ、さも困り果てたように首を傾げてみせた。
「ええ。ですが、解決策はございます。現在の教育係を罷免し……『リグールー司祭』を教区へ召喚。聖女様の専任とするのです」
「なっ……リグールー、だと!?」
大司教が絶句し、苦虫を噛み潰したような顔になった。
無理もない。リグールーは叩き上げの原理主義者。権力と金に執着する大司教にとっては、目の上のたんこぶ、いや、喉元に突きつけられたナイフのような存在だ。
「公爵家、王家、そして学園の総意ですわ。……まさか、国の未来である聖女教育よりも、ご自身の派閥争いを優先されるおつもりはありませんわよね?」
逃げ場はない。
外の長雨とは対照的に、フロワードの表情はどこまでも晴れやかで、残酷なほど美しかった。
◇
国境付近の寒村にある古ぼけた教会。
隙間風が吹き込む礼拝堂で、リグールー司祭は王都からの辞令書を読み上げていた。
その指先は、長年の野良仕事と祈りによって節くれ立ち、枯れ木の枝のようにゴツゴツとしている。だが、紙を持つ手には微塵の震えもない。
「……王都教区へ帰還し、聖女ルペティールの専任教育係に着任せよ、か」
リグールーは鼻を鳴らした。
教会庁の豚どもに、このような人事が出せるはずもない。裏にいるのは、相当な切れ者か、あるいはよほどの物好きか。
彼女の顔に刻まれた無数の皺が、深く歪む。それは一見すると老婆の不気味な笑みだが、その瞳に宿るのは獲物を前にした猛獣の如き光だった。
「虎に翼を与えるか、あるいは……まずはこの駄馬を見事御してみせよという挑発か」
教義を盾に、俗物どもを切り捨ててきた自負がある。
彼女は祭壇の十字架を一瞥し、低くしわがれた声で呟いた。
「面白い。どこの青二才かは知らぬが……誰に喧嘩を売ったか、骨の髄まで教えてやろうではないか」
◇
ルペティールは鼻歌交じりに教会の廊下を歩いていた。
最近、気になっている伯爵令息と目が合ったのだ。その余韻に浸りながら、自室のドアノブを回す。
「ただいま戻りました~」
しかし、一歩踏み入れた瞬間、彼女の思考は凍結した。
部屋を間違えたか? いや、窓の位置は同じだ。
だが、そこにあるはずの景色が——ない。
ベッドを埋め尽くしていたフリルのカバーも、抱きしめると安心する大きな犬のぬいぐるみも、読みかけの恋愛小説も。ピンク色の愛らしい小物は、塵一つ残さず消え失せていた。
残されたのは、木製のベッドと粗末な机、そして聖典のみ。
かつて「温かな私のお城」だった場所は、まるで独房のような寒々しい空間に変貌していた。
「ルペティール、おかえりなさい」
背後から、錆びた蝶番のような声が響く。
びくりと振り返ると、そこには見知らぬ老婆が立っていた。口元は三日月のように吊り上がり、笑っているように見える。だが、その灰色の瞳は、爬虫類のように冷たく、一切の感情を映していなかった。
「えっ……あ、貴女は……何故、私の部屋が……!?」
◇
リグールーは杖を突き、カツン、カツンと乾いた音を立てて部屋に入ってきた。
「本日より私が貴方の新しい教育担当に任じられました、リグールーと申します。……修行に『雑音』は不要ですので、一掃させていただきましたよ」
「そ、そんな……勝手に!」
「これからは、信仰の模範となるべき『本物の聖女』として、骨の髄まで作り直します」
抗議しようと口を開いたルペティールを、リグールーの鋭い眼光が射抜く。言葉が喉で詰まるほどの威圧感。
老婆は一歩近づき、ルペティールの顔を覗き込んだ。
「よいですか、小娘。……貴方は、三席で本当によかった」
「……は?」
「もし貴方が首席や次席……すなわち、王族より上位で、あのような『発情した雌猫』ごとき振る舞いを続けていたらどうなっていたか」
リグールーは枯れ木のような指で、自らの首をトン、と叩いた。
「王家の面子のため、今頃この可愛い首と胴体は、物理的にサヨナラしていたことでしょうね」
ヒュッ、とルペティールが息を呑む。
それが比喩でも脅しでもなく、貴族社会の「事実」であることを、本能が悟ったのだ。
「貴方の才に疑義が生じたからこそ、私が呼ばれた。……感謝なさい。貴方はまだ、死なずに済んでいる」
リグールーは部屋の窓を開け放つ。吹き込む風が、空っぽの部屋に冷たく吹き抜けた。
「道に迷うなら、教会では私を。学園では公爵令嬢を見なさい。……さあ、地獄の特訓の時間だよ」
◇
夕日が空を茜色に染め、金木犀の香るなか、フロワードは、王太子妃教育を終え、公爵邸に帰宅した。
「お嬢様、本日、子爵家令嬢からの書状を子爵家の家令が持参し、お預かりしております。」
その報告を聞き、フロワードは小さく頷いた。
子爵令嬢は、礼儀作法を尊重し、貴族社会のルールを理解できているわね。学園内でいきなり感情的に声をかけなかった点はまず評価できるわね。
書状は、フロワードに、最大限の敬意を示し、明確な理由の提示した上での面会許可を求めるものだった。
「子爵令嬢の婚約者である伯爵令息 プセフティキが、真実の愛に目覚めたとオルール嬢を寵愛、上位貴族のため強く諌めることも出来ず耐え忍ぶ日々であり、恥を忍んでご相談申し上げた次第です。」
「委細承知、後は此方で処理をする旨、書状にしたためますので、明日、子爵家に届けてくださいまし」
秋の夕暮れ、貴族学舎の渡り廊下で、伯爵令息プセフティキは、公爵令嬢からすれ違いざまに、鋭い刃のような言葉を投げかけられた。
「プセフティキ殿、色々噂を聞き及んでおります。くどくどとは申しません。
己の態度が、誠実、真摯、高潔であると、己の誇りと家名に誓えますか?
後は己の行動で証明されればよろしい。」
顔面蒼白のプセフティキは、己の仕出かしたことの重大さを今初めて認識した。
伯爵令息は、色恋に抜かしたこと、子爵令嬢への不適切な言動を詫び、子爵家も謝罪を受け入れ、本件は無事解決したかに見えた。
梯子を外された形で、赤っ恥をかかされた男爵令嬢オルールだけは違った
彼女にとっては、本気の恋だった。
しかし、その恋は、浜辺に築いた城郭のように、貴族の掟という大波の前では微塵の欠片ものこされなかった。
「ごめん、これ以上関係を続けられない。君の幸せを願っている。」と逃げ腰のセリフを残して、プセフティキは、彼女の元を去り、元の鞘に収まった。
でも、彼の声、彼の笑顔、仕草、何もかも喪い、オルールの心にはぽっかりと穴があいた。
失恋のショック、端から逆らえない相手への憎悪、様々な感情が彼女の中で燻っていた。
昼下がりの陽光が差し込む学園カフェテリア。ここは身分の垣根なく生徒が集う、学園内でも数少ない「緩衝地帯」だ。
食器がぶつかる音や笑い声が喧騒となって渦巻く中、ルペティールは部屋の隅に座る一人の女子生徒に目を留めた。
男爵令嬢オルールだ。
彼女は手つかずのランチを前に、スプーンでスープを執拗にかき混ぜている。その視線は虚空を彷徨い、唇はブツブツと何かを呟いていた。
以前のルペティールなら「元気出して!」と無神経に背中を叩いていただろう。だが、今の彼女は違う。
(……「澱」が見える)
リグールー司祭との地獄の特訓で培った観察眼が、警鐘を鳴らしていた。あの憔悴は、ただの失恋ではない。もっと昏く、粘着質な憎悪の気配。
ルペティールは音もなく近づき、オルールの向かいに滑るように腰を下ろした。
「……相席、よろしいでしょうか」
聖歌のように澄んだ声。オルールがビクリと顔を上げる。
「聖女……様? 何よ、私を笑いに来たの?」
「いいえ。貴女の心の叫びが、聞こえた気がいたしましたので」
ルペティールは穏やかな微笑を浮かべ、オルールの握りしめられた拳の上に、そっと自分の手を重ねた。
その瞬間、男爵令嬢の口から堰を切ったように言葉が漏れ出す。
「不公平だわ……こんなの理不尽よ。愛に身分なんて関係ないはずなのに、あの女がいるだけで、全てが否定される!」
その瞳に走る、尋常ではない狂気。そして、彼女はポツリと、聞き捨てならない言葉を吐いた。
「……壊してやる。こんな世界、ひっくり返してやるのよ……」
ルペティールは表情を聖女のまま固定しつつ、内心で冷や汗を流した。
(これは「迷い」ではない。「殺意」だわ)
彼女は静かに治癒の光を灯し、オルールの昂る神経を一時的に鎮めた。
「……お辛いですね。神は全てを見ておられますよ」
そう告げるルペティールの脳裏には、既にリグールーの教え——『腐った果実は、箱全体を腐らせる前に取り除け』という言葉が響いていた。
◇
ルペティールが去った後、オルールの瞳にわずかに戻りかけた理性の光は、一瞬にして掻き消された。
背後から、ぬるりと肩に手が置かれたからだ。
「……可哀想に。あの聖女気取り、君を見下して去っていったね」
耳元で囁くのは、甘く、粘着質なバリトンボイス。
オルールは、その手を振り払うことなく、縋るように背後の男を見上げた。そこには、先日街角で「偶然」出会い、唯一自分の味方をしてくれた、憂いをおびた美貌の青年の姿があった。
「大丈夫、僕だけは君の痛みがわかる。……間違っているのは君じゃない。この歪んだ世界の方なんだから」
男はハンカチで彼女の涙を拭うふりをして、その手の中に小瓶を滑り込ませる。
「さあ、涙をお拭き。そして立ち上がるんだ。……『革命』の火蓋を切るのは、君という勇気ある乙女だよ」
男の瞳の奥で、嘲るような暗い光が明滅したことに、今の彼女は気づかない。
オルールの瞳からハイライトが消え、再びドス黒い濁流が渦巻き始めた。
◇
放課後の公爵令嬢専用サロン。
入室を許可されたルペティールは、ドアの前で流れるような所作でカーテシーを行った。
背筋は糸で吊られたように伸び、スカートの裾さばき一つ乱れない。かつて「平民丸出し」と笑われていた姿は見る影もなかった。
「ごきげんよう、フロワード様。……いえ、聖女として、ご報告申し上げます」
ソファで紅茶を嗜んでいたフロワードは、カップをソーサーに置くと、面白そうに目を細めた。
「……リグールー司祭の『教育』は、期待以上の成果を上げたようですわね。入りなさい、ルペティール嬢」
ルペティールは許可を得て一歩踏み出し、感情を排した声音で切り出した。
「先ほど、カフェテリアにて男爵令嬢と接触いたしました。……彼女の精神状態は極めて不安定。そして、その憎悪の矛先は、単なる失恋の相手だけではなく、『体制そのもの』へと向き始めております」
「体制、ですか」
「はい。『世界をひっくり返す』という発言を確認。……背後に、彼女の心の隙間に入り込み、危険思想を植え付ける『扇動者』がいる可能性が高いと愚考いたします」
一介の生徒の悩み相談から、国家安寧に関わるリスクを抽出したその分析。
フロワードの瞳から、侮蔑の色が完全に消え失せた。彼女はゆっくりと扇子を開き、口元を隠す。
「……よく知らせてくれました。貴女の『耳』は、どうやら王家の諜報員よりも優秀なようですわね」
「恐縮です。私はただ、迷える子羊が狼に食われぬよう、牧羊犬としての務めを果たしたまでにございます」
ルペティールは深く頭を垂れた。
その姿を見て、フロワードは確信する。
もはや彼女は、排除すべき「異物」ではない。この学園の秩序を守るための、得難い「手駒」になったのだと。
「裏を取ります。……下がってよろしくてよ、聖女様」
「失礼いたします」
静かに扉が閉まる。
残されたフロワードは、冷徹な光を帯びた瞳で、控えていた影に指を鳴らした。
「聞いたわね? 男爵令嬢の周辺……埃が出るどころか、火種が燻っているようよ。徹底的に洗いなさい。」
◇
放課後の学園中庭。西日が長く伸び、レンガ造りの校舎を赤く染め上げている。
男爵令嬢オルールは、充血した瞳を見開き、まるで何かに取り憑かれたように叫んだ。
「王族も、平民も、罪人も! 斬れば同じ赤い血が流れるのよ!」
彼女の金髪が風に乱れ、頬に張り付く。唾が飛び散るほどの激情。しかし、その瞳の奥には、彼女自身のものではない、どこか借り物の狂気が揺らめいていた。
「不条理だわ……こんな腐った世の中でなければ、私は自由に羽ばたけたのに!」
オルールの背後から、不穏な影——黒衣を纏った数人の男たちが、音もなく現れた。彼女を唆かしたテロリストの一味だ。彼らはギラつくナイフを抜き、無防備なフロワードへと殺到する。
だが、フロワードは眉一つ動かさない。
彼女が扇を閉じる動作と同時、一陣の風が吹いた。
ガキンッ!
硬質な金属音が響き、襲撃者たちのナイフが宙を舞う。
フロワードの前に立っていたのは、抜剣した王太子グランディールだった。彼は襲いかかる男たちを、無駄のない剣閃で瞬く間に地面に縫い付けていく。
「……学園内での武器の所持は校則違反だ。生徒会役員として没収する」
王太子は冷然と言い放ち、制圧した男たちを「影」に引き渡した。乱れた呼吸一つなく、彼はフロワードの隣に戻り、無言で頷く。
——後は任せた、と。
フロワードは、パチリと扇を閉じた音で、その場の空気を支配し直した。
彼女は乱れた髪を払おうともせず、目の前のオルールだけを見据え、憐れむように目を細めた。
「……それで?」
公爵令嬢の声は、鈴の音のように美しかったが、温度はなかった。
「貴女は、貴女の父母や一族が積み上げてきた血の滲むような努力も、『運が悪かった』の一言で片付けるおつもり?」
彼女は一歩踏み出す。ヒールの音が、死刑判決を下す木槌のように響いた。
「配られたカードに文句を言うのは、三流の賭博師がすることですわ。一流はね、その手札の中で最善を尽くして勝つのよ」
◇
講堂は、水を打ったような静寂に包まれていた。数百人の生徒がいるはずなのに、聞こえるのは衣擦れの音ひとつない。
壇上に立つ公爵令嬢は、マイクの前で淡々と事実を告げた。男爵家は断絶。令嬢は退学。理由は「火遊び」が過ぎたから。
「学園生活のほんの火遊びだった……そう、涙ながらに訴えておりましたわ」
彼女の視線が、講堂の端から端へとゆっくり流れる。その視線と合った伯爵令息が、びくりと肩を震わせ、青ざめた顔で俯くのが見えた。隣に座る女生徒が、恐怖で白くなった指先でスカートの裾を握りしめている。
「ですが、その火遊びには、一族郎党、使用人全ての人生を灰にするだけの価値がありまして?」
問いかけの形をしていたが、それは答えを求めてはいなかった。
公爵令嬢はふっと口角だけで笑う。その美しさは、抜き身の刃物のように鋭く、見る者の肌を粟立たせた。
「ノブレス・オブリージュなどという高尚なことは申しません。ただ、己の行動が『割に合うか』……それだけを計算して行動なさいませ」
◇
控室の大きな鏡の前で、公爵令嬢は最後の身だしなみを確認した。
深紅のドレスは一分の隙もなく身体に沿い、首元のダイヤモンドは冷ややかな光を放っている。
背後から近づく足音。王太子だ。かつては学業を疎かにしようとした彼も、今では王者の風格を漂わせ、穏やかな笑みを浮かべている。
「準備はいいか、パートナー」
「ええ。……滞りなく」
公爵令嬢は手元のリストに目を落とした。
『聖女の改心』『風紀の徹底』『テロリストの排除』。全ての項目に、チェックマークがついている。
彼女は小さく息を吐いた。それは安堵のため息ではなく、任務完了の合図。
「――異常なし、ですわ」
エスコートの手を差し出す王太子に、公爵令嬢はそっと手を重ねた。
触れた腕から伝わる体温と、鍛え上げられた筋肉の感触。入学当初の頼りなかった少年は、もうどこにもいない。
「……殿下」
扉が開く寸前、彼女は前を向いたまま、聞こえるか聞こえないかの小声で呟いた。
「本日のスケジュールには記載しておりませんが……一つだけ、ご報告があります」
「ん? なんだ」
彼女は、王太子の腕に添えた指先に、ぎゅっと微かな力を込めた。
長い睫毛がわずかに震え、その影を頬に落とす。
「貴方様の隣に立つのは、義務でも家名のためでもなく……私の意志です」
一瞬の沈黙。
王太子が息を呑む気配がした。
彼女は依然として涼しい表情を崩さない。けれど、その耳の端だけが、ドレスの深紅にも負けないほど赤く染まっていた。
「……お慕い申しております、殿下」
言葉は、重厚な扉が開く音にかき消されるように紡がれた。
驚きに目を見開く王太子を見ることはせず、彼女は凛と顎を引く。
「さあ、参りましょう。完璧なパーティーが待っていますわ」
光の中へ踏み出す彼女の横顔は、やはり冷徹な公爵令嬢のそれだった。
けれど、繋がれた手だけは、決して離れないように強く、強く握り返されていた。
貴重なお時間を頂きありがとうございました。




