プロローグ『地獄』
──地獄だった。
あまりに多くの喪失を経験してしまった。それが一人や二人なら、悲しみを糧として成長できたかもしれないが、この喪失の多さではそんなことはできない。
友人を失った。
少し気になっていた同級生を失った。
そして──大切な彼女も
「あ、ぁぁぁ!」
そこまで考えて地面に伏して、上手く動けないままの少年は絶叫した。絶叫の最中、少年は近くに刃が落ちていることに気づき、それを上手く動かない腕を使って類寄せた。
「──っ!」
もうどうなってもいい、そう思って喉元に地獄を映し出している刃を向けようとした。
だが上手くいかない。手が痙攣して振り下ろすことができない。やがて自分が涙を流していることに気付き、死ぬのが怖いと、本当はそう思っているのだと理解して刃をおろした。
道端に落ちている刃を拾って命を断つ勇気もない。ただ濁った眼でこの仕組まれた燃え盛る惨劇を目にする。
芳醇な血の匂いが場を支配し、誰もが無様な死を遂げる。人々の努力の結晶と言うべき建物は燃え、倒壊していく。商人が使っていたであろう馬──そして人は建物に押し潰され、醜い肉塊と化した。常に誰かの悲鳴が聞こえ、頭がおかしくなりそうになる。
一人の母は我が子を守るために、嘆願したが、その願いは虚しく親子仲良く死んだ。
一人の青年は自分の命を守るために、近くにいる母を失った少女を差し出して助命を求めてたが、鮮やかな剣戟に二人とも胴と泣き別れをした。
剣戟、そして魔術による攻撃が人の命を奪っていく。
『テロ』。
それがこの地獄の正体だ。『アアル魔力大学』に放たれた魔術を狼煙に始まったテロ活動は、王都に──否、王都に住む者全員に甚大な被害をもたらした。
そして、ここにテロによる被害を受けた少年が一人。
(誰か助けて……)
炎魔術によって着ていた服はボロボロの布切れとなり、体が焼かれたことでどこを見渡しても赤く充血している。顔にべったりと血が付着し、視界が遮られる中、少年──ユダは赤く染まった翡翠色の目で惨劇を見つめながら、助けを懇願する。
その声は、親を見失った迷子の子供のように恐怖に駆られてひどく震えていた。
こんな泥塗れの現実から救い出してほしかった。そんなことは生きている皆が思っている。けど救いの手はそう簡単には現れない。
(泥塗れの現実だ...)
ユダは今の状況を『泥塗れの現実』とした。
だってそうだ。所詮ユダがここで死んでも、壮大な世界の理に従い、ユダの体に宿っている魂は『魂の道』を通り記憶や意識などの汚れを浄化し終わった後、また別の肉体に宿って転生体が生まれる。それにかかる時間はおよそ百年。
そんな理を魂に刻まれて理解しているから分かる。この世界は、天国も地獄もない『泥塗れの現実』なんだと。
天国があって欲しかった。そうすればこのテロで死んでいった罪のない人は救われるのだろう。
地獄があって欲しかった。そうすればこのテロで多くの命を奪った人は裁かれて、罪は精算されるのだろう。
けどこの世界は残酷で天国と地獄なんてものはない。救済も罪の精算もなく、死後はただ『魂の道』を通って別の肉体に宿る。
「──っ!」
コツコツと足音が血塗られた耳に入ってくる。久しぶりの生者だった。
「……みすぼらしい」
少年の救いを求める声に反応したのか、地に這いつくばる少年の前に一人の男が現れる。男は汚物を見るような目で、吐き捨てるかのように「みすぼらしい」と言い放った。
黒いローブに身を包んでおり、その姿を見ることはできない。明らかに怪しい人間であることは分かったが、なりふり構っていられない状況が故に、ユダは男に助けを乞う。
「た、助けて……」
焼けた喉で何とかユダは言葉を紡ぐことができた。
先程までユダを心底つまらなそうな目で見ていた男は、ユダの「助けて」の三文字の言葉に相貌を歪めた。
「助けてほしいだと!? 下劣な人間風情が俺に救いを乞うな!」
どこかで男の逆鱗に触れたのか、男はユダの体を無理やり起こし、壁に叩きつける。
「がぁぁ!!」
その衝撃にユダは、全身が砕けるかのような感覚に陥った。否、実際に砕けているのかもしれない。
怪しげな男はユダの首を絞めながら言葉を続けた。
「よく聞け、ニンゲン! 俺はこの地獄──テロを引き起こした『大罪教』の最高幹部である『傲慢の罪人』、ルシファーだ。俺に救済を乞うな!」
「……が、あぁ……」
首を絞められているせいで、男の話はうまく頭に入らず、呂律も回らない。息もまともに吸えず、意識が遠のいていく。確実に最後の瞬間──『死』が訪れようとしていることが分かった。
その最中。
『幸せ』を見た。
『アアル王国』。それはこの壮大な世界における人間界の国の一つだ。五大国の一つに数えられるこの国では、特に魔力教育が発展している。
それを顕著に表しているのが王都にある『アアル魔力大学』で、最新鋭の技術で魔力について学べることもあり、入学者は後を絶たない。大量の生徒を抱えるアアル魔力大学の、特に特徴もない生徒の一人が──、
「──俺だな」
身長は167cm程、白髪で翡翠色の目をした学生の名前はユダ。ウェストン領というアアル王国の西部に位置する場所の出身で、十六歳の少年だ。
大学に通学するため王都の街を歩く彼の周りは、王都ということもあって活気に溢れている。街道を走る馬車の音がけたたましく響き、商人の威勢のいい声が聞こえてくる。
大勢の人が入り乱れる中で、ユダはある人を見つけ、思わず声を掛けた。
「リン、おはよう!」
ユダと挨拶を交わしたのは、長髪で華奢な少女、リン・フィオーレ。丁寧に手入れされた青髪と青緑色の眼がよく似合う美少女だ。彼女もユダと同じウェストン領出身の秀才で、今は同じアアル魔力大学に通う仲だった。
「おはよう、ユダ!」
軽く挨拶を交わすと、リンが「一緒に行こうか」と言って、二人は横並びになって歩き出す。
第二次性徴期を迎え、少々──いや、だいぶ異性を意識するようになったユダには、心が落ち着かない場面だった。
「そうそう!この前、美味しいケーキ屋さんを見つけたんだ!今度一緒に行かない?」
(何で心臓がこんなに動いているんだよ……)
心が落ち着かないユダを置いて、ガツガツと話すリン。このくらいの距離感がちょうど良くて、話しやすい。
「お、そうだな。今度、絶対に行こう」
「約束だよ!」
女子との約束を守らない男だと思われているのか、ユダはリンに念を押される。
「ああ、俺が奢ってやるから、楽しみにしておけ! それと俺を約束を守らない男だと思うなよ...!」
ユダが男としての気概を見せた。するとリンは「楽しみにしておくね!」と、一杯の可愛らしさが籠った声で言った。
「え〜だって町にいた頃にユダさ、遊ぶ約束していたのに当日に急に面倒くさくなったって、予定をすっぽかしたじゃん」
「一体何年前の話だよ...」
何年前の話だと、今更言われる内容に呆けていると、リンはギロリと、本人は怖そうにしようとしたのだろうが、リンはどこか愛らしさを感じる目でユダの方を見てきた。
可愛く眉間にシワを寄せて、ご立腹の様子だ。
自分のことを可笑しく感じてしまったのか、少女は表情を柔らかくしていってやがて破顔した。
「まぁ! 食べ物の恨みは恐ろしいってことだよ」
頬を緩めて天使のような笑顔を見せるリンに、ユダは初々しい心を掴まれる。改めて少女の可愛さをユダは実感した。
「リン! 危ない!」
後ろから力強い蹄の響き音が聞こえたユダは、咄嗟に隣にいた少女の手を握ってユダの方に寄せた。
そして次の瞬間、リンが先程まで立っていた場所を猛々しい馬車が通り過ぎようとしていた。
強い風が吹き抜けてユダの銀髪とリンの青髪が揺れた。否、それだけはない。リンのスカートも同じく揺れて、不可抗力でユダは見てしまった。
(白い...!!)
世界が低速になる感覚を味わいながら、ユダはその事象を目に焼き付けて、平然を装うようにした。
荒馬は通り過ぎて、二人の少年少女がお互いを見つめ合った。
「──っ! 荒い馬だな。大丈夫か? リン」
「う、うん。ありがとうね...」
(感謝するのはこっち側何だよな...)
「リンが無事なら何よりだ」
「そう...ありがとうねユダ」
その後、何故かご機嫌(?)なリンとちょっとした世間話をしながら、二人で歩いているとアアル魔力大学に着いた。眼前に広がる『アアル魔力大学』を見たユダは──、
「やっぱり、ここの敷地広すぎだろ」
もう何度も見たアアル魔力大学の校舎だが、ユダは未だに慣れない。
魔力の研究を専門としているため、安全面はしっかりしており、敷地内の建物全てが魔力を起因とするものに高い耐性を持つ材質で使われている。また、上空には万が一にも魔力を使った事象──『魔術』が漏れ出さないように結界術が施されていた。
「だね。私は別の講義室だから。バイバイ!」
「おう!また後でな」
そう言ってリンがユダとは別の講義室の方に向かいだした。
凛々しい少女の後ろ姿を見ていると、彼女は友人を見つけて駆け出していった。
それを見送ると、ユダも自分の講義室の方へ静かに歩き出した。
リンと別れたユダは、講義室で淡々と行われる講義を聞いていた。教授は初老の男で、老化が原因か声が少し小さく、集中して聞かないと何を言っているのか分からない。
「──からしてぇ」
この世界で『魂』を持つものには全て魔力が流れていて、人間に宿っている魂は肉体の死後、『魂の道』を──記憶や意識などの汚れを洗い落とすため──通ってまた別の肉体に宿る。
そんな当たり前の知識を前提とした、退屈な講義をユダが聞いていく。正しくは時間の浪費だ。
町の人からは期待の眼差しを受けて『アアル魔力大学』に来たわけだが、そういったものには答えられずにいる。しかし──
「俺の大好きな日常だ」
だからきっと、さっきまで感じていた痛みや喪失感。地獄のような惨劇はユダの見ていた幻覚か悪夢のはずだ。
──きっとそのはずなのに...
「──っ!」
とてつもない衝撃に、ユダは今まで見ていた辛さから逃げる『幸せな』走馬灯ではなく、強制的に現実を見せられる。
先ほどまで見ていた走馬灯は、まるで泡沫の夢だったかのように遠い場所に消え去った。走馬灯を見ながら死ぬことは許されず、ただ悲しいだけの現実を見せつけられる。
大勢の人が死んだ。
そして混乱に乗じて悪事を働く小悪党まで現れ、王都は人の悪意に満ち満ちていた。
「うわぁぁ!! 嫌だぁ! 死にたくない!!」「どうかこの子だけは助けてください!」「もうやめて!私たちからこれ以上何を奪うの!?」「ママはどこ!?」
「よく覚えておけ! 俺たち大罪教、そして俺達に与する犯罪組織によってこのテロ行為は行われた! 所詮弱者のお前たちは何をすることもできないのだ!」
「──ぐぁぁがぁ……」
ユダの首を絞める手を必死に退かそうと、足をバタバタさせながら抗うが、状況は何も変わらない。
(もう駄目なのか……)
幸運にも大学を狙った魔術攻撃からは生き残ることができた。だが、意識を取り戻した直後に現れた黒いローブに身を包んだ男──世界の悪にして大罪教の最高幹部である『傲慢の罪人』から逃れる術はない。
(彼女は──リンは無事なのか……?)
「死」が迫りくる中、最後に脳裏に浮かんだのは幼馴染の少女──リンだ。彼女が生きていたら自分は死んでもいい──などという綺麗事を言うつもりはユダにはないが、ただリンのことが心配だった。
「そいつは殺させねぇ!!」
最後に、『傲慢の罪人』を名乗る男以外の声。そしてテロの嗜虐性を示す魔術の炎以外の業火を耳に染み込ませた。
それが幻聴かどうかを確かめることもできずに、ユダの意識は深い場所に落ちていった。




