夢のダンジョン…
蝉の声がまだ少しだけ残る、秋のはじまり。
通学路に吹く風は涼しく、制服のシャツの袖を少しだけまくって歩くその青年は、今日も黙々と歩を進めていた。
名前は斎賀 透。高校二年生。
朝の筋トレを終え、昨日に続いてランチ用のプロテインバーをかばんに詰め込んで家を出た。彼の夢は“理想の身体”を作ること。それはただの見た目や人気を求めるものではなく、過去の自分を超える証としての「結果」だった。
──努力が夢を形にする。それ以外に、信じられるものはない。
そんな信念で、彼は毎日を淡々と積み上げていた。
その日もいつものように、通学路の裏道を歩いていたときだった。
ふと、足が止まる。
見慣れた住宅地の隅、空き家と塀の間にある、薄暗い空間。その奥に、ぽっかりと黒い穴があった。
「……あれ?」
空間の“質”が違った。
目で見ているのに、脳がそれを認識することを拒むような――そんな矛盾した感覚。
まるで写真に写ってはいけない何かがそこにいるような、冷たい膜のような空気。
透はしばらく立ち尽くしていた。だが次の瞬間、不思議と心が温かくなった。
「呼ばれてる」、そんな気がした。
黒い穴は無言のまま、ただそこにある。だが、その沈黙は確かに「問いかけて」いた。
「これが……夢のダンジョン……?」
その言葉は口をついて出た。誰に聞かせるでもなく、誰に許されるでもなく。
ただ、胸の内で何かが確かに震えたのだ。
何の確証もない。だが透にはわかっていた。
これは自分のために開かれたものだ、と。
黒い穴へと一歩踏み出すと、足元がすうっと吸い込まれる感覚。
次の瞬間、彼の意識は宙を舞い、光も音もない“外”の世界から引き剥がされた。
──気づけば、透はそこに立っていた。
まるで神殿のような石造りの空間。無重力のように揺らぐ階段、壁を這う文字のような光、そして遠くから聞こえてくる「人の囁き声」。
それらはどれも意味をなさないのに、確かに「自分の夢」を語っているように聞こえる。
透はゆっくりと息を吸った。心は不思議と静かだった。
「本当に……あるんだ」
“夢のダンジョン”
そう、確かにそれはこの世に存在していた。
最初に訪れた“夢のダンジョン”の記憶は、霧がかかったように曖昧だった。
ただ一つ覚えているのは――身体が軽く、力が溢れていたということ。
「筋トレをした後と似てる。でも違う。これは、急激すぎる」
二度目の侵入。透は慎重だったが、前回とは違う確かな実感を得た。
階段を下り、石の床を進むたび、身体が強化されていく。肉体だけではない。集中力、反射神経、そして“想像した動き”を現実に近づける力すらあった。
このダンジョンは、間違いなく「夢を叶える場所」だ――透は確信するようになった。
だが、彼の夢は地に足がついている。
「強くなりたい。でもそれは自分自身の手で」という、現実的な努力に裏打ちされたものだ。
だからこそ、報酬も過激な力ではなく、“地道な進歩”を促すものばかりだった。自重トレの感覚が鋭くなり、怪我のリスクが減り、フォームが理想形に近づいていく。それだけで、透には充分だった。
それが、五度目の侵入まで続いた。
その日、透ははじめてダンジョンで“他の人間”と遭遇する。
彼は透よりも年上に見えた。二十代前半、服装はスーツ姿のまま。黒縁のメガネをかけていたが、汗と血で濡れたその表情は、どこか焦燥に満ちていた。
「なあ……お前も、ここに来たのか?」
男はそう話しかけてきた。だが、その目は透ではなく、遥か遠く――何か“もっと先の報酬”を見ているようだった。
「もうすぐなんだ……“全て”手に入る。成功も、金も、地位も……あの女も、オレのことを見返してくれる……」
口調は落ち着いていたが、言葉の端々に狂気が滲んでいた。
透は直感する。「この人、危ない」と。
男はひとり言のように笑いながら、ダンジョンの先へと歩いていった。
その背中を見送ろうとした瞬間――空気が弾けた。
激しい風圧。怒り狂ったような咆哮。
地面を砕いて現れた巨大な蛇のようなモンスターが、男に向かって突進する。
だが、男は逃げなかった。むしろ、笑いながらそのモンスターを迎え撃った。
「来いよ……お前を倒せば、オレは“全て”を手に入れるんだ……!」
数秒後、モンスターは跪いた。男の身体から噴き出した光が、それを貫いたからだ。
だが――問題はそこからだった。
男の肉体が、奇妙に膨張し始めた。
笑っていた顔が引き攣り、叫びに変わる。
「アアアアアアッ……!! 熱いッ、脳がッ、割れる……!」
彼の頭部からは血が噴き出し、瞳はぐるぐると宙を泳いだ。
「これが……オレの、夢……? いや、これは違う、こんなはずじゃ……」
そして彼は、崩れた。
まるで“抜け殻”のようになった身体だけが残り、その目はどこも見ていなかった。
「……夢堕ちだ」
それが、透の口から漏れた言葉だった。
その瞬間、ダンジョン全体が――“彼を見た”。
ぐにゃり、と空間が歪む。時間が止まったかのように音が遠のき、透の前に、声が現れた。
《お前は、欲望を恐れている》
声ではない、脳に直接響く“観念”だった。
《だが、欲を抱くことは人の本質。叶えることは、我の目的》
透は問う。「誰だ……お前は……?」
《名はない。我はただ、欲を叶えるもの》
《お前のように、慎ましい夢も良い。だが、それだけでは世界は動かぬ。》
《もっと、欲せよ。もっと、夢を焦がせ》
透は拳を握った。
この声の正体が、夢堕ちを生み出した元凶なのだと、直感していた。
「ふざけるな。夢ってのは、そうやって他人に操られるもんじゃない」
《それでも、人は願うだろう》
次の瞬間、意識は引き戻された。
気づけば、透は朝の自室のベッドに倒れていた。心臓は激しく脈打ち、全身から冷たい汗が噴き出していた。
“夢堕ち”…“ダンジョンの意志”…
そして、その正体。
透の胸の奥に、得体の知れない感情が渦を巻いていた。
朝。
透は、自分の鼓動で目を覚ました。
薄暗い天井。窓から漏れる光はまだ弱く、時計の針は午前5時を指している。
いつもより早い目覚め。だが、眠っていた気はまったくしない。
身体を起こすと、首筋には冷たい汗。シーツがぐっしょりと湿っていた。
夢のダンジョンで見た“男の末路”。そして、脳に直接響いてきたあの声。
――もっと、欲せよ。夢を焦がせ。
耳から離れないその言葉を振り払うように、透は洗面所へと向かう。
鏡の中の自分が、どこか他人のように見えた。
「……俺は、大丈夫だ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
だが、そう言い切れない何かが、胸の奥にわだかまっている。
居間に降りると、テレビの音が聞こえてきた。
まだ朝早いのに、母が朝食を作りながらニュースを見ている。
「おはよう、透。今日、体育あるんでしょ? 食べて行きなさい」
「うん……ありがとう」
テーブルに着くと、温かい味噌汁の湯気が鼻をくすぐった。
だが、その平穏は次の瞬間、崩される。
テレビの画面に映し出されたのは――昨夜未明に起きた通り魔事件。
「目撃証言によりますと、犯人は“何かに追いかけられているようだった”とのことです。取り押さえられた後も意味不明な言葉を叫び続けており、現在も事情聴取が困難な状態が続いています――」
その男の顔が、画面の右上に映された。
透は箸を止めた。
スーツ姿。黒縁メガネ。血走った目――あの男だった。
ダンジョンで“夢堕ち”した、その人間が、現実で事件を起こした。
「夢の……ダンジョンが……」
口の中がカラカラに乾いていた。
「どうしたの? ご飯、食べづらかった?」
母の問いかけが耳に届いていなかった。
――夢は、現実を壊し始めている。
気づかないふりはできなかった。
これはもう、“幻想の中の物語”ではない。
透は箸を置き、ゆっくりと立ち上がった。
そして、無意識のまま、自分の部屋へ戻る。
壁にもたれて息を整え、窓の外を見た。
空は少しずつ明るくなっていたが、その光はどこか不安定で、世界の輪郭すらも曖昧に感じた。
「俺だけが……あそこに耐えられるって、本当に思ってたのか?」
彼は拳を握る。
夢を叶える力。それは確かにあった。自分の身体は明らかに変化している。
でも、それが他人を壊すきっかけになっているのだとしたら……
「……逃げるな」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
ふと、視界の端に“あの黒い穴”が見えた気がした。
部屋の角、クローゼットの隙間。あり得ないはずの場所に、夢のダンジョンの入り口が一瞬だけ浮かび上がった。
透は目を閉じ、深く息を吸う。
そして、ゆっくりと、だが確かな足取りでドアを開ける。
靴を履き、玄関を出て、まだ朝焼けの残る通学路を歩く。
塀の隙間、あの空き家の裏手。
「……待ってたんだろ」
そこに、黒い穴は確かにあった。
まるで息を潜め、こちらをうかがっていたかのように。
透は立ち止まり、視線を落とす。
自分が何をしようとしているのか、はっきりとはわからない。
だが、放っておけない。知らないふりでは、もういられない。
「……夢のダンジョン……」
その言葉とともに、彼の足が一歩、闇へと踏み込んだ。