「境界を踏み越える声」
綾人の内面にある不確かさ、周囲の出来事が一つの大きな「真実」に向かってどのようにつながっていくのか。
ロウワー、ローラ、リリアン――見別々に進行している線が、ゆっくりと交差し始める“転換点”として仕上げています。
事件のあと、学校は見た目こそ平常を取り戻していたけれど、どこか“違う空気”が漂っていた。
誰かが言った。
「……ポストヒューマン、マジでいるんじゃね?」
それは、ただの好奇心から発された言葉かもしれない。だが、その響きには、無邪気さと恐れと、何よりも現実味を帯びた何かが混じっていた。
僕の胸の奥で、またあの“ざわめき”が小さく震えた。
校舎の廊下を歩いていると、ふと「ロウワーグループ」という単語が耳に飛び込んできた。
スーツ姿の業者と話していた教職員の口から漏れた言葉。それは、まるで見えない糸が偶然を装って紡がれたように、僕の思考に絡みついて離れなかった。
夜。マンションのドアを開けると、またあの香りがした。
「おかえり、綾人」
台所に立っていたのはローラ・オニキスだった。エプロン姿の彼女が、まるで普通の“家族”のように僕を迎える。
「今夜はジャパニーズ・カレーライスよ。でも、チリパウダーを少し入れてみたの。アメリカ流のスパイスってことで」
「……ローラさん、それはもう別物じゃ」
「細かいこと気にしない。おいしいわよ?」
食事をしながら、僕はさりげなく切り出した。
「ロウワーって、知ってる?」
ローラの箸が、一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに笑顔に戻る。
「んー、何かの投資グループの名前だった気がするけど。どうして?」
「いや、ちょっと聞いただけ。最近学校に出入りしてる人たちがそんな話してて」
「ふーん、あまり深入りしない方がいいかもよ」
そう言った彼女の笑顔は、どこか少しだけ、硬かった。
深夜。僕は引き出しの奥から、旧型の公安端末を取り出した。高倉さんからもらったまま、ロックをかけて封印していたもの。
公安の現場に出始めてから、何度か指示を受けることはあった。でも僕はまだ、ほんの一端しか知らない。
——自分の能力についても。
僕の力は、未来を“感じ取る”ものだ。予知とも違う。ただ、何かが“起きる”と、体が先に反応してしまう。
それが何なのか、僕にもまだ説明できない。ただ、事件のたびにざわめくこの胸の感覚だけは、嘘じゃない。
そして今夜も、その“ざわめき”は静かに警鐘を鳴らしていた。
ダミーコードを解除し、ファイルにアクセスする。
そこに残っていたのは、数年前のログの断片。高倉の残した報告書。その中に、「R.L.(ロウワー・リンク)」という暗号が何度も出てくる。
そして、報告書の末尾にはこうあった——。
『ローラ・O……行動記録、再照合必要。リストA対象。』
僕の呼吸が止まりそうになった。
ローラが、公安から“監視対象”としてマークされていた……?
翌日、屋上。
リリアンは手すりにもたれ、空を見ていた。
「……昨日、ローラに会ったんだ」
「へぇ。相変わらず面倒見のいいお姉さん?」
「……どうかな。ちょっと、わかんなくなってきた」
彼女は黙ったまま風を感じていた。そして、ふと僕の方を見た。
「……君、彼女を信じてるの?」
「信じてた。けど、昨日の彼女の表情、何か隠してた」
「……信じるって、便利な言葉よね」
リリアンの表情が一瞬だけ、鋭く冷たくなる。まるで、感情がスイッチのように切り替わったような——その“変化”は、彼女の正体を仄めかすに十分だった。
けれど、その直後には、あの無垢な笑顔が戻っていた。
「でも、私は信じてるよ。あなたが気になるから」
僕の胸が、わずかに波打った。
「気になる……って、どういう意味だよ」
「文字通りよ。君は、自分のこと、まだ知らないでしょ?」
風が吹いた。遠くでチャイムが鳴る。昼休みの終わりを告げる鐘。
「でも、それを知るのは、まだ先。楽しみにしておくわ」
そう言ってリリアンは、何も答えずに階段を下りていった。
残された僕は、空を仰ぎながら、自分の中で膨らみ続ける“疑問”と向き合っていた。
——ローラ。
——リリアン。
——ロウワー。
そのすべてが、まるでバラバラに見えていたパズルのピースが、静かに、確かに、中央へと収束していくような——そんな感覚。
まだ輪郭は曖昧で、手触りも定かじゃない。
でも、僕の中で何かが“始まり”に近づいている気がした。
僕はただの高校生じゃない。
でも、公安の人間としての“何か”でも、まだない。
それでも——きっと、今起きている全ては、やがて一つの「真実」へとたどり着く。
そして、僕の力がそれを引き寄せている。