頂へ[2]
剱岳。
山頂標高2999m。まぁ、ほぼ3000mね。
累積標高差1672m。
累積標高差? 聞き慣れない言葉かしら? 累積標高差っていうのは、登り部分を全て足した標高差。
山って、登ってばっかじゃなくて、時々下りもあって、また登っての繰り返し。
例えば100m登るのに、登りのみで一気に100m登れる山って存在しないよね? 50m登って20m下るとすれば、そこから山頂まで70m登らなきゃならないの。
という事は、合計120m登る事になるの。
別山尾根ルートの登山口は室堂。ここが標高2420mなので、山頂までの標高差は579mなんだけど、激しいアップダウンを繰り返して、1672mもの累積標高差になるんだって。
3倍近いじゃん!!
「どう?」
「はい! よく出来ました」
―あはははははは!
笑ってはみたものの、胸の内は不安との闘い。だって、そんな累積標高差なんて想像付かないもの。
そして、兎に角険しい。カニのタテバイ/ヨコバイ。岩に張り付くような格好でよじ登り、縦方向や横方向に進むなんて、考えただけでも怖しい。
でも、あたしが「ダメ」って言ったって、尚哉は行っちゃうのよね?
「なぁ、歩果」
急に真面目な顔になって、どうしたの?
そんな、怖いよ。もっと笑顔で話してよ。
「俺な、別にマッターホルンとか、果てはアイガーなんて、そんな事は考えてないんだ」
「そうなんだ…」
「何で剱岳に登るか。それはね…」
尚哉は、それまであたしにも言ったことのない話を、静かに、ゆっくりと、でも力強く語り始めた。
それを聞いてどうなる? 危険な山に挑むという事には変わりない。出来ることなら…。
「俺の登山スキルの集大成さ。日本最高クラスの難易度って言われる剱岳だから、最後にするには格好のターゲットなんだよ。その先は、登山を辞める…っていうか、同じような危険を冒すぐらいなら、もっと別の山を歩果と一緒に登りたい」
―え?
「剱岳登頂を果たしたら、俺は北海道に移住する。街外れの山に近い場所にログハウスを建てて、植物の研究をするんだ」
「植物? 何で山?」
「高山植物だよ。北海道なら、低い山にも高山植物の群生が見られるそうなんだ。大雪山では、ゆったりしたハイキングで250種類ぐらいの高山植物が観察出来るってね」
尚哉は目を輝かせ、夢を語った。まるで子供のような純粋さを感じた。
高校の担任、吉野先生。そう言ってたっけ。尚哉は、登山よりも寧ろ高山植物が好きだって。
だけど、だけどとても気がかりなの。尚哉は北海道へ、1人で行っちゃうの?
「ほ、北海道…なんだ。何でそんな遠くじゃないといけないの?」
「天使だよ」
何を言い出すんだか。
あたしはそんな事を聞きたかったんじゃない。「何であたしを置いてそんな遠い所に?」というのが本音だった。
彼の、ファンタジー小説でも読んだかのような突拍子もない返答に、あたしは思わず吹き出した。
だけど、尚哉は本気で言ったみたい。
「俺の人生の最大のイベントは、剱岳じゃない。天使に会える街で…」
「天使?」
「そうさ。天使が居るんだ」
あたしはこの時、尚哉を小馬鹿にしたつもりだった。だけど、この不思議なくだりの最後の言葉は、あたしの胸を強く打ち、彼の行為はあたしの涙腺を崩壊させた。
「じゃあ約束しよう。俺が剱岳を制したら、一緒に会いに行こう。雪の天使」
尚哉はそっとあたしの左手を取り、薬指に銀のリングをはめた。
その意味を察知するまでには、全くと言っていい程時間を要しなかった。
「約束…だよ」
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次回「頂へ[3]」
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