恋をしてみたかったあの頃[8]
パステルピンク。
それだけでもフェミニンな印象をもたらす。
久松美咲の服装を、女子らしくしてあげたい。そんな意味不明な思いから始めた洋裁だけど、まぁ最初から上手に出来る訳もなくて。
型紙は問題なく作れるけど、その通りにカットするところから躓き始める。
というのも、「切るぐらい難しくない」などと高を括っていたからで、まず必要な道具すら持っていない。紙を切る鋏で布を切ろうというのだから、上手くいくはずがない。
背後から、お兄ちゃんの意地悪な視線を浴びている。凄くそれを感じる。
そんな得体の知れないプレッシャーが、ずうっと背中からのしかかっている。
「もう! お兄ちゃん、どっか行ってよ!」
堪らず振り向くと、お兄ちゃんはニタニタ笑う。
「気にすんな。ほら、やれよ」
「そんなに見られたら、やだ!」
「見られる事気にしてたら、仕事なんて出来ねえぞ」
―働いてから言えよ。ろくにバイトもしないで、仕送り金せびって生活して、あとは野球三昧だろ? レギュラーになって全国大会出場とか言い始めたら、バイトしてる暇もなく練習だろうけど、ベンチ入りも出来るかどうかじゃん。
イライラすれば、余計に上手くいかない。切断部分がギザギザになってくる。
「お前、それ、はっはっは! あれ使ったら良くね? あの、ほら…ピザ切るやつ」
布を切るのだから、訳が違う。
でも、このくだらないお兄ちゃんのひと言で気付いた。すぐにスマホを手に取ると、通販サイトで調べてみた。
「あ、これだったら小遣いで買えるわ」
某有名メーカーの布カッターだ。これなら鋏で苦労して切るより余程上手く切れるはず。
「何だよお前、そんなの勉強すれば分かんだろ?」
確かに。
その辺、やっぱりまだ陸上女子の域を抜け出せていないから、情報を仕入れるのも適当だ。
でも、でも、ひと言言いたい。
「お兄ちゃんよりは勉強してるわっ」
いや、言ってみたけど違う。それはお兄ちゃんからの反論ですぐに察した。
「土俵が違うじゃんよ」
「そうね、ごめん…」
あぁ、何てポンコツなんだろ、私。
とりあえず、布カッターが届くまで作業は休止。暇が出来てしまった。
すると、あらら、何て事だ?
「麻衣、走ろうか」
「何よ急に。お兄ちゃんなんかに負けないわよっ」
私達は、また子供の頃のように競争する事になった。
まずは近所の公園まで軽くジョギング。
公園に着くと、靴紐を整えてからウォーミングアップに入る。
大腰筋、大腿直筋など、大きな筋肉のストレッチを行う。長くやり過ぎない事がポイントだ。
次に、脚の振り上げや腕の振りといった動的ストレッチをする。
こういった行為は、2人ともがスポーツをやってきただけあって抜かりがない。
逆に、適当にやってしまえば怪我の原因になりかねない。
「いい靴履いてんじゃん」
「当たり前よ。ちゃんと作ったんだから」
「そこまでやったのに、部活辞めんのか?」
「………」
言葉に詰まった。
未練がましいのか、辞めることに対して一抹の淋しさを感じてしまった。
本当にやりたかった事。それは走る事じゃない。だけど、ここまで打ち込んできたのだから、そこには沢山の思い出がある。
公式ではないにしろ、自己記録を叩き出した瞬間に、終わりにしたい気持ちが込み上げてきた。
そんな浮ついた気持ちでいいの?
誰だって、挫折や逃げたくなる思いを経験して、より成長していくはず。
「戻る気になれば、いつでも…」
戸田先生の言葉。
私は、陸上部に戻った方がいいんだろうか?
「いくぞ!」
「はいっ!!」
「「よーい…」」
ドン!!
クラウチングスタートから、両足で地面を強く蹴り、体を前へ押し出す。
走るのをやめて僅かな期間に、体が重くなっているのを感じた。
お兄ちゃんは、私の少し前を走る。まだ野球は続けているのだから、体の動きは軽快だ。
そんなお兄ちゃんを、僅差で追いかける。
少しずつ離されて行くのが分かる。
スポーツを続けるなら、体の調整を絶やしてはいけない。
実力・才能。どれだけそんなのを持っていたとしても、ストイックに体を虐め続けなければいけない。
そこまでするのは何のため?
時間や能力を全て十数秒のために費やし、良い結果を手にすれば、待っているのは次へのプレッシャー。
結果が悪ければ、挫折が待っている。
そんな世界に居続けるのが辛い。
だけど、ここまで打ち込んできたものを無駄にしたくもない。
「あっ!!」
突然目の前が真っ暗になった。
その瞬間、私の体は地面に強く打ち付けられた。
左腕と胸に強い痛みを感じた。
「麻衣っ!」
何とか起き上がってはみたが…、
「痛っ!!」
左足首が激痛で動かない。
どうやら転倒の原因は、小石を踏んで足首を捻ってしまった事のようだ。
「お前…それ…」
瞬時に大きく腫れ上がった左足。靴で圧迫される感触。私はすぐに紐を解いて靴を脱ごうとした。
「あ痛っ!!」
その瞬間に、また激痛が走る。
お兄ちゃんは、すぐに救急車を呼んだ。
お互いスポーツをやっているのだから、それが軽症では済まない事は、すぐに分かった。
あの12秒36という記録。
もう2度と出せない驚異的タイム。
皆が声を揃えて言った全国大会進出も、この瞬間に夢の藻屑となった。
そして同時に、私の陸上競技人生は終末を迎えた。
ほんの一瞬の出来事が、人生を左右する。
夢や目標って、とても脆いものなんですね。
この怪我が麻衣にとってどう作用するのか?
この後の展開もお楽しみに!
アクセスありがとうございます。
次回「恋をしてみたかったあの頃[9]」
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