山に魅せられて[2]
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そういえば、まだ自己紹介してなかったわね。
私の名は、田上麻衣。
京都にアパレルのローカルブランド『寺町カジュアル』、通称TmCというのがあって、昔からのお客様の中には「テラカジ」なんて呼んでくださる方も。
私はそこで働いて3年。一応服飾専門学校を卒業したのだから、デザインの勉強もしてるんだけど、私ごときの経験値で商品化出来るものではなく、今はひたすらパソコンのモニターと睨めっこしたり、型紙を作っては「寸法が合ってない」なんて叱られたり、こんな事の繰り返し。
そんな毎日を過ごす中で、休憩時間に、一緒に働く専門学校の先輩が登山の話をしているのを耳にしたのだけど、そっと聞き耳を立ててみると…?
それがもう、素敵な話ばかり。
登らなきゃ見れない絶景。
同じ目的でフィールドに向かう人たちとの、出会いとコミュニケーション。
そんな開放的非日常の空間で食べる食事の美味しさ。
ああ、私もそんな経験してみたい。
いささか衝動的ではあるけど、そんな経緯で気持ちだけが先走り、居ても立っても居られない思いでこの登山用品店に初潜入してみたの。
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「何でもいいんですよ。田上さんが思い描いているアウトドア。ご自宅の近くに川が流れてるのなら、そこでお湯を沸かしてコーヒーなんか淹れてみたいとか、そんなのでも楽しいアウトドアですよ」
市川さんの柔らかな口調。そしてにこやかな表情。
自然を愛する人って、こんなに素敵なんだ。
それなら私も、素敵だと思ってもらえる人になろうじゃないか。
「あ、あの…例えば、富士山の山頂まで行けるようになるまでって、どれぐらい熟練が必要なんですか?」
―ハッ! 何言ってんの、私。
日本一の山の山頂になんて、身の程知らずもいいところ。私はその瞬間にそう思った。
だけど…。
「富士山に登りたいのでしたら、それ程遠い未来という訳でもないです。山に関する知識と、そこに登るに見合った体力。あとはそれなりの装備を身につける事ですよ」
そう言われた。
よくよく考えれば、縦走登山だって一緒じゃん。でも?
「高い山と険しい山は違います。もちろん富士山を舐めてはいけないのはご承知の上でしょうがね、日本で特に険しくて難易度の高い山とされてるのは剱岳。標高は2999m。対して富士山は3776m。高さで言えば富士山がまさしく日本一なんですよね。だけど、その富士山より800m近くも標高が低い剱岳は、氷河で削られた岩峰が連なる山でね、それを攻略出来なきゃ山頂に到達出来ないっていう、とっても危険な山なんですよ」
剱岳がどんなモノなのか?
岩峰って何?
剱岳には、氷河に削られた剥き出しの岩肌が連なり、そのような地質? の山を岩峰と言うのだそう。
用語から難しい。
でも剱岳が、「超」が付くほど険しい事は分かった。
対する富士山は、ある程度険しい箇所でも登山道が整備され、一般の人でも比較的容易に登頂可能。
でも、もちろんそれは単に容易なのではなくて、取り分け高難易度とされる剱岳や谷川岳なんかと比較しての話。
だそうで…。
富士山は、言うまでもなく日本一の高山なのだから、知識も体力も装備もしっかり準備して挑まなければ、立ちはだかる様々なハードルを越えられない。
経験者であっても、時として登頂を諦めるか、最悪の場合事故に繋がる結末となる。
知識なら、山の特徴やそこに潜む危険。
天候とそれに左右される、日々変わりゆく条件。
酸素濃度の変化なんかもそうね。
体力で言うなら、脚力のみならず、全てにおいてレベルを上げなきゃ。
それと、酸素濃度にも関係するけど、リスクとして上位に挙げられる“高山病”っていうのがあって、その予防のための体の調整なんかも大切。
登山って全身運動なのね。
つまるところ山に登るという事は、対象がどこであれ生半可な気持ちでは許されないという事なんだ。
それにしても、何で私は「富士山に登りたい」などと言ったのだろう。
先輩や、朝比奈さんだっけ? そして市川さんの笑顔を見ていると、段々とそこに同調したくなってしまった。
その結果、ピクニックするつもりで買い物に来た私は、この縦走登山のプロフェッショナル・市川さんに、エキスパート向けの話をさせてしまったんだ。
―バカか、私は!
剱岳:北アルプス立山連峰に在る山で、日本百名山及び新日本百名山に選定されています。
立山、鹿島槍ヶ岳、唐松岳と並び、日本では数少ない氷河の現存する山です。
アクセスありがとうございます。
次回、「山に魅せられて[3]」
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