頂へ[13]
激励の中の沈黙。
そんな妙な例えがピッタリ当てはまるような状態のまま、時間だけが悪戯に進んでいく。
風が吹き始めると、徐々に強さを増していく。
鎖場での風は大敵だ。早く抜けてしまいたい。されど体は言う事を聞いてくれない。
そんなジレンマが、尚哉の心を一層苦しめる。
足が前に出ない。これ程までの疲労を感じた事が、今まであっただろうか。
だけど、この場所ではリタイアする事も不可能だ。抜け切るしかない。
尚哉は今、これ以上ない逆境に立っている。
「乗り越えてきたよな? 俺、ここまで頑張れたよな…。あと少し、頑張れねぇか? なぁ、俺…」
食いしばる歯からは、ギシギシと軋む音が聞こえてくるよう。鎖をホールドする腕は、内部から筋肉が破裂しそうな感覚。
苦しい。とても苦しい。
その時。
「尚哉! 落ち着いて、ゆっくりでいいぞ! お前なら大丈夫だ! 俺よりメンタル強いんだからな!」
亮お兄ちゃんからの檄が聞こえた。
尚哉はフッと緊張を解きほぐし、その声に耳を傾けた。
「お前! 歩果と約束したんだろう!? 俺の妹と! 歩果が待ってんだよ! 行こうぜ! 歩果のもとへ!!」
こ、こんな時にあたしの名前が?
でも、そうだよ! あたしと約束したじゃん。あたしをあの町に連れて行ってよ!!
―そうだな。亮、ありがとな。
「よぉっしゃあああっ!!!」
気力が! 気力が体力に勝った。尚哉はゆっくりと、動きの鈍った手足を、顔を顰め、歯を食いしばってゆっくり動かし始めた。
「行ける! 行けるぞ!!」
「苦しかったら何回休んでもいい。こっちに! 俺の居るところに来い!」
「うぉおあああーっ!!」
尚哉の雄叫びが、岩峰にこだまする。
あと少し、あと少し頑張れば、この難所を抜ける。
尚哉! 頑張って!!
尚哉は子供の頃から体が弱かった。
大病を患った訳ではないけど、よく熱を出したりしたらしい。
それ故に体育の授業も見学が多く、成長期に充分な体力を養う事が出来なかった。
そんな尚哉が山に魅せられたのは、日常目にする事のない草木の姿。高山植物の存在だった。テレビや雑誌などで紹介された、その美しい姿に、深く興味を持ったのだ。
「高山植物を見たいなら、山に登れるだけの体力を身に付けるんだ」
父親からそう言われた尚哉は、それから精力的にトレーニングをするようになった。
あたし達と同じように、伊吹山から始め、徐々にレベルアップしていった。
高校生になると同時に、京都ベルグ山岳会に入会し、登山のノウハウを学びながら、日本最高峰である富士山の山頂に立った。
これによって自信を付けた尚哉は、この時初めて、「今度は最高難易度の山を制したい」という野望を抱いた。
亮お兄ちゃんと出会ったのもその時だ。
亮お兄ちゃんが登山に興味を持ったのは、やっぱりテレビ放送だった。
山頂からの絶景。登らなければ見ることの出来ない、雪渓や大パノラマ。亮お兄ちゃんの価値観では、それらがどんなにリスクを冒してでも見るべきものだった。
ただ、佳代ちゃんという実の姉があまりにも男まさりで逞しかったためか、いささか甘えん坊なところがあり、それが大人になっても気の弱さとして表れていた。
尚哉と亮お兄ちゃん。2人の登山への意欲は、趣こそ違えど、山頂への夢と憧れとして同じ方向を向いた。
だからこそ、こうやって互いに激励し合いながら苦難を乗り越えて、今、この剱岳の山頂に立てたのだ。
あとは下るのみ。
無事に帰って来る。あたしはただそれだけを待っていた。
「よく頑張った! 岡崎君、生田君。よくやったぞ!」
「「よっしゃあああっ!!」」
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