第一話 ずぶ濡れの少女
本作は全ジャンル踏破「文芸_ヒューマンドラマ」の作品です。
詳しくはエッセイ「なろう全ジャンルを“傑作”で踏破してみる」をご覧ください。
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――良い女っていうのは、美味い料理のようなものなのよ。隠し味のように、こっそり可愛さを仕込むの。アンタはそういうのに気付ける男になりな。
六月のとある金曜日のこと。
スミちゃんはそう言うと、濃いめのメイクを防壁のように塗り固め、自作のアクセサリーでジャラジャラと武装して、彼氏であるアサちゃんの家へ意気揚々と出陣していった。毎度思うけれど、一体どの辺が隠し味なんだろうか。
「さて、今日は何にしようかなぁ……」
毎週金曜日は、スミちゃんが乙女全開でアサちゃん宅にお泊りに行く。
そのため、留守番をする僕はいつも気楽に映画鑑賞だ。リビングを我が物顔で占拠して、山盛りの唐揚げやフライドポテトを好き勝手に摘んだり、コーラやらポップコーンやらを食べ散らかしたりして自由に過ごすのである。
ブルーレイの背表紙を眺めながら、久々にほのぼの系のアニメ映画でも見ようかと候補を絞り込む。
「……あ。買い出し忘れてた」
そういえば、まだコーラもポップコーンも買ってなかったな。
財布と鍵をポケットに入れ、ビニール傘を持って玄関を出る。六月下旬、外は雨。最寄りのコンビニまでは数分だけれど、傘なしで走るにはちょっと抵抗感があるなぁ、くらいの雨量だった。
水たまりを避けながら、ふとスミちゃんについて考える。
スミちゃんの本名は「清澄」といって、体の性別は男。骨格もガッシリしている。けれど化粧をすると「大柄な女性かなぁ」という感じに大変身するので、これも乙女の技術かと驚くばかりだ。
僕にとっては父親の従兄で、幼い頃からたくさん遊んでもらったお兄さん? お姉さん? であり、両親を失った僕を引き取って育ててくれた大恩人でもあった。当時の僕は八歳で、今は高一になったのだから、思えばずいぶん長く一緒に暮らしているんだなぁと思う。
そんなスミちゃんを、養父と呼ぶべきか、養母と呼ぶべきか、なんとなくモヤモヤしているのが最近の僕である。
高校に提出する書類には「養父」と書いた。父らしき頼もしさもある。一方で本人を目の前にすると「養母」かなと思う。母らしき安心感もある。それじゃあ誰かに紹介するときにはどう呼称するのが妥当か……うーん。
もちろん、そんなに重く悩んでいるわけではないのだけれど、なんとなく結論を出せないまま「スミちゃんはスミちゃんなんだよな」とズルズルここまで来てしまっているのだ。
駅前のコンビニで必要物資を買い込んで、さぁ帰ろう、という時であった。
雨の中、ポツンと佇む女の子を見つけた。
傘もささずに静かに立っている彼女は、僕と同じ高校の制服を着ていた。ネクタイの色から同学年だろうと分かるけど……ん? よく見てみれば、彼女は同じクラスの子ではないだろうか。あんまり話したことはないけど。
いつも教室の隅の方にいて、忍者のように巧みに気配を隠し通している。良い方にも悪い方にも全く目立たない真の地味系女子。たしか名前は――
「水無月さん? どうしたの?」
僕が声をかけると、彼女はハッと顔を上げる。
その頬は真っ赤に腫れ上がっていて、手に持った眼鏡のレンズは罅割れている。そして彼女の両目は、雨の中でも泣いていることが誤魔化せないほど、濡れて充血していた。
◆
スミちゃんの仕事はアクセサリー職人で、もとはどこかのブランドで働いていたみたいなんだけど、現在は独立して自分の工房で仕事をしている。
ここは自宅と工房を兼ねているため、全体の敷地面積は割と広めである。ただ、僕は工房の方には一切足を踏み入れないため、居住区画だけで見たら広さはそこそこといったところだろうか。
そんな家に水無月さんを連れ込んだ。
と言うと人聞きは悪いけれど、さすがにあのまま放置もできないだろう。
「とりあえず、お風呂で温まってきなよ。着替えはあとで脱衣所に持ってくから」
僕はそう言って、ずぶ濡れの彼女を風呂場まで案内する。何があったのかは分からないけれど、まぁろくな事情じゃないだろうし、今は何より風邪を引かせないことのほうが大事だ。
「えっと……山吹くん、だよね?」
「そう。山吹彰……アキラでいいよ」
「うん。ありがとう、アキラくん」
水無月さんが脱衣所の戸を閉めると、僕は部屋に戻って適当なジャージなんかを見繕いながら、今の対応で本当に良かったのか考える。
思い出すのは八歳の時のこと。交通事故で両親が死んだと聞かされて、何も状況を飲み込めないまま葬式が終わった後のことだ。一人残された僕を、誰が引き取って育てるのか……親戚中で押し付け合いになっている中、顔を真っ赤にして啖呵を切ったのがスミちゃんだったのである。
『アキラはアタシが育てるよ。もちろん金銭的な援助なんて求めないさ。アンタらとは金輪際、親戚の縁を切らせてもらうからね!』
そういえば、あの日も雨が降っていた。捨てられた子犬のように無力だった僕は、そうやってスミちゃんに拾われて、これまで幸せな人生を歩ませてもらっている。
だからかな。雨の中で立ち尽くしている水無月さんを放っておけなくて、うっかり連れ帰ってきてしまったのは。
「……でも客観的に見たら、保護者のいない自宅に女の子を連れ込んでる悪い男なんだよなぁ。うーん」
だからって、あのまま放置は無理だ。
脱衣所に着替えを届け、リビングにある除湿機のスイッチを入れたら、揚げ物をするためにキッチンに立つ。映画鑑賞会のときに唐揚げやフライドポテトを食い散らかそうと、事前に仕込んであったのだ。
不健康なザ・男料理を大皿にドンと盛っていると、風呂上がりでホカホカになった水無月さんがキョトンとした顔で僕を見ていた。
「……唐揚げ? と、ポテト?」
「うん。水無月さんが夕飯を済ませているか聞いてなかったけど、まぁ食べたかったら摘んでもらう形式でいいかなと思って。いずれにしろ僕が食べるし」
大皿を抱えてリビングへと向かう。僕なりに色々考えてみたのだけれど、たぶん水無月さんも踏み込んで根掘り葉掘り聞かれるのは嫌なんじゃないかなって。それなら、いっそ今日は二人で映画鑑賞会にしてしまおうと思ったのだ。
「水無月さんは」
「円香……マドカでいいよ、アキラくん」
「あぁ、うん。マドカは好きな映画とかある? それなりの品揃えだと思うけど」
そう問いかけると、マドカは少し気の抜けた様子でブルーレイの棚の前に向かい、あれこれと悩んでから一本のアニメ映画を選んだ。あ、僕がちょうど見ようと思ってたやつだ。これいいよね。
「そういえば、マドカの眼鏡は割れてたんだっけ」
「あ、大丈夫。今はコンタクトしてるから」
「それなら良かった。あ、ちょっと待ってて」
僕はダイニングから椅子を一脚持ってくることにした。さすがに一緒のソファに腰掛けるのはチャラ男街道一直線になっちゃうからな。ついでに、腫れた頬を冷やすための保冷剤を持ってくる。
健康的な食生活に真っ向から喧嘩を売るような揚げ物とスナックをドンと並べ、コップにコーラを注いで乾杯。こんな風にして、僕ら二人の初めての映画鑑賞会が幕を開けた。
◆
いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。
気がつけば僕とマドカは二人並んでソファに座り、一枚のタオルケットに包まっていた。テレビには、たぶん最後に見たのだろう映画のメニュー画面が表示されていて、二人同時に寝落ちしてしまったんだなと容易に想像がついた。
窓の外では日がすっかり上っているらしい。朝日が差し込むのをボーッとした頭で眺めていると、大きな欠伸が漏れる。どうせ今日は土曜日、学校は休みだ。
しばらく脱力していると、マドカも目覚めたのだろう、彼女は僕の横でモゾモゾと動き始める。
「おはよう、アキラ。ごめん寝ちゃった」
「おはよ……まぁ、今日のところは、のんびり片付けとかをしながら一日過ごそうよ。どうせ週末だし」
「うん……もうちょっとだけ寝てていい?」
マドカはそう言って、僕の肩に頭を預ける。
ゆるゆるとした眠気がなんだか心地良い。
あ、ちなみに手は出してないからね。たしかに昨晩は、唇同士がちょっとばかりくっついたような記憶があるけれど、それ以上の何かは断じて行っておりません。女の子の弱みにつけ込んでコトに至るのは悪い男だって、スミちゃんからもキツく教え込まれてるからね。なんとか耐えきりました。
そうやって脳内で言い訳をしながら、マドカの髪をちょっとだけ撫でたりしていると、彼女は僕の耳元で小さく囁いてきた。
「あのね、アキラ……少しだけ聞いてくれる?」
「うん」
「この頬……お母さんに叩かれたんだけど」
マドカはそうしてポツリポツリと、胸の中の淀みを一つずつ取り出しては、確かめるように吐き出していく。
シングルマザーだったマドカの母親が、再婚したのは三年前。それまでは母親が夜勤で家にいない日もあったけれど、新しい父親は一般会社員のため夜は必ず家にいるから、孤独な時間はずいぶん減った。母親がガミガミと怒鳴ることも減り、家族三人で幸せな生活を送ることができていたのだ……はじめの内は。
父親に違和感を覚えたのは去年あたりのことだった。マドカの身体が女らしく成長していくにつれて、なんだかねっとりと絡みつくような気持ちの悪い視線を感じるようになったのだ。そしていよいよ、身の危険を感じる出来事があって、マドカは母親に相談した。しかし、話を聞いてもらえないどころか――
『お前があの人を誘惑するから!』
感情的になった母親は、マドカの頬を思いっきり叩くと、家から追い出した。一応昨晩は「友達の家に泊まる」と連絡したけれど……家に帰るのが怖い。父親が何をしようと企んでいるのか、母親がそれを受けて何をどう考えるのか、最悪な想像ばかりが頭を過ってしまう。マドカはそう言って小さく震える。
本来なら、警察や児童相談所を頼るべき案件だとは思うけれど。マドカは首を横に振って「できればそれは最後の手段にしておきたい」と言った。僕は何とも判断ができなくて、ただマドカの頭を撫でる。こんな時、スミちゃんだったら一体どうするのだろう。
そうグルグル考えていた時だった。
「ただいま、アキラ――」
彼氏の家をエンジョイしてきたのだろうツヤツヤの顔をしたスミちゃんが現れて……ソファの上で絡まり合っている僕とマドカを見て固まった。
うん。まぁ、そりゃそうなるよね。僕はなんとなく視線を合わせ辛くて、天井を見上げてため息を吐く。はぁ。
そうしていると、マドカが僕のシャツを摘んでクイックイッと引っ張る。
「ねぇ、アキラ……あの、こちらはどなた?」
「うん。紹介するね。スミちゃんは……僕の父親のような存在であり、母親のような存在であり、友達のような存在でもあり……どう説明したら良いのか分からない謎の何かなんだ。よろしく頼むよ」
「何が何だかサッパリ分からないけど」
ひたすら困惑するマドカと、事態を理解してニヤニヤし始めたスミちゃんを前に、僕はまだ寝ぼけている頭を無理やり覚醒させ、この後のことを考え始めた。





