第八話 イシュタル・タランソワは忘れない 5
自身のベッドであの時に振り返らずに立ち去るエナミを思い出していたイシュタルは再び手を強く握りしめた為に、布団の血の赤黒い染みが広がっていった。
イシュタルは再び怒りに身を任せてしまった自分の事を全く省みず、エナミへの嫉妬をただひたすらに増加させていった。まだ夜明けと言うには早すぎる目覚めも何度も繰り返せば、それがただの習慣になってしまう。
そんな日々をあの日からもう毎日十五年近く過ごしていた。
エナミへの暗い思いを十五年近く募らせたイシュタルとしては、今回のナランシェ連邦へのスパイ容疑という話は、降って湧いた千載一遇のチャンスとしか思えなかった。もしかしたら過剰な自分の想いに、神が与えてくれた奇跡かもしれないとも思っていた。
エナミが王立アカデミーを卒業する時も、五大ダンジョン攻略にかまけ過ぎた影響で、座学の成績と出席日数が卒業ギリギリのラインになっていても、その五大ダンジョン攻略階層が全てエナミが目標にしていた五十層であった為に誰も批判する事は出来ず、分かりやすい結果で黙らせていた。
勿論、王立アカデミーは表立ってエナミが五大ダンジョン全てを五十層まで攻略した事を喧伝する事は無く、エナミにも知らない人間には言わない様に促した。
その為にエナミの同級生の中でも、彼は王立アカデミーの中でも素行不良のギリギリ卒業の人間と思っている者もおり、それが彼が史上最年少でダンジョン攻略課の冒険者相談窓口に着任した事に対して理不尽な怒りや嫉妬に拍車をかけた。
ダンジョン管理事務局側としてはダンジョン研究所の分析や、修練場での実技研修でエナミが古代文字と古代魔法や「瞬動」が使える事も分かっており、エナミの偉業を当たり前に知っていた。
少なくともこの様なプラチナランクの冒険者相当の実績を既に持った人間は外国に行かれても冒険者になられても扱いに困るため、早めに囲い込まなくてはと、エナミの状況について十分に理解のあった、当時の人事部部長だったワーグナー・キルステンを始めとした人間達により、ダンジョン攻略課に押し込められたのが実際の所であった。
こういった当時の背景について全てでなくとも殆ど全ての情報を把握していたイシュタルは王立アカデミーの側としてエナミに手が出せる筈もなく、自身の「始まりの七家」の情報を司るタランソワ家としての役割を考えても、彼の事でダンジョン管理事務局と揉める訳に行かなかった。
そしてエナミがいつの頃からかダンジョン攻略課での扱いが悪いや、素行が悪いから昇進できない等のネガティブな情報を拾い上げて、「末成りの物語」と何処からともなく言われるように仕向けたのが、イシュタルとして最大限彼へと出来る嫌がらせだった。
イシュタルはこの十五年近くの時間経過の中でエナミ以外の古代魔法の使い手が現れる事もなく、気が付けば自身の研究と教育が認められて王立アカデミーの教頭になり、タランソワ家の中でも次期当主として役割が増し、いつでも当主になり変わっていい状態だった。
そんな自分の状況とは裏腹に、エナミが冒険者相談窓口としてのんびりしている様に見せていても、実績は凄まじい状況で育成しているのは当然把握しており、どんな嫌がらせをしていても彼の能力の妨害にもならない事にはイシュタルは忸怩たる思いだった。
そういう中で遂にこのエナミを貶められそうな情報を遠くサイテカ連合国から手にしたイシュタルは、この情報を最大限使える様にタランソワ家が得意とする情報操作をして、ダンジョン管理事務局の自分達とパイプが太い人間にこの情報を渡した。
しかしこの後がイシュタルが想定していた通りには進まなかった。普段なら直ぐにタランソワ家の情報から動いてくれる筈のルートが動く事にはならず、何故かフルシュミット国際事務局長がかんでしまい、査問委員会が非常に慎重な動きでこの件を対応したのだ。
査問委員会の調査担当も何とか自分の指名で優秀と評判のグレン・オッペンハイムが付けたが、ただ一人だけではマンパワーが足りず、案の定エナミの周辺関係者を洗うだけで、一向に彼がサイテカ連合国から帰国後即時逮捕するような気配にはならなかった。
このやきもきする流れの中で、エナミのスパイ容疑の話の経緯をフルシュミットが探っているという情報がイシュタルの方にも当然の事だが入った。
しかし今回のエナミのナランシェ連邦のスパイ容疑の件はあくまでも噂の範疇を超える事は無い為、もし万が一にもフルシュミットが確信を持ってイシュタルの元にやってきても真実には辿り着く事は出来ず、寧ろそんな事をすれば一方的な「始まりの七家」の弾圧となる為、彼のキャリアも終わりを迎える。
よって軽々にはダンジョン管理事務局が動かない事も理解しているイシュタルは、噂を真実に変えられそうな情報の流れを作り上げていった。
こういう事も古代魔法の第一人者とは別に才能がある為に、彼はタランソワ家の次期当主として若い頃から嘱望されていたのだ。しかも今回の件は私念もある為、より慎重かつ大胆にイシュタルはやっていた。
そんな中で先日サイテカ連合国から帰国してきたエナミはダンジョン管理事務局から自宅待機を命じられただけで、具体的な懲罰の動きは起きていなかった。
イシュタルは夜明け前にいつもの悪夢で起きてしまった事に再度寝る事は諦め、ベッドから降りて窓へと近づき、三日月が煌々と輝くの窓越しに眺めながら自分に言い聞かせる様に呟く。
「焦るな、これからだ……。あいつに思い知らせてやるんだ」
じっとイシュタルが見つめる三日月も雲でかける事なく、夜はまだ暫くの間明けなかった。彼はメイドから朝食の連絡がある迄はそこから微動だにしなかった。
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