第七話 イシュタル・タランソワは忘れない 4
自分の部屋のベッドの上で荒い息をしたまま、伸ばした手の先をイシュタルは見つめていた。まだその先にエナミが修練場で放った古代魔法の残滓でも残っているかの様に彼は更に手を伸ばし、その先で目一杯手を握りしめた。
あまりにもイシュタルが手を目一杯握りしめた為に、彼の爪が食い込んだ手のひらからポタポタと血が滴り落ち、真っ白な布団を紅く染める。
暫くの間、荒くなった息を整え、手のひらから落ちる血の雫が布団を染めるのをジッと眺めていたイシュタルは気が付くと「治癒」の魔法を唱えて、自身の傷ついた手のひらを治す。
当然の事だが、古代魔法の生粋の使い手であるイシュタルは実は現代魔法もエキスパートと言えた。圧倒的な聞き取りの難解さを誇る古代文字を理解し、古代魔法が扱える以上、現代の魔法はあくまでも彼の中では簡易版に過ぎず、片手間でも一通りの魔法は簡単に扱える様になった。
しかも彼が考える一通りの魔法の中身は誰もが行き着く先であるゴールドランク冒険者ではなく、一握りのプラチナランク冒険者が主力にしている魔法を片っ端から簡単に扱えたのだ。
それだけでもイシュタルの魔法を扱う才能の高さは理解出来るだろうが、そんな彼でもエナミに見せつけられた古代魔法の才能の差については如何ともし難いもので、どうにも受け入れられる筈が無かった。
そしてこのエナミの古代魔法発動後の出来事だが、彼はイシュタルが使った事も見た事もない魔法を見せつけた後、ちゃんと発動出来た事に満足したようで、イシュタルに感謝を伝えるとそれ以降は授業に一度も出る事無く五大ダンジョンの攻略にのめり込んでいった。
イシュタルとしては古代文字・古代魔法についてたった2ヶ月で自身を超えたエナミの事を簡単には認められなかったが、王立アカデミーの授業としては、彼がいては自分の教員として立つ瀬が無い事も理解していた為に、欠席は見て見ぬふりをして単位を出す事を決めていた。
そんな中イシュタルの耳にもエナミが五大ダンジョンで古代魔法を使いこなし、着々と攻略を進めているという話が王立アカデミーの中にいるだけでも聞こえてくるようになった。
イシュタルのお陰であれだけのダンジョン攻略の実績をエナミが上げているという声が聞こえるようになれば、エナミに対して特に古代文字の詠唱方法と一つの古代魔法を見せる以外の指導は何もしていなかった事を理解していた彼としては、複雑な想いを持ちながら表面上ではエナミの指導者として自慢の教え子という顔をするという、奇妙な対応を求められた。
これに関してはエナミが古代魔法について特別イシュタルに習った覚えが無いものの、実際に古代文字を詠唱して古代魔法を見せてもらい、自分の古代魔法すら確認してもらった事から、全く否定する事が無かった為に、さも古代魔法の第一人者に王立アカデミーで指導されたと誤解をしている人間も多くいた。
実際としては王立アカデミーのエナミの同級生でも同じ事で、エナミのすぐ側にいてトラブルシューティングをしていたライアン・ヒューイットとマリー・ラルフロール以外は真実を全く把握しておらずに逆に授業以外でも修練場で隠れて指導されているに違いないと勘違いする者しかいなかった。
その様な状況で半年が過ぎ、自身の受け持つ古代文字・古代魔法の授業も終わった授業の合間で、たまたまエナミとばったり王立アカデミーの中で会ってしまったイシュタルは当然声をかける。
「エナミ君、久しぶりだね。最近授業では見かけないが、調子が良いみたいだね」
「ありがとうございます、イシュタル先生。先生が教えてくれた古代魔法のお陰で、五大ダンジョンの攻略がスムーズに進む様になりました」
「何、君の才能の賜物だろう?僅か2ヶ月であれだけ簡単に古代魔法を使える様になったのだから」
「いえ、最近も新しい古代魔法が使える様に努力してるんですが、中々上手く行かなくて困ってます。けど、何とか使いこなせる様に頑張ってます」
「そうかね……新しい古代魔法ね……。エナミ君はそういった新しい古代文字や古代魔法の成果を世に発表する気は無いのかね?」
エナミが全く皮肉が効かず、しかもそれが分かった上で彼のプライドを挑発してくるかの様な発言に、引き攣る自分の作り笑顔を何とかキープしようと努力しながら、イシュタルは質問をする。エナミは困った様な顔で頭を掻きながら、答える。
「いやぁ、僕にはイシュタル先生みたいに文章を書いて書類に纏める才能も時間もありませんから。それならこうやって五大ダンジョンを攻略している方が、ずっと気が楽です」
「確かにそんなにダンジョン攻略に時間を費やしていたら、そんな余裕は無いな。因みに何処まで五大ダンジョンの攻略は進んでいるんだね?」
「はい。一番進んでいるのがメリダダンジョンですけど、やっと二十階を超えた所です」
「……二十階」
イシュタルからすれば、王立アカデミーに入学して1年も経たない間で、五大ダンジョン攻略を二十階まで行ってしまっているエナミの異常さは理解していたが、自分の仕事を奪う気が無い事を理解出来た為にホッとしていた。しかし、次のエナミの言葉でそんな軽い安心は吹き飛んだ。
「はい、他のダンジョンも時間があれば攻略してるんですけど、地形の特性と罠が厄介で中々二十階に行けないんですよね」
「他のダンジョンだと……」
「はい、僕の王立アカデミーの卒業までの目標は五大ダンジョンの五十階制覇ですから。あっと、すいません。次のダンジョン攻略に行かなくっちゃ。イシュタル先生、古代文字・古代魔法を見せてくれて、本当にありがとうございました。これからも頑張って下さい」
何の嫌味も無く感謝だけを伝えて去っていくエナミの後ろ姿をイシュタル・タランソワは今だに忘れる事は無かった。
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ここまで読んでいただいて気にいらなかったら、大変貴重な時間を使わせて本当に申し訳ない。ただそんなあなたにもわざわざここまで読んでいただき、感謝します。