表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

悪魔の垢

作者: 最終兵器
掲載日:2022/11/18

黄ばんだ換気扇をそろそろ掃除しなければ。


飯を食い終わったならば、バイトで体が疲れているのならば、さっさと寝てしまえばよいのに。

私は毎晩毎晩誰に合図するでもなく、人差し指と中指に挟んだ狼煙を吸っては時に咳き込み、嘔吐いて、水道水を飲んで換気扇を消す。

オンボロ灰皿の隣にはシンクがあって、アルコール飲料の空き缶と汚れがこびり付いて取れない食器が堆く積もっていた。建築家の才能があるとしか思えない絶妙なバランスで高さを維持するその遺産は、汚れによるベタつきがさらに食器同士の結束を高め、解体作業員もとい面倒臭がりの私にはどこから手を付けて良いのかさっぱり分からない、というか手を付けたくない。サボり魔よろしくぼうっと作業場の横に立って一分二分作業をする振りをしてみて、たちまち面倒くさくなってはモクモクと煙を立てて姿を隠そうとする。全くもってこの男というのはダメな男である。


そんな私が換気扇を掃除しなければと思ったのも、まさしく作業している振りでしかない。頭の中でそれを考えることで、ようし私は働いたぞという自己暗示がかかり尚更仕事を放棄して積み上げていくという結果に陥る。ここに立つとまるで脳味噌にまで煙がかかったかのように動く気力が失われる。しかし不思議なことに箱を開けて煙草を咥えてライターを取り出して火をつけるという一連の動作だけは歴戦の武術家のように体に染み付いて、意識せずともやってのけてしまうのだ。


こうも酷い体たらくだと尚のことやらなければならないことについて考えるのが億劫になってくる。ただでさえ昼は低賃金で馬車馬のように働いているのだから、家に来てまで金の出ない作業に体力を割くのは大変もったいない。余計なことは煙に巻いて忘れてしまおうと思って、私はまたしても箱を開けて煙草を咥えてライターを取り出して火をつけるという奥義を繰り出した。ジャリッと音がして火花が散る。解体作業員なんてやめて花火師にでもなってやろうか。


が、何度も何度も試すがどうも火がつかない。よく見てみたら透明なライターに透けて見えるはずのオイルは一滴にも満たない量しか入っておらず、私は花火師を諦めざるを得なかった。


足元に放り投げられていた汗びっしょりの服を絞れば少しは脂でも採取出来るかと思ったが、さすがの私でも鼻で笑ってしまった。そんな馬鹿なことができるわけがない。何より、こんな薄汚れた体から出る脂などで火をつけたらただでさえ体に悪いものが更に害を増してしまう。


私は諦めてコンビニエンスストアへライターを買い求めに行くことにした。玄関を開けると冬の冷た〜い風が足の指の隙間を通り抜けていって、ひいっと声を上げた。そこで私は裸足にサンダルを履いていることに気がついた。そりゃあ冷たいわけだ。右手でドアを押さえつつ、前職で使っていたボロボロの革靴があったのでそれに履き替えた。無論靴下などを履きに部屋へ戻ったりはしない。百歩以内で往復できる距離でわざわざそんなことをしてしまったら、脱ぎ捨てられたサンダルに面目が立たない。


靴下のない違和感と共に歩き出す。肺が少し疲れていて、もう今日はいらないかなと思った。いらないならライターを買うことなんて明日でも出来るんじゃないか、今戻って寝た方が幸せになれるんじゃないかと思うと足取りが若干重くなった。手元にあれがないとやはり思考をしてしまってダメだ。しばらく鉄球のついた足枷を引きずる囚人のように歩きながら葛藤したが、もう三十歩ほど歩いてしまったので諦めて進むことにした。


私が死んでも行きたくない繁華街はコンビニエンスストアのすぐ近くにあるので、ちらりとそちらを見やれば騒がしい若者とネオンサインが眩しい。横丁の門の下では客引きが引き攣った顔で明らかに年下の学生に媚へつらい、それを横目に黒ずくめの学生は空き缶を投げ捨て、傍の女はこの寒空の下に裸のようなファッションで携帯に神速で何かを入力しており、誰も彼もがお互い関心もなく、モラルも理性もやさしさも無いように見受けられる。こんな光景を地獄と言わずして、こんな行動を悪魔の所業と言わずしてなんと言う?


地獄の門から視点を空に移せば、宵闇の天を突くビル群の蛍光灯と赤色灯は悪魔の眼光のようで、地上のネオンは奇抜な色と香しさで人間を魅了し惑わせ誘き寄せる。まるで街全体が強欲な怪物だ。それと比較して私は内なる悪魔にすら勝てない軟弱な存在なので、あれほど凶悪な悪魔には対抗するすべもない。もし私が騒がしい若者たちと肩を組んで歌えばさぞかし楽しい思いをして、金が無かろうと散財の限りを尽くすことだろう。こんな小さな葉っぱの棒にすらずぶずぶに依存しているくせに街を知ってしまったが最後なのは明白である。触らぬ神に祟りなし。もう私も大概に狂っているのだろうから、これ以上自ら身を滅ぼしに行くこともあるまい。興味や関心のないうちに忘れてしまうべきだ。


コンビニエンスストアの周りも、悪魔の手先がちらほら訪れているようだった。和式便所スタイルで座り込み、車止めブロックの周辺を占領する奇特な髪色・髪型の集団が、喫煙所でもない場所で狼煙を吹いていた。繁華街から溢れてやってきた一人の学生らしき人間が狼煙に反応し、軽口と内輪ネタの罵りをしながら狼煙に火をつけて同じ体勢をとった。なるほど、こうやって彼らは合図をし合っているわけだな。私は換気扇の下でばかり吸っているものだから誰も来ないわけだ。


外で上がる狼煙はまるで我々の縄張りに立ち入ってはいけないという言語の通じない原住民からの警告のようで、たじろいでしまって入店できずに店の前であっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返していた。


彼らの怒りに触れないようにコンビニエンスストアの側面へ回り込み、秘密の抜け穴でも作られていないかどうか冗談半分で探しに行った。すると、一人の少年らしき影が見えた。奴も悪魔の手先かと思ったが、どうやら違うようだ。その姿はまるで浮浪者のようで、しばらく洗っていないであろう乱雑な髪の毛に、この寒々しい夜には似つかわしくない薄手のよれたシャツだけを着て、靴は電車にでも轢かれたのかと思うほど潰れて汚れて大変なことになっていた。どちらかというと悪魔にすら見放された人間。心底可哀想だとは思ったが、私がどうにかしてやる義理もやさしさもお生憎様持ち合わせていない。不意に合ってしまった視線を早押しクイズの最終問題のごとく引き剥がし、すまん。私には何も出来ん。と心の中で飄々と回答して、優勝賞金どころか返答すら待たず背を向ける他なかった。


「すみません、靴を磨かせてください」


私は振り返った。靴を磨かせろ?そんな事より自分の靴を磨いたらどうだとナンセンスな反応をしそうになったが、それはあまりにも無情。靴を磨く道具を持って震える少年の手、これが出来なかったら明日死ぬんじゃないかと思うほど必死な目、それに圧されて私に残っていた人間の部分が少し顔を出した。


少年が跪いた元には足を置くであろう木箱と、粗大ゴミから引っ張ってきたのかリビングでよく見る椅子の背もたれが欠損している物だった。ここまで来たからには引き下がれない。私は椅子が壊れてしまわないようにそっと座り、初めて玉座に座るうら若き王様のように遠慮がちに右足を差し出した。こんな埃っぽくてバランスの悪い玉座に、王族が好んで座るものかと普段は思うのだろうが。今日はなんだか変だ。


少年は慣れない手つきでクリームを取り出し磨き始める。彼の身なりについてや靴磨きをする理由なんかを聞きたかったが、彼からは特に何も話さない。昔一度、最寄りの駅前で「靴磨きをするので僕の夢を聞いてください!」という青年に出会ったが、私はそれを断った。理由は単純で、胡散臭かったからだ。どうにも金や宗教やマルチ勧誘の臭いがしたので適当な理由をつけてその場を離れ、後程調べてみたらそれは確かに怪しげな団体が教えこんでいるやり口であった。思い返せば、その青年は綺麗な髪に清潔な服、価値は分からないがおしゃれさんが好んで身につけそうな装飾品などを身にまとっていた。だが目の前にいる少年はこの通りひどい身なりである。それが同情なのか何なのか分からないが、どうにも今日の私はおかしい。普段やらないようなことばかりやってしまう。


「……終わりました。百円ください」


百円だけじゃ一食分にもならないのだが、本当にそんな低単価で良いのだろうか。だからといって無尽蔵に金を出してあげられるほど私にお金は無い。しかしたった百円がこの仕事の価値とは思えないほど、私の革靴は見事に輝きを取り戻していた。余計な言葉なしに百円を差し出そうとすると財布の中に百円玉がちょうど一枚しか入っていないことに気がついた。ここに千円札が入っていたら、私は差し出すだろうか?今日に限っては、なんだか流れに任せて渡してしまいたくなるような気がする。渡せたかもしれなかった残り九百円を何で返そうかと思ったが、私から出てきたのは喉に詰まっていた単純な疑問だった。


「なぜ、こんなことを?」


「僕の頭が悪いからです。ママにも嫌われました。でも、頭が悪くても靴磨きならできるしお金も貰えます。僕は満足です」


放心する私の目の前で少年はいそいそと道具を片付け、椅子と台をコンビニエンスストアの外壁へ寄せた。


「では、これで」


背を向けて歩き出した少年の、踵の潰れた靴がずるりと逃げ出した。少年は焦るでもなく、こんなこと日常茶飯事ですがとばかりに目を向けることも無く足を靴の中に入れ直そうとした。その足には靴下が履かれていたが、ほぼ全体が灰色に変色し、さらには親指が全部見えるほどの大穴が空いていた。


私はなにを思ったのか、先程磨いてもらったばかりの己の靴を脱ぎ少年に差し出した。自分でも何をやっているのかさっぱり理解できない。悪魔になりたくない自分の保身なのか、あるいは見返りを求めた行動なのか、答えはどちらでもなく、煙草に火をつける奥義よりもはるか昔に覚えた行動であった。


少年は大きく見開いた目と口でその驚きを表していたようだが、私はこの行為そのものには特になんとも思わなかった。しかし自身が持っていた最終奥義をなんの前触れもなく、大した理由もなく行ってしまったことにびっくりし、そして恥ずかしく思った。それはちょっとした知人の前で放屁したときや、朝方の人通りが少ない道で縁石に躓いた時のような恥ずかしさ。それを誤魔化すために苦笑いをしてみたり、あるいは何事も無かったかのように振る舞う者が大半だが、私は裸の踵を返して歩き始めた。彼がどう思っていようと関係ない。なぜならそれは私が意識の外で行ってしまった行為であり、そして不可逆的なものだから、もう帰るしかないのだ。恥ずかしがることもなく、当然のように善行をはたらける人間を心から尊敬する。私はそれを人前で行うにはあまりにも経験が浅すぎたようだ。


冬の夜風は異常なほど冷たい。それどころか生足で歩くアスファルトは冷たさ以上に尖った部分が突き刺さることによる痛みが加わっておかしくなりそうだった。時折蹴り飛ばす空き缶や紙くずがこれほど煩わしいとは。もはや恥ずかしさをも通り越して、開き直って堂々と歩いていたが原住民たちは自分よりも文化レベルの低い原人を見つけた時のようにポカンと口を開けていたり笑ったりしていた。だが、少なくとも私は彼らよりも清く、人間らしい行為をしたと思っている。コンビニエンスストアの光すら届かない所へ辿り着いて、どっと疲れと寒さが全身を襲った。


家に到着した。が、煙の晴れた頭は明瞭になるどころかさっぱり機能しなくなってぼんやりしていた。大事な大事なことを知ったような、それで脳がオーバーヒートしているような感覚だ。わけが分からなくなりそうだったので、私は灰皿の前に立ちまたしても無意識のうちに奥義を繰り出した。しかし本日の目的はライターを買いに行くことだったのにそれを達成できず帰ってきたことを、火花を散らした後で思い出した。溜息をつくと黄ばんだ換気扇を思い出した。


いや、換気扇は後だな。あまりにも作業が大規模になってしまう。カバーを外し、プロペラを外し、洗剤とブラシを用意してと、頭も体も使う大変な作業だ。今私が出来ることはもっと簡単で、頭なんて使わなくてもぼうっと手を動かしていれば終わってしまうような作業。


私は汚れでくっついた食器同士をべりりと剥がした。私は建築家でも解体作業員でも花火師でもなく、ただただぼんやり生きていきたいだけの凡夫。でも、今日はなんだか余計なお節介をはたらきたい気分になったんだ。


そうだった、まずは足を洗おう。いくらなんでもこのままはよろしくない。ユニットバスのシャワーで足を少し温め、軽く拭いたあとすぐに遺跡の前に立った。条件反射のように現れる奥義は、いざやることが決まると出てこないものだ。スポンジを手に取り洗剤を付け、皿を擦ると長きに渡り溜め込まれた汚れという汚れが見る見る落ちて、幾年もの歴史をもった遺産はたちまち綺麗な皿に早変わりした。

そうだった、私は人間だったんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ