昭和二〇年八月三日④
何とかここを逃げ出そうと、必死に立ち上がった時だった。
「裕一郎、確かにここに女は来ている。ちょっと待ってろ。おい、さちこ。ちょっとこっちへ来なさい!」
幸忠がそう言って自分の事を呼び付けた。
「さちこ、聞こえないのか? こっちへ出てきなさい。幸継、さちこを連れといで。」
「で、でも・・・。」
「いいから、早くしなさい。」
「・・・うん。」
しばらくして、居間に幸継が現れた。
「おねえちゃん。」
不安そうな顔だった。さちこは幸継に寄り添うように廊下へ出た。怖く手足が震えそうだった。玄関には、こわもての男と、外にはその部下らしい男が二人、そして、こんな時間に何事かと、人だかりも出来ていた。
「裕一郎、この人は加藤さちこさんと言ってな。レイテ沖で戦死された沖津将幸少佐の姪御さんで、東京で学校の先生をしていたが、例の大空襲で家も学校も全部無くなってしまったんだ。それで、身一つで遠縁の家を訪ねてきてくれたんだ。届出をしようにも、空襲で住民台帳は無くなってしまったし、どうしたものか役所に相談に行こうかと思っていたところだ。」
「そうですか。例の空襲で・・・、それは難儀な事でしたなぁ。しかし、その娘が本当に沖津少佐殿の姪御さんと、わかる資料が無いと、こっちとしても困るんですがのぅ。」
「そうは言っても、あの空襲じゃ記録なんて残ってないからなぁ。私から住民台帳に登録してもらえるように頼んでおくから、今夜は遅いし勘弁してもらえんかね。」
「しかしなぁ。」
「それにな裕一郎、私もこんな身体だし、さちこに居てもらえれば、身の回りの世話もしてもらえよう。いずれ幸継も立派にお国の為に戦わなくちゃならんからな。唯も死んで、久しいからなぁ。」
「そうですか。まぁ、中尉さんの言う事だ。まかせましょう。その代わり、届出は早くして下さいよ。本当なら連行して尋問しなきゃならないんですから。」
裕一郎は、ぶつぶつ言いながら部下と共に引き上げていった。
「騒がせて悪かったな。みんな、さちこは東京から来たんだ。東京者でまだ慣れちゃないが、どうかよろしく頼むよ。」
人だかりになっていた近所の人達は、頷きながら家へと戻っていった。
「来たのが裕一郎おじさんで良かったよ。他の特高だったら、せんせい連れて行かれちゃうとこだったね。」
「特高・・・?」
「裕一郎おじさんは、海軍時代の父さんの部下だったんだ。だから今でも頭上がんないのさ。」
幸継はそう言って台所に戻っていった。
「あの、ありがとうございました。」
「別に礼を言われる筋合いは無い。ただ、信用したわけじゃないが、あんたが悪い人とも思えんからな。幸継の暇つぶし相手には良いだろう。深くは聞かんが、ゆっくりしていけばいい。」
幸忠は真顔に戻ってそう言うと、居間の奥へ入っていった。
その日の夜、さちこは用意された布団の中で、薄暗い天井を見上げながら、これからどうしていこうか悩んでいた。ここは昭和二〇年の時代、これからいったいどうしていけばよいのか。元の時代に戻る方法もわかるはずもなく、ただ、今後への不安と、他に脳裏を過ぎるのは、園児達の笑顔と、婚約者の笑顔だった。
「園児達にも、二度と会えないのかな。あの人にも・・・。」
自分の居た時代、残してきた婚約者の事を考えると、さちこの瞳からは止め処も無く涙があふれていた。
どうしてこの時代に紛れ込んでしまったのか、原因もわからない。答えのわからない疑問を繰り返し考えては、涙を流した。
そんな時、ふすまを叩く小さな音と、闇に遠慮したような小さな声が聞こえた。
「せんせい、大丈夫かい?」
「あ、幸継くん?」
ゆっくりと、ふすまが開いた。もっとも、電気はとっくに消していたから、暗くてよく解らなかったが、
「泣いてるの?」
心配そうな幸継の言葉だった。
「だ、大丈夫だよ。ごめんね。故郷思い出して、ちょっと寂しくなっちゃっただけだから。」
さちこはそう言って誤魔化した。幸継にも、まさか自分がタイムスリップしたなんて言えなかった。
幸継は、何の疑いもなく、
「ずっとここにいればいいよ。自分の家だと思ってさ。父さんも、ちょっときつい言い方してたけど、せんせいの事かばってくれたもんな。さっき言ってた沖津少佐ってね。父さんの同級生だったんだって、レイテ沖で戦死しちゃったけど、とっても有名な軍人だったんだってさ。」
そんな話をしてくれた。
「おれ、一人っ子だし、母さん死んでから、ずっと父さんと二人っきりだったから。だから、せんせいが居てくれたら、姉ちゃんが出来たみたいで嬉しいや・・・って、せんせいはせんせいで、目的があって来たんだよね? ずっとは、いられないか・・・。」
幸継は、ちょっと口をつぐんだ。きっと、お母さんがなくなって寂しかったのだろう。なんと言っても、まだ子供なのだ。
「幸継くん。私ね、もし、お父様が許してくださるなら、しばらくここでお世話になるわ。」
「本当!?」
「うん。帰る所は、もう無くなっちゃったから。でも、その代わりおうちのお手伝いはきちんとするね。」
「やった!」
「明日もお友達に会うんでしょう? 今夜は遅いから、もう寝ましょ。」
「うん。明日、せんせいより早く起きて起こしてやるよ。」
幸継はそう言ってふすまを閉めた。
今、自分の置かれている異常な状況を、言葉にすれば簡単だが、さちこはその一言が言えなかった。幸継や幸忠の好意に甘え、しばらくここに身を置く事にしたのも、未来人の自分が、あちこち動き回って、さっきの特高なんかに捕まるよりは、安全で、今後の事も考えやすいと思ったからだ。
ただ、この時代の純粋すぎる人柄に触れ、幸継のそばにいてあげたいと言う気持も芽生えていた。純粋な幸継の瞳を見ていると、寂しさを必死で堪えてやってきたのがわかる。さちこ自身の置かれた異常な状況も考えなくてはならないが、それよりも自分に何ができるかわからないが、目の前にいる子供の笑顔を大切にしたいと、思った。
「・・・そうだ。」
さちこは、ようやくなれた暗闇に目を凝らし、電球をつけた。ほんの少しだけ、室内が明るくなった。部屋の片隅に置いてあった自分のカバンを手繰り寄せると、中から教材として使った布を取り出した。そして、上手く出来るかどうかわからなかったが、慣れた手つきで裁縫を始めた。
続く。
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