平成一七年六月二十日②
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その日の夕方、
「それじゃ園長先生。お先に失礼します。」
さちこはそう言って頭を下げた。園長先生は、残務の為にまだ残るらしい。来年春で定年退職予定の園長先生は、それまでにこなさなくてはならない業務がたくさんあるのだ。他の先生方は、もう帰ってしまっていた。
「帰りは気をつけるのよ。」
「はい。大丈夫です。」
「もうすぐ結婚なんだから、特に注意してね。」
「園長先生は心配性です!」
さちこはそう言って笑って見せた。
「ああ、そうだ。頼まれていた書類用意しておいたわ。」
「ありがとうございます。」
そう、さちこは来月初めに結婚する事が決まっていた。園児達も参加して、さちこの大好きな歌を歌ってくれる事になっているのだ。
受け取った書類は、結婚に伴って、旦那側の会社に提出する書類だった。無くしてはいけないと思い、カバンの中の本に挟んだ。
「さちこ先生。」
園長先生がいつになく真剣な表情で呼びかけた。
「みんなには内緒ですよ。」
そう言って差し出された園長先生の手には、クルスのペンダントが輝いていた。さちこはクルスを手に取ってしげしげと見つめた。きれいではあるが、決して新しくもない。さちこは意味がわからず園長先生の顔を見た。
「このクルスは、私で何代目になるのかしらねぇ。人から人へ、大切だと思った人や、守りたい人、そばにいたいけどいられない人。そんな人から人への想いを込めたクルスなの。私がこのクルスを頂いたのは、もうずっと昔の事。尊敬していた方が亡くなる時に頂いたの。クルスの真ん中に宝石が付いているでしょ?」
さちこがクルスを見直すと、ちょうど中心部に赤い宝石が挟まっていた。
「そのクルスはね。赤、青、緑の三種類があって、三つが集まるとどんな願い事でも叶うと言われているそうよ。まぁ、眉唾な話だけどね。もっとも、他の二つのクルスが本当にあるのかどうかすら、あやしいものだけど。」
「これを、私に?」
「そう、あなたは子供達の為に本当によく頑張ってくれているから、だから、あなたが結婚をするって聞いた時、本当に嬉しかった。これからは、自分が幸せになるように、自分の事にも頑張りなさいね。」
「・・・はい。」
「あなたには本当に幸せになってほしいから、このクルスを渡しておくわ。きっと、さちこ先生を守ってくれるから。」
「でも、園長先生の尊敬されていた方の形見の品じゃないですか。そんなに大切なもの、私には・・・。」
さし返そうとしたクルスを、園長先生は押しとどめた。
「だから、人から人へ、と言ったでしょう? このクルスは、そうやって何度も何度もいろんな人を幸せにする為に巡ってきた。いつか、さちこ先生が、大切だと思った人に、渡してくれればいいわ。」
園長先生は、微笑んではいたものの、少し寂しそうにも見えた。園長先生にクルスを託した尊敬していたと言う人。その人は、園長先生にとって特別な意味で大切な人だったのかもしれない。
帰りの車の中、さちこは胸元で輝くクルスが、ほんのり温かい事に気が付いた。それに、クルスを身に付けてから、なんだかとても優しい気持ちだ。
もともと涼風幼稚園はキリスト教系の幼稚園だ。子供達にも命は尊いものである事を教えている。朝の挨拶前や、給食の前は、毎日必ずお祈りをする。
クルスのペンダントは、そんな幼稚園で働くには、似合いすぎるアイテムかもしれない。
さちこの自宅は、幼稚園から車で二〇分ほどの所にある。今日も一人での夕食だが、結婚後は当然、毎日旦那様と食べるのだ。そんな、当たり前の事実でも、今のさちこには幸せだった。
赤信号で停車した時、さちこは助手席に置かれた分厚い本に手を載せた。『昭和史』と背表紙には書かれている。先日立ち寄った本屋で見かけた書物だ。さちこの婚約者はこの手の難しい書物を好む。厚さは実に電話帳に匹敵するくらいだ。なんとなく喜ぶかと思い、買ってしまったのだ。
「急に渡したら、どんな顔するかな。」
車の中で独り言を呟いた時だった。急に運転席の視界が、一面の白い煙で覆われた。あわてて急ブレーキを踏んだが、視界がゼロの為、自分の車がどの方向を向いているのかすらわからなかった。
そして、煙に飛び込んでからほんの一瞬後だったと思う。さちこは強い衝撃を全身に受けた。声にならない悲鳴を上げる。感覚がおかしくなり、自分が転がっているのか逆さになっているのか、車のシートに座っているのか、外に放り出されたのか、上に上がっているのか下に落ちていくのか、まったくわからなかった。わかるのは、むせ返るような焦げた臭いと、薄れていく意識の感覚だけだった・・・。
(誰か・・・助けて・・・・・・)
さちこの記憶はそこで途絶えた。
続く