昭和二〇年八月六日④
幸継は、先生から渡された『昭和史』を開いた。子供心に、あの様子では、これが今生の別れになる事を理解していた。
先生は、未来から来たと言っていた。およそ信じられる話ではなかったが、その答えは、この『昭和史』にあるような気がしていた。いくつかページをめくり、太平洋戦争について書かれているところに辿り着いた。戦局が良かった最初の頃、ミッドウェー海戦での敗北、戦艦大和の撃沈、そこまでは、それとなく幸忠が話していたのと同じ内容だった。幸継は、より詳細に書いてある『昭和史』を食い入るように読んだ。
さちこは、広島駅を出ると、幸忠のもとへと急いだ。街は警報が解除になった事もあって、普段どおりの朝の様子に戻っていた。こんな、当たり前の光景も、あと十数分の後に無くなってしまう。今の街行く人々の姿を見ていると、それがいかに突然襲ってきたのかがわかる。
(・・・ごめんなさい。私、これで良かったんだよね。)
幸忠の家の前まで戻って来た時、改めて優しかった彼の事を考えると、今度はまた、涙が溢れてきた。死への恐怖よりも、子供達を守った事の、奇妙な満足感と、もう会えぬ婚約者や園児達への切ない想いが複雑に交錯し、さちこは少しの間だけ、泣いた。
しばらくして、さちこは家の戸を開いた。奥から、幸忠が顔を出した。
「さ、さちこさん! いったいどうしたんだね!?」
「幸継くんは、無事に広島を離れました。すみません。母親代わりにはなれませんでした。切符、一緒に生きなさいって、小さな女の子に、あげちゃったんです。」
そこまで言うと、幸忠は察してくれたのか、
「そうか。ご苦労さんでしたね。」
そう、労ってくれた。さちこは居間にあがった。幸忠は、どうやら唯の仏壇に手を合わせていたようだった。
「ようやく、唯の所に謝りにいける。ほったらかしにしてしまった事を、ちゃんと詫びないとな。」
「大丈夫ですよ。これだけ想ってもらえてるんです。奥様、きっと幸せです。女って、そんなもんですよ。」
「そんなもんかね。」
幸忠は笑顔で答えた。が、急に真顔になって、
「さちこさんも、向こうではいい人がいただろうに。」
そう言った。
「来月、と言っても、私が最後にいたのは六月でしたけど・・・。結婚する予定でした。彼は、明るい人で、子供が好きで、歴史が大好きな、面白い人でした。私、きっと、幸せになれたんじゃないかな。」
笑顔で顔を上げたつもりだったが、頬を伝う涙は、止まらなかった。幸忠は、何度も頷きながら立ち上がり、奥の棚から大きなビンを持ってきた。
「そんじょそこらで売っている酒じゃないぞ。海軍司令部から勲章を頂いた時に、当時お世話になっていた艦長から頂いた特上の酒だ。」
そう言って、湯飲みを二つ机に置いて、目一杯まで注いだ。
「それじゃ、さちこさんの新しい門出に乾杯だ。」
「幸忠さん。ちょっと待って下さい。」
さちこは戸棚からもう一つ湯飲みを取り出し、酒を注ぐと仏壇に供えた。
「二人で飲んでしまったら、奥様にやきもちやかれちゃいます。」
そんなさちこを見て、幸忠も申し訳なくなり、涙を流し始めた。いつも、強い父親を演じていた幸忠の、初めて見る涙だった。
「・・・さちこさん。あんたはいい人だな。今度の事だって、黙って逃げれば、三日もあれば助かっただろうに。幸継や、見ず知らずの子供の為に、自分を犠牲にしてまで・・・。申し訳なかった。」
「そんな事、言わないで下さい。私は、ただ、守りたかっただけです。一生懸命に生きているあの子達の事を。」
二人は湯飲みを持ち上げた。
「さちこさんの新しい門出と、立派に任務を果たした遂行祝いに。」
「軍で頑張ってこられた幸忠さんと、これからの幸継くん達に。」
「乾杯!!」
その時、低く、重い機械音が響いてきた。ふと時計を見る。針は、午前八時一四分を刺していた。
「いよいよ来たか。アメリカめ、その愚行を決して忘れるな!!」
爆撃機の重低音に、街が振動した。家が震え、棚から物が転がってきた。さちこは、湧き上がってくる恐怖を懸命に抑えながら、それでも耐え切れなくなると、ゆっくり幸忠に近付き、遠慮がちに身を寄せた。
「大丈夫、きっと、一瞬だから。」
「はい。」
身体がぶるぶる震え出した。時計の針は、午前八時一五分を刺した。広島原爆攻撃まで、あと数秒。
急に、さちこは昨日の夢の事を思い出した。どこともなく、優しい口調で、でも、口答えをさせないかのごとく凛として聞こえた声、最後の聞き取れなかったと思っていた部分を、今、この瞬間に思い出した。
『歴史は変えられない。変えちゃいけない。変えたら、歴史は自分を葬り去るだろう。』
そう言ったのだ。
「それでも、私の出した答えだから!!」
瞬間、窓の外が白く光り、その光は家全体を支配した。そして、考える間もなく、轟音と共に何もかもが時間を止め、影になったり、消えてなくなったり、蒸発したりした。
(参考文献より抜粋)
昭和二〇年八月六日午前八時一五分、ラジオが「敵大型機三機、西条上空を・・・」と放送したところで“ピカッ”という強い閃光が走り、一大爆発音が起きた。
細工町、島外科病院の上空五八〇メートルで炸裂した原子爆弾は、その瞬間、摂氏数百万度の“火の玉”(半径一四〇メートル)となり、強烈な熱線と爆風で人々を殺傷し、街を破壊した。商都広島を代表する繁華街を間近に、爆心地から二キロ以内が全壊・全焼し、4キロ以内の建物が破壊された。
汽車の中、幸継は太平洋戦争のページを熱心に読んでいた。そして、初めて見るきのこ雲の写真のページを開いた瞬間、隣で座って外を眺めていた綾乃が、悲鳴を上げた。
「おにいちゃん!!」
と、同時に、視界が強烈な光で遮られ、思わず目を閉じた。そして、目を開けた時に飛び込んできたのは、それは、たった今開いたページにあるのと全く同じ光景だった。幸継はその先を読んだ。それは、原子爆弾という最新兵器が、広島の町を消し、十万人の命を一瞬で吹き飛ばしてしまった事が書かれていた。
「そんな、そんな・・・。」
幸継は、身体を震わせながら、広島のきのこ雲を見つめていた。
続く。
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