昭和二〇年八月六日①
昭和二〇年八月六日
結局、幸忠は戻らないまま、夜が明けた。さちこは一睡もしないまま待ち続けたが、幸忠本人からも、裕一郎からも、何の連絡もなかった。
ふと、さちこが時計を見ると、午前六時を回っていた。
「あと、二時間・・・。」
時間は差し迫っていた。もうのんびりはしていられない。確か時刻表によれば、広島駅の始発列車は午前七時三六分発だったはずだ。この時代の汽車が三九分でどれだけ広島から離れられるかはわからなかったが、爆心地にいるよりは、少なくとも安全なはずだ。
さちこは、いまだぐっすり眠っている幸継を起こした。
「幸継くん、起きて。」
「もう少し・・・。」
幸継は寝返りうって寝ぼけた。
「幸継くん。起きなさい。」
「う~ん・・・。あ、おはようさちこせんせい。どうしたの?」
「出掛けるから、仕度してね。」
「出掛けるって、何処へ?」
「・・・後で話すから。今は時間がないの、急いで。」
幸継は目を擦りながらようやく起き上がった。着替えるように促し、さちこは荷物を玄関先まで運んだ。
「あ、そうだ。」
さちこは慌てて居間に戻り、仏壇から唯の位牌と、額に入れられた写真を取り出して包んだ。
「ん?」
額を外したとたん、何枚かの写真が床に散らばった。唯の写真の後ろ、おそらく生まれてすぐの幸継であろう赤ん坊を抱えた唯の写真。そして、幸忠と幸継で撮った記念写真。幸忠が、一緒にしておいたのだろう。
写真は、幸継のカバンに、位牌は幸忠のカバンにしまった。
「せんせい。着替えたよ。」
「じゃあ、行くよ。荷物を持ってね。」
「こんなに!? 何処に行くのさ?」
「いいから。今はグズグズ出来ないの、お願いだから急いで。」
自然と、焦りから口調が強くなってしまう。冷静に、冷静に。そう言い聞かせても、鼓動が早く収まらないのがわかった。さちこ自身、こんなに現実に死と直面しているのは初めてなのだ。それも、戦時中で明日をも知れぬ国ではなく、平和にどっぷり、浸かりに浸かった平成時代のさちこが、だ。焦らないわけがなかった。
「急いで広島駅に!」
「う、うん。」
初めて見るさちこの気迫に、幸継は気圧されて従うしかなかった。
家の前に出て、さちこは動きが止まった。
「どちらへ、お出掛けですか?」
裕一郎が部下二人を連れて張っていたのだ。
「どこでも、いいでしょう?」
「そうはいかないんですよ。言ったでしょ、国民が一丸となって本土決戦を迎えなくてはならんのに、腰抜けどもは故郷を捨てて雲隠れしちまう。そういう輩が、実に多いんですよねぇ。」
「私達は、川長中尉の指示でここを離れるんです。聞きたい事があるんなら、川長中尉に直接話して下さい。」
「その、川長中尉殿はどちらにいらっしゃるんですか?」
じりじりと、間合いを詰められている気がした。このままでは、捕まってしまう。今日は、一人じゃないとあってか、強気の裕一郎だった。
「黙ってちゃわかりませんよ。中尉はどちらに?」
「それは・・・。」
答えが出てこない。広島駅と言ってしまえばよかったのかもしれなかったが、そこに幸忠がいるという保証はないのだ。状況の飲み込めていない幸継は、ただただ、隣で裕一郎をにらみつけていた。
「仕方ありませんな。少し、話を伺わせてもらいましょうか。」
裕一郎が指示し、他の二人がさちこの両脇をつかんだ。
「ちょっと、やめてよ!」
「うるさい! 抵抗すると反逆罪で逮捕するぞ!!」
その時になって、幸継が二人の特高につかみ掛かった。何とかさちこを守ろうとするが、力づくで引き剥がされてしまう。
「中尉に遠慮していたが、最初から貴様の事は怪しいと踏んでいたんだ。今日はじっくり取り調べてやるから覚悟しておけ!」
近くに待たせていた車に、無理やり押し込もうとされた。屈強な二人の男に捕まれては、華奢なさちこがどう抗おうとも、振りほどけるものではない。
(時間が、時間がないのに!)
さちこは無償に腹が立つのと、されるがままに車に押し込められようとする事に涙が出てきた。
「せんせい!」
幸継が起き上がりながら叫んだ。その瞬間だった。
乾いた爆発音が夏の空に響き渡った。
続く
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