昭和二〇年八月五日③
家までの帰り道、幸継はずっと黙っていた。さちこの様子がおかしい事に気が付いているんだろう。
「せんせい、なんかあったの?」
家の玄関先について、やっと幸継が口を開いた。
「うん。ちょっとね・・・。」
何を、どう説明していいのかわからなかった。自分がタイムスリップしてきた事も、明日には広島の町が消えてなくなってしまう事も、どうやったら説明出来るのか、さちこにはわからなかった。
あたりはすっかり暗くなっていた。部屋に入り、時計を見ると、すでに午後六時過ぎだった。あと、一四時間・・・。さちこの中で、無情なカウントダウンが始まっていた。
「とりあえずさ。せんせい、朝からほとんど食べてないだろ? 夕飯作るからゆっくりしててよ。お風呂も沸かしてくるからさ。」
幸継の言葉も、さちこの耳には届いていなかった。
幸継が夕食の準備をしている間、さちこは仏壇の前に立っていた。笑顔の白黒写真が大きく引き伸ばして飾ってあった。とても、優しそうな女性だった。
(幸継くんのお母さん。確か、唯さんって言ってたっけ。)
さちこは線香に火を付け、仏壇に供えた。手を合わせ、そっと、お祈りする。
(どうか、幸継くんを助けて下さい・・・。)
切ない、必死の願いだった。
「せんせい、出来たよ。」
幸継は、配膳しながら、懸命に仏壇に向かって祈るさちこの姿を見た。
「せんせい?」
「ああ、ありがとう。また任せちゃったね。」
「いいよ。それよりきれいな人だろ? おれの母さん。もっとも、あんまり憶えてないんだけどね。」
「幸継くんが小さいときに亡くなったんだよね。」
「うん。小さい頃って言っても、ホントに小さかったから、写真見てもいまいちピンとこないんだよね。まだ、一歳くらいだったはずだからさ。」
「そうだったんだ。」
「出産も大変だったらしいけど、結核にかかってすぐ死んじゃったんだって。」
「じゃあ、お父様も大変だったね。」
「うん。戦争が始まってからは、さっきの鳴沢のばあちゃん所で暮らしてたからさ。」
「そうだったの?」
「だって、あそこは母さんの実家だから。」
びっくりだった。老婆は幸継の実の祖母だったのだ。だからこそ、早くに母を亡くしてしまった幸継の事を気にかけ、見ず知らずの自分に孫の事をくれぐれもと願ったのだ。
さちこの中に、一つの考えが浮かんだ。うまくいけば、少なくとも幸継だけは助けられるかもしれない。
「幸継くん。ごめん、おばあさんの所に忘れ物しちゃったから取ってくるね。」
さちこはそう言うと、昭和史の入ったバックごと、取り上げると、急いで家を飛び出した。
「せんせい、夕食は?」
「ごめん! 後で食べる!!」
と言う声すら、どんどん遠ざかっていった。
「もう! また逃げられた。」
事情のわからない幸継は、頬っぺたをこれでもかと言うくらいに大きくさせた。
さちこは鳴沢屋敷に駆け込んだ。事情を話して、幸継を何とか汽車に乗せたい。でも、この時代の人間ではないさちこには、お金も無ければ、この時代の汽車の乗り方すらわからなかった。
庭を駆け抜け、玄関に差し掛かり、老婆を呼び出そうとした時だった。
「お願いします!」
と、言う声が聞こえた。その声の主は、幸忠だった。
「幸忠さん。」
「あ、さちこさん・・・。」
さちこに気が付くと、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに目をそらし、老婆に再び頭を下げる。
「こんな事、お願い出来るのはあんたしかいないんだ。」
「そうは言われてもねぇ、理由もなく金を貸せって言われても、幸継の為なら出しますけど、それにしたって、わけを聞きたいねぇ。」
「幸忠さん。いったいどういう事です?」
さちこが訊ねると、幸忠は、搾り出すような低い声で話し始めた。
「幸継を、広島から脱出させるんだ。」
「えっ?」
「もう、時間がないだろう。広島を出るんだったら、今夜か、明日の始発しかないんだ。」
「幸忠さん・・・。」
幸忠は必死になって頭を下げている。さちこは、普段は表に出さない幸忠のわが子に対する思いの強さを見た。
「おばあ様、私からもお願いします。信じてもらえないかもしれないけど、全部、話しますから。」
さちこは、そう言って『昭和史』を取り出した。信じてもらえるわけがない。そうわかっていても、話さずに入られなかった。
続く
ここまでお読みいただきありがとうございます。
\(^o^)/
作者激励のために、
ぜひいいねとブックマークと高評価での応援をよろしくお願いいたします!!




