昭和二〇年八月五日②
橋を渡り、『広島中央放送局』と書かれた建物の前に来た。ここでラジオを使い原爆の事を伝えられたら。と思ったが、どうすればよいか解らず、断念した。
しばらく当てもなく歩いていると、見覚えのある建物が目に入ってきた。『広島産業奨励会館』と書かれたプレートがあったが、さちこの記憶にその名前はなかった。
しかし、建物全体を見ていると、その建物が、広島原爆で一番目にしてきた建物、後に原爆ドームと名前の付けられる建物である事がわかった。もともとは、こんなに立派で綺麗な建物だったのだ。さちこが知っているこの建物は、もっと、見るも無残な姿かたちに変わってしまっていたが。
どうあがいたところで、明日にはさちこの記憶どおりの建物に変貌してしまうかと思うと、切なかった。
次に、福屋百貨店、広島城跡公園を抜けた所で、さちこは喉が渇いて立ち止まった。空気の澱んだ平成より澄んでいるとはいえ、今は八月、真夏なのだ。城跡公園の一角にある木陰に腰を下ろし、汗を拭った。時折吹いてくる風が心地良かった。でも、明日のこの時間には、この風も、蝉の鳴き声も、真夏の日差しも奪われるのだ。
「どうしたら、いいんだろう。」
さちこは俯いてしまった。地面では、アリ達が列を成して一生懸命に働いていた。広島から出なければ、助かる道は無い。でも、どうやって、どうしたらみんなが、幸継が助かるのか。途方に暮れて目を閉じると、さちこの耳に微かにだが、リズム良く金属のぶつかる音が聞こえてきた。それに気が付くと、今度は全神経を集中させてその音を探した。
「こっちだ。」
さちこは立ち上がり、音の主を探すべく走り出した。辺りにいた人が、うなだれていたさちこが突然走り出した事に驚き、見ていた。当の本人はそんな事は気が付きもせず、無我夢中だったが。
もと来た道を戻り、橋をいくつか越え、全力で駆け抜けた先には、その音の主があった。その建物には大きな字で『山陽本線・広島駅』と書かれていた。
(鉄道なら、ここから脱出出来るかもしれない。)
さちこは建物の中に入り、時刻表を見た。始発は午前七時三六分、これに乗れば、あるいは助かる事が出来るかもしれない。
後は、幸忠に相談し、何とかしてもらうしかない。上手くいけば、今日中に脱出だって可能かもしれない。さちこは踵を返し、幸継のもとへと急いだ。もう昼過ぎもいいところだ。幸忠に連絡を取ってもらおう。
迷いながらも家に戻ると、ふくれっ面の幸継が出迎えてくれた。
「どこ言ってたんだよせんせい。朝ごはんが昼ごはんになっちゃったじゃないか。」
「ごめんね。幸継くん、悪いんだけど、お父さんに連絡を取ってもらっていいかな?」
「帰って来てすぐそれかよ。もう、しょうがないなぁ。」
「ごめんね。でも、急いで連絡取らなくちゃいけないの。」
幸継はぶつぶつ言いながら、近所の大屋敷へ案内してくれた。そこは、地元の名家とも言うべき立派な敷地で、幸継は背筋を伸ばして声をかけた。
「こんにちは!」
しばらくすると老婆がゆっくり顔を出してきた。
「おや、幸継じゃないか。どうしたね?」
「電話をお借りしたいんです。父さんに連絡したい事があって。」
「そうかいそうかい。こっちにおいで。」
幸継と案内されて、玄関先にある大きな電話機に通された。この時代、電話は大きな屋敷にしかなく、必要な時は近所の人間で借りていた。もちろん、携帯電話なんかもあるわけもなく、さちこにとっては初めて体験する事だった。公衆電話はあったものの、相次ぐ空襲により通信設備が破壊され、もともと数も少なかっただけに機能していなかった。余談だが、公衆電話が全国に飛躍的に普及したのは、戦後まもなく、昭和二五年以降の事になる。
幸継が軍司令部に連絡を入れ、相手先とやり取りをしていた。本来、国家の機密を扱う軍司令部である。そこで働いているとはいえ、身内が連絡などなかなかするものではないだろう。幸継は緊急性を必死に伝えていた為、時間が掛かった。
しばらくすると、落胆したように受話器を置いた。
「父さん、今日は特殊な任務だとかで司令部には出ていないんだって。造船所の方とかに行ってるんじゃないかな。とにかく、帰ってくるまで連絡取れないや。」
「そう。」
「なんか緊急だったんだろ。どうする?」
「ううん。じゃあ、帰ってくるのを待つしかないね。」
さちこはそう言って肩を落とした。幸忠が帰ってくる事を待って、相談し、明日の始発電車に賭けるしかない。でも、そうなると、広島市民全体の事はどうしようもなくなってしまう。
「さあさ、お茶を入れたからゆっくりしてお行き。なんだか慌ててるみたいだけど、気ばかり焦ったって、なんも解決なんかしないよ。」
さっきの老婆が、お茶を片手に話しかけてきた。
「幸継、お芋蒸かしたから食べてお行き、お嬢さんも、さあ。」
「でも、ばあちゃんも身体悪いんだから食べなきゃ。なのにいつもおれや父さんにおすそ分けだって言って、たくさん野菜とか貰ってんのに・・・。」
「幸継、あたしはもう追い先短いばばあだけどね。あんた達みたいに若い人は、戦時中も戦後も踏ん張ってもらわないといかんのだから、気にしなくていいんだよ。」
「でも。」
「あんたがあたしくらいの歳になったら。おんなじ事をしてくれればいいんだよ。お嬢さんもね。東京から来たんじゃ大変だったねぇ。戦争はとにかく大勢の人が死ぬ。敵も味方も、みーんな死んじまう。」
老婆は、さちこの手を取ってそう言った。
「あんたも、なんかの縁だと思って、幸継の事をよろしく頼むよ。この子の母親は、夫と幼い息子を残してあっさり死んでしまった。幸継の事を、助けてやって下さい。」
「はい。私でよければ。」
「ありがとう。ありがとう。」
老婆はうっすら涙を浮かべて、何度も何度も礼を述べた。そんな老婆の姿を見て、
(やっぱり、私が何とかしなくちゃ。)
と、改めて決意を固めた。と、同時に、なりふり構っていられない事も悟った。
続く。
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