昭和二〇年八月五日①
昭和二〇年八月五日
さちこは、さわやかに風の吹く草原を走っていた。建物一つ無い、どこまでも無限かと思うくらいに広い広い草原だった。空を見上げれば、雲ひとつない晴天で、青く広い空が、とても近くに感じられた。
そこで、さちこは必死に、探していた。それが誰なのか、物なのか、わからなかったが、何かを探している事だけは理解出来ていた。
「どうすればいいの?」
立ち止まって、誰ともなくさちこは呟いた。
あたりには誰もいないどころか人の気配すら感じない。あくまで、広がっている空間に、問いかけた。
「このままじゃ、広島の人達はみんな死んでしまう! 今、助けられるのは私だけなの!」
探している主は、答えてくれない。返ってくるのは、相変わらず心地良いさわやかな風だけだった。
もどかしくなり、さちこはさらに続けた。
「結果がわかっているのに、手をこまねいて見ているだけなんて出来ない。このまま、このまま何も出来ないの? そんなのはつらすぎる。助けたいの。ねぇ、答えてよ!!」
さちこがそう叫んだ時だった。
すると、どこともなく、優しい口調で、でも、口答えをさせないかのごとく凛とした声が聞こえた。
『歴史は変えられない。変えちゃいけない。変えたら、歴史は自分を・・・』
最後の方は良く聞き取れなかった。何を言ったのか聞き返そうとした瞬間、目の前の上空で閃光が走った。
さちこは目がくらみ、堪らず顔を伏せた。一瞬、本当に短い時間だと思ったが、何も起きなかったように感じ、ゆっくり目を開けた。
上空には大きな火球が見えた。
それは見えたかと思うと、次第に小さくなり、一定の大きさに縮んだその一瞬間の後に、強烈な爆音と同時に炸裂した。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げたさちこに向かって、ゆっくりと、でも確実に炎の壁が迫ってきた。逃げなくてはならない事を理解しつつ、さちこは炎を見つめたまま動けなかった。
そして、熱風と衝撃によって、さちこの姿はかき消された。次にさちこが見た物は、ありとあらゆる物が燃え尽くされ、そこに生きていた生物は消滅し、かろうじて生き残ったものも重傷を負い、明日をも知れぬ状態になっていく、凄惨な光景だった。
さちこは自分に実態の無い事に気が付いたが、不思議と気にならなかった。身体の感覚が無く、ふわふわ浮いているような気がした。
その光景は酷いものだった。元々なんであったか知る由も無いものが粉々になって辺り中に散乱し、建物は倒壊、もしくは残った物でも総てが半倒れの状態で、衝撃の凄まじさを物語っていた。いったい、どんなエネルギーが加わればこんな状態になるものか。
「これが現実なんだ・・・。これが、昭和二〇年八月六日の広島なんだ。」
初めて見る光景に、さちこの瞳からは、涙があふれて止まらなかった。犠牲になった者の中には、幼稚園の園児ほどの、小さな小さな命もたくさんいたのだ。
玄関の戸の閉まる音に、さちこは目が覚めた。今の光景は、総て夢だったらしい。しかし、明日には起きる光景なのだ。
家を出て行ったのはどうやら幸忠らしい、杖をつきながらの足音が、次第に遠くなっていった。これから司令部へ出勤なのだろう。
部屋の中の時計を見ると、まだ午前五時半過ぎだった。この時間では、幸継もまだ夢の中だろう。さちこは身を起こし、ふすまを開けた。すると足元に、幸忠に渡した『昭和史』が置かれていた。さちこはそれを拾い上げた。相変わらずずっしりと重い。
「あれ?」
本には封筒が挟まっていた。あの、原爆投下のページだ。さちこは封筒の中から便箋を取り出した。そこには達筆な文字で、
【おれは、信じない。】
そう、一言書いてあった。
しばらく立ち尽くした後、さちこは仕方ないと考えた。自分がもしも幸忠と同じ立場に置かれたら、見ず知らずの人間に、自分は未来から来て、明日この町が壊滅する。あなたはそれに巻き込まれて死ぬと言っているのだ。気分が良いわけないし、信じられるものでもなかった。仮に『昭和史』と言う書物があっても、いくらでも偽造しようとすれば出来る事だ。
それに、夢の中で聞こえた声は、『歴史を変えてはならない。』といっていた。確かに、宇宙の法、と言う物で考えるなら、それは正論かもしれない。ここで、多くの人が助かったら、その後の歴史は大きく変わってしまうかもしれない。そしたら、さちこの帰るべき未来も、変わってしまうかもしれないのだ。しかし・・・、
「せんせい、おはよう。」
目を擦りながら幸継が起きてきた。そのあどけない姿を見た時、たった今まで考えてきた事よりも、さちこの人間として、大人として当たり前の感情が勝ってしまった。
(この子を、死なせられない。)
さちこは、無邪気そうに寝ぼけた顔をしている幸継がいとおしくなり、そっと抱き寄せた。
「せんせい、どうしたの?」
「なんでもないの。おはよう、幸継くん。」
この子達を守る為に、いったい、どうしたら良いんだろう。
「すぐ朝ごはん作るからさ。ちょっと待っててよ。」
幸継は台所に走っていった。さちこは、幸継に悟られないように昭和史を開いた。広島に原爆が投下されたのは、昭和二〇年八月六日午前八時一五分、さちこは時計を見た。
「八月五日午前七時四八分・・・。」
約、二四時間でこの町は消滅する。
「幸継くん、お父さんのお仕事先に連絡って出来る?」
「海軍司令部に? 鳴沢さんちなら電話を借りてかけられるけど、どうかしたの?」
「連絡を取りたいの、何とかなるかな?」
「鳴沢さん、畑仕事で戻ってくるのは昼過ぎだから、それからでよければ大丈夫だよ。」
「わかった。」
さちこは返事をし、そして考えた。この家は爆心地から一.五キロしか離れていない。資料によれば爆心地から約二キロ圏内は、熱線と爆風で壊滅すると書いている。防空壕に入った所で、無傷で助かる可能性は低いだろう。
「幸継くん、ちょっと出掛けてくるね!」
「へ!? あ、朝ごはんは??」
「帰ってから食べる!」
さちこは言うが早いか外へ飛び出した。アテなんか無かった。ただ、じっとはしていられなかった。自分がどうするべきなのか、どうしたら良いのかなんてわからなかった。自己満足なだけかもしれなかった。
続く
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