昭和二〇年八月四日④
その日の夜、さちこは布団から天井を見上げ、どうすればよいのか必死に考えていた。昭和二〇年八月六日、正確には午前八時一五分。米軍機から投下された一つの原子爆弾が、二十万人の市民ごとこの町を一瞬にして消し去ってしまう。
さちこは『昭和史』を取り出して、八月六日を開いた。幸継ははじめ、ここは広島市京橋だと言っていた。被爆地図を見ると、爆心地の細工町からは約一,五キロしか離れていない。資料によれば、原爆が投下されて一瞬で家屋が壊滅し、人々が熱風と爆風で消滅した二キロ圏内に入っている。
(このまま、何も出来ないの?)
さちこの中で、幸継の明るい笑顔が浮かんできた。何とか、幸継達を広島から脱出させ、少しでも被害を小さく出来ないだろうか。
朝になったら、幸忠に相談してみようと思った時だった。
「さちこさん、ちょっといいかね。」
幸忠が声をかけてきた。時計の針は、いつの間にか一二時近くになっていた。
「は、はい。」
突然の事に声が上ずってしまった。ふすまが開けられ、幸忠が杖を突きながら入ってきた。実にゆっくりした足取りで部屋に入り、まっすぐにさちこを見つめた。
この時代、空襲を警戒し、夜の電気は電球に巻かれた布を通して真下にだけ伝わる。薄明かりに覗く幸忠の表情は、さちこの知らない世界の、軍人の顔をしていた。
「さちこさん。あんたは、幸継の事を良く見てやってくれている。この二日間、母親のいない幸継は、とても元気だった。あんたのおかげだと思っているし感謝もしている。しかし・・・。」
幸忠はそこまで言うと、腰元の棒のような物に手を掛けた。
「だからこそ聞かなくてはならない。あんたは、いったい何者なんだ。」
「幸忠さん・・・。」
「日中、すまないとは思ったが、あんたの荷物を調べさせてもらった。あんたが見ていたその本に、日本は戦争で負けると書いてあった。」
「こ、これは。」
「そして、不思議な事に、その本にはその後の未来の出来事まで詳細に書かれていた。それに、この広島で何が起きるのかも。答えてくれさちこさん。あんた、いったい何者なんだ? 米軍の、スパイなのか? それとも・・・日本人なのか?」
幸忠は、棒に掛けていた手に力を入れた。さちこはその時に気が付いたが、それは棒ではなく、軍刀だった。答え次第では、斬り捨てると言う事なんだろう。
さちこの背中に、実に嫌な汗が流れた。張り詰めた空気、空間。さちこはまっすぐ幸忠を見つめたまま、言葉を選ぶように口を開いた。
「・・・わ、私は、アメリカのスパイじゃありません。」
「では、あんたはいったい、何者なんだ。」
「私は・・・私は、今から六〇年後の未来からこの時代に来たんです。」
「そんなでまかせが信じられるか!?」
「本当です! 自分でも、どうしてこの時代に来たのか解らないけど、でも、来ちゃったんです!」
闇の中に、沈黙が訪れた。さちこにしてみても、どれだけ無茶苦茶な事を言っているか解っていた。しかし、他に説明のしようが無かった。
どれだけの時間が過ぎただろうか。幸忠はおもむろに雨戸を開け、縁側に腰掛けた。開いた窓から、ひんやりと心地よい空気がさちこを撫でた。
「・・・それに書いてあった通り、日本は、アメリカに負けるんだな。」
「はい。今月一五日に、ポツダム宣言を受諾して、日本は太平洋戦争に負けます。」
「広島は・・・。広島と長崎は、原子爆弾とやらで壊滅するのか。」
さちこは答えられなかった。それは、幸忠達の死をも宣告する事だからだ。
「そうか・・・。さちこさん、あんたのいた時代の事を話してくれないか。日本は、どうなっていくんだ?」
さちこは、二つの原子爆弾によって、日本が終戦に傾く事、終戦後、アメリカ兵による殺戮などなかった事、戦後、日本復興の為に国民が一丸となって働き、高度成長期を経て、世界でもトップクラスの経済大国になった事を話した。
「でも、成功をおさめる為に競争がおき、他人を追いやり、勝ち組負け組みなんて言葉が出るくらい、人々の繋がりは希薄になり、親が子を、子が親を、兄弟を、平気で殺してしまうような時代になってしまいました。私のいた時代は確かに平和で、食べたい時に食べ、戦争なんか誰も知らないような国になってます。でも、でもその分、人々の心は荒んでしまったかもしれない。ここに来て、幸継くんやそのお友達を見ていて、そう思いました。」
最後の方は、さちこ自身、何を話しているのかわからなくなってしまった。なぜか悲しくなってきて、涙が止まらなかった。
「・・・でも、あんたみたいな人もいるって事だ。」
「・・・?」
「いや、なんでもない。さちこさん、もう一度その本を貸してくれんかね。」
幸忠は立ち上がると、さちこから『昭和史』を受け取った。
「昭和の次は平成か。平和に、成る、か。」
そう言うと、部屋を出て行った。
それから、さちこはなんだか寝る事が出来なくなってしまった。幸忠が信じてくれたからといって、状況が変わるわけではなかった。明後日の朝には、予定通り広島に原爆は投下され、この町は壊滅してしまう。
(ううん。幸忠さんは海軍司令部の人。明日一日しかないけど、何とか出来るかもしれない。少しでも多くの人を、何とか広島から脱出させられないかな。)
そんな事を考えているうちに、さちこは夢の世界に入ってしまっていた。
続く。
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