第六話 待乳山聖天さまのおさがりの大根
夕食を終えてのんびりとお茶をしている時間。
大根をモチーフにしたレリーフがいろんなところに飾られた神様が祀られた場所があるという話を、重成くんに聞いた。
「大根?」
「供物として大根を奉納するみたいなんですよね。モチーフに巾着と大根が使われていてちょっと面白いなぁと思って。うちの地元の方ではお稲荷さんにお参りに行くと油揚げを奉納したりはするんですけど」
ふむ、と私はあごに手を当てて考え込む。稲荷がお狐さんを形取るように、そういうものをモチーフにする場所もあるということだろうか?
「んん? お稲荷さんにそんなに頻繁にお参りに行くの?」
「家が商売やってて、商売の神様でもあるから月に二回は必ず行ってましたね」
少し遠く、何かを眩しく思うように考え込む重成くんは、ちょっと私の知らない顔をしている。男の人の顔だな、これは。何かあったのかねぇ、地元で。
「それで、大体人力車の一番短いコースでギリギリ着けるか着けないかのところにあるので、わりかし人気なんですよ。願いごとを叶えてくれるってので」
「願いごと」
「本当の本気の願いごとなら、必ず。ただし、どのような形で叶うかは分からないそうですけど」
一気にオカルトが入ってきた気がしますけども?
「何て名前のところ?」
「待乳山聖天さんです」
聖天、聖天さん。ちょうど台所のテーブルの上に置いていたノートパソコンを起動させると、濃い緑に囲まれた朱塗りの建物の写真が目に入る。
なんだか、厳かな雰囲気が写真からでも伝わってくるような場所だ。
「サイトがあるんですね。ああ、この写真。確かにこんな場所ですよ」
「行ってみたいなぁ。あ、そうだ。ちょうど私明日休みだし、重成くんバイトだったよね? ご指名で乗せてもらうのって出来るの?」
わくわくした気持ちで問いかけると、重成くんはすごく驚いた顔をして、それからものすごく神妙な顔をする。
「人力車ってわりとしますけど、価格知ってます?」
「知ってるよー。ちょいちょいパンフレット貰ったことあるもの。1時間くらいで1万3千円でしょ? せっかくだから1時間くらいのんびり浅草一周してもいいね」
「……でもそのお金を福恵さんに使わせるのはちょっと……」
うーん、と煮え切らない感じの重成くんに、私はちょっと考え込んでそれから提案する。
「そしたら、明日の朝、少し早めに家を出て徒歩でいっしょにお参りに行ってみよっか。朝ご飯前に散歩するのもいいんじゃない?」
私が重成くんのためにお金を使うことに対して、彼はちょっと及び腰だ。まぁ、男のプライドもあるよね。なのでここは折衷案を出してみようと思う。なんだかどうしても、行ってみたくなっちゃったんだもの。
「すいません……」
「重成くんが謝ることじゃないよ。私が無理言ってごめんね。でもいつか乗せてね」
そう続けて言うと、重成くんは観念したように笑ってうなずいたのだった。
朝の浅草は人が少ない。
観光地にありがちなのかもしれないけど、賑やかしいのも好きだけれど静かなのもわりと好き。二律背反。
「こっちですよ」
観音裏とも呼ばれるこのあたりは、住宅も多い。その路地を抜けて東へ。隅田川の方へと歩いていくとスカイツリーと昇り始めた太陽が見えた。
「眩しいねぇ。日差しも暑くなってきた」
「あっという間に夏が来ますね」
ちら、と重成くんを横目に見る。こんな風にいっしょに出かけてくれるのも、あとどれくらいなんだろう。お金が貯まりましたー! なんて言って、さっさと居なくなるような人ではないとここ一か月同じ家に住んで分かってはきたけど、少しだけその時を思うと寂しくなる。
「ここですね」
鬱蒼と樹々が生い茂った場所が現れた。緑が濃くて、サイトで見た写真を思い出す。
入口の横にひっそりと池波正太郎生誕地碑がある。浅草の生まれとは知っていたけど、こんなところにあるんだ。
「行きましょうか。あ、階段危ないんで」
そう言って手が差し出された。私はちょっとだけ、ほんのちょこっとだけ躊躇して、それからその手をしっかりとつかむ。階段はそんなに長くなかったけれど、この時間が少しだけ長く続けばいいのに、とも思った。
「朝早くからやってるんだね。あ、本当に大根売ってる。せっかくだから買ってお供えしようかな」
「いいと思いますよ。じゃあ俺も」
寺務所でふたりで大根を買って、本堂へ向かう。左手には別の建物があって、お正月とかに神楽舞が行われる神楽殿なのだと重成くんが教えてくれた。
「なんか」
「はい」
「ここだけ空気が違うね」
敷地に入った途端、空気が一変したのを感じていた。すごく静かで清涼。浅草にあって、この雰囲気はすごく独特だ。
「俺もそう思います。ここは本当に、そういう場所なんでしょうね。昔から」
聞けば浅草寺が出来るより前、推古天皇の時代あたりからここにあるのだという。江戸時代の浮世絵にもその姿が描かれているというのだから驚きだ。
本堂の中に履物を脱いであがると、奥には大根が積まれていた。私と重成くんも大根をお供えして、お賽銭を入れ手順がかかれた灰をつまんで身を清め、お祈りする。
(浅草に住んでいるものです。いつもありがとうございます。どうか、これからも重成くんと美味しいものがいっしょに楽しめますように)
ちょっとお願いにしてはあれかなーと思いながら、丁寧にお辞儀をして祈願する。
「何をお願いしました?」
無邪気に重成くんが聞いてくるので、私は照れながら内緒と答えた。
本堂から出て右にビニール袋に入れられた何かが並べられていて、何だろうと近づくと半分に切られた大根だった。
「おさがりですね」
「へー。ひとつ貰っていこうか。今日はこれで一品作るよ。夜を楽しみにしててね」
「はい! 本当にありがとうございます!」
「声が大きいって」
しーっと人差し指を口に当てて怒ると、重成くんはすいませんと笑った。本当にこんな時間がもっともっと続くといいのになぁ。
それから帰宅して朝ご飯を食べてから重成くんを送り出した後、私はのんびりと大根の仕込みを始めた。
「お米のとぎ汁があればいいんだけど、なかなかあれは取っておかないからずぼら流で」
ひとつかみお米を入れたお湯で大根を煮る。とれたて新鮮なものなら必要ないらしいけど、こうすると灰汁が抜けるのと同時に甘みが増すそうだ。
竹串で刺してすっと通るようになれば一段階目はクリア。お湯を捨てて水で洗い、白だしと水適量を入れたお鍋でじっくりと煮る。煮物は冷めていく過程で味が染み込むので、あとは冷蔵庫に入れておしまい。
「あとは今日は何にしようかな」
野菜庫を見るとトウモロコシが入っていた。そういえばそんな時期だ。実家の方はわりと田舎なので、トウモロコシ畑が広がっている風景を思い出す。
「トウモロコシのかき揚げにしようかな。お塩で食べてもいいし」
夕飯のメニューが決まれば、あとは気持ちが楽だ。それから家の中を掃除して、久しぶりにじっくりとお風呂も磨き上げる。気付けばわりと汗だくになっていたので、きれいになったお風呂で朝風呂ならぬ昼シャワーを浴びて、さっぱりして横になったらいつの間にか寝てしまっていた。
のんびりとした一日を過ごすのも悪くない。
「さて、夕飯の仕度しなくちゃね」
帰りが待ち遠しい誰かのために、ご飯を作るようになるなんて、少し前まで考えていなかった。
その変化が嬉しいようなこそばゆいような、なんともいえない感じだなぁと思いながら、私は小さくつぶやく。
「はやく帰っておいで」
待っているのは嫌いではない。でもいつか、さよならが来るまでに。たくさん思い出を作っておこうと思った日だった。
地域密着型小説。
池波正太郎の生家は待乳山聖天さまの南にあったそうですが、
関東大震災で燃えてしまったそうです。