コンビニ
記憶は曖昧模糊としていた。どうして俺はここにいるのか。RAWSONと書かれた囚人服のようなエプロンを着て、俺は目の前の男が意味不明な咆哮をあげているのをただ見つめていた。心拍数は上昇し、手はプルプルと小刻みに振動する。溢れんばかりのノルアドレナリンが全身を駆け巡る。
俺は人生を短時間のうちに振り返る。子供の頃から冴えなかった。親は厳しく、俺が少しでも楽しそうにしていると怒鳴り散らした。小学校に入るとイジメられた。中学では誰もが自分の罪を忘れるように俺のことを無視した。勉強も運動もできずなんの取り柄もない。高校を卒業してすぐ、俺は家を出て深夜のコンビニでバイトをして生活している。こんな生活も持たないだろう。俺は近い将来自殺するんだろうな、とぼんやり考えていた。
俺はこの男にここまで怒鳴られるほど悪いことをしたのだろうか?きっとしていない。釣り銭を渡し間違えた程度のことだろう。この男のストレス解消のために俺はこうやって怒鳴られている。この男も案外俺と似ているのかもしれない。
「なにボンヤリしてんだこのやろう!」
俺は確かに今ボンヤリしている。ここがどこで、俺が誰で、男が何なのかさえよくわからないのだから。俺が唯一分かるのはこのまま生きていても仕方がないということだ。俺も、この男も。
俺はレジの横にある収納スペースからハサミを取り出した。前々からこのハサミは切っ先が尖りすぎていて危ないと思っていた。思い切り突けば人の皮膚と肉を切り裂くことくらいはできるだろうと、思っていた。男は「ころしてみろよ」とか言っているらしい。しかし俺にはその言葉がどんな意味なのかよくわからなかった。俺は右手でハサミを掴み、切っ先を男の弛んだ喉元に向けて突き出した。
男の反射神経が動き、男は頭を右に振った。切っ先は喉仏を避け、男の首の皮膚を切り裂いた。
「やりやがったな」
男は後退る。こちらの様子をうかがいながら、スキを見て逃げるつもりだ。さっきはこの男が俺と似ていると思ったが、生に固執しているところを見ると、俺とは少し違うらしい。俺はレジスターの前から離れて男に近づく。
「ちかづくな!」
男は叫ぶ。しかしそこに怒気は含まれていない。恐怖が含まれている。みるみるうちに男の顔は赤くなり、遠目で見ても分かるほど汗をかいていた。首筋にしたたる汗と血液。俺はさらに男に近づく。
「やめろ!」
俺がさらに一歩近づくと男は体を回転させて、走る体勢にうつろうとする。しかし焦りのあまりか、脚がこんがらがり、男はツヤツヤした白いフロアーに倒れてしまった。俺はうつ伏せになった男の背中に飛びかかった。そして男の背中にハサミの切っ先を突き立てた。
ハサミは左の肩甲骨の筋肉に突き刺さった。男は叫び声をあげた。
「助けてえ!」
しかし夜中のコンビニエンスストアには俺しかいなかった。俺はハサミをそのまま奥まで突き刺してゆき、肩甲骨の下の筋肉を抉った。その後、グリグリと肉の中で鋼を動かしたあと、引き抜いた。道草を食ってしまった。俺の目的はこの男の命を消すことである。痛めつけるのも少し気持ちが良かったが、本当はそんなことをしたいわけではない。
俺はハサミを開いて、刃を男の首筋に当てた。そしてそのままハサミを閉じた。皮と頸動脈を切る感覚は硬い焼き肉を噛み切る感覚に似ていた。肉の間に埋まったハサミをブチブチと引き抜くと、想像していた以上の勢いで血が吹き出した。ブシュ、ブシュと心臓の鼓動に合わせて、吹き出す血。棚に置いてある食パンの袋が血に塗れてゆく。廃棄は確定だろう。
男は大動脈を切られてもしばらくうめき声をあげていたが、両手首の動脈とふとももの大腿動脈を切ったら、すぐにうめき声をあげなくなった。そして心臓が止まっていることも確認した。白く清潔だった床にはドス黒い血の湖ができていた。
俺は立ち上がり、鏡で自らの姿を確認した。エプロンも血まみれでRAWSONの文字はほとんど読めなくなっていた。しょうがない。洗濯すれば落ちるだろう。
午前4時半、バイトが終わるまであと1時間半もある。早く帰って寝たい。俺はあくびをした。