第一部 第二章 第一節 ある学園生徒の一風景
目覚まし時計の電子音が五月蝿い。
相馬柊一は布団の中でもぞもぞと体を動かし、覚醒と眠気の狭間にある意識のままに目覚ましを黙らせる。
―――五分後、再び電子音が響く。
苦悶の呻きと共に、再び目覚ましを止めようと手を伸ばす。
「……うん?」
だが、手を伸ばしても先ほどまでそこにあったはずの目覚ましに届かない。変だとは思いつつも、半分は眠ったままの頭はそれ以上の思考を拒絶する。その間にも、電子音は大きくなる一方だ。
何とか止めようと体ごと手を伸ばした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「っう……」
ベッドから落ちたのだと自覚して、ようやく意識が覚醒してくる。目覚まし時計は、鳴り止んでいた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「……おはよう、楓」
柊一が少しだけ恨みがましい視線を向ける先には、目覚ましを手に持った妹―――相馬楓がいた。
すでに妹自慢の長い髪は可愛らしいリボンでポニーテールにまとめられており、陰陽学園の制服も着ていた。
今日は楓が朝食当番なので、制服の上にエプロンを着ていた。
「当番じゃない日のお兄ちゃんって、いつも寝起きが悪いよね」不思議そうに、楓は言った。「当番の日とか、朝練のある日とかは、ちゃんと起きられるのに」
「知るかよ、そんなこと」
溜息と共に、柊一は応じた。
「んで楓。悪いんだが……」
柊一はベッドから転落したままの姿勢。そして楓はブレザーにスカートという制服姿である。つまり……
「っ!? お兄ちゃんのエッチ!」
一歩分跳び退り、スカートの裾を抑えて赤面する楓。
「お前が無防備に俺の前に立つからだろ?」
小さく溜息をついて、柊一は億劫そうに立ち上がった。
楓によって開け放たれたままの扉の向こうから、朝食の匂いが漂ってきた。今日は妹が朝食当番の日なのだ。
気を取り直した楓が窓際に寄り、ガラガラと雨戸を開け始めた。途端に眩しい朝日が部屋の中に差し込み、柊一は思わず目を細めた。
「ほらほら、早くパジャマ脱いで。洗濯が出来なんだから。早く準備してくれないと楓が遅刻しちゃうよ」
言うだけ言うと、楓は台所の方へ向かっていった。その後ろ姿をぼんやりと眺めて、妹もだいぶ家事に慣れてきたな、と柊一は思った。
朝食は、ごはんに味噌汁、オムレツにウィンナー、それに味付け海苔と和洋折衷の献立だった。
オムレツはプレーン。バターの利かせ具合と焼き加減が絶妙で、口の中でとろけるような半熟がたまらない。
「うん、美味いぞ」
柊一は率直な感想を述べる。
えへへへへ、と楓は照れたような笑みを浮かべる。料理の師ともいえる兄に褒められて嬉しいのだろう。
父は三年前に他界し、母も仕事で滅多に家に帰らない相馬家の食卓を囲むのは、基本的には彼ら兄妹だけである。楓が陰陽学園に入学し、生活にもある程度慣れてきた一年半ほど前までは、食事の用意を始めとする家事全般は柊一の仕事であった。
当番制になったのは、ここ一年程のことだ。
最初の半年は柊一が楓につきっきりであったが、その後の三ヶ月で徐々に一人で料理が出来るようになり、ここ九ヶ月でその腕は順調に上達を続けていた。
ただし、朝食の用意と弁当の用意を同時にこなせる程ではない。そのため、今日は二人とも学食だ。
「じゃあ今度は、だし巻き卵にも挑戦してみようかな」
卵料理の中でも上級者向けの料理の名を、楓は口にした。
「おう、今度教えてやるよ」
味噌汁に口を付けながら、柊一が応じた。赤味噌仕立ての濃い目の味付けで、ごはんと共に食べたくなる。
汁かけご飯は妹から「お行儀が悪い」と文句を言われてしまうことが常なので、柊一は味噌汁とご飯を交互に口に入れた。
リビングのテレビからは、朝のニュースが流れている。ここ連日のテレビで話題になっている集団食中毒事件、それが陰陽庁発表によると霊力の集団奪取事件だと判明したらしい。不審な魔法陣を発見した場合、ただちに通報するようにニュース・キャスターが呼びかけていた。
「嫌な事件だな。楓も、気を付けろよ」
自分よりも霊的才能が豊かな妹を心配して、柊一は言う。霊力の奪取している相手にとって、楓のような人間は絶好の標的なのだ。父親は常々そういうことを心配していた。
「でも、学園は先生たちがいるから安全だと思うな」
そんな兄の心中を知らず、楓は楽観的に返した。
「学園だけでなく、行きとか帰り道とかもあるだろ?」
「それって交通事故とか、誘拐とかに気を付けるのと同じじゃない?」
「まあ、そうだけどなあ」
正直、見習い魔術師程度の技量しかない彼らにとって、事件に巻き込まれたからといって何か対応出来るわけではない。
「でもまあ、変な奴に声をかけられても付いていかないとか、そういうのはあるだろ?」
「だから、それって誘拐と変わらないじゃん」
人懐っこそうに見えて、楓は意外と身持ちが固い。母親曰く、楓には巫女としての素質があるらしく、無意識に相手の正邪を判断しているとのことだ。
彼女が直観的に「付き合ってはならない相手」と判断すれば、必ず一定の距離感を以って接する。だからこそ、今まで楓は友人関係での揉めごとに巻き込まれたことがほとんどない。
兄としても、悪い友人や男子が楓に寄り付かないので、一安心してはいる。だけれどもやはり、兄という生物の性か、妹の心配をしてしまうのだ。
すでにニュースは別の話題に移っていた。
オーストラリアで行われる日英豪合同軍事演習のため、空母〈瑞鶴〉を中心とする空母打撃群が呉軍港を出港したらしい。
出港する艦隊の様子を映し出した映像には、軍港に停泊する戦艦〈大和〉の姿もあった。太平洋戦争で活躍し、現在なおも現役であり続ける世界でも数少ない戦艦の一隻であった。
◆ ◆ ◆
高等部校舎の大講堂には、多数の生徒が集まっていた。
階段状に机が並べられているこの教室は、一般的な大学の講堂とほぼ同じ造りになっている。
そして、多くの生徒から見下ろされる位置にある壇上には、部屋の構造以前の段階で生徒に見下ろされる身長の女講師が立っていた。
「さて、お前たちは一年の時に『魔術基礎Ⅰ』を履修していたな」
遠野沙夜はそう言って講堂の生徒たちを見回した。
彼女は大学部を中心に講義を受け持ちつつ、高等部でも週二回、教鞭をとることがある。高等部二年の「魔術基礎Ⅱ」、三年の「魔術基礎Ⅲ」がそれである。
「であるならば、これから私のする質問にも答えられるはずだ。すなわち、魔術とは何か?」
彼女は、一人の生徒を指名する。その生徒は立ち上がって、答えた。
「はい、魔術とは自身の霊力……西洋魔術では魔力と呼称していますが……と霊子を反応させて、変化を生じさせる技術、学問の総称です」
「ふむ。なんとも教科書的回答だな」
不満足そうに、回答した生徒に着席を命じる。
「さて、今、『霊力と霊子を反応』とあったが、具体的にはどのような条件の下で反応が起こるのか?」
さらに別の生徒が指名される。
「精神・意思の動きによって、霊力と霊子を反応させます。それが、物理的手段によって世界の理に働きかける科学との一番の違いであると考えます」
「魔術と科学の差別化、か。これまた凡俗の魔術師どもが言いそうなことではあるな」沙夜はふんと鼻を鳴らした。「しかし、結局のところ世界の理に変化を生じさせようとしているのだから、本質的な面で魔術と科学に明確な違いを定義することは可能なのか? 例えば、精神や意思のことをいうのであれば、心理学や精神分析学は、魔術的学問といえるのか、それとも科学的学問といえるのか?」
指名されることを恐れたのか、多くの生徒が壇上の沙夜から視線を逸らした。
「どうかな、相馬柊一?」
いきなり指名された柊一は、小さく呻いた。
「えー、その、今の話を聞いていると、手段だけを見れば違いますが、結果だけを見れば科学も魔術も本質的な違いはないように感じます」
「質問の答えではなく、単なる感想だな」
ばっさりと沙夜は切り捨てたが、その口調は少しだけ満足そうだった。
「まあ、今の感想は的を射たものだ。所詮、食事を温めるのにガスコンロの火を使うか電子レンジを使うかの違いでしかないのが、魔術と科学だ。無駄に魔術を極めた連中には、それが判らない」
ふん、と沙夜は鼻を鳴らした。
「まあ、実名を挙げるのは避けるが、数代前の学園長が、陰陽学園における理系科目は全廃すべきと主張したことがある。魔術師に科学的知識を与えるのは、害にしかならないというというのがその理由だそうだ。しかし、私に言わせれば馬鹿げた提案の一言だな」
容赦のない発言に、行動全体が苦笑に包まれる。
歯に衣着せぬ発言が、沙夜の講義の特徴だった。口調の所為で傲岸不遜な印象を与えてしまうが、反発を覚える生徒は意外に少ない。むしろ、新鮮な視点で魔術を解説する沙夜の授業は、若い学生たちにとっては人気講義の一つだった。それでも根強い魔術至上主義者がいるにはいるが、沙夜と議論して勝てる生徒がいないため、そうした者たちは基本的に黙ったままだ。
「世の中には、魔術優位主義、あるいは逆に科学万能主義を唱える人間どもがいる。しかし、特に西洋魔術に顕著だが、アイザック・ニュートンらを祖とする近代科学は、元はといえば自然界の影響関係を利用した自然魔術から派生したものだ。中国の錬丹術も、化学の原形といえる」
教卓上の講義用ノートに一瞬、目を走らせた沙夜はさらに続ける。
「一部の生徒の中は、魔術は精神力さえあればどうにでもなると安直に考えてただ鍛錬を繰り返すだけで満足する奴らもいるらしいな。確かに魔術の発動条件に精神力は必要だが、それだけで十分ではない。気力で解決すると思っている奴らは、今すぐこんな学校など辞めて、山に籠って滝行でも何でもすればいい」
一瞬、講堂に漣のような笑いが起こる。
「で、あるにも関わらず、このような学校が設立されたということは、魔術にも精神力だけではどうにもならない何かしらの法則性・規則性が存在するからだ。その点は、やはり科学と似ているな。さて、その法則性・規則性についてだが……」
そこまで言ったところで、時計の針が授業終了時間を示し、スピーカーからチャイムが流れる。
「ふむ。ではこの話の続きは次回としよう」
起立、礼の号令と共に、この日の高等部における沙夜の授業は終わりを告げた。
◆ ◆ ◆
昼の高等部学食は、生徒たちでごった返していた。
魔術師としての素質がある人間の育成を目的とした学校であるため一般的な高校よりも生徒数が少ないとはいえ、三学年合計三〇〇名近い生徒がいるのだ。
その全員が一斉に学食を利用するわけではないにせよ、それなりの人数が昼休みには学食を利用する。人によっては、教職員たちも利用するために多少は広い大学部の食堂に行く生徒もいるが、どこの学食も昼休みに混雑することに変わりはない。
「あんた、今日は弁当じゃないのね」
「アリスもか?」
柊一とアリスは、お互いに食券機の前に並びながらそんな会話をしていた。
「まあ、昨日寝る前にパン焼き機のタイマーかけるの忘れててね」落胆したようにアリスは事情を説明した。「前にも言ったかもしれないけど、正直、日本のパンって嫌いなのよね。柔らかすぎだし、もちもちしてるし」
「米食文化の国だからな。パンもそれに食感を合わせているんだろ」
「ヨーロッパのパンは、もうちょっとサックリとした食感なのよ。特に焼きたては」
アリスがお金を食券機に投入しながら、嘆くように言う。柊一も、隣の食券機で食券を購入した。
配膳の列に並び、料理を受け取ると手早く空いている席を確保した。
「それよりあんた、朝のニュースは見た? 別に新聞でもいいけど」
「ああ、“魂食い”のニュースか?」
ちらりと、柊一はアリスのトレーを見た。唐揚げ丼と隣り合わせで、カレーライスがその上に乗っていた。
「ええ、それ」
視線に気付いたアリスに、軽く睨まれる。華奢な見た目に反して、アリスは大食いなのだ。
柊一は彼女の料理から目を逸らすと、自分の頼んだ生姜焼き定食に箸をつける。
日本のパンには文句を言うのに、米はいいのかと突っ込む人もいるだろうが、そこは二年の付き合いがある柊一。アリスは日本のパンの食感を嫌っているだけで、米自体は嫌っていないのだ。パンとごはんは同じく主食であるが、まったく別のものだと割り切っているのである。
「魔力量の多い人は注意したほうがいいでしょうね」イギリス人でありながら器用に箸を使って食事をしながら、アリスが言った。「あんたの妹なんかも、ちょっと危ないかもしれないわよ」
「……」
自分の心配事と同じことを言われ、柊一は思わず渋面を作った。
「まあ、シスコンのあんたのことだから、もうあの子には気を付けるように言ってあるんでしょうけれど」
己の予想を、当然の事実であるかのように言うアリス。実際、事実なので柊一も特に何も言わなかった。「シスコン」という部分については、少し言いたいこともあるのだが。
「楓のこと、気にかけてくれてありがとな」
ただ、この友人が純粋に妹のことを心配してくれていることは嬉しかった。
「まっ、気にかけるくらいしか出来ないけどね」
アリスは肩をすくめるという、実にイギリス人らしい仕草をした。
「精々頑張んなさい、“お兄ちゃん”」
最後は深刻さを吹き飛ばすように、いささか悪戯っぽい笑みと共にそう言った。
西洋人の日本のパンに対する感想は、私が研究活動をする中で外国の方々と交流した際、「日本で暮らしていて困ったこと」としてお話下さった実話です。
さて、本作における魔術の設定について、沙夜の口から語ってもらいました。とはいえ、独自性に欠ける設定であることは自覚しております。ある意味、手垢のついた設定ともいえるかもしれません。
いろいろと御意見はあるでしょうが、本作は魔術そのものを描写することが目的ではありませんから、魔術についてはなるべく簡易な設定で物語を進めていきたいと思っております。
なお、戦艦〈大和〉を登場させたのは、私の趣味です。
この世界では、戦艦〈三笠〉と共に〈長門〉は記念艦として横須賀にあります。二部以降では、そうした「大日本帝国が存在しているからこその景色」というのをもっと描写していきたいです。