幕間 第一次世界大戦からワシントン体制へ
1 第一次世界大戦と魔術の復権
第一次世界大戦のきっかけとなったのは、一発の銃声であった。
一九一四年六月二八日、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻がボスニア州都サラエボでセルビア人青年暗殺されると、オーストリアはドイツの支援の下に七月二八日、セルビアに宣戦を布告した。
そして、セルビアを支援するロシア帝国が総動員令を発令すると、ドイツは「シュリーフェン・プラン」に従ってベルギー、フランスへと侵攻、イギリスは国際法違反を理由に対独宣戦布告をし、他の列強諸国も協商関係、同盟関係に基づいて宣戦布告をしたため、ここに第一次世界大戦が勃発したのである。
ドイツの二正面作戦「シュリーフェン・プラン」は九月のマルヌ会戦での敗北により瓦解し、ここに西部戦線は膠着、一進一退の塹壕戦が展開されることとなる。
一方の東部戦線ではタンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍を包囲殲滅するものの、戦術的勝利に留まり、またオーストリア軍のガリツィアでの敗北もあり、戦争の決着を付けるには至らなかった。
「落葉の季節には家に帰れる」、「クリスマスは家で迎えられる」と言われた「短期決戦の幻想」はここに崩れ去り、大戦は国家総力戦という戦争の新たな様相を見せるようになった。
総力戦とは、前線の将兵だけでなく、銃後の市民にまで戦争の影響が及ぶ戦争形式、工業力、経済力、科学技術、思想、文化までもを戦争遂行のために利用する戦争形式のことである。
そして、そうした戦争形式に移行していく中で、それまでヨーロッパ社会の中で「非科学的」とされてきた魔術までもが、戦争に利用されることになる。
最初に着目された魔術は、塹壕突破のための魔術障壁であった。魔術は毒ガスと共に塹壕突破のための兵器として運用が始まったのである。
大戦において魔術が初めて組織的に利用されたのは、十五年四月の第二次イープルの戦いにおけるドイツ軍であるとされている。同時に、この第二次イープルの戦いは西部戦線において毒ガスが使用された初めての例であった。
ドイツ軍はこれによってフランス軍陣地を占領することに成功したが、同時にそれは戦争における毒ガス、魔術の有用性を連合軍側に知らしめる結果となった。
以後、魔術は両軍が対抗策を講じるに従って、術式の大規模化、それに伴う魔術師の将兵(大戦中、各国で「魔導兵」という兵科が創設された)の大量動員、各地の龍脈の枯渇、荒廃を招くことになる。
特に大戦中は、塹壕突破のための魔術障壁、砲弾不足による大規模爆裂術式の使用が頻繁に見られ、これによって以後、長く続く欧州の霊的荒廃の原因を作ることとなった。
大戦中、魔導兵が最も活躍したといわれるのが、ルーマニア攻防戦であった。ドイツ第九軍のファルケンハイン将軍は魔導兵を含む各種兵科を機動的に運用し、短期間でルーマニア軍を殲滅、首都ブカレストを陥落させることに成功している。
2 日本の参戦と陰陽局の創設
日本は第一次世界大戦の勃発を、「日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ天祐」(元老:井上馨)と捉える者がいる一方で、山縣有朋などは参戦に慎重な姿勢であった。
しかし、第二次大隈重信内閣の外相であった加藤高明は参戦を強く主張し、日本は一九十四年八月二十三日、対独参戦を果たすことになる。
青島を始めとするドイツ租借地や太平洋のドイツ領南洋諸島の攻略を成功させる一方で、日本海軍は同盟国イギリスからの要請により、金剛型巡洋戦艦四隻を基幹とする遣欧艦隊、船団護衛を担当する第二特務艦隊を欧州に派遣した。英独艦隊決戦の場となったユトランド沖海戦にも、四隻の金剛型は参加している。
また、フランス、ロシアから三個軍団の派兵を要請されたこともあり、閑院宮載仁陸軍大将(参謀長は青島攻略を指揮した神尾光臣中将)を総司令官とする欧州軍を編成、西部戦線に派遣している。
対外的には第一次世界大戦に深く関与していく日本であったが、国内では元老筆頭の山縣有朋と外相・加藤高明との対立が深刻化していた。加藤よりもよほど国家間のパワー・バランスの関係に理解のある山縣は対中問題を憂慮しており、従来の対中政策を改めて、イギリスの後援を受ける袁世凱を日本も支援することで、満蒙権益の保護を図ろうとしていた。
こうして山縣は政敵であった政友会総裁・原敬と手を組み、大隈内閣に圧力をかけることで加藤高明を更迭させることに成功した。後任外相には、一時大隈が兼任した後、石井菊次郎が就任している。
加藤外相は十四年末に駐華公使に対して、中国大陸での権益拡大を図るための対華要求についての訓令を発していたが、彼の更迭によってこれが日本政府の正式な外交要求として中華民国側に伝えられることはなかった。
二十一ヶ条にわたる要求の内、政治・財政・軍事顧問に日本人の採用を求めた第五号は中国だけでなく列強諸国、特にアメリカの反発を呼び起こすことが必須な内容であったため、加藤の更迭によってこれが阻止されたことは、山縣・加藤間の政争がもたらした思わぬ幸運であった。ただし、山縣も満蒙権益の維持は必要と考えており、関東州の租借期限延長や満鉄の経営期限の延長は、占領した山東半島を中国に返還する対価として袁世凱政権に要求された。
この山東半島を放棄する形で満蒙権益を確保すようとする対華要求は、特に日本陸軍において強い反対論が存在していたが、筆頭元老であると共に陸軍の最長老ともいえる山縣の存在により国内的には大きな政治問題とはならなかった。
問題となったのは、中国の門戸開放を掲げるアメリカとの関係であった。
確かに加藤の原案通りに二十一ヶ条の要求を中国側に通知した場合に比べ、アメリカ側の反発は小さくて済んだといえる。しかし、それでも満蒙権益の維持・拡大を目指したこの対華要求は、アメリカを刺激するに十分なものだったのである。
袁世凱政権は山東半島の返還の対価として日本の満蒙権益の期限延長要求を受け入れたが、アメリカは不承認通告をなすにいたる。
この中国問題をめぐる日米対立は、一九一七年、寺内正毅内閣において石井菊次郎とランシング米国務長官との間に「石井=ランシング協定」が結ばれたことによって一応の決着が付けられた。
さて、山縣の大隈内閣への不信は、この内閣の存続中継続することになる。本来であれば参戦に慎重な姿勢を示していた彼が、欧州への大規模派兵に最終的に賛成したのは、欧米との協調路線を重視する一方で、大隈内閣の支持率低下を狙ったものだとされる。
大隈内閣は大衆人気に支えられて成立している内閣であり、日本から遠い欧州への大規模派兵は国民の内閣への反発を呼ぶだろうと考えたのである。
しかし、選挙戦術に長ける大隈は、大衆の反独感情を煽ることで、国民に派兵を納得させることに成功した。三国干渉に始まるドイツの東洋政策を過剰に宣伝し、あたかもドイツが戦争に勝利すれば日清日露戦争で得た領土や権益が失われるがごとく、国民に説明したのである。
また、欧州軍総司令に閑院宮載仁親王という皇族軍人を選んだのも、派遣部隊の将兵の士気を維持するためであったとされる。
こうして総力戦という新しい戦争形態を実地で経験することになった日本は、次の戦争に備えるために総力戦体制の構築に一種異様ともいえる力を注いでいくこととなる。
一九一八年五月、内閣の下に軍需局と陰陽局が設置されたのは、平時から総力戦に備えた制度を整えようとする動きの一環であった。
そのため、この時設置された陰陽局は、明治維新によって廃止された陰陽寮との歴史的連続性のない組織であった。天文・暦の編纂を管轄する陰陽寮に比し、陰陽局は国内における魔術・呪術者を管轄する機関であったのである。
3 ワシントン体制と日米対立
第一次世界大戦はドイツなど同盟国側の敗北で終了したが、同時にそれは欧州における多くの王朝国家の終焉を意味してもいた。
一九一七年のロシア革命によってロマノフ朝は倒れ、ドイツのホーエンツォレルン朝、オーストリアのハプスブルク朝、トルコのオスマン朝も第一次大戦の終結と前後して崩壊した。
この内、ロマノフ朝のみは日本の特務諜報機関「G機関」などによる救出作戦によって、幽閉先のエカテリンブルクから東方へ脱出、ウラジオストックにて王朝の再興を宣言したが、残りの王朝は他国への亡命こそ果たしたものの、王朝の再興は果たせなかった。
そして、戦後秩序の構築はパリ講和会議に始まったが、ドイツにとって苛酷なヴェルサイユ条約はその後、ヒトラーの台頭を生み出す原因の一つとなった。
ウィルソンの提案による国際連盟も、アメリカの不参加、制裁力の不十分さ、大国主義などによって、次第にその機能を失っていくことになる。
そうした中で、大国間に一時的な平和をもたらしたのは、一九二一年から二二年にかけて開かれたワシントン会議であった。
この会議では、特に日米間で熾烈化していた建艦競争に歯止めをかけてその対立を一時的にせよ和らげ、さらに中国における主権尊重、門戸開放、機会均等を定めた九ヶ国条約によってアジア・太平洋地域に新しい国際秩序を確立させた。
ワシントン海軍軍縮条約では、英・米・日の主力艦保有比率を五:五:三に定められ、今後十年間主力艦を建造しないことが決められた。日本海軍の一部には対米七割の比率を主張して条約に反対する勢力があったが、その筆頭と目されていた海軍主席随員の加藤寛治が全権である加藤友三郎側に協力的であったため、大きな問題とはならなかった。
これは加藤寛治が反米主義者であったものの駐英経験もあったことなどで親英的であったこと、日英同盟が維持されるのであればアメリカ海軍は大西洋、太平洋両洋に艦隊を配置しなければならないため、実質的な比率は二.五:三になることなどが理由とされる。
この時期、日米間では建艦競争による対立が存在していたが、同時に英米間にも戦時中に行った借款問題によって対立が存在していたのだ。
日本は霊的に荒廃したイギリスを初め欧州各国に対して積極的に陰陽局の人員を派遣してその霊的復興に協力(実態は復興協力の名を借りた霊災の実態調査)する一方、アメリカは借款の取り立てを優先して欧州諸国の反発を買った。アメリカとしてはドイツの戦時賠償を放棄することでドイツの反米感情を抑制する一方、借款の利子によって利益を得るつもりであったのだ。しかし、戦後の疲弊した英、仏などに借款を返済する余力はなく、返済のためにはドイツに対して強硬な賠償金取り立てを行わなければならない事態となった。
また、中国の門戸開放問題がワシントン会議によって表面化していたこともあり、英国としてはその権益の維持のために、同じく中国大陸に権益を有する同盟国日本との関係を強化する必要に迫られていたのだ。
このため、ワシントン会議において太平洋の現状維持を約した四ヶ国条約によってアメリカは日英同盟を解消させるつもりであったが、四ヶ国条約と日英同盟は並行して存在していくこととなった。
こうした中、ボリシェヴィキ政権の赤軍とロマノフ朝の白軍との間に続いていたロシアでの内戦は、日本など列強の介入もあり、一九二二年に休戦協定が結ばれた。これによってレナ川・バイカル湖以西にはソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、東方にはロシア帝国が再建されることとなった。
これは、その後の日英同盟にとって重要な出来事であった。何故ならば、第一次世界大戦中に日露間で結ばれた第四次日露協約では、東アジアでの両国の権益が侵された時には共同して対処することを定めていたからである。
「東アジア」という言葉の適用範囲は、満洲や蒙古はもとより中国全土に及んでおり、ここに中国市場を巡る日英露対米という経済対立の構図が出来上がることになったのである。
特に国土の大部分をソ連に奪われたロシアにとって、満洲の農産物は国家の存続にとって必要不可欠なものとなっていた。領土となったシベリア地方の大半は凍土か山脈地帯であり、大規模な農業生産に適さない地形だったのである。
こうして、第一次世界大戦の終結から時を経ずして、新たな対立の火種はくすぶり始めたのであった。