第二部 第一章 第五節 魔術師からの贈り物
ゴトン、という鈍い音がして自販機から飲料が落ちた。
それを相馬柊一は引き出し、カシュっと中の窒素が抜ける音と共にプルタブを開く。
「今日もお疲れ様」
親しさ故の気を遣わない口調で、アリスがひょいと柊一の利用した自販機の前に現われる。彼女も小銭を自販機に入れ、ちょっと迷ってから炭酸飲料のボタンを押した。
「おう、お疲れ」
缶に口を付けながら柊一は言った。
二人とも部活を終えたばかりで、まだ制服に着替えていない。柊一もアリスも剣道部に所属しているので、白と紺の道着姿だった。
金髪碧眼の少女が道着姿なのは、柊一も始めは違和感を覚えていたが、今では特に何とも思わなくなっている。
「ところであんた、紅茶って家で飲んだりする?」
自らも飲料に口を付けつつ、アリスが尋ねた。
「唐突だな。どうしたんだ?」
「いやね。イングランドの実家から国際便で紅茶が届いたんだけど、ちょっと量が多いから日本でお世話になってる人たちに配ったんだけど、まだ余ってるから」
「それって、それなりに本格的だったりするのか?」
「まあ、少なくともティーバックに茶葉が入った安物じゃないわね」
暗に日本の紅茶を見下したような言い方に、柊一は内心で笑いを漏らす。
畳化していると揶揄されることもあるアリスだが、やはり根はイギリス人(この呼び方をされると彼女は不愉快になるが)なのだろう。貴族階級出身ということもあり、紅茶へのこだわりはそれなりにあるということだ。
「……そうだな、折角だから貰っておくよ」
アリスの厚意を無碍にするのも悪いと思った柊一はそう答えた。ちゃんとした紅茶の淹れ方はインターネットで調べればいいだろう。
「……あんた、もう少し警戒心が必要ね」
「いきなり何だよ?」
安堵と呆れの混じった声と共に半眼で睨まれた柊一は、思わず眉を寄せた。
「私は魔術師よ。それが余所の魔術師に贈り物をするなんて、普通は警戒されて当然なのに」そうは言いつつも、アリスの声には喜色が混じっていた。「まあ、あんたのそういうところが気に入っているんだけどね」
「俺は貶されてんのか、褒められてんのか?」
「どっちも、よ」
皮肉っぽく、アリスは片頬を上げる笑みを見せる。
そのあけすけな物言いはいつものことなので、柊一も特に何を思うでもない。魔術師っていうのはそんなものか、と思う程度である。
彼女が遠野先生の授業中にも言った通り、この学園は“祓魔官”を養成する場所であり“魔術師”を要請する場所ではない。だから、柊一は自分の中にアリスの言うような伝統的な魔術観というものが希薄なのだ。
母方の家系はそれなりに長く陰陽道に関わっていたらしいが、柊一も妹の楓も、両親から魔術を絶対視するような魔術観を教えられた覚えはない。
「これは善意からの忠告だけど、世の中にはガチガチに伝統的魔術観に凝り固まった連中もいるから、多少は“祓魔官”ではなく“魔術師”という存在についての知識も必要よ。日本にもいるでしょ、そういう連中? 二・二六事件に加担した魔術師とかはその典型だもの」
「了解。意識はするようにするよ。でも、紅茶は貰っておく」
「少しは警戒してくれてもいいわよ」
「お前が傷付きそうだから止めておく」
「……何だか馬鹿にされてる気がするわね」
むくれたようにアリスは口を尖らせる。柊一は意趣返しとばかりに皮肉な笑みを作った。
「いやだってお前って、口調はどこか刺々しいのに、繊細なところがあるからな」
「……うるっさいわね、このシスコン」
怒りと羞恥の入り交じった声で、アリスは罵倒する。ついでに軽く蹴りを入れられた。
「シスコンは余計だろ?」
とはいえ、いつもの揶揄なので、柊一は軽く流しておく。
「アリスは魔術師がどうの、って散々いう割りには、貴族思考な奴だからさ。そういう心配はしてないってだけだ」
「何、お高くとまっているっていいたいの?」
どこか粘着質な声と共に、じっとりとした少女の視線が柊一に注がれる。
「意外に根に持つな、お前」わざとらしく辟易とした態度で柊一は応じた。「お前の場合、どっちかっていうと“高貴なる者の義務”に忠実な方だろ? 俺とお前が親しくなった切っ掛けも、結局はそれだし」
高等部一年が始まると同時にイギリスから留学してきたアリス。
一学期の実技であった疑似霊災の修祓訓練授業。班ごとに分かれてのその授業で、とある班が修祓に失敗した時のことだった。担当教員から他班の修祓には手出し無用と言われていたにも関わらず、同期生たちの狼狽ぶりを見ていられなかったアリスと柊一はその班の手助けをしてしまったのだ。
もちろん、修祓に失敗することも含めての実戦形式の実技だったため、二人は減点を喰らってしまったが、少なくとも二人の親交は深まることになった。
「あんたの方は、お人好しっていうか、お節介というか、『ああ、こういうところにもシスコンの影響が出ているんだな』って後から思ったけど」
「俺の評価がいちいち辛辣ですね、アリスさん」
容赦ない言葉に、流石に柊一も苦笑する。
「事実でしょうに」
やれやれとばかりにアリスは肩をすくめた。そして缶の中身を一気に飲み干すと、空き缶を自販機脇のゴミ箱に投入する。
「んじゃ、紅茶渡すから、着替えたら昇降口で待ってて頂戴」
そう言って、アリスはひらひらと手を振って女子更衣室の方へ消えていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
都内某所。
二〇〇〇年の昔、パレスチナの地で教えを広めた者の姿を象った像の前に跪いたシスター・コレットは、手を組んで主への祈りを捧げていた。
「熱心なことだね、シスター・コレット」
「……アルフォンソ神父様」
礼拝堂の様子を見に来たらしい黒いカソックを来た神父が背後から声をかけた。
「私は今夜の襲撃の指揮を執るため、地下室に潜っている。君は負傷者が出た際の対応を頼む」
「はい、神父様」
「我らの上に主の恩寵があらんことを」
「主の恩寵があらんことを」
夜を迎えて薄暗くひんやりとした空気の漂う礼拝堂は二人の聖職者はそう言葉を交わし合った。
アルフォンソ神父の気配が地下へと消えた後、年若い修道女は再び像の前に跪いた。
「……」
手を組んで一心不乱に祈る姿は、礼拝堂内の静謐さも相俟って、一つの絵画のようですらある。
だが、シスター・コレットの内心は静かに祈りを捧げる外見とはまったく異なっていた。
何故、彼らは力を振るいたがるのでしょうか?
自らが所属する西欧教会、その中でも異端狩りの実働部隊である異端討滅機関に対して、彼女は不満に近い疑問を抱いていた。
失われた教皇様の権威を取り戻す。我ら西欧教会の威信を今一度、世界に轟かせる。
それは、自分たち信徒の当然に目指すべきものだ。彼らの理念は判る。
だが。だが。
それでも彼女は思うのだ。
「剣を取る者は、剣によって滅びる」と聖書にも書いてあるではないか。
力技など、主の御心に反するものだ。
剣をとらずとも、主の敵たる異教徒を討滅する方法はいくらでもあろう。
「主よ、どうか私をお導き下さい。さすれば、この地を煉獄の炎で清めてご覧に入れましょう」
純粋な敬神の念だけが込められたその言葉は、誰に聞かれることもなく礼拝堂の中に消えていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
陰陽学園は中等部、高等部、大学部からなる祓魔官養成学校である。
大学部西洋魔術科講師の遠野沙夜は、大学部教員棟に研究室を一室、割り当てられている。大学部での講義や高等部、中等部での授業がなければ、基本的にはそこで自身の魔術的研究を行うことになる。
ただし、陰陽庁長官直属の独立祓魔官である彼女は、招集がかかれば陰陽庁からの命令に従わなければならない。
「視線、か……」
昼間、虎徹が感じたという視線。
恐らく、学園を監視している何者かのものだろう。現状で断定することは危険だが、ヴァチカンの異端討滅機関である可能性が高い。
講義のために使用するプリントをパソコンで作成しながらも、沙夜の意識はそちらの方に向かっていた。
彼女は師匠である有坂篁太郎の影響故か、非常に実戦的な魔術師となっていた。霊災の修祓や魔導関連犯罪の捜査に投入される独立祓魔官に任じられたのも、そうした影響が大きい。
正直なところ、学園で講師をやっている自分自身に違和感を覚えることもある。講師としては、生徒に愛情と情熱を持って接するような部類ではない。むしろ、冷淡な部類に入るだろう。
まったく、教育者というのは厄介な立場だった。
「戻ったのだ、ご主人!」
がちゃり、と扉が開く音と共に眷獣たる虎徹が元気よく入ってくる。
「……」
沙夜は無言で指先から魔力弾を放つ。びしっという命中音と共に、虎徹が額を抑えて蹲る。
「……馬鹿犬、研究棟では静かにしろと言っているだろう? お前は私に、犬の躾けも出来ぬ無能者だと恥をかかせるつもりか? あぁん?」
「うう、ごめんなさいなのだ、ご主人」
「それで、ラーズグリーズはどうした? さっきまで一緒だったはずだが?」
虎徹の“後輩”たる人造人間ラーズグリーズ。その姿が、彼の傍に見えないのだ。
「リズは王様に呼ばれたのだ」
ラーズグリーズの身柄は現在、輪王寺宮家の預かりとなっている。虎徹の言う「王様」とは、輪王寺宮信久王のことを指すのだろう。
沙夜はラーズグリーズの魔術的指導を受け持っているだけで、彼女の眷獣ではない。そのためラーズグリーズに対する命令権は、輪王寺宮家が持っている。
「ああ、それとご主人、さっきこんなものが飛んできたぞ」
そう言って、虎徹が沙夜に差し出したのは折り鶴だった。丁寧に折られたその鶴は、作成者の几帳面さが現われているようだった。
「まったく、どこからの連絡だ」
虎徹が飛んできたということは、この折り鶴は本当に飛んできたのだ。つまり、魔術的な力によって虎徹の下にやって来たのだろう。
何かしらの魔術的な罠が仕掛けられている様子もないので、恐らくはあまり公にはしたくない連絡のために用いたのだろう。
陰陽庁東京本部からであれば、電話が掛かってくる。となれば、篁太郎か宮内省皇宮警察御霊部からの連絡だ。
「……」
沙夜は丁寧に折られた鶴と躊躇なく開いた。
案の定、篁太郎からの連絡だった。達筆な筆字で、沙夜への伝達事項が簡潔に記述されている。
「ちっ……。またあの女狐に借りを作ることになるのか」
文面を読んで、思わず舌打ちをしてしまった。
書かれていたのは、ヴァチカン異端討滅機関の帝都内での動向。どうやら篁太郎の側も完全に把握することは出来ていないようだが、ある程度、帝都に潜入した異端討滅機関の退魔師の動向は掴んでいるらしい。
その情報を直接、陰陽庁に流さないのは、彼の存在が秘匿されていることと、単純な宮内省と内務省の権限の問題だろう。下手に皇室関係者が現実政治に影響力を及ぼしては、問題となる。
あの男も中々苦労しているな、と沙夜は皮肉に思う。
問題は、篁太郎の思惑通りにこちらが動くべきかどうか、ということだ。篁太郎は確かに沙夜にとっての師匠だが、時々、その保護者面を鬱陶しく思う時もある。
独立祓魔官に任じられている自分は、もう十分に一人前の祓魔官だというのに。
それを、あの男に理解して貰いたいという思いが、確かに沙夜の中にある。面と向かって言うのは気恥ずかしいので、未だ胸の内に秘めているが。
「……ご主人?」
怪訝そうに、虎徹が沙夜の様子を窺っていた。
正直、沙夜は不愉快な気分だった。九尾の狐の集めた情報に全面的な信頼を置いている篁太郎。自分よりもあの女狐を信頼している篁太郎。自分を未だ不出来な弟子だと思っている篁太郎。
何もかも気に喰わなかった。
「……なあ、馬鹿犬。教え子たちに成長の場を提供してやるのも、教育者たるものの務めだとは思わないか?」
どこか嗜虐心に歪んだ唇を見て、虎徹はご主人の悪い癖が出たのだ、と内心でこっそりと震えていた。
◇◇◇
街灯が等間隔に並ぶ道を、相馬柊一は自宅へと急いでいた。
時刻は二十二時になろうとしているところ。明日の弁当の仕込みをしていたら、買い忘れていた食材があることに気付き、急いでスーパーに駆け込んだのである。
一番近いスーパーが二十一時で閉まってしまっていたため、自宅から少し遠めの二十二時閉店のスーパーを利用した。
手の中で、買い物袋が揺れる。
不意に、首筋にちりちりとした違和感を覚える。柊一は辺りを見回すが、特に変わった様子はない。
相も変わらず、街灯が夜道を薄明るく照らしていた。
人影は、少し前にすれ違ったサラリーマンらしき男性が最後だ。元々、住宅街なので夜の人通りは少ない。
「……」
妖の類いがこちらを観察しているのだろうか、と柊一は思う。妹の楓は幼いころから妖や霊の類いを“視る”見鬼の才が優れていたが、残念ながら自分はそうではない。低級霊など、存在の曖昧な相手だとよく視えないのだ。
「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケンソワカ」
三股印を結び、素早く真言を唱える。悪人・呪詛避けの、大威徳明王の法である。
何もないに越したことはないが、陰陽師としての直感を優先した。四月に妹が“魂喰い”事件に巻き込まれた所為か、いささか神経質になっているのかもしれない。
「……そういう直感力を見せられると、ああ、あんたもあの妹さんの兄なんだな、って納得出来るわね」
不意に、本当に不意に、夜道に声が響いた。
柊一の進む方向の街灯の下、そこに見知った顔の少女が佇んでいた。
「……ア、リス……?」
驚愕よりも困惑の方が勝った声で、柊一は呟く。
そこに居るのは夕方に別れた同級生。イギリスからの留学生である金髪の少女だった。
いつも通り、両側で三つ編みにした髪を後頭部に回してポニーテールを作っている。街灯の光を反射して、かすかに燐光を放っているようにも見えた。
「霊力量じゃ妹さんに叶わないけど、冷静に真言を唱える辺り、あんたって結構実戦向きの人間かもしれないわよ。兄妹で皮肉なことよね。妹さんは魔族恐怖症の所為で、霊力量は十分以上にあるのに、あまり実戦向きの性格じゃないんだから」
学校で雑談するような何気なさで、アリスはそう評した。しかし、装いは陰陽学園の制服などではない。
近世ヨーロッパの軍服のような、装飾の施された黒い上着。同色のスカートの丈を越えて、背面に上着の裾が伸びている。
スカートから伸びる足には、軍靴めいた黒い革長靴。白い大腿の一部が、スカートと革長靴の間からわずかに覗くだけである。
普段よりも凜々しさを増したその装いに、柊一は感嘆よりも不穏な感情を抱いた。
「でも、気付くのが少し遅かったかしらね?」
すっと彼女は腰に佩いていた剣を抜いた。
刀身が、街灯の光を反射して鋭い光を発した。




