第二部 第一章 第三節 縄張り意識
内務省陰陽庁長官公邸に、複数の官吏たちが集まっていた。
喫煙について厳しい目線が向けられる昨今にしては珍しく、彼らが集まっている会議室にはいくつもの紫煙が立ち上っていた。
五月下旬、徐々に夏が近付いてくる季節の陽光は明るさを増して、室内に光を届けている。
だが、そうした窓の外の世界と違い、会議室内には重たい空気が流れていた。
「本日未明、東京都内において日本人司祭が遺体で発見されました」
警視庁捜査一課から派遣された人物が発言する。
「特段、遺体の隠蔽工作等は行われておらず、明らかな他殺死体であることも判明しております」
机を囲む者たちが、手元の資料に目を落とす。
「陰陽庁東京本部長の賀茂憲行です」
捜査一課の人間に代わり、帝都東京の霊的治安の維持を責務とする賀茂が立ち上がった。
「被害者司祭は、陰陽庁において正式に魔術師として登録されている人物……まあ、西欧教会風に言えばエクソシストですな……であると判明しています。思想調査によれば、特に原理主義的な考えは持っておらず、寛容を旨とする人物であったようです。実際に、彼はこれまで、エクソシストとして魔族との間にトラブルを抱えたことはありません。陰陽庁としても、特に要注意人物として登録したこともありません。むしろ、ある意味では我々と西欧教会に所属する他のエクソシストたちへの窓口になっていた面もあります」
「それが、何故殺害されたのです?」
外務省欧州局からこの会議に出席した人物が問う。それに、賀茂が答えた。
「未だ証拠が揃っていない状況下で断言するのは危険ではありますが、ヴァチカンの異端討滅機関による日本政府への警告として殺害されたものと思われます。被害者司祭は寛容な人物でありましたが、逆に異端討滅機関のような原理主義者から見れば異教徒や魔族にも寛容な背教者と受け取られる危険性もあったということです」
「遠野沙夜独立祓魔官の異端審問要求を我々が受け入れなかったことへの報復というわけですな?」
「先ほども申し上げました通り、“報復”というよりは“警告”でしょう。これより異端討滅機関は実力行使に出るぞ、という警告です」
「主権国家たる我が帝国への、明確な主権侵害行為ですな」
外務省欧州局の人間が、怒りを混ぜ込んだ口調で言う。
「恐らく、彼らは外務省の皆さまが認識するような主権という概念を持ち合わせていないのでしょう」賀茂は首を振った。「ヴァチカン異端討滅機関は、国境などに囚われない組織です。国家ではなく、宗教組織の一部署と捉えるべきでしょう。彼らにとって西欧教会の教義がすべてであり、それにそぐわない勢力はすべて討滅の対象として認識されるのです」
「つまり、我が帝国で言えばあなたがた陰陽庁というわけか」
「いえ、我が帝国そのものが、彼らにとっては許しがたい存在でしょう」
「……」
「……」
一部の出席者たちから、憤りの呻きが漏れる。
彼らは、賀茂の言葉の意味を正確に理解していたのだ。それは日本という国が連綿と築き上げてきた文化や宗教観、特に天皇を国家元首とする大日本帝国の国家体制そのものの否定に他ならないからだ。
天皇や天皇制を学問的に自由に研究・発表出来る時代になったとはいえ、多くの帝国臣民は天皇を中心とした大日本帝国という国家体制を支持している。それが「日本人」という国民意識の拠り所であると同時に、明治維新以来、日本という国を大国へと押し上げてきた要因であると考えているからだ。
「……陛下を初め、皇族の方々の警護は万全なのだろうか?」
外務省欧州局の出席者が、懸念を含んだ声で問うた。皇室尊崇の念は、多くの帝国臣民が今も抱いているものなのだ。
「我が警視庁、そして陰陽庁東京本部ともに、帝都でのテロ警戒には万全を尽くす所存です」警視庁捜査一課の者が答える。「また、宮内省皇宮警察との連携も図っております故、ご安心下さい」
「故に、我々が論ずるべきは、彼ら異端討滅機関をいかに撃退するか、です」
警視庁捜査一課の発言を、賀茂が引き継いだ。
「それについては、私の方からご説明いたしましょう」
そう言ったのは、陰陽庁長官である土御門晴重だった。平安の大陰陽師、安倍晴明の血を引く土御門の家系に生まれた者である。とはいえ、官僚組織においてその血の重みは大した意味を持たない。
土御門の名が通用するのは、あくまでも魔導関係者の間だけである。そうした魔導関係者の中でも、近年の若手祓魔官の間では土御門家を中心とする陰陽庁の閥族主義に反発する者たちもおり、日本の魔導関係者が必ずしも土御門家を中心にまとめられているわけでもない。
当の晴重本人は、自分を安倍晴明の末裔と思うような意識は薄く、あくまでも一官僚組織の長であると思っている。そのため、必要以上に自身の出自を攻撃する革新派祓魔官やマスコミに戸惑いを覚えることもあった。
「陰陽庁では現在、帝都周辺での情報収集を強化し、異端討滅機関の動向を探っているところです。捜索用式神の展開、龍脈の調査、そして帝都周辺の魔族たちからの情報提供、これらによる情報収集を元に、異端討滅機関に対する迎撃態勢を強化しております」
「また、我が陰陽庁東京本部でも、捜査要員を増やして警戒に当たっております」
上司の説明に、賀茂が付け加える。
「また、宮内省皇宮警察御霊部からも、独自に捜査を開始すること、得た情報については陰陽庁に提供することを伝えられております」
宮内省皇宮警察御霊部とは、内務省陰陽庁と共に大日本帝国に存在する公的魔導機関である。基本的にその活動は秘匿されていることが多く、自らの職掌領域について敏感な官僚たちからは不気味な存在として見られることが多い。しかし、相手が天皇に関わる存在である以上、官僚たちも容易に反感を示しづらいという面もあった。
そもそも、宮中と府中は立憲政治が確立され始めた大正期あたりから対立することがあった。とはいえ、その衝突が決定的なものとなったことはない。中間に、天皇という調停者が存在しているからだ。
大日本帝国は英国に倣った立憲君主制国家ながら、完全な「君臨すれども統治せず」という原則を確立しているわけではなかった。
それは、明治憲法が昭和天皇による天皇大権の発動によって改正され、憲法内に明確に内閣制度の規定が盛り込まれた後も変わっていなかった。
ある意味で、大日本帝国というのは奇妙な国家形態を持つ君主国なのである。
「……つまり、それは御霊部が今回の件を皇室の安寧に関わる事案であると認識しているということだろうか?」
外務省側の出席者が問う。
「そう考えて問題ないでしょう」土御門が答える。「故に我々は、一層気を引き締めて本件に当たる所存です」
「報道機関への説明はどうする?」
「現状では、公表する必要はないでしょう」そう言ったのは賀茂だった。「遠坂独立祓魔官の個人情報に関わる案件ですから、非公表にする法的根拠はあります。我々としても、秘密裏に処理出来るのが一番だと考えております。下手に報道して、神国派や右派勢力を勢い付かせては元も子もありませんからな」
対外的脅威は、容易に対外強硬論や対外排斥主義に結びつきやすい。それを、賀茂は懸念していたのだった。
「やはり、魔導関係の事件となると非公表にせざるを得んか」
「外交交渉も、非公開案件が多数あるのでは?」
「ははっ、おっしゃる通りですな」
魔術に外交、お互いに国家の安全保障や機密事項に関わる分野を職掌範囲としているため、陰陽庁も外務省も互いの職務への理解は示しやすかった。
「まあ、我々に出来るのは案件が外交に留まっている内です」外務省欧州局の人間が言った。「国内の治安維持問題となってしまったならば、それは内務省の皆さまの管轄になりましょう」
「ご理解いただき、感謝いたします」
土御門長官は軽く頭を下げた。ここで、内務省と外務省で管轄争いをしなくて済んだことに安堵を覚えている。
事がヴァチカンからの異端審問要求に留まっている内は、外務省側も己の職掌範囲故に管轄を譲ろうとはしなかっただろう。しかし、日本人司祭の殺害事件によって、事態は明らかに国内の治安問題に移りつつある。だからこそ、外務省も自らの職掌範囲に照らし合わせて、内務省警察庁や陰陽庁に管轄を移すことに同意したのだろう。
自らの職掌範囲には敏感だが、それ以外に関しては無関心。
縦割り行政の弊害が指摘される日本の官僚組織らしい対応であるともいえた。
「では、本日の合同会議はこれまでといたしましょう」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
むっとするほどの熱気が、辺りに漂っていた。
高温多湿な日本の夏ですら、この場所よりはマシだと思えるほどの場所であった。
そんな熱気に満ちた場所を、王子の狐こと銀嶺は普段通りの涼しい表情で歩いている。
此岸と彼岸の合間に存在する、人ならざるモノたちの潜む異界-――〈あわい〉。此岸の世界でいえば、箱根の火山帯に重なるようにして存在するその異空間に、銀嶺は足を踏み入れていた。
「ああ、お姫様。よくぞいらっしゃいやした」
言葉自体は丁寧だが、大雑把な口調に、妖狐の少女は迎えられた。
彼女の目の前に現われたのは、身長二メートル前後の妖。赤銅色の肌に頭部には鋭い角、獣皮で作られた衣をまとう存在。
いわゆる、鬼と呼ばれる種族の妖であった。
「依頼したものは出来上がった?」
人型を取った自身の身長よりも高い相手に対して、銀嶺は気後れした様子もない。関東一円の妖を統べる彼女にとってみれば、この地に住まう鬼たちも配下の一部に過ぎないのだ。
積み重ねてきた時が力に直結する霊的存在にとって、齢千を越える銀嶺を超越する存在は日本には少ない。そして、その多くはかつて人間たちの都があった畿内周辺に住んでいる。
信田の狐しかり、鞍馬山の天狗しかり、貴船の龍神しかり、である。
「へい、お姫様。我ら一族の誇りにかけて、鍛え上げましたとも」
そう言って、鬼は銀嶺を奥へと案内していく。
此岸の火山地帯に重なるように形成された〈あわい〉だけあって、奥へ進むほど熱量は増していった。一部には目を焼くほどの灼熱に輝く溶岩すら流れる〈あわい〉の奥からは、金属を打ち付ける甲高い音が連続して響いている。
ここは、鬼たちの工房なのだ。
鬼の体格に合わせた巨大な火床(炉)には赤々と火が入れられ、ふいごを鬼たちが規則正しく動かしている。別の場所では、金敷(金床)に据えられた真っ赤な金属を大鎚で叩き伸ばしている鬼がいた。一方では、焼き入れした金属を水に漬けている鬼もいる。
一概に鬼といっても一族ごとに特徴は様々であるが、箱根周辺に棲んでいる鬼たちは金工を得意とする一族であった。
「おい、お前ら。お姫様がいらっしゃったぞ!」
鍛冶場となっている空間に詰めていた鬼たちが作業の手を止めずに一斉に銀嶺の方へ向き、「おす!」と一礼する。まるで任侠じみた一幕であるが、これがここの鬼たちの礼儀なのである。
銀嶺は鷹揚に頷いて、彼らへの答礼とする。
一人の年若い鬼が、鍛冶場の奥から一振りの刀を持ち出してきた。それを、案内を務めていた鬼へと手渡す。
この鬼が、一族の長を務めている。
「こいつです、お姫様」
柄や鍔、鞘への装飾は最小限。何とも実用第一といった外見の太刀であった。とはいえ、鞘は最高級の黒漆で塗られている辺りに、鬼たちの意気込みが見受けられる仕上がりであった。
「ふぅん」
普段通りのさばさばとした口調で、銀嶺は受け取る。気の弱い妖であれば、この妖狐の機嫌を損ねてしまったのではないかと心配するところだろう。
だが、銀嶺にとってはこれが普段通りの態度であり、懇意にしている鬼の長も特に怯えた様子はなかった。むしろ、彼女がどんな反応を返してくれるのかを期待してもいた。
太刀を受け取った銀嶺は、鞘から刀身を抜く。懐から懐紙を取り出して、刀身に当てた。
刀身に当たる光の角度を調整して、地金や刃文の具合などを確かめる。
「見た目は良い出来だね」
刀身を鞘に戻して、銀嶺はかすかな笑みを作った。
「後は切れ味だけど?」
「そう言うと思って、用意しておきましたぜ。おい!」
鬼の長が呼びかけると、鉄柱が持ち出されてきた。鬼の腕力故か、年若い鬼が軽々と持ち上げて運んできた鉄柱が、銀嶺の前に置かれる。
「人間どもの作ったナマクラなら難しいでしょうが、そいつは特別製ですからな。これくらい斬れないと話になりませんや」
人間の作った日本刀もかなりの切れ味なのだが、鬼たちに言わせればまだまだということだろう。
銀嶺としても、霊的価値を持つに至った古の名刀を別として、人間の刀は妖たちが使うには根本的に合わないと感じている。妖の中には、それこそ石より硬い鱗や皮膚を持つものたちがいるのだ。人間の使う武器とは、前提からして違うのである。
「……」
銀嶺は再び刀を抜くと、鉄柱を前にして構えた。
そして、それを静かに見守っていた鬼たちの目にも映らぬ速度で刀が振るわれた。
斬、と。
「-――うん、こんなものかな」
特に楽しげな様子もなく、銀嶺は淡々と刀を鞘に戻した。
彼女の前には、綺麗な切断面を覗かせ、二つに断ち切られた鉄柱が転がっている。
見守っていた鬼たちが、その鮮やかな太刀筋に「ほう」と感嘆の息をついた。
「良い切れ味だよ。西洋の剣だと、ここまでいかないからね」
「まあ、お姫様はそうおっしゃいますが、そいつに使われている金属はなかなかのものですぜ」
いささか苦笑しつつ、長は答えた。
何せ今、銀嶺の手の中にある太刀は、魔剣ダインスレイヴを鍛え直したものなのである。
四月の帝都“魂喰い”事件において、銀嶺がドイツ人錬金術師ヴォルフラム・ミュラーの造り出した人造人間ラーズグリーズから奪い取った呪いの剣だ。
「向こうのドワーフ族とやらも、中々の腕を持っていると感心したもんです。今の人間にゃあ、もうこれほどの金属は造れませんぜ。俺たちは元の金属にちょいと加工しただけですわ」
ダインスレイヴは、北欧のドヴェルグが鍛えたと伝わる古の魔剣であった。
「でも、ダインスレイヴに込められた呪いを殺さずに太刀の形に仕上げている。それは間違いなく、君たちの技術の賜だよ」
上機嫌というには声にそれほどの感情が込められていなかったが、銀嶺は内心でひどく感心していた。
正直、戦いの中であの白い少女からダインスレイヴを奪い取ったものの、西洋剣は銀嶺にとって使いやすいものではなかった。そこで、この魔剣を太刀の形に鍛え直してくれと、かなりの難題を箱根山の鬼たちに押し付けたのであった。
当然、不治の傷を残すというこの魔剣の真価を損なわずに、打ち直さなければならないのである。
だが、ここの鬼たちは依頼された仕事を完璧にやってのけたのだ。
「お姫様にそう言っていただけて、儂らは嬉しいですぜ。これからも、贔屓にして下せぇな」
「これだけの腕を持つ君たちを蔑ろにする奴がいれば、そいつの脳味噌は腐っていると言ってもいいんじゃないかな?」
長の言葉が、今後も引き続き銀嶺に庇護して欲しいという意味であることを理解して、銀嶺は皮肉で応じる。そのようなこと、言われずとも判っている。
関東一円の妖の長である銀嶺にとって、配下に庇護を与えるのは当然の義務なのだ。
とはいえ、長の不安も判らなくもない。
鬼は古来より、多くの人間たちによって討伐の対象とされてきたのだ。源頼光伝説に登場する大江山の酒呑童子などは、その最たる例だろう。そして、桃太郎伝説にも残る通り、人間は鬼たちが慎ましやかに生活を営んでいた島にまで乗り込んで鬼たちを虐殺、略奪を行った。すべての人間が鬼に敵対的であったわけではないにせよ、鬼にとって人間は警戒すべき種族なのだ。
そのため、鬼の一族にとって、他の妖との友好関係、同盟関係などは自分たちを守るために必須の生存戦略なのである。
箱根山の鬼たちも、そうして銀嶺の庇護に縋っている存在なのであった。
「とはいえ、ここ最近の板東は物騒と聞きますぜ。何でも、外津国の連中が入り込んでいるとか」
四月から続く一連の出来事を、この長は不安に思っているらしい。
「ああ。だから、この太刀が早く仕上がって安心しているよ」
手に馴染む形となった魔剣ダインスレイヴ改め妖刀ダインスレイヴを腰に差しながら、銀嶺は応じる。
西欧教会勢力の配下にある異端討滅機関の動向は、すでに銀嶺自身も大江戸妖怪たちなどの配下に命じて探らせている。
「まあ、私の縄張りを荒らすような奴は許しておかないから」
「それでこそ、お姫様ですぜ」
にやりと、鬼の長は唇を吊り上げた。
「それじゃ、九尾様とその旦那にも宜しくお伝えくだせぇな」
「……旦那、ねぇ」
皮肉そうに、銀嶺は唇を歪めた。
大妖九尾こと久遠と有坂篁太郎の関係について、妖たちの認識は様々だ。この鬼たちのように、妖と人間の番と見るものたちもいる。現代ではほとんど見られないが、かつてはそうした事例は多数あったのだ。安倍晴明の父と信田の狐などはその代表例だろう。
とはいえ、当の本人たちも自らの関係性について一言で表現することは出来ないだろう。
だからこそ、関わっていて飽きないのだと銀嶺は思う。
「さて、得物も揃えた。この子を抜く時が楽しみだね」
鬼の里から去っていく銀嶺の身を、戦いを前にした高揚感が包んでいた。
第一部で登場した魔剣ダインスレイヴは銀嶺に鹵獲された挙げ句、妖刀に鍛え直されてしまいました。
かなり強引な設定かとは思いますが、和風白髪ケモミミ娘に似合うのは剣ではなく日本刀だと思っていますので。
ちなみに、こちらも第一部で登場したグレイプニルも、ちゃっかり久遠に鹵獲されています。
拙作に関するご意見・ご感想を頂ければ幸いに存じます。
また、ブックマーク、評価等もお願いいたします。




