第二部 第一章 第一節 海軍記念日の密談
晴れ渡った空の下に、海軍軍楽隊の演奏が響いていた。
五月二十七日、日本海海戦の勝利を記念して制定された海軍記念日は国民の祝日となっており、戦艦三笠、長門が記念艦として保存されている横須賀海軍記念公園では、海軍主催の記念式典が行われていた。
公園には式典を一目見ようと大勢の市民たちが詰めかけている。
特に市民たちの間で人気なのが、海軍軍楽隊による演奏会であった。海軍としても、こうした機会を利用して志願者を増やしておきたいと、宣伝に余念がなかった。
近年ではそうした影響か、曲目は「軍艦行進曲」、「広瀬中佐」、「日本海海戦」といった海軍関係の軍歌だけでなく、その年のヒットソングなどを積極的に組み込むようになっていた。
今年の式典では、海戦系オンライン・ゲームで使用されているBGMが曲目の中に含まれていた。
「軍歌一色よりも、こちらの方が平和を感じられていいですね」
人によって賛否はあるだろうが、一市民として式典に参加している有坂篁太郎はそう感想を述べた。
「そうは思いませんか?」
と、彼は隣に座る九尾の狐にして己の式神たる久遠に話しかける。
「さてな? ただ、お前がそう感じるのならばそうなのではないか?」
久遠は派手ではないが趣味の良い柄の洋服に身を包み、頭にはキャスケット風の帽子を被っていた。
いつもは和風と中華風を合わせたような着物に身を包んでいる彼女だが、洋服姿もまた美しかった。
帽子を被っているのは、頭に生えている狐の耳を隠すためであった。久遠や、王子の狐である銀嶺など、妖の中には人に変化することが出来るものがいるが、そうした際にも自身の身体的特徴の一部は残ったままであることが多い。
獣の妖であるならば、耳と尻尾を人に変化しても残すことが多い。これは、人間の耳が聞こえづらいというのと、尻尾がないと落ち着かないという理由によるらしい。
とはいえ、ふさふさとした九本の尻尾を服で隠すことは出来ないので、今回は流石に久遠も尻尾を消していた。ただ、耳だけはどうしても譲れないのか、こうして帽子で隠しているわけである。
「だが、お前がそう感じるということは、やはりお前はあの戦争に囚われたままだということだ」
「……」
久遠の指摘に、篁太郎は曖昧な笑みを返すだけだった。反論出来ないのだ。
青空の下で続く演奏に、陰陽師と式神の二人はしばし耳を傾け合った。
あるいはそれは、この青年の姿をした陰陽師が望んだ光景の一つであったのかもしれないと、式神たる久遠は思った。
普段は入場料を払わなければならない戦艦三笠と長門の見学であるが、この日だけは無料で見学が出来た。
篁太郎と久遠は、三笠ではなく長門の見学者の列に加わった。
待機列に並ぶことしばし。
三笠と比較にならぬ偉容を誇る長門を岸壁から見上げる。
記念艦となるに当たり、長門の装備は一九四〇年代前半のものに戻されていた。
長門は太平洋戦争中、多数の対空機銃や噴進砲を増設していた。特に煙突周辺には新たに機銃甲板を設けるなどの徹底ぶりであった。
しかし、それでは記念艦としての見栄えが悪いという単純な理由によって、甲板上はすっきりとして四基の主砲塔が目立つ一九四〇年代前半の艦影が再現されたのである。
艦は三笠と共に海軍によって常に整備されており、鮮やかなねずみ色の塗装も完璧であった。
順番が来て、彼らは長門へと乗り込んだ。
式典参加者の中には、子供連れの者たちの姿も多かった。
甲板には、長門の建造から退役までの活躍を記した年表や、長門を捉えた写真の展示パネルが飾られている。
巨大な四十一センチ主砲の砲身、最大四五七ミリの装甲を誇る主砲塔、高層ビルを思わせる艦橋。
それらが、見学者を圧倒する。
「とはいえ、同族である人を殺すためにここまで大がかりな装置を作るとは、やはり人間どもは救えんな」
大和、武蔵が完成するまでは日本国民の誇りとして親しまれてきた戦艦を、久遠はそう酷評する。
「まあ、否定はしません。それが、人間の業ですから」
篁太郎は艦橋を見上げながらそう応じた。
艦橋上部の戦闘艦橋は、見学者たちにも人気な場所だった。艦橋最上は射撃指揮所であるが、狭い造りなので見学には向かなかった。
とはいえ、戦闘艦橋も一気に大勢の人間が入れるわけでもない。またしても順番待ちの列が出来る。
篁太郎がそこに並んだので、久遠もそれに付き合うことになった。
戦闘艦橋は、高さ的には東京タワーや東京スカイツリーの展望室に敵わないが、軍艦の艦橋から周囲を一望出来るという点が人気となっていた。
地形的な関係で東京ゲートブリッジやレインボーブリッジは見えないが、東京アクアラインの海ほたる、千葉県浦安市の某ねずみのテーマパークなどは条件が良ければ双眼鏡で確認することが出来る。
篁太郎は艦橋だけでなく、とにかく見学が許されている場所は徹底的に回った。久遠も、当然ながらそれに従わざるを得ない。
付き合わされている久遠の機嫌が徐々に降下してきたところで、篁太郎は長門艦内の食堂へと向かった。
そこは、艦橋上部の戦闘艦橋と併せて、見学者の人気が最も高い場所であった。
理由は単純で、本職の海軍の烹炊兵による海軍カレーが提供される場所だからである。とはいえ、海軍カレーは各艦隊、あるいは各艦によって独自のレシピを持っている。そのため、毎年、この式典のために各艦隊から代表者を長門に送り込み、見学者にカレーの人気投票を行ってもらっていた。
久遠が注文したのは、メニューの中でも値の張る伊勢海老カレー、それに竜田揚げを注文していた。
篁太郎は、ビーフカレーを頼んだ。
「ふむ、ルーの辛さが海老の甘みを消さず、互いを程よく引き立てておる。ルー自体も海鮮特有のコクがあり、それがご飯とよく合っている。中々の出来よな」
「食レポ、ありがとうございます」
取りあえず、満足そうなので篁太郎としては一安心である。彼自身も頼んだビーフカレーに匙を伸ばす。
牛肉を柔らかく煮込み、かといって歯ごたえを殺さずに、上手く食感を残している。
「それで、一通り見学してみてどうでしたか?」
「ふむ、まずはお前の意見を述べてみよ」
篁太郎の質問に直接答えず、久遠は竜田揚げに箸を伸ばす。さくりとした揚げたて特有の音が、篁太郎の耳に届く。
「やはり、建造から百年近く経っているだけあって、霊格は上がっています。ただ、霊的には安定しているので現状は問題ないでしょう」
「ふむ、我も同意見よ」
カレーのルーに竜田揚げを浸しながら、久遠が首肯する。
「問題は、誰かがこの場、というよりも長門を祭壇として目を付けることでしょう」
歴史を経たものは、それだけで霊的な格が上がる。信仰を集めているものは特にその傾向が強い。聖遺物に霊的価値があるのはそのためだ。
長門は聖遺物というわけではないが、帝国海軍の象徴、太平洋戦争勝利の象徴として長く記念艦として日本国民の信仰を集めてきた艦である。
それに、付喪神、船魂という考え方が日本にはある。
魔術とは、人間の心の動きを現象に変化させる技術である。人の心の動きが、霊的存在を生み出す要因にもなり得るのだ。
だからこそ、付喪神、船魂という霊的存在が日本にはいる。
すでに戦艦三笠の艦内神社には、確固たる霊的存在が宿っている。とはいえ、自らの意識がはっきりしている霊的存在は問題ない。
また、関東一円の妖たちの総大将たる王子の狐が、この地域の妖たちも従えていることも安心材料である。己の縄張りを荒らすものを、あの妖狐の少女は許さない。
だが、霊的に不確かな存在は、悪意ある人間によって容易に利用されてしまう。
「とはいえ、現状で私たちが何かすることも得策ではありません。それは、この船に宿ろうとしている霊的存在の成長を歪めてしまうことにもなりかねない」
「ふむ、妥当な意見よな」
満足そうにカレーを食した久遠が、口を拭きながら応じた。ただ、目だけが名残惜しそうに皿を見つめている。
「何か、追加で注文しますか?」
「そうよな。では、この大和オムライスを」
結局この後、久遠はデミグラスソースのかけられたオムライスも綺麗に平らげたのであった。
◇◇◇
東京都港区芝、東京タワーと増上寺が建つこの地域に、一件の屋敷がある。
第一次世界大戦によって復権した魔術、それによって荒廃したヨーロッパの龍脈。戦後、その地で頻発する霊災。
そして大日本帝国は、皇室と国家の霊的安定を保つために一つの宮家を再興した。
輪王寺宮。
それはかつて、江戸時代には東叡大王として上野東叡山寛永寺貫主を務めていた宮家の呼び名であった。
魔術の復権により、輪王寺宮家は最も霊的素質を持つ皇族を当主として再興されたのだ。
かつてのような寛永寺の貫主としての役割ではなく、皇室の霊的安定と帝都の裏鬼門を守護することをその務めとする宮家。
それが、輪王寺宮家であった。
現当主は信久王。
その姉君に当たる“斎宮”澄子女王と共に、高齢ながら日々の公務をお努めになれていた。
横須賀での海軍記念日の式典に参加した篁太郎と久遠は、夕方までには東京に帰還しており、地下鉄の駅から輪王寺宮邸へと向かった。
「ああ、これは有坂祓魔官殿」
屋敷の警備に当たる皇宮警察の青年が、篁太郎を見ると敬礼した。
「いつも大変ですね。ありがとうございます」
「いえ、これでもお国と皇室に身を捧げておりますから」
にこりと青年は笑った。
皇室と帝都の霊的安定を守る輪王寺宮家を守る皇宮警察の者たちは、その多くが霊的資質を持っている。いや、霊的資質を持っている必要があった。
この青年も、そうした者の一人だった。
「殿下から、祓魔官殿をお通しするように言われております。どうぞ」
そう言って、彼は侍従などの職員のために設けられた通用門を開けた。
皇宮警察の者たちは皇族のお側で警護することもあるため、普通の警察と違って詩吟などの文化的な教養をも身に付ける必要がある。
だが、そうした教育課程を終えて配属された皇宮警察の者たちがまず頭に叩き込むのは、宮内省職員の顔と名前である。このため、彼らはすべての宮内省職員の顔と名前を一致させており、不審者に対して即座に対応出来るようになっている。
篁太郎も陰陽道の修行の際、多数の呪文や念仏などを暗記させられたが、いつも皇宮警察の記憶力には舌を巻いている。
篁太郎は久遠と共に通用門を潜り、邸内へ入った。
その存在自体が秘匿されている篁太郎と久遠であるが、この屋敷に勤める者たちは例外だった。その分、彼らに対する守秘義務は厳しくなっているのだが。
久遠と篁太郎は、侍従に案内されるままに邸内を進み、応接間に通された。
すでにそこには信久王と澄子女王、そして王子の狐である銀嶺が待っていた。
「有坂篁太郎、ただいま参りました」
入り口で篁太郎はぴしりと礼をする。一方の久遠は、人間社会の序列など知らないとばかりに部屋に入り、王の許しを得る間もなく応接椅子に座り込んでしまった。
銀嶺も同じようにしているので、恐らく彼女も内心は久遠と同じなのだろう。
「それでは、これで全員が揃いましたね」
澄子女王がそう宣言し、人間三人と妖二柱による会談が始まった。
「戦艦長門の霊的状態については、しばらくは様子を見る必要があるかと存じます」
臣下である篁太郎一人だけが唯一立ったまま、そう報告した。
「三笠の時と同じだね」
王子の狐である銀嶺が言う。
妖艶な雰囲気の女性である久遠と違い、人型をとった彼女は凜とした顔立ちに鋭利な雰囲気をまとう少女だった。
長い白髪に赤い瞳、裾の長い軍服のような白い上着は袖の部分だけ水干のように広がっている。小ぶりな胸には、黒い胸当てを付けていた。下は黒いスカートで、しなやかな足がのぞいている。
だが、顔の表情には感情が希薄で、言葉もさばさばとした調子で淡白であった。
とはいえ、人間に変化した時の見た目が少女でしかないこの妖狐は、一千余年を生きる関東一円の妖を統べる総大将なのである。
江戸妖怪の総元締めと言われるぬらりひょんですら、彼女の配下の一人に過ぎない。
「まあ、船に生まれつつある微精霊の面倒は、私が見るよ」
「お願いします」
篁太郎はそう言った。
「さて、有坂祓魔官からの報告もあったところで、本命の議題に入るといたしましょう」
信久王がすっと一枚の紙を机の上に差し出した。
「拝見いたします」
篁太郎がそう言って紙を受け取った。
「陰陽庁から回ってきたものですが、内容から見て最後通牒と見てよいでしょうね」
気掛かりな口調で、澄子女王が述べる。
篁太郎は受け取った紙を、久遠と銀嶺にも示す。
「陰陽庁に届いた原本のコピーではありますが、原本に使用されていたのはヴァチカン異端討滅機関の専用用紙です。偽造の可能性は低いでしょう」
「そもそも、こんなものを偽装しようものなら、そ奴は連中自身の手で真っ先に消されるであろうよ」
女王の言葉に、そう皮肉を付け足す久遠。
「やはり、四月の事件の影響は大きかったということですね」
篁太郎は悩ましげに息をついた。
「ヴォルフラム・ミュラーは帝国の祓魔官に抵抗の末、死亡。その際の戦闘で研究施設は破壊された。そこに、人造人間の少女ラーズグリーズなど存在しなかった。一応、宮内省皇宮警察御霊部の公式記録ではそうなっているはずです」
「ええ」澄子女王は頷いた。「そこにあなたの存在も、久遠の存在も書かれていません。そしてそれは、公式記録ではありますが、公開された記録ではない。ですから、一般の認識ではあの事件は神国派の元陰陽庁職員による騒擾事件。事件解決に功績があったのは、陰陽庁独立祓魔官である遠野沙夜とその式神、虎徹ということになっています」
四月、篁太郎と久遠は国際魔導犯罪者、ヴォルフラム・ミュラーの捜査を行っていた。それと同時期に発生していた帝都での“魂喰い”は、篁太郎の弟子である遠野沙夜とその眷獣・虎徹が中心となって解決していた。
そして、報道されたのは後者だけである。
「だからこそ、異端討滅機関は沙夜と虎徹くんの身柄引き渡しと、異端審問の実施を要求しているというわけですね。彼らの教義に、沙夜と虎徹くんが反しているという理由で」
「とはいえ、所詮は自分たちの権威がこの地まで及ぶことを世に知らしめたいだけだろうに」
久遠がまたしても皮肉を付け加える。
「人間たちの縄張り争いは、際限がないね」
銀嶺も冷めた声で自身の感想を漏らした。
「とはいえ、帝国にとっては自国民を守るという義務があります」信久王が言う。「我々は遠野祓魔官とその式神を守らねばなりません」
「あの小娘、大人しく守られている性質でもあるまい」
この場の誰もが思っていることを、久遠が代弁する。
現在、内務省陰陽庁と宮内省皇宮警察御霊部、そして輪王寺宮家を悩ませているのは、ヴァチカン異端討滅機関からの要求であった。
魔女である遠野沙夜とその使い魔の身柄引き渡しと異端審問の実施。
日本からすれば言いがかりも甚だしく、内政干渉に近い要求であるが、相手は大真面目なのである。
中世、皇帝の権力すら凌駕したという教皇権力の復活。ヴァチカンの異端討滅機関は、そうした思想を持つ者たちの巣窟であった。
「本来であれば、陰陽庁との連携を密にしていきたいところなのですが……」
信久王は頭を押さえつつ首を振った。
「俺と久遠の関係は秘匿事項、御霊部もその活動実態を陰陽庁に明かしたくないというセクショナリズム、そして陰陽庁内部の神国派」
「現状、その神国派が厄介なのです」澄子女王が続ける。「これを期に、排外的な思想が一気に陰陽庁内で加速し、神国思想に賛同する祓魔官が増加しても困るのです」
神国思想とは、天照大神の末裔である天皇が国家を統治し、その神勅によって国家を運営することで神の永遠の加護が受けられるとする思想である。彼らは現行の大日本帝国の制度を否定し、天皇親政による神権政治の実現を目指していた。
さらに、西欧教会勢力を日本の伝統的宗教観を破壊するものであるとして敵視している。
「これでは連携した動きなど、夢のまた夢よなぁ」
久遠が嘲りに唇を歪める。
結局、この場に遠野沙夜が呼ばれていないのも、そのためなのだ。沙夜の内心がどうであれ、彼女は陰陽庁長官直属の独立祓魔官、つまりは陰陽庁の所属なのである。
それをこのような密談めいた場所、しかも宮家に招くなど、陰陽庁の権限の面からも、皇室の権威の面からも、問題が生じる。
四月の事件の際はその解決の功を労うために沙夜と虎徹が呼ばれたが、そうした特別な事情がなければ屋敷に人を招くことは憚られる。
輪王寺宮としても、特定の祓魔官を贔屓にしていると受け取られる行為は避けなければならないのだ。
だからこそ、存在の秘匿されている篁太郎がこの場にいるのである。
「私も人間と連携する気はないけど」と、銀嶺。「人間たちが私たちの縄張りを荒らしに来るんだったら、篁太郎には協力してやってもいい」
「ありがとうございます、銀嶺」
「別に、いつものことでしょ?」
篁太郎の幼い頃から付き合いのある王子の狐は、素っ気ない口調で朋への協力を申し出てくれた。それが、篁太郎には素直にありがたい。
「王子の狐殿」信久王が言う。「西欧教会は、あなた方妖の存在を許容しません。異端討滅機関は、当然、あなた方も討滅の対象とします。全国の妖たちが連携することは可能ですか?」
「無理だね」
銀嶺はにべもなかった。
「私は、畿内の妖たちから見ればたかだか千年ちょっとしか生きていない若輩者。彼ら彼女らには見下されているからね」
自身が見下されていることを、内心どうとも思っていないかのような口調だった。
「貴船の龍神、鞍馬山の天狗、信田の狐、確かに味方になれば心強いかもしれないけど、助力は仰げないよ。彼らが危機感を覚えればまた別かもしれないけど」
「まあ、我が警告を発すること程度は出来よう」
仕方ない、とばかりに久遠が口を出した。
もちろん、銀嶺も妖たちに警告を出すことは出来る。だが畿内の大妖怪たちは、王子の狐が警告したところで、逆に彼女の力不足を嘲るだけだろう。
その点、妖狐の女帝たる九尾の狐は妖など霊的存在の中でも頂点に位置する存在の一つである。その警告にはそれなりの重みがあるのだ。
ただ、それで真剣に対応策を練るかどうかはまた別問題であろうが。
「少なくとも、信田の狐は真面目ですから、万が一の場合は頼っても大丈夫でしょう」
「篁太郎よ、貴様はあの女狐めの肩を持つのか」
不愉快そうに、久遠は篁太郎を睨んだ。
信田の狐。
平安の大陰陽師、安倍晴明の母との伝説が残る妖狐である。時期的には、久遠が玉藻の前として朝廷に潜り込んでいた時代と前後しており、彼女たちは互いに面識がある。
だが、人間社会の混乱を目的とする九尾の狐と、人間社会との調和を重んじる信田の狐は決定的に考えが合わず、最終的には朝廷による玉藻の前討伐に信田の狐は協力したという。
だからこそ、久遠にとって信田の狐は千年来の敵ともいえた。彼女が朝廷の軍勢に協力しなければ、自分は封印されることなどなかったとも思っている。
篁太郎に言わせれば、多分に負け惜しみも含まれているのだろうが。
もちろん、それを口に出せば後が怖いので、黙っている。
「俺は、帝国臣民ですから」
そうとだけ言って、篁太郎は久遠への答えとした。
つまり、国家にとって利益となるならば自身の式神の敵とも協力することを厭わないという意思表示である。
「お前は、相変わらずよのぅ」
やれやれと言わんばかりに溜息をついて苦笑する久遠。彼女としても、自身を式神とする男の内面は理解している。そして、この陰陽師が最終的に誰を頼りとするのかも判っている。
だから、それ以上の追求をしなかった。
「それと、ヴァチカンの標的が沙夜と虎徹くんなのであれば、西日本への霊的影響は限定的でしょう。彼らとしても、戦力を分散する愚を犯すとは考えられません」
「それもそうですね」信久王が篁太郎の意見に同意する。「しかし、どうしても問題は残ります。我々が異端討滅機関にどう対抗するのか、という点です」
「連携が不可能なのであれば、各機関が個別に対応するしかないかと存じます」
「やむを得ませんか」
「各機関で情報の共有が必要な場合、臣が仲介の役を勤めましょう。幸い、陰陽庁長官、宮内省皇宮警察御霊部部長は、臣という存在を知る立場にあります」
「では、そうしていただくとしましょう」
澄子女王がそう決定した。
「臣としても、独自に動きたく存じますが」
「構いません」篁太郎と共に、万が一の場合の九尾の狐の封印役とされている澄子女王が言った。「有坂祓魔官は、この件に関して自身の判断で動くことを許可します」
「ご高配、ありがたく存じます」
すっと篁太郎は一礼した。
「ときに、有坂祓魔官」
澄子女王が、思い出したかのように問うた。
「遠野祓魔官ではない、あなたももう一人のお弟子さんですが、異端討滅機関の持つ情報次第では、彼女も無関係ではいられないかもしれません。“あの子”のことも気にかけていただけると幸いです」
「かしこまりました」
終始、臣下であることを言葉と態度で示し続ける篁太郎。
その様子を見ていた久遠は、胸の中に模糊とした苛立ちが湧き上がってくるのを感じていた。妖狐の女帝たる自身を式神とする男が、へりくだった態度を取る。それが、何か許せないことのように感じるのだ。
女帝たる自身の矜持が傷つけられたからではない。女帝たる自身を式神とする男が、ただ走狗のように使われることに我慢がならないのだ。
とはいえ、その不満は今はまだ胸の内にしまっておこうと、久遠は思う。
だが、いずれ時が来れば。
その思いもまた、今は心の中に秘めておくべきものだろう。
本話前半部分は、完全に趣味に走りました。
物語展開上の意義よりも、拙作の世界観を伝えるための描写に過ぎません。
篁太郎と久遠の会話に関しては、もう少し自分にユーモアのセンスが欲しいと思った次第です。
後半の皇宮警察の方々の記述ですが、職員の顔と名前を一致させるというのは、宮内庁の方からお伺いした実話です。




