第一部 終章
参考文献
印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』(明石書店、二〇〇五年)
等松春夫『日本帝国と委任統治』(名古屋大学出版会、二〇一一年)
大日本帝国海外領土南洋群島。
その統治機構たる南洋庁は、パラオ諸島コロール島に置かれている。この島は、パラオ諸島最大の島であるバベルダオブ島と橋で繋がっており、両島併せて南洋群島の政治的・経済的な中心地となっていた。
第一次世界大戦によって日本の委任統治領となり、ドイツ第三帝国との対立の過程で南洋群島返還問題が起こった結果、日本はミクロネシアの領有を宣言していた。
とはいえ、現在ではかつてのような同化政策は行っていない。南洋群島に存在するマリアナ、パラオ、トラック、マーシャルには本土の都道府県制とは違って州制が敷かれ、先住民族含めて一定程度の自治も認められていた。
もっとも、独自の有力な産業が育たなかった南洋群島は、日本人による砂糖生産、漁業によって経済を成り立たせていた歴史が長く、現在に至るまで南洋群島の経済は日本本土に依存しているといえた。
そのため、日本政府の打ち出した観光立国政策に現地の住民や移住してきた日本人たちは積極的に賛成し、観光による収入と雇用の増大を図っているのが現在の南洋群島であった。
南国の島とはいえ、国内ということもあって浜辺には本土からの観光客と思われる日本人たちが大勢いた。これが五月のゴールデン・ウィークになれば本土からの観光客はさらに増えることだろう。国内であることに加え、時差がないことも日本人にとって大きい。
とはいえ、観光立国政策の影響や治安の良さもあり、外国人観光客も大勢いる。近年では、ヨーロッパ地域からだけでなく、アジア地域からの観光客も増えていた。
その中に、金髪の少女の姿があった。
年の頃は十代後半らしく、胸の膨らみが水着をしっかりと押し上げていた。その上から、長袖のパーカーを羽織っている。
彼女はパラソルの下のビーチチェアに寝そべりながら、コロールの町のコンビニエンスストアで買ってきた英字新聞を読んでいた。
「……華の帝都よりも、こっちの方が霊的治安は良さそうね」
新聞の一面には、昨夜、東京港で発生した鬼による騒擾事件が写真付きで報じられていた。
容疑者の氏名と顔写真も公開されているが、残念ながら容疑者死亡のまま書類送検となる見通しのようだった。
とはいえ、これだけ巨大な鬼が出現しながら、埠頭の被害は最小限で、貨物船からの積み下ろし、積み込み作業は支障がないとのことであった。記事では、陰陽庁が独立祓魔官を動かして事件に対処したことが紹介されていた。
これまでの“魂喰い”で後手後手に回っていた陰陽庁であったが、最後の最後で帝都の被害を食い止めた形である。
問題は、容疑者が陰陽庁の元祓魔官であったことだ。
魔術師という存在が特殊である以上、それをどう国家が管理していくべきであるのか、それが今まで以上に課題となりそうだという問題提起で新聞記事は締め括られている。
「ヴァルキュリヤ・シリーズの件は、一つもなし、か……」
ぽつりと、彼女は呟いた。
ビーチチェアの傍らのテーブルには、トロピカル・ジュースと共に、複数の新聞社による英字新聞が重なっていた。
「あの子は、どうなったのかな……」
海の彼方を、遠い目をして彼女は見つめた。
その時さくりと、金髪の少女の背後でビーチサンダルが砂浜を踏みしめる音がした。
「あなたたちは、何か情報を得ているのかな?」
後ろを見ずに、彼女は背後に現れた人物に尋ねる。
「おや、見つかってしまいましたか」
声は可憐な少女のものであるが、どこか時代がかった発音の英語だった。聞く者が聞けば、ドイツ訛りがあることに気付くだろう。
「残念ですな。せっかく、そこの売店で買ってきましたのに」
発音と言葉の調子がまったく合致しない声の主が、金髪の少女のパラソルの下に入ってきた。手には何故かプラスチック製の水鉄砲。
これで水をかけて、驚かせるつもりだったのだろうか。
「お久しぶり、と言うべきですかな? ブリュンヒルデ殿」
サングラスを外して顔をあらわにした人物は、可憐な声の通りの少女だった。年の頃は金髪の少女よりも三、四歳年下といったところ。まだ女性としての体の膨らみに欠ける年代の十代前半の少女だった。
だが、その髪は南国においてすら雪を連想させるほど白く、水着故に露出の多い肌も南洋の太陽が毒ではないかと思えるほど白い。
「ヒルダでいいよ、って何度も言っているんだけど。ジークリンデ」
「こちらこそ、親しくリンデでお呼び下されと、申し上げているはずなのですが」
「……」
「……」
友好的なのか敵対的なのか、よく判らぬ視線を二人は交わす。
「……で、私をずっと監視でもしていたわけ?」
ブリュンヒルデと呼ばれた金髪の少女が問う。
「いえ、そのような疲れることはしておりませぬ」ジークリンデという名らしい白雪の少女は答える。「ヴォルフラム・ミュラーがヴァルキュリヤ・シリーズの製造技術を学び、日本に渡った。その情報を貴殿らが得ておりますれば、必ず動くと我が主が予測しましてな。行方を追っていたわけです」
「結局、帝都に着く前に決着がついっちゃったみたいだけど」それが悔しそうに、ブリュンヒルデは新聞記事に目を落とした。「せめて、あの子がどうなったのかと、ミュラーの行方だけでも追わないと」
現在、彼女は南洋群島で足止めを喰らっていた。南洋群島は日本の領土であるため、日本国内の情報を得やすいという利点がある一方、帝国海外領土から本土へ向かおうとする外国人に対する入国審査は厳しい。
これは、帝国海外領土経由で不法入国する外国人への日本政府の対策であった。
「いえ、その必要はないかと」
ヴァルキュリヤと同様の名を持つ白い少女はブリュンヒルデの言葉を否定した。
「ミュラーが向かったのは魔都東京ですぞ。事が片付いたということはすなわち、あの死霊術師もまた生きていないということ」
「魔都東京、魔術師たちはそう呼んでいるの?」
「知らないとは意外でしたが、如何にも」ジークリンデは頷いた。「あの地は多くの名だたる魔術師たちが消息を絶った都市。ドイツ東方聖堂騎士団、イギリス黄金の夜明け団、ヴァチカン異端討滅機関の猛者たちの名もその中に混じっておりますぞ」
「知っているわけないでしょう、私は魔術師なんかじゃないんだから」
傷口に爪を立てられたような、痛みと不愉快さが混じった口調でブリュンヒルデは言った。
「これは失礼をば。拙の失言はお忘れいただければ幸いです」
丁寧に謝罪して、ジークリンデは腰を折った。
「そしてもう一人、我らが同胞たる偽りのヴァルキュリヤ。こちらに関しては何とも言えませぬな」
「ふぅん、私は見つけられるのに、あの子は見つけられないんだ」
じっとりとした目で金の少女は白の少女を見上げる。
「面目次第もございませぬ」途端にしゅんとなるジークリンデ。「ですが、我が主も行方を追ってはおります」
「それは、何のために?」
途端、ブリュンヒルデと呼ばれた少女の声が冷えた。
「無論、機密の漏洩を防ぐために」
そして、それに怯えることなく義務的に答えるジークリンデ。
「我ら偽りのヴァルキュリヤは、万全の状態であれば世界情勢にも影響を及ぼしかねない存在。それを一つの国家が独占すればどうなるか、貴殿が一番それを理解しておられるはずですが」
「古傷を抉られて、さらに引っ掻き回されて塩を塗り込まれている気分だよ」
ブリュンヒルデはパーカーに包まれた左腕をぎゅっと掴み、吐き捨てるように言った。
その下に隠されたものを、ジークリンデは知っている。
「重ね重ねの失言、お許し下され。ですが、これは貴殿も理解しておられるはず。だからこそ、貴殿らは行動を続けておられる。決して、我ら偽りのヴァルキュリヤが国家の手に渡らぬように、その技術が流出しないように、―――我らが造物主、エドゥアルト・フォン・ローゼンベルクを殺すために」
「私は、あの男を造物主だと思ったことはない」
それは、断固とした口調だった。
「あの男は、私からすべてを奪っていった。ただの頭のおかしい魔術師でしかないわ」
「それに関しては拙も同意するにやぶさかではありませぬ」
「……あなた、人造人間にしては思考が自由よね」
一瞬前までと違い、ブリュンヒルデは毒気を抜かれたようになる。
「元人間である偽りのヴァルキュリヤ殿がそうおっしゃられるのであれば、そうなのでしょうな」
さして感慨を受けたふうでもなく、ジークリンデは応じた。
はあ、と嘆息めいた溜息をついて、ブリュンヒルデはビーチチェアに背を預ける。
「いいわ、お礼を言ってあげる。東京ついては、情報を十分に集めてから行くことにするわ。だけど、ミュラーが製造に成功したという子の行方を追うのを諦めたわけじゃないからね」
「東京については、貴殿らの伝手でも情報を収集することをお勧めしますぞ。何せこれから、あの地は忙しくなりそうですからな。すでに、今回の事件を受けて西欧教会勢力が動き始めたとの情報がありますぞ」
人間に従うために感情を抑制して製造される人造人間。なのに目の前の白い少女は、悪巧みを思いついた子供のような表情で笑ったのだ。
「何か企んでいるのね? 私に聞かせてもらえるのかしら?」
「元々、日本人が我らの同胞を得るために接触したのは、我らが造物主だったのですよ。だけれども、我らが造物主殿は、ミュラーにヴァルキュリヤ・シリーズの製造法を伝授することで、東京行きを回避した」
「なるほどね」
呆れたように、ブリュンヒルデは言う。
「ミュラーはローゼンベルクにとって、カナリア扱いだったってわけ? あるいは、威力偵察かしら? 西欧教会勢力も、結局はローゼンベルクの思惑通りに動いているということね」
「魔都に何が潜んでいるのか、それは単にあの国の魔術師が凄腕なのか、あるいは本当に天照大神とやらの加護があるのか、魔術師にとって興味は尽きませぬ。だけれども、事前情報なく飛び込むのは危険と我が造物主は考えられたわけなのですよ」
「あなたの主も、相当趣味が悪いわね」
「はて? 何のことでしょうか?」
本気で言っているのか、ジークリンデは首を傾げた。
「私たちがあなたたちよりも先に東京に向かうように仕向けたことが、よ」ブリュンヒルデは言った。「ミュラーの造り出した子の行方を追って、もし生きていた場合には私たちが保護する。そのためには、ローゼンベルクに先んじて東京に向かわなくてはならない。こういうことよ」
「なるほど。合点承知いたしました」そして、少し照れたように続ける。「何しろ拙は一介の武弁として造られておりますが故、頭脳戦は得意分野ではないのです」
そう言って、彼女は手の中にある水鉄砲に視線を落とした。
「はぁ……でも東京行きはもっと先になっちゃうのか」
唐突に、残念そうな口調でブリュンヒルデは呟いた。
「如何されましたかな、ブリュンヒルデ殿?」
「ちょっと、日本に会いたい人がいたの」南国の太陽に照らされた海面、その先にある場所を幻視しながらブリュンヒルデは続けた。「リガで、私を殺さずに見逃してくれた日本人。多分、私が人間だったからから、そうしてくれたのかもしれないけど」
そう言って、もう一度彼女は左腕を掴む。
「年齢は多分、私と同じくらいかもう少し年下。名前も、私の仲間たちや伝手を使って色々調べた。アリサカっていう名前らしい」
「ほう、それでは今頃御年八十や九十にはなっておいででしょうな」
「もう、とっくに死んでいるの」遮るように、ブリュンヒルデは言った。「一九四五年、名誉の戦死」
「……人の世とは、切なきものですな」
ジークリンデが首を振った。純粋な人造人間である彼女には、人の死を悼むということがいまいち理解出来ない。
「あるいは、我ら偽りのヴァルキュリヤが戦場から人を駆逐すれば、そのような悲劇はなくなるのかもしれませんなぁ」
すべての将兵を、人造人間に置き換える。その未来像を平然と語るジークリンデ。あるいはそれは、人を象った人ならざるものに生まれた彼女なりの矜持なのかもしれなかった。
さてその後、何を思ったのかジークリンデは海へと飛び出していった。
恐らく人生初の海水浴だったのだろうが、あの白い肌に南国の太陽はきつ過ぎた。
結果、真っ赤に日焼けしてのたうち回る彼女を、ブリュンヒルデが介抱することになった。
その間ずっと、「主殿ぉ、お助け下され。主殿ぉ」と繰り返していたのがこの上なく鬱陶しかったが。
◆ ◆ ◆
虎徹は主人たる白銀の魔女の前で、直立不動の姿勢を取っていた。
手先がこの上なく不器用な眷獣のために、主手ずから正装を着させているのだ。
鏡に映る自分の姿がいつもとかけ離れ、この魔族の少年はひどい違和感を覚えていた。それに、耳を隠すフードがないのも落ち着かない。
楓ちゃんとは仲直り出来たとはいえ、世の中には魔族を苦手としている人間はたくさんいる……
救いたかった人造人間の少女が宮内省皇宮警察御霊部に連行されて安否が判らなくなって以来、虎徹の気分は沈みがちだった。
「なあ、ご主人。本当にこんな格好が必要なのか?」
「『ご主人様』だと、何度言ったら判るのだ、この駄犬は?」
今まさにネクタイを締めていた沙夜は、それをきつめに締め上げる。
「ぐぇ、締まっている! 締まっているのだ、ご主人!」
「まったく……」
嘆息と共に、沙夜はネクタイを適正な位置で締め直した。
その沙夜も、すでに女性としての正装に身を固めていた。
「輪王寺宮から直々に今回の件についてお褒めの言葉を頂くんだ。眷獣の貴様がみすぼらしい格好では、主人たる私の品位が疑われるだろう?」
沙夜は苛立たしげに言い放った。
そうしたささくれ立った感情は、皇族に謁見する煩わしさと、謁見の持つ政治的意味がもたらす厄介さが原因だった。
すでに遠野家の屋敷の外では、輪王寺宮家が回した黒塗りの車が待機していた。
やがて、主人と眷獣を乗せた車が港区芝の一角に向かって走り出した。
◇◇◇
「有坂祓魔官と遠野祓魔官に、大きな借りを作ったな」
陰陽庁庁舎の長官執務室で、陰陽庁東京本部長の賀茂憲行が言った。
「とはいえ、これで事件は一段落だ」
いささか以上に張りのない声で長官たる土御門晴重が応じた。二人とも、連日の激務で肉体的にも精神的にも疲れ切っていた。
「事件そのものは、な」
意味深な言い回しで、賀茂は言う。同期生の言いたいことを、土御門も承知していた。
「今後は、内部に注意しなければならんな」
椅子の背もたれにだらしなく背を預けながら、彼は言った。
「恐らく、今まで以上に俺を引きずり下ろそうとする連中が出てくるだろう。どうも若い連中にとって俺は、『家柄だけで長官になった指導力のない人間』と思われているようだからな」
「まったく、自らの不平不満の原因を他者に求めることほど非生産的なことはなかろうに」
そう賀茂は皮肉った。
「組織利益という点からは、今回の結果は可もなく不可もなく、といったところだ」
一連の霊的騒擾事件は、元祓魔官の犯行である。これが組織利益に反するが故に、内務省も陰陽庁も捜査には消極的であった。
だが、実際には独立祓魔官である遠野沙夜が丹羽による事件を解決した。
独立祓魔官とは、陰陽庁長官直属である。
外面的には、長官の迅速な判断が事件の被害を最小限度に留めたといえる。だが、内面的に見ればまた別の意味もある。
土御門は内務省からの圧力もあり、官僚的手法さながらの内部調査の実施を決定していた。その結果が出る前に、独立祓魔官が事件を解決してしまったのである。
内部調査と平行して遠野祓魔官は動いていたとはいえ、各部署の面子は丸潰れ。功績は長官と独立祓魔官が独占することとなった。
今後、部内統制に一層の注意を払わねば、庁内に神国派と繋がりを持つ連中は増加してしまうだろう。
「まあ、事件は現場で起きているのではない、会議室で起こっているのだ、といったところか」
とある映画の台詞をもじって、土御門は皮肉った。
「密かに、思想的に問題のある祓魔官のリストを作成せねばなるまい」賀茂が言う。「もっとも、我々が疑心暗鬼に陥って陰陽庁が機能不全になる可能性もあるがな」
「神国派が帝都で騒擾事件を引き起こすよりはマシと考えるべきだろう」
「まあ、妥当な意見だな」
二人の祓魔官は、強く頷き合った。
◇◇◇
「此度の事件解決への献身と尽力、誠に見事でした。遠野沙夜独立祓魔官」
輪王寺宮邸の応接間にて、輪王寺宮信久王はそう労った。
「……はい」
一方、沙夜は儀礼的な応答以外は一切口をつぐんでいた。
この謁見の政治的意図、それは皇室は騒擾事件を絶対に許しはしないということを神国派に伝えることだった。
だからこそ、沙夜は自分がそうした政治的いざこざに巻き込まれたことを呪っていた。
師匠ほどに皇室尊崇の念を持たない沙夜にとって、謁見自体が苦痛であるし、その後の面倒はもっと苦痛であった。
沙夜は自分が主導権を握れる、もっと端的に言えば支配する側に回ることは好きであったが、誰かの作り上げた状況に放り込まれる、つまりは支配される側に回るのは絶対に嫌であった。
「ところで、式神殿」
信久王が、言葉を虎徹に向ける。
「う、何なのだ、です」
まったく意味不明な敬語を使って犬耳の少年は応じた。沙夜がもの凄い視線で睨んでくるが、流石に口を挟むのが不敬であると判っているのか、何も言わなかった。
「貴殿は甘いものが好きだと聞いていたのですが、如何ですか?」
「う、甘いものは大好物だぞ、です」
「それはよかった」
にこりと笑った老年の皇族は、卓上の呼び鈴を鳴らした。
「失礼いたします、殿下」
その声に真っ先に反応したのは虎徹。耳がピクリと動き、びっくりしたように開けられた扉を見る。
「皇室御用達と名高い和菓子屋の羊羹を用意させました。ささやかではありますが、事件解決に遠野祓魔官と共に尽力して下さった貴殿への褒美ということで」
いたずらが成功したことを喜ぶ上機嫌な口調で、王は言った。
甘いものに目がない虎徹は、しかし盆の上に乗る羊羹ではなく、それを持ってきた女中の姿に目が釘付けになった。
白い髪に、病的なほど白い肌。いや、今は内部にしっかりと温度が通り、色白ながらも血色の良い肌をしていた。
そして華奢な体格。
それは昨夜、機密保持のためにと宮内省皇宮警察御霊部に連行されたはずの戦乙女の人造人間だった。
◇◇◇
久遠の宮殿たる北辰宮は、相変わらずすべての時間の色を混交させた空の下にあった。
宮殿の主たる女帝は、自身の書斎で筆を執っていた。
ボールペンや万年筆、さらにはパソコンなどという機器の発達した現代。それでも数千年を生きる妖狐は、自分が一番慣れた手段で文字を書くことにしていた。
中華風の書斎の中、巻物にさらさらと達筆な字で文字を連ねていく。
「相変わらず、記録を付けているんだね」
その様子を後ろから見守っていた銀嶺が口を開く。
書斎の棚には、巻物が大量に並んでいた。久遠の持ち物の中では、それらは非常に新しい部類に入る。棚の巻物は、「昭和十九年」と書かれたものから始まっていた。
「うむ、いずれ我らは新しき神話を作る。そのための記録よ」
銀嶺に背を向けて文机に向かったまま、久遠は堂々とした口調で答える。
「妲己による『封神演義』ってところかな。妲己時代の回想録でも出せば、売れそうだけど。妲己視点の『封神演義』なんて、面白そうじゃないか」
「我の手のひらで踊る愚か者どもの記録など、面白くも何ともないわ」
物語の世界では活躍している人物たちを、元妲己はばっさりと酷評する。
「じゃあ、今回はどうなのかな?」
何気ない銀嶺の質問。
この時代の人間もまた、彼女の手のひらで踊っているだけなのか。あるいは、これから踊らそうとするのか。
一九四四年、昭和十九年に封印を解かれた神代の大妖。
少なくとも銀嶺の見ていた限り、九尾の狐は人間社会への過度な介入は行っていない。世界各地で起こる戦争、紛争、対立は、すべて人間たちの愚昧さによって引き起こされている。
「今回、か」
にぃ、と久遠は嗤った。見るものを怖気させるような、凄絶な笑み。
「我はな、人間どもに勝ち逃げなどさせぬ」
彼女は平安時代に一度人間に敗れ封印され、そして封印から解放された直後で万全の態勢ではなかったとはいえ、篁太郎にも敗れている。
ただ篁太郎自身は、あれは反則をして勝ったと思っているらしいが。
「それは、篁太郎にも、かい?」
「あれは我が臣下よ。女帝たる我は臣下には寛容だ」
「ふぅん」
意味深に頷く銀嶺。
この女帝は、臣下というよりは篁太郎に寛容なのだ。でなければ、人間などという存在を彼女は臣下に加えたりはしないだろう。
「それに、人間とは相容れぬ我が人間を臣下とする。奴らに対するこれ以上の意趣返しもあるまいて」
「その理屈だと、いずれ篁太郎はあなたと共に人間と敵対することになるということだけど?」
「はん、そんなことは今更よ」久遠は鼻で嗤った。「すでに一度、篁太郎は人間どもから切り捨てられている。我と契約した得体の知れぬ存在として、遠い異国の地で戦死することを求められた。その時点で、篁太郎は我らの側の存在よ」
人間という存在の愚かしさと卑劣さを嗤うように、彼女は唇を歪めた。
「だから、あやつが守ろうとしているのは人ではない。大日本帝国という国家なのだ。その歪みを、あやつはどこまぜ自覚しておるのか」
「その歪みを正すことを、契約者のあなたはしてきたのかな?」
その指摘に、久遠は妖しい笑みで応じた。
「それは、我とあやつとの契約内容に含まれておらんのでな」
「やっぱり、あなたは希代の悪女だよ」
やれやれとばかりに、銀嶺は息をついた。そして、今回の事件の顛末を記し続ける女帝の書斎を後にした。
〈あわい〉に築かれた宮殿の回廊を歩きつつ、銀嶺は先ほどの会話を思った。
人間の社会から一度は切り捨てられた篁太郎は、無意識のうちに式神たる妖狐の女帝に依存するようになるだろう。
今はまだ大日本帝国という国家に未練を残しているが、いずれは久遠の言うように妖の側に立たざるを得なくなる。
だけれどもそれは、九尾の狐による策略の結果なのか。
どこかで、篁太郎はそれを理解しているような気もしないではない。
「だとしたら、本当に依存しているのはどっちなのかな」
皮肉げに、銀嶺はそう呟く。
神代の大妖にして神獣、孤高ともいえる態度で人間たちと戦い続けてきた九尾の狐。
妖たちはそれ故に彼女を畏怖し、近づくことを避けている。
人間もまた、邪悪なる妖として九尾の狐を嫌悪する。
だとしたら、篁太郎は久遠にとって初めて出来た共犯者にして、理解者なのではないだろうか。
それを、彼女は手放したくないのではないだろうか。
「ああ、やっぱりあなたたちは面白いよ」
不遜ともいえる態度で呟く王子の狐。
「神代の獣が、人間と共に紡ぐ物語。確かにそれは、新しき神話だろうね」
だとしたら、これまで孤独な戦いを続けてきた九尾の狐の結末もまた、違ったものになるのかもしれない。
物語の終着点がどこになるのかは、銀嶺にだって判らない
―――だからこそ、その結末を見届けてみたいと思うのだ。
これにて、第一部は完結となります。ここまでの長いお付き合い、本当にありがとうございました。
終章の冒頭で登場した二人については、今後も裏で暗躍していただくことになります。ただ、それを上手く描けるかは筆者の力量次第ですけれども。
まだまだこの物語で描きたいことは沢山ありますので、それは二部以降で描いていきたいと思います。
第一部全体にわたって、ご意見・ご感想等いただければ、今後の執筆の参考にさせていただきます。
皆さま、お手数かとは思いますが、今後の執筆活動のためにご協力をお願いいたします。
なお、活動報告も書いておきますので、今後の投稿についてはそちらをご参照下さい。
それでは、第二部、あるいは他の連載でまたお会いいたしましょう。




