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第一部 第五章 第四節 グレイプニル

「決着が、ついたようだな」


 久遠はそう言って東京港を見下ろした。

 今、彼女は本来の九尾の狐の姿に戻り、空を駆けるように浮いていた。四本の足には、それがまるで足場であるかのように、青白い狐火をまとっている。

 その背に、篁太郎は乗っていた。


「案外、呆気ない最後と言うべきか?」


「まあ、虎徹君の封印を解いたのなら、そうなるでしょうね」


「むしろ、それであの駄犬が苦戦するようなら、神代に生まれしものたちの名を汚すことになったであろうよ」


 久遠は辛辣に、虎徹の戦いを評価した。


「……さて、当たりを引くのは誰でしょうね」


 篁太郎は、ドラグノフ狙撃銃を抱えながら独りごちる。以前に使用したバレットM107A1は、高威力ではあるのだが、対物狙撃銃であるという関係上、久遠に騎乗して扱うには難しすぎた。

 この、ドイツ第三帝国によって崩壊したソ連からシベリアのロシア帝国へ逃れてきた設計者によって開発された狙撃銃は、軽量で取り回しが容易であった。


「俺たちか、銀嶺か、沙夜たちか……」


 現在、篁太郎と久遠は東京湾上空にあって東京港での戦況を確認していた。そして一方、銀嶺を千葉県にある廃墟のマンション、つまりはミュラーの拠点となっていると思しき場所へと向かわせていた。


「なあ、篁太郎よ」


 久遠が首を回して、背に乗る篁太郎を見据えた。


「生きながらえるよりも、いっそ死んだ方が本人にとって救いとなるということもあるだろうよ」


「……それは、俺が一番理解出来ていますよ」


 どこか虚無感を滲ませた声で、久遠の主たる陰陽師は応じる。


「それに、それを久遠が言いますか。俺を、生きながらえさせたくせに」


 その声は恨み言のようにも聞こえ、怨嗟のようにも聞こえ、悲しむようにも聞こえる言葉だった。


「我はお前の契約者よ。契約者に死なれては困るが故、な」


 そんな篁太郎の心情を斟酌することなく、久遠は返す。


傀儡(くぐつ)どもにとっては、どうだったのであろうな」再び、九尾の狐は視線を東京港に落とした。「生きながらえたところで、また人間どもに利用される運命(さだめ)が待っているだけかもしれんぞ」


 助けたいという善意が、かえって相手を苦しめる結果となる。久遠はそう言いたいのだ。

 それが、かつて多くの人造人間(ホムンクルス)たちを手に掛けた篁太郎への慰めであったのか、自身は死を望みながら他者を生きながらえさせようとする篁太郎の矛盾への辛辣な皮肉であったのかは判らない。

 そして、その矛盾に葛藤を抱くほど篁太郎も若くはない。その歪さすらも自身の一部として受け入れている。


「とはいえ、今更言っても詮無きことか。お前のその歪みは、今に始まったことではないものな」


 嫌悪するでもなく、嘲るだけもなく、ただ受容するように久遠は言うのだ。


「その醜悪さを愛でるのも、また一興よ」


 邪な笑みを、久遠はその獣面に浮かべた。だが、篁太郎はそんな式神の態度に礼を言うように、そっとその首筋を撫でるのだ。


「さて、こうしてお前と戯れるのもよいが、お前としてはそうもいかんだろう」久遠は話題を本来のものに変えた。「結局こちらは外れかの?」


「まだ、判断するには早いかと」


 篁太郎はドラグノフ狙撃銃の狙的鏡(スコープ)を覗き込みながら言った。

 彼らにとって問題だったのは、ヴォルフラム・ミュラー側の出方であった。これまでも、彼は自身を模したクローン式人造人間(ホムンクルス)で活動を行っていた。もし、あの戦乙女(ヴァルキュリヤ)人造人間(ホムンクルス)を回収するために、またそうした自身の身代わりを派遣してくるようであれば、その身代わり人形の操作に気を取られている隙に本拠地へと突入する。

 だが、篁太郎はもう一つの可能性を警戒していた。

 だからこそ、あえて久遠に本来の姿を取らせ、東京湾上空で待機してもらっているのだ。


  ◇◇◇


 東京港には久遠の結界が張られていたため、埠頭周辺の被害は最小限度に押さえられている。本物の百鬼夜行でもなかったことから、やはり周辺の霊的汚染は起こっていない。


「……あの女狐に、また借りを作ってしまったか」


 沙夜はそう言って嘆息した。

 ここまでの結界を展開するは、沙夜には出来ない。いや、篁太郎にも無理だろう。人間の持つ霊力では、東京港を包み込み、かつ被害を結界外に及ぼさないという強靱なものを構築するのは不可能だ。

 少し離れたところでは、倉庫の壁面に背中を預けた姿で昏睡するラーズグリーズの姿と、それに寄り添う虎徹の姿があった。

 あの少女はおそらく、今日中に命を失うだろう。沙夜が魔術的治療を施したので、一時的に意識は取り戻せるだろうが、気休めにしかならない。

 虎徹は神代の魔族であるが、瑞獣という側面を持つ九尾の狐ほどの神性を持つ魔族ではないため、その魔力をあの少女に注ぎ込むわけにはいかなかった。

 ケルベロスの持つ神性は、かつての主であった冥神ハデスから与えられたもので、九尾の狐が持つ純粋な神気ではない。本来、ケルベロスとは怪物テュポンとエキドナの間に生まれた、魔物なのだ。生来の神性は持たず、その神性もまた、異形の黒妖犬へと堕ちたことで劣化している。

 虎徹の魔力を人造人間(ホムンクルス)に注ぎ込んだところで、おそらく魔力の拒否反応を起こして寿命をさらに縮める結果にしかならないだろう。

 この結末が最良であったのか、沙夜には判らない。東京都民に被害は出ず、港にもほとんど被害はないので経済的な損失も最小限度に抑えられただろう。

 帝国の霊的治安を維持する祓魔官としては、最上の結果だ。

 だが、沙夜は苛立つような後味の悪さを覚えている。

 結局、人に作られ、弄ばれた戦乙女(ヴァルキュリヤ)の少女は救われることはなかった。最後はミュラーから解放されたことがせめてもの慰めになるのかもしれないが、救いではあり得ない。

 あるいは、あの女狐ならば、この白い少女を自身の眷属とすることで生き延びさせられるかもしれない。そう考えた沙夜は、一瞬、あの憎い九尾の狐に頭を下げることを真剣に考えた。

 だが、そうはしなかった。あの大妖の(しもべ)となることが、ラーズグリーズと呼ばれる人造人間(ホムンクルス)にとって幸福だとはとても思えない。自身の師である篁太郎と同じ不幸を招くだけだ。

 それに、もし篁太郎がラーズグリーズを助けたいのならば、篁太郎自身が女狐に頼んでいたはずだ。

 それをしないということは、あの師も沙夜と同じことを考えているからだろう。


「馬鹿犬、そいつの容態が落ち着いたら、家に運ぶぞ」沙夜は自身の眷獣に言った。「せめて、ベッドに寝かせてやらねばなるまい」


「う、了解なのだ」


 心なしか、虎徹の声は浮かない。それも無理からぬことか、と沙夜は納得する。

 その時、不意に虎徹の耳が反応した。沙夜も、新たに現れた気配に警戒を強めた。


「警戒していただく必要はありません、白銀の魔女」


 現れたのは、現代風に改造された黒い狩衣を着た者たち。隊長らしき男の後ろに、四人が付き従っている。そして、その全員が何らかの面を被っていた。どれも能で使うようなもので、隊長は鬼の面、翁の面や童子の面も見える。


「皇宮警察御霊部か」


 すぐに、沙夜は彼らの正体を悟った。それは、陰陽庁とは別に存在する日本の魔術機関。皇室の霊的警護などを担当すると言われているが、その活動実態は不明確なところが多い。

 篁太郎も、御霊部について多くを沙夜に語っていない。


「今更、何の用だ?」


 支援に間に合わなかったというのなら、辛辣な皮肉でも浴びせてやろうと沙夜は準備する。だが、隊長の口から発せられたのは、予想外のものだった。


「そのホムンクルスの身柄を引き渡していただきたい」


 その言葉に真っ先に反応したのは、虎徹だった。意識を失ったラーズグリーズを守るように前に立ち、懇願するような視線を仮面の者たちに向ける。


「白銀の魔女、そのホムンクルスを陰陽庁に渡すわけにはいかないことはご理解いただけるでしょう?」


 鬼面の隊長は、虎徹を無視した。

 彼の言葉に、沙夜も渋々ながら同意する。陰陽庁にヴァルキュリヤ・シリーズの情報を渡せば、どのように悪用されるか判らないという問題がある。

 陰陽庁が決して善良な治安維持機関でないことは、沙夜もよく知っている。神国派、あるいは神国派と繋がりのある人間は、過去も現在も確実に陰陽庁を巣喰っている。

 それを明確な形で捜査しないのは、官僚組織特有の組織利益が関係しているためだ。


「そして、あなたがホムンクルスを保護したところで、何になるというのです?」


「……っ」


 沙夜は痛いところを突かれた。彼女に出来ることは、せめて少女の死に際を安らかなものにしてやることだけだ。


「オマエたちは、こいつをどうするつもりなのだ?」


 堪らずに、虎徹が訊いた。


「単純なことです。機密を保持するのに適切な措置を取るだけです」


 どさり、と何かが落ちる音がした。放り出されたのは、一体の遺体。干からびた醜悪な死体である。


「その死体は、今回の事件の首謀者の一人、丹羽教光です」隊長は続けた。「百鬼夜行絵巻から生み出された鬼は、この男が自身の命を核にして顕現させたもの。故に、霊力を絞り尽くされた丹羽容疑者はこのような遺体となった」


「……」


「これが、公式に記録される今回の事件の概要です。そこに、ヴァルキュリヤ・シリーズなどというホムンクルスは関わっていなかった」


「それが、篁太郎の筋書きか」


 吐き出すように、沙夜は問うた。この男たちの背後に、沙夜は明確に師の存在を嗅ぎ取った。


「ええ。神国派にヴァルキュリヤ・シリーズの情報を渡さないためには、これが一番でしょう。もし神国派がヴァルキュリヤ・シリーズの製造に関する情報を入手し、それを元に量産、クーデター計画を企てたらどうです? 二・二六事件以上の混乱がこの国に起こる。帝国の安定のためには、事件の真相は闇に葬る。これが、輪王寺宮殿下、澄子女王殿下、そして有坂祓魔官の結論です」


「結局、貴様らは国が第一だというのか?」


「国体の護持、帝国の安定的発展、そして東亜の安定勢力としての実力、誰が国家を思わざるものか」


「この狂信的愛国者どもめ」


 沙夜は吐き捨てた。彼らとて、神国派と紙一重の精神性しか有していない。彼女にはそう思えてならなかった。


「それは、あなたの師への侮辱でもありますよ、白銀の魔女」


 だが、罵倒された隊長は冷静だった。


「我々は右翼でも左翼でもない。まして神国派でもない。ただ皇室と国家に忠誠を誓っただけの存在でしかない。皇室と国家に危険をもたらす者ならば、相手の主義主張に関係なく断固として排除する。それが有坂祓魔官の方針であり、我々の方針でもあります」


 沙夜は唇を噛んだ。篁太郎がそういう人物であることは、ずっと前から知っていた。

 あの師が最終的な判断基準として重視するのは、国家なのだ。それに反さない範囲において、師は人間らしい甘さを見せる。

 あるいはそれは、戦争を生き残った世代と、沙夜のように戦争を肌身で感じたことのない世代との差なのかもしれない。


「……虎徹」


 沙夜は己の眷獣(サーヴァント)に呼びかけた。珍しく、彼女自身がつけた名前で。


「ご主人」


 それが引けという意味の命令だと気付いて、虎徹の瞳が揺れる。


「虎徹、主人からの命令だ」


 なおもラーズグリーズの前からどこうとしない虎徹に、沙夜は再度の命令を下す。


「……」


 虎徹は案ずるような視線を意識のない少女に向けると、後ろ髪を引かれる思いで主人の命令に従った。彼にとって、主人の言葉は絶対なのだ。


「……一つだけ、聞かせろ」


 体から漏れ出す魔力で威圧しながら、沙夜は人造人間(ホムンクルス)を拘束する者たちに問うた。


「お前たちが、ヴァルキュリヤ・シリーズの情報を悪用しないという保証は?」


 この神国派と紙一重の連中を、沙夜はどうしても信頼出来なかった。本人や篁太郎、輪王寺宮からの評価はともかく、彼女は御霊部もまた信用していないのだ。


「その場合は、我々が有坂祓魔官に消されるだけです。あるいは、あの九尾の餌でしょう。その遺体のように」


 何でもないことのように、隊長は言うのだ。そして、それで沙夜は納得せざるを得なくなった。

 彼らがラーズグリーズをこれ以上弄ばないと判ったことが、せめてもの慰めだろうか? 沙夜はこの時ばかりは、師の判断を呪わざるを得なかった。

 そして虎徹は、拘束された少女が連れて行かれた方向を、いつまでも見つめていた。


  ◇◇◇


 地上ですべての決着が付いた一方、東京湾上空では篁太郎と久遠が最後の戦いを始めていた。

 突如として久遠を囲うように出現した魔法陣。

 だが、彼女はその鋭い感覚によって、魔力の波動を事前に感知していた。

 (ゲート)の役割を与えられた魔法陣から射出されたのは、鎖。それらが九尾の狐を捕らえようと、伸びる。


「なるほど、我らの方に来たか」


 巨体をくねらせ、空を蹴り、久遠は自身に絡みつこうとする鎖から逃れる。


「多くの魔獣、神獣を捕らえて己が実験材料としてきたミュラーです。やはり、というべきでしょう」


 姿勢を低くして久遠の背にしがみつきながら、篁太郎は急激な遠心力に耐える。

 久遠と銀嶺が相馬楓と李恵蘭を襲撃から守ったことで、ミュラーは九尾の狐の存在を知った。それが逆に、ミュラーの次の行動を読む材料にもなったのだ。

 ミュラーが日本に来て最初に襲撃したのは王子神社。つまり、彼は単に自身の人造人間(ホムンクルス)を売り込みに来たわけではない。

 ケルベロスの三男を捕らえたように、新たな実験材料を求めていたのだ。

 だからこそ、ミュラーを誘い出すために久遠に協力してもらった。もしミュラーが警戒して乗ってこなければ、彼の構築した拠点を強襲するだけである。

 篁太郎としては、丹羽を始末した以上、ミュラーがどのような行動に出ようとも構わなかった。

 鎖が、久遠を捕らえようと追いすがる。


「空中戦とは面白い趣向よ。かつての大戦でも、演じたことのない戦いよなぁ、篁太郎」


 不敵に叫びながら、久遠は東京湾上空で空中演舞を演じる。


「罪人の分際でこの我を興じさせるとは、褒めてつかわすぞ、ミュラーとやら」


 高らかな哄笑が妖狐の女帝の口から放たれる。

 行く手を塞ぐように現れる鎖を、足に絡みつこうとする鎖を、胴を締め上げようとする鎖を、久遠は華麗な身のこなしでかわしていく。

 転移魔法の乱発ともいえる魔法陣の展開。

 篁太郎は式神の背中にしがみつきながら、その術式を読み取り、術の起点を探ろうと分析を続ける。

 相手が犬系魔族の対策を取っているとはいえ、久遠はその鋭い聴覚で魔力の波動を検知出来る。だが回避行動に集中しているために、その能力は鎖を射出する魔法陣に向けられていた。

 だからこそ、篁太郎が術の起点、つまりは術者のいる場所を探ろうとしているのである。

 彼は次々に展開される魔法陣を見る。

 的確な鎖の射出。

 相手はこちらを何らかの手段で視認しているはず。拠点から使い魔を通して間接的に目視しているという可能性もあるだろうが、そう術者本人との距離があるとは思えない。

 恐らく、この鎖は本人しか使えない。もしクローン式人造人間(ホムンクルス)にも使えるのなら、王子神社の襲撃を行った段階で使用していたはずだ。それだけの精密さが、鎖の制御と転移には求められているのだ。

 その鎖は、膨大な魔力を内部に宿していた。霊装としては、本人の技量と霊力が相応になければ扱えない、難物である。

 そして、そうした魔具に篁太郎は心当たりがあった。


「久遠、この鎖は恐らくグレイプニル、北欧の魔狼フェンリルを縛っていたドワーフ族製の鎖です」


「なるほど、神話の魔具か」久遠が凄惨に嗤った。「下賤の罪人が持つには過ぎたるものよ」


 恐らくはこの鎖で、ミュラーは多くの魔族や神獣を捕らえてきたのだろう。だからこそ、久遠は怒っている。妖狐の女帝たる彼女にとって、人間の魔族に対する行いは許しがたい狼藉なのだ。


「久遠、お台場に向かって下さい」


 唯一、久遠が自らの背に乗るという無礼を許している男からの指示が飛ぶ。

 九尾の狐の背にしがみついているために両手が塞がり、暗算で魔術起点の測定を行っていた篁太郎が、ある程度の場所を特定したのだろう。

 だが、篁太郎の、久遠の、連携こそが今回は(あだ)となった。

 久遠は無意識の内に、背に乗る篁太郎を振り落とさぬように回避行動を加減していた。だからこそ、相手に付け入る隙を与えてしまった。

 一瞬の行動の緩み、その刹那の時間で、グレイプニルは久遠を捉えることに成功した。


「猪口才な!」


 妖狐の女帝が屈辱と怒りの咆哮を上げる。身をよじらせるほどに、鎖は締め付けるように彼女の体を縛り上げる。


「おのれ、人間風情がっ! この我をここまで虚仮にするとは、その罪万死に値しようぞ!」


 久遠は激情を爆発させた。体から膨大な神気が噴出するが、それは荒魂ともいえる暴力性に満ちた波動だった。


「ぐっ……」


 その神気の奔流を間近で感じることになった篁太郎が思わず呻く。だが、彼は久遠と契約を結んだ存在。どれほど暴力的な神気の波動に晒されようとも、命を落とす心配だけはない。

 グレイプニルは本来、魔狼フェンリルを縛るもの。だからこそ、獣の姿をした相手への相性は非常に良い。

 大妖にして神獣たる九尾の狐を鎖で捕らえることが出来ているのは、そのためだ。

 だが、相手の側にも一つの誤算があった。九尾の狐は、フェンリルのような単なる魔的存在とは異なる、神格をも有する瑞獣でもあった。

 魔的存在を縛り上げるために作成されたグレイプニルにとっても、神性を有する存在を縛り上げるのは負担になっていた。


「久遠、魔法陣に!」


「判っておる!」


 鎖が伸びる起点となっている、空中に浮かぶ幾つものルーン文字で構成された魔法陣。それと対照的な梵字の魔法陣が、久遠の周囲に展開される。


「はあっ!」


 裂帛の声と共に、梵字の魔法陣から魔力の波動が撃ち出された。それが、鎖の根元となっている魔法陣に降り注ぐ。

 破局は刹那の間に訪れた。根元から、グレイプニルが破断したのである。


「はんっ、他愛なし!」


 もし人型の時であったなら、拳でも突き上げていそうな声であった。篁太郎も思わず苦笑した。

 この妖狐の女帝は、冷徹な陰謀家でありながら、どこか激情家な面もあり、子供じみた面もあった。

 そして、鎖による飽和攻撃が途絶したことで、久遠の持つ探知能力を術者の捜索に振り向けることが出来た。すでに、おおよその方位と位置は篁太郎が算出している。

 幻影を利用し、対犬系魔族用の結界を張って姿を隠していようと、妖狐の女帝とその契約者からは逃れられない。


「行け、篁太郎!」


 久遠が空中を駆けながら突っ込んでいくお台場のビルの屋上。

篁太郎は白狐の面で顔を隠すと、式神の背から飛び、両脇の刀を抜いて何もない空間を一閃。その瞬間、空間が歪み、断絶した。

そして、空間が本来の姿を取り戻した時、そこに一人の魔術師が立っていた。


「直接、お会いするのはこれが初めてですかね、ヴォルフラム・ミュラー?」


「……」


 術を破られたからか、ミュラーは鋭い視線で篁太郎を睨み付けている。


「どうやら、此度(こたび)は本物のようだぞ」


 篁太郎の隣に、人型へと変化(へんげ)した久遠が降り立つ。その鋭敏な嗅覚で、人間本来の臭いをミュラーから嗅ぎ取ったのだろう。


「……なるほど、伝説の妖狐も堕ちたものだな」


 ミュラーは白狐の仮面の篁太郎と久遠を相互に見つめ、嘲るようにそう言った。


「ほう?」


 久遠が片方の眉を上げ、剣呑な目付きになる。


「そして、それを使役する人間も人間だ。せっかく使役している神獣を腐らせるような真似をしおって」


 ミュラーの価値観では、篁太郎と久遠の関係が許せないものらしい。


「やはり、日本人は魔術師としては異質だな。八百万(やおよろず)の神々などという()れ言で魔族と馴れ合い、魔族から得られる神秘の探求には目も向けない。魔導を探求する者として、度し難い愚かさだよ」


「生憎と、俺は魔導の深奥を探求することに興味はありませんよ」


「ふん、愚かしさもここに極まったな」嘲りもあらわな冷淡な口調で、ミュラーは続ける。「つまり、貴様は逃げたのだ。魔術師の子に生まれた運命から目を背け、その運命を甘受する覚悟も決められず、貴様の祖先が負った血の責任から逃げた。それに負い目を抱かぬ卑劣さ、恥を知れ」


 彼が指を鳴らした瞬間、篁太郎と久遠を囲むように異形の怪物がビルの屋上に現れる。


「酷い腐臭よ」


 嫌悪もあらわに久遠が言う。現れたのは、王子神社でも使役した死霊術による魔獣たち。

 合成獣製造実験の結果か、その肉体は酷く歪なものが多い。


「毎度、芸のないことよ」


 久遠が鼻を鳴らす。彼女の背後に無数の梵字で描かれた魔法陣が浮かび上がり、そこから放たれた魔力が的確に異形の怪物たちを撃ち抜いていく。


「不可視の理を以って、我が敵を討ち果たすべし。【風刃(ヴィント・クリンゲ)】」


 ミュラーが放った牽制の一撃を、篁太郎は刀の一閃で防ぐ。

 その一瞬の合間に、この死霊術師(ネクロマンサー)は首にかけていた装飾を引き千切り、地面に落とした。瞬間、彼の足下に魔法陣が展開し、彼の体を光が包み込んだ。

 転移魔法。

 九尾の狐と直接対峙する不利を悟り、撤退したのだろう。

 魔術師の構築した陣地は、守るに易く攻めるに難い。そこにただ突っ込むのは、魔術師にとって自殺行為と同義語である。

 だからこそ、ミュラーは自身の陣地に後退した。その判断は、通常であれば間違っていない。無理にこの場で決着をつけようとすれば、不利だったのは彼なのだ。

 それに、彼は未だ自身の構築した陣地が発見されていないと考えているだろう。そこで態勢を立て直し、捲土重来を期すのか、あるいはこのまま逃亡の準備を進めるのかは判らない。

 いずれにしろ、再び態勢が整うまでは籠城という選択肢をするのが常識的である。

 だが、今回に限っては、どの選択肢を取ってもミュラーには不利であった。


「さて、これで準備は整いました」


 篁太郎は、その「自殺行為」をこそ望んでいたのだ。直接、ミュラーの魔術陣地に攻め込むことを。

 ヴァルキュリヤ・シリーズに関する痕跡は消さねばならない。だが、拠点となった廃墟に対するあからさまな破壊行為は出来ない。「ミュラーとの戦闘の余波による不可抗力」という大義名分を立てる必要があったのだ。


「何とも迂遠に過ぎるが、まあようやく終幕ということか」


 久遠が再び九尾の狐本来の姿へと戻る。その背に、篁太郎は飛び乗った。


「では、銀嶺に合流しましょう。流石に彼女一人では、大魔術師の構築した陣地を突破するのは骨が折れるでしょうから」

 篁太郎に銃火器を装備させておきながら、それが活躍する場面が少なくなってしまったのが残念なところです。

 銃火器によるバトル物や戦闘における人間の動きなど、まだまだ勉強すべき点がたくさんあると思う所存です。

 以後も精進に努めます。


 毎度のお願いではございますが、感想、評価、ブックマーク等していただければ励みになりますので、どうかよろしくお願いいたします。


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