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第一部 第五章 第三節 黒妖犬とホムンクルス

 東京湾には、「お台場」と呼ばれる地域が存在する。

 元々は幕末に造られた品川台場と呼ばれる砲台の跡地である。しかし、その遺構は昭和の埋め立てによって次々と姿を消し、今では第三台場と第六台場を残すのみとなっていた。

 そうして現在では、青梅や有明といった埋立地にいくつもの建物が築かれ、外国船の襲来に備えていた江戸時代とはまったく様変わりした現代的な都市へと変貌を遂げている。

 この地域には船や科学に関する博物館や大観覧車など、いくつもの観光名所が存在しているが、夜ともなればそれらの施設も人間と同じように寝静まっている。

 昼間には観光客を乗せて浅草や浜離宮などとの間を往復していた水上バスも、港に係留されていた。

 そうした水上バスの停留所の一つに、丹羽教光の姿はあった。

 ここからならば、対岸の東京港の様子を見ることが出来る。

 見れば、ラーズグリーズを核として形成された墨の鬼は、埠頭のガントリークレーンを超える大きさにまで成長していた。戦闘不能となった戦闘用人造人間(ホムンクルス)にも、使い道はあるのだ。

 とはいえ、核としたラーズグリーズからの急激な魔力収奪は、逆に鬼の存在時間を短くしてしまう。鬼はラーズグリーズからの魔力供給で存在出来ている以上、彼女を生かさず殺さず、調整しながら魔力収奪をしなければならない。

 現在、丹羽が百鬼夜行絵巻を操作しているのはその点であった。後は、霊力源を無差別に襲うよう、予め術式を組み込んでおいた。

 東京港での戦闘がどうなっているのかは距離の関係から不明だが、どうやら絵巻の鬼は標的となる獲物を見つけたようである。

 ラーズグリーズから収奪する魔力の量が、激しい動きのために大きく増えたのだ。

 ただ、戦闘相手の霊力波の観測は出来なかった。陰陽庁が素早く周辺地域に結界を張ったのだろう。

 しかし巨大な鬼を東京に出現させたことで、目標の半分は達成されたようなものである。昨夜は予期せぬ浄化の霊力波によって、絵巻の妖たちは瞬時に消滅させられてしまったが、今夜はそう簡単にはいかないだろう。

 なにせ、絵巻の鬼を実体化させるのに使用しているのは、疑似的なものとはいえ神気なのだ。これに対抗するためには、同等以上の神格を備えた魔族でなければ対抗は難しい。

 後の行動は、同志たちがやってくれるだろう。

 丹羽がそう思った刹那、腰に下げていた鈴が鳴った。

 水上バス停留所一帯に張っておいた人払いの結界に、侵入者があったことを示すものだ。

 咄嗟に、丹羽は呪符を抜いた。

 だが、彼が詠唱する前に一発の銃声が鳴り響く。


「ぐっ!」


 銃弾が彼の肩を貫き、その手から呪符がこぼれる。流れ出した血が腕を伝い、彼の指を濡らす。

 何の呪詛も込められていない、ただの銃弾。それだけで、丹羽は抵抗を封じられてしまった。

 しかし、この元陰陽庁職員の陰陽師は冷静だった。ある種の達成感と安堵感に基づく諦観が彼にそうした態度を取らせていたのだ。


「こんばんは」


 慇懃さを伴って発せられた若い声が、丹羽の耳朶を打つ。

 現れたのは、赤い法被のようなフード付き外套を纏った人物。腰の両脇に刀を差し、右手に構えているのは拳銃。

 見る者が見れば、その拳銃がマウザーC96であると気づいただろう。

 そして何よりも目を引くのは、その顔を覆う白い狐の仮面だった。


「案外、簡単に見つかって馬鹿らしかったですよ、丹羽教光」


「……なるほど」丹羽は自分に容疑がかかっていることに素直に納得している。「それで、陰陽庁の人間か?」


 組織利益を重視する日本の官僚組織、その一角たる陰陽庁にしては動きが速すぎる。それだけが、彼の疑問だった。


「いや、輪王寺宮殿下にお仕えしている陰陽師ですよ」


 狐の面で自らの素顔を隠している篁太郎は、そう応じた。


「殿下に……」


 一瞬、丹羽の目が鋭く光った。

 つまり、宮内省御霊部の人間ということである。丹羽も、その存在自体は陰陽庁職員時代に聞いたことがあった。


「殿下に、殿下にお仕えしていながら、我々の邪魔をするのか?」


 それは、怒りというよりも、相手への憐みの籠った声だった。

 篁太郎は、仮面の下で唇を皮肉の形に歪めた。彼があえて宮殿下の名を出したのは、相手が神国派ならば、その点に喰いついてくると思ったからだ。


「貴官も祓魔官ならば、今の陰陽師たちが置かれた現状を座視すべきではないはずだ」


 その言葉は、自分が不当な立場に置かれていながらそれを自覚していない人間を諭すような口調だった。


「陰陽庁は、東洋最大の公的魔術機関だ」説明するように、丹羽は言う。「しかし、今はまだ内務省の傘下にある。ヴァチカンの異端討滅機関のような世界規模で活動している魔術組織に対抗するには、権限が弱すぎる。いったい、我々は何度、西欧教会勢力の干渉を受けたか、公安課として魔導犯罪捜査を担当している私は、それをよく知っている」


 陰陽庁は大日本帝国の行政組織の一つである。一方で、西欧教会勢力は、宗教団体としての色彩が強いことから、国境を越えた活動を行っている。そのことで、各国の公的魔術機関との衝突が起こる事件が何度か発生しているのだ。

 特に、同じ神を信仰していても宗派の違う英国国教会勢力とはたびたび衝突しており、英国の同盟国である日本の陰陽庁も、国際魔導犯罪の捜査に関して西欧教会勢力に捜査妨害を受けたことがある。

 それらを不満に思っている人間が、内務省にいることを篁太郎も知っていた。


「最近では、サイバー空間を陸海空に続く新たな戦場と捉える風潮があるようだが、私に言わせれば魔術・宗教の世界もまた、戦場だ。我が神国・大日本帝国に対する宗教的侵略を、許すわけにはいかない」


 喋るに従い、丹羽の言葉は熱を帯びてきた。しかし、篁太郎は狐面の奥から冷ややかな視線を向けるだけである。


「だからこそ、帝国国内の祓魔官の地位の向上、陰陽庁の権限拡大を目指さねば、我々はこの宗教的侵略から陛下と帝国をお守りすることは出来ないのだ」


 篁太郎としては、神国派の連中から何度も聞かされていることだ。正直、丹羽を逮捕して捜査するだけ無駄であると判断せざるを得ない。それに、こうした人間は逮捕されて同志に累が及ぶことを恐れ、自決用の呪詛を体に仕込んでいる。

 だとしたら、この男には別の面で役立ってもらおう。

 篁太郎はそう決めると、空いている左手で小さく隠行中の久遠に合図を送った。


「そろそろ一月に始まった通常国会も会期末に近づき、各種法案の審議も大詰めを迎えている。魔導関連法案の改正審議が行われている今こそ、陰陽庁の権限拡大を図る好機なのだ」


「……なるほど」


 これまでの事件の背景が、これで明らかになた。

 陰陽庁の権限拡大は、以前から内部で叫ばれていたことだ。そして、陰陽庁の権限拡大は内務省の権限拡大にも繋がる。もっとも、権限拡大を唱える人間は、陰陽「省」昇格派と内務省権限拡大派に二分されて、意見の統一は取れていない。

 この元祓魔官がどちらの派閥と繋がっているのかは判らない。だが、そうした権限拡大を望む人間の一人ではあるのだろう。

 そして、議員や世論を納得させるには、陰陽庁が権限を拡大する判りやすい根拠が必要だ。そのための、霊的テロ。

 もし、そうした自作自演のテロを意図しているのならば、今回の事件は相当に根が深いことになる。

 単なる神国派の事件と捉えるだけでは不十分だ。そうした連中と、内務省、陰陽庁の昇格派、権限拡大派とも密接な繋がりがあることになる。

 さらに、法案審議に影響力を及ぼせる権限を持った高級官僚、あるいは官僚出身の議員との関係性も考えられる。

 「昭和デモクラシー」と言われる一九四〇年代の、大日本帝国憲法改正に伴う民主化以降、「官庁の中の官庁」と呼ばれてきた内務省の権限は縮小され続けてきた。

 都道府県知事の選出は官選ではなく選挙制になり、それに伴って地方行政の権限も内務省から地方公共団体に移管された。警察機構も中央集権的なものから地方分権的なものになり、内務省の土木部門は、現在では国土交通省の管轄となっている。他にも、様々な形で内務省の権限は他の官庁に移管されてきた。

 現在、内務省の職掌範囲は、警察庁、陰陽庁、出入国管理、台湾庁や樺太庁、南洋庁といった帝国海外領土行政などに絞られている。

 そうした現状に不満を抱く内務省官僚は、憲法改正以降、たびたび出現している。

 それらが神国派と結びつき、今回の事件となったと考えるべきであろう。

 篁太郎としては、その情報が得られたのならば丹羽の身柄をあえて生きたまま確保する必要はなかった。


「あなたの話は理解出来ました」彼はマウザーを構える。「しかし、共感しようとは思いません。所詮、愛国者気取りの逆賊の戯言ですよ」


 銃口を突き付けられた丹羽は、ただ少し失望したような表情を浮かべるだけだった。


「……お前も祓魔官であるならば、いつかは我々と同じ結論に至るはずだ」それは、怒りと負け惜しみを混交したような口調だった。「もはや、私とお前で言葉を交わす必要もないだろう」


「ええ、そのようです」篁太郎は酷薄に同意した。「では久遠、後はお好きに」


 刹那、血飛沫が舞った。

 そして、丹羽の顔は驚愕の表情のまま固まった。自身の身に何が起こったのか、咄嗟には理解出来なかったに違いない。

 人型のまま、久遠はその鋭い牙を元祓魔官の首に突き立てていた。


「っ、ああああああああああ・・・・・・!」


 一瞬遅れの悲鳴が結界の張られた桟橋に響く。


「あなたの肉体も魂もすべて、彼女に妖力として取り込まれる。逆賊の死に様としては、まあ及第点でしょう」


「ああああああ・・・・・・!」


 丹羽の肉体が、急激に干からびていく。肌からは張りが失われ、皺らだけとなり、骨に皮が張り付いたようにその厚みを失っていく。髪もまた、急速に白くなっていった。


「だいにほんていこく、ばんぁ・・・・・・」


 最後にそれだけを言おうとして、だが果たせずに丹羽の肉体はミイラ同然の姿となった。


「それを言って良いのは、真の愛国者だけだ」吐き捨てるように、篁太郎は言った。「そしてそれは、俺でもお前でもない。あの戦争で戦い、死んでいった、今は靖国にいる男たちだけが許されることだ」


 白狐の仮面の奥から除く瞳は、これ以上ないくらいに冷めたものだった。

 丹羽の肉体から霊力を絞り尽くした久遠は、唇についた血をぺろりと舐めた。妖艶な酷薄さを湛える、彼女らしい仕草だった。


「・・・・・・ふん、やはり現代人の霊力はかつてに比べて劣化しておるな」不満そうに、妖狐の女帝は零す。「まるでインスタントか冷凍食品でも食わされた気分よ」


 現代的な表現で、丹羽の霊力の味をそう評した。


「これが終わったら、口直しに俺の血でも呑みますか」


 いささかの躊躇いも見せずに、篁太郎はそう言った。


「いや、お前の霊力は最後までとっておこう」妖しい光を湛えた瞳で、久遠は自らの主を見る。「お前を味わうのは、我とお前の契約が果たされた時。楽しみは取っておかねばなるまいて」


 仮面の下で、篁太郎は小さく笑った。

 久遠の言葉は、契約が果たされるまでは側にいてやるという意思表示でもあるのだ。誇り高いこの妖は、直接それを認めることはしないだろうが。


「まったく、君たちは“()ってよし”となると制限がないね」


 呆れたような声と共に、王子の狐―――銀嶺が篁太郎たちの側に降り立つ。彼は狐耳の少女の腰にあるダインスレイヴをちらりと見遣ったが、特に何を言うでもなかった。

 戦いの中で手に入れた以上、その所有権は銀嶺にあるのだ。


「で、これからどうするんだい?」


「我々は、ミュラーの身柄確保に当たりましょう」


 銀嶺の問いに、当然とばかりに篁太郎は答えた。


「あちらはよいのか?」


 久遠が、対岸の東京港を指す。


「そちらは、沙夜と虎徹君に任せて大丈夫でしょう」


「ふむ、それもそうよな」対岸を眺めながら、妖狐の女帝は頷いた。「あの如き傀儡(くぐつ)、我が直々に討伐する価値もなかろうて」


 つまらなそうに、彼女は言うのだ。

 久遠の視線の先では、角を生やした異形の黒妖犬が巨大な鬼にその牙を剥いていた。


  ◇◇◇


 黒妖犬。

 ヘルハウンド、あるいはチャーチグリムとも呼ばれる墓守の番犬。

 シェイクスピアの『マクベス』では魔女の女王ヘカテーの眷獣として登場する、イギリスに古くから伝わる魔族。

 だが、ヘカテーは本来はギリシャ神話の月の女神であり、同時にハデスやペルセポネに次ぐ冥府の神でもあった。

 故に、原初の黒妖犬は、冥府の番犬にして冥神ハデスの忠犬と言われたケルベロス。

 ヒュドラやキマイラなどと同じく、テュポンとエキドナの息子。

 ヘシオドス『神統記』など、後世の言い伝えでは幾多の首を持つと言われる多頭の魔犬。

 だが、虎徹の記憶にある限りでは、自分たちは三つ子の兄弟だった。そして、自分は一番出来の悪い弟だった。

 だって、自分は太陽に憧れてしまった。

 地上の世界を、見たいと思ってしまったのだ。






「それが、お前の願いか?」


 思い出すのは、今のご主人―――遠野沙夜の声。


「ならば、その姿では生きにくいだろう」


 今の自分は、かつて自分たち兄弟を地上に連れ出した男が退治した怪物よりも、怪物らしい姿になっているだろう。


「それに、主人よりデカい飼い犬など、不愉快極まる。愛くるしさの欠片もないではないか」


 小柄なご主人は、多分本気でそう言ったのだろう。


「だから、お前の力、封印させてもらうぞ」


 これは主人としての決定だと、彼女は告げた。自分は、魔族としての力の大半を失うだろう。だけれども、それでいいと思っていた。

 自分は、同族のみんなを喰い殺してしまった。誰かを傷付けるだけの力なら、封印されてしまったほうがいい。

 願わくば、自分の願いを叶えてくれたご主人を今度こそ失望させないようにと、かつてケルベロスと呼ばれ、かつての主に封印されて名を失った怪物は切に祈った。


  ◇◇◇


「■■■■■■■■―――ッ!」


 凄まじい咆哮が、大気を揺らす。

 久遠が東京港に張った結界がなければ、その衝撃波だけで都心のビルの窓ガラスは砕け散っていただろう。それは、物理的威力だけでなく、魔力の波動も乗せた咆哮だった。

 額にはユニコーンの角を、背には鷲の翼を生やした異形の黒妖犬の叫びは、百鬼夜行絵巻から生み出された鬼を数歩後退させた。

 久遠のような浄化の力を持たずとも、神代の魔族の咆哮はそれだけで攻撃手段になる。

 そして同時に、それは虎徹にとって威嚇でもあった。

 だが、鬼は異形の魔獣を敵と認識したのか、無貌の顔面を虎徹へと向けた。

 虎徹は百鬼夜行絵巻の生み出した怪物へと突進。相手は腕を突き出して、それを受け止める。墨で構築されたはずの鬼の腕は、しっかりとした質量を持っていた。

 激突する二匹の怪物。

 暴風のごとき魔力と神気の相克が起こる。


「ウゥグルガァ―――!」


 叫びと共に、虎徹は足に力を込めた。鬼の体がわずかに揺らぐ。巨大な魔犬が咢を開き、その左肩に喰いついた。

 肉や骨を砕く感覚はない。

 だが、確かに鬼の左腕は食い千切られた。その膨大な魔力で、神気の宿る墨で構成された腕を霧散させてしまったのだ。

 虎徹とて、神代の魔族。封印の解かれた今、その魔力は擬似的な神気を圧倒出来る。

 鬼は腕を再生しようとするが、すでに核となっているラーズグリーズが限界に近いのか、わずかに墨の粒子が集まるだけで、左腕が再び出現することはなかった。


「もう少し、耐えるのだ」


 虎徹は労るように、鬼へと―――その核となっているラーズグリーズへと語りかける。

 消耗を続ける戦乙女(ヴァルキュリヤ)人造人間(ホムンクルス)は、限界が近い。だから、虎徹は暴力の化身となった。ただ、決着の時間を早めるために。

 続く第二撃。

 虎徹は飛びかかるように、前足を突き出した。

 百鬼夜行絵巻から生み出された怪物に、異形の黒妖犬の突進を受け止めるだけの力は残されていなかった。

 大樹すら粉砕してしまうだろう力技に、鬼の姿勢が大きく傾く。そのまま均衡を崩し、両肩に前足をかけられた墨の怪物は地面に押し倒された。

 地震並みの衝撃が、港を襲う。

 二つの異形は、絡み合ったまま格闘を続けていた。だが、上にのしかかった翼を持つ黒妖犬が、圧倒的に有利だった。

 異形のケルベロスは、残った鬼の右腕を肩ごと食い千切り、爆発するようにそれを霧散させる。

 昨夜の久遠のように、浄化するのではない。ただ圧倒的なまでの力で、相手を封殺する。

 鬼は最後のあがきのように、虎徹から魔力を吸い上げようと残った足の形を解き、墨の触手と化して黒い毛並みに覆われた体に巻き付こうとした。


「無駄なのだ」


 だが、それらも虎徹からまき散らされる暴力的なまでの魔力によって、体に触れる前に蒸発してしまう。


「もう、苦しまなくていいのだ」


 もはや胴体だけとなった、墨で構築された絵巻物の鬼。すでに、その実体を構成するには限界を越えていた。やがて、砂が舞うように黒い霧の粒子と化して大気中に散っていく。

 どさり、とその核となっていた少女が地面に落ちる。

 上着を一枚与えられただけの、粗末な格好。そこから伸びる裸足のままの足は、ひどく痩せ細っていた。

 墨の檻から解放されて新鮮な空気を求めたのか、ラーズグリーズは咳き込んだ。


「かぁ……はっ……!」


 その喉の奥から、熱い液体が逆流してくるのが彼女には判った。咳と共に、白い少女は吐血した。

 体がひどく重く、ひどく痛んだ。

 視界が霞み、ただ息をするだけも苦痛に感じるほどの自分の体。彼女はもう、自分の命が長く持たないことが判っていた。

 それでも、彼女は手を伸ばそうとした。敵でありながら、なぜか自分の身を案じてくれた目の前の黒妖犬。

 その姿は、すでに先ほどの恐ろしげな怪物の姿はしていなかった。最初の会った時と同じ、少年の姿で自分を案ずるように見ている。

 だからラーズグリーズは、今まで誰にも言えなかった言葉を紡いだ。


「助けて……死にたくない、です……」


 今になって湧き上がる、生への渇望。


「やっと、言ってくれたな」


 その言葉を聞いた虎徹が、ひどく嬉しそうな声で微笑む。

 そしてラーズグリーズは生まれて初めて、安堵という感情を得ることが出来た。その新しい感情を抱きながら、彼女の意識は途絶えた。

 虎徹の横に、今まで戦闘を見守っていた沙夜が立つ。そして、素早くラーズグリーズの使役術式の解除に取りかかると共に、治癒魔術をかけ始めた。


「ご主人、こいつ、助かるよな?」


 確認するように、虎徹は小さな主人に問いかける。


「……」


 だが、沙夜の顔に楽観はなかった。真剣な表情で、術式の構築と施術を行っている。


「ご主人……?」


 それに、虎徹は嫌な気持ちが湧き上がるのを自覚した。


「ちっ! 疑似神気とやらが、枯渇寸前だ。治癒魔法をかけたところで、一時的な措置にしかならん」


 苛立ったまま、沙夜は吐き捨てる。

 さらに悪いことに、ラーズグリーズの体を自身の魔力で走査(スキャン)した沙夜は、この人造人間(ホムンクルス)の体にある術式が施されていることに気付いた。それは、この少女の死と共に肉体を発火させる魔術である。作成者の機密保持は徹底していた。


「どんなに延命したところで、持って半日だ」


 冷徹な判断を、沙夜は下さざるを得なかった。


「……」


 それを聞いた虎徹は叫び出したくなるのを堪えるように、きつく口を噛みしめ、拳を握っていた。


「せめて、こいつが目覚めた時にお前がいてやれ」


 それがきっと、人に弄ばれるばかりだったこの戦乙女(ヴァルキュリヤ)の、最後の願いだろうから。

 獣の戦闘描写が難しかったです。

 筆者は動物系の本を持っていないので、本来の姿となった虎徹の動きが生物学的に考えて不自然な点があるかもしれません。

 もし、お詳しいかたがいましたら、ご指摘いただければ幸いに存じます。また、資料となるような文献もございましたら、併せてお教えいただきたく思います。


 また、読者の皆さまには、拙作をお気に召していただけましたらば、感想やブックマークの登録、評価等よろしくお願い申し上げます。


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