第一部 第五章 第一節 輪王寺宮
港区芝といえば、東京タワーが有名であろう。
第二次世界大戦終結後、廃艦となった金剛型戦艦などの兵器を鋳潰して建設された赤い塔は、東京スカイツリーが建設された後も、東京の観光名所の一つであり続けている。
その近くには、増上寺という寺がある。江戸時代は、江戸城の裏鬼門を守る役目を負っていた寺である。
そうした芝地区の一角に、輪王寺宮邸は存在していた。
同じ宮家であっても、紀尾井町の伏見宮邸ほどの広さはない。外国大使館の多いこの地域では、むしろ目立つような邸宅ではなかった。
敷地には和館、洋館の二棟の建物を中心に、宮内省関係の官舎が立ち並んでいる。
有坂篁太郎は足早に、古風な造りの洋館の廊下を歩いていた。
居間に通ずる扉の前で立ち止まると、規則正しい間隔で扉を叩く。中から、入室を許可する声が聞こえた。
「失礼いたします」
一礼して、篁太郎は宮家の私的空間へと足を踏み入れる。
部屋は大正期や昭和前期を感じさせる年代物の調度品で彩られており、古風な感じながら非常に趣味のよい造りとなっていた。
「来ましたか、有坂祓魔官」
椅子に座る女性が、そう言った。応じるように、篁太郎は腰を四十五度折り曲げる最敬礼を行った。
「では、あなた方は下がって結構です」
すでに部屋に居た二人の男性、輪王寺宮邸を警備する皇宮警察の警備隊長と、宮務監督(宮家の家政の最高責任者。別当ともいう)が、その言葉に従って退出する。
「顔を上げなさい、有坂祓魔官」
今度の声は、男性のもの。
篁太郎が顔を上げれば、そこには二名の皇族がいた。
輪王寺宮家当主の信久王と、その姉に当たる澄子女王である。すでに澄子女王は齢八十を越え、信久王も七十代後半であるが、この二名の皇族が、帝都の霊的安定を守るために再興された輪王寺宮家において、現在もその役目を担っているのである。
澄子女王に関しては、その役割から非公式に「斎宮殿下」と呼ばれていた。斎宮は古代日本において伊勢神宮に奉仕した女性皇族の巫女ことであるが、そこから転じて帝都の霊的安定を守る女王に奉られた通称であった。
「警備隊長と別当からは、状況を聞いています」信久王が言う。「連日、大変なことです」
王は明らかに憂慮の表情を浮かべていた。
「臣ら不徳の致すところ、誠に申し訳なく存じます」
「いえ、それは我らも同じこと。貴官らだけの責任ではないでしょう」
澄子女王が言った。
輪王寺宮家の役割は、帝都の霊的安定を守り霊災を防ぐこと。王や女王が紡ぐ祝詞は龍脈や霊子の安定化には有効であるが、一方で人為的な霊的テロに対しては無力に等しかった。
それらは祓魔官が直接、出向いて鎮定する必要がある。
「昨夜の件、ご苦労でした」
澄子女王が言う。齢八十を越えているとは思えないほど、その声ははっきりとした力強さを持っていた。
「そして貴官には、またしてもご苦労なこととは思いますが、帝都の霊的治安の維持を頼みたく思います。貴官の式神と共に」
それは、久遠の力を解放する責任を負うという女王からの宣言だった。
「恐れながら殿下」篁太郎は平坦な声で応じた。「これなる妖は我が式神。その責は主たる臣自身が負うものにして、殿下のお心を煩わせるものではございません」
「……あくまであなたは、九尾封印の責を自身で負うと?」
篁太郎の頑なな態度に、澄子女王は嘆息した。その所為か、口調がいささか砕けたものとなる。
「契約は、臣と白面金毛九尾との間のもの。故にその責は、両殿下といえどもお渡しするわけにはいきません」
「貴官は、変わらぬな」少しの笑いを含んで、信久王が言う。「人柱は、自分一人で十分と申すか」
「両殿下は帝都安定の要。臣の如きとは比較すべくもない重責を担われておられるのです。この上、かの大妖に対する責まで背負われる必要はございません」
篁太郎は強く断じた。
そうした態度を咎めるでもなく、二人の皇族は赤い外套の青年を見遣った。その視線に込められた感情は、間違いなく信頼に類するもの。
「……よいでしょう」澄子女王が諦観と共に言う。「今はここで長々と論議をしている場合ではありませんでしたね。有坂祓魔官、帝都を頼みましたよ」
「微力を尽くしましょう」
篁太郎は再び最敬礼をすると、信久王、澄子女王両殿下の前を辞した。
澄子女王は、しばらく篁太郎の去った扉を見つめていた。そして、視線を少し上に向ける。
「久遠。聞こえているのでしょう?」虚空に向かって、そう話しかけた。「有坂祓魔官を、頼みましたよ」
『……ふん、貴様に言われるまでもないわ』
どこか不愉快そうな感情を乗せて、声なき声が女王の脳裏に直接響いた。
◆ ◆ ◆
海風に、長い髪がなびいている。
大型クレーンや倉庫が立ち並び、コンテナが積み上がる東京港の岸壁で、都心部の光に照らされた夜の闇にひっそりと浮かぶように、ラーズグリーズは佇んでいた。
「……」
この国の首都には、一千万人の人間が住んでいるという。その数字があまりに膨大過ぎて、彼女には実感が湧かない。
きっと、一人ひとりに違った人生があるのだろう。
そうぼんやりと思っても、ラーズグリーズ自身の身に置き換えて考えることはない。だって、自分は所詮、魔術師たちの道具でしかないのだから。
自分の主人たちは、人間だ。だからきっと、彼らには彼らなりの人生があるのだろう。そうした者たちが、同じ人間たちの人生を奪う。
そのことに何か矛盾を感じるラーズグリーズだったが、結局、主人たちに対して何かを言うことはなかった。
道具である自分が言ったところで、意味のないことだからだ。
きゅっと西洋弓を持つ手に力を込めて、構える。
目標は、清洲という埋立地に浮かぶ陰陽学園。あの黒妖犬がいるという場所。
そこを最初に襲撃する場所に選んだのは、やはりあの少年に何かを期待してしまっているからか。
ラーズグリーズは自分の裡に生じた困惑を押し込めて、弦に魔力の込められた矢を番えようとする。
「ふぅん、久遠から聞いていたけど、なかなか面白い傀儡だね」
ひんやりと、首筋に氷でも当てられたような感覚を伴って、そんな声がラーズグリーズの耳に響いた。
不意にかけられたその声に、彼女は振り向いた。
銀に光る艶やかな白髪、そこから生える一対の狐耳、獲物を見つけて炯々と光る紅い瞳。
水干と軍服を合わせたような、裾の長い白い上着。その腰のあたりから伸びる尻尾。革帯には二振りの刀。
「初めまして、ホムンクルス。今夜は一人で夜の散歩かな?」
クレーンの上に、すとんと着地をした魔族の少女。
王子神社の主にして、関東一円の妖を統べる妖狐。
紅の双眸が、雷光を宿したように鋭く光っている。
「質問。王子の狐とお見受けしますが、私にどのような御用があるのでしょうか?」
機械的ともいえる、平坦な声での問いかけ。
「へぇ、私のことを知っているんだね。いや、そういう情報が入力されているのか」
王子の狐の目に、油断はない。むしろ、獲物に飛び掛かる寸前の肉食獣を思わせる獰猛さと、獲物を確実に追い込む狩人の冷徹さとが、ラーズグリーズの肌を刺す。
その威圧するような妖力の波動に、 戦闘用人造人間たる彼女は即座に彼我の戦力比を計算する。
自身。
連日の戦闘による消耗と、黒妖犬による損傷の未完治により、通常の戦闘能力の七割程度発揮可能。
相手。
その脅威は未知数。黒妖犬よりも強敵と判定。
「私としては久遠と同じく、人間の世がどうなろうと知ったことじゃないんだけど、篁太郎が気にするんだ」
だから、と狐耳の少女は双刀を抜く。
「篁太郎のために壊れてもらうよ、戦乙女の傀儡」
少女の影がぶれる。
「っ!?」
ラーズグリーズがその存在を知覚した瞬間には、刀の間合いに踏み込まれていた。
白刃が一閃する。
左手に衝撃が走り、肩を鈍痛が駆け抜けた。
ラーズグリーズは咄嗟に弓で防御したが、その代償に西洋弓は彼方へと弾き飛ばされ、海中に没する。
さらに番えるはずだった矢を投げつけて相手を牽制するが、それは刀の一振りで阻止されてしまった。
赤雷の瞳と共に、白刃が迫る。
「展開」
疑似神気の展開と兵装召喚。
全身を締め付けるような痛みを無視して、ラーズグリーズは鎧と武器を展開する。
武器はダインスレイヴを選んだ。一度抜かれれば血を見るまで鞘に収まることはない不治の魔剣。
金属同士の激突する音と共に、ラーズグリーズは苦痛の呻きを漏らした。
「くっ……あっ……」
両腕に力を込めて、交差するように振るわれた二振りの刀を受け止める。
王子の狐は構わず、鋏で切断するかのように双刀に力を込めた。刃に乗せられた妖力と神気が反応し、細かい雷光が生じる。
その圧力に、ラーズグリーズが押された。
「ふん!」
さらに、革長靴に包まれた狐耳の少女のしなやかな足が振り上げられる。
黒妖犬の時と同じ。そう判断したラーズグリーズは咄嗟に後方に飛び退く。
王子の狐は足を振り上げた勢いのまま空中で一回転して着地する。その隙に、ラーズグリーズはダインスレイヴに自身の神気を込め、相手目掛けて振り下ろした。
「があああああああああっ……!」
ラーズグリーズは全身を引き裂くような痛みに絶叫する。
振り下ろされたダインスレイヴから放たれた神気は大気中の霊子と反応して眩い光を放ちながら、妖狐の少女へ迫る。
「舐めるなよ」
王子の狐は淡白に呟くと、渦巻く神気を双刀で両断した。それだけで、圧縮されていた神気が霧散してしまう。
ラーズグリーズの神気が、妖狐の刀の纏う妖力に打ち負けたのだ。
戦乙女の人造人間の口から、喘鳴が漏れる。視界がチカチカと点滅し、重苦しい倦怠感と全身を締め上げるような痛みが彼女の体を蝕む。
そんな人造人間の少女を冷徹に見遣りながら、妖狐の少女は言った。
「ホムンクルスとはいえ、所詮は人の体を元にしたもの。それに疑似的なものとはいえ、神気を降ろすとなれば肉体にかかる負荷は相当なものだろう」
王子の狐は、ラーズグリーズに休む間など与えてくれなかった。
その胴を薙ぐようにして振るわれた一刀を、ホムンクルスの少女は両手で構えたダインスレイヴで受け止める。妖狐の少女は残る一刀を刺突の要領でラーズグリーズの顔面に突き出した。
背をのけ反らせ、後方に倒れ込むようにしてラーズグリーズはそれを回避する。さらに、相手の顎目掛けて足も振り上げた。
だが―――
「甘いよ」
王子の狐は躊躇うことなく自らの刀を手放して片手を自由にすると、その足を掴んだのである。凄まじい反応速度。
妖として強大な膂力で腕が振るわれ、遠心力と共に、足を掴まれたラーズグリーズの体はコンテナの側面に激しく叩きつけられた。
「がっ……!」
背中の全面を襲う激痛。その衝撃でコンテナの壁面が陥没した。
「ふぅん、やっぱり普通の人間よりは頑丈なんだね」
称賛するでもなく、単に観察結果を述べる程度の感情を込めて、白い妖狐は言う。
その手が、コンクリートの地面に落ちたダインスレイヴを拾い上げる。そのまま自身の剣帯に差すと、先ほど手放した刀も同様に拾った。
その余裕のある姿に、戦闘用人造人間は自身の性能不足を痛感する。単純な力、そして技能共に自分は劣っているのだ。
その強敵を相手に、自分は勝利しなければならない。
戦闘用人造人間であるが故の戦闘情報分析、その合間でラーズグリーズは刹那の疑問を覚えた。
自分は、殺されることを期待していたはずだ。
だから、ここで敗北しても問題ないはずなのだ。
だけれども何故、自分はここまで抵抗しようとしているのだろう?
相手が、あの黒妖犬ではないからだろうか?
だったら、自分があの少年に本当に期待していたことは何だったのか?
それをふと、ラーズグリーズは知りたいと思ってしまった。
だから―――。
「展開」
肉体の苦痛を無視して、新たな兵装を展開。ラーズグリーズ自身が一番使い慣れた、戦斧。
「加速」
疑似神気を地面に噴射し、ラーズグリーズは弾丸のように飛び出した。戦斧を背中に回すように、大きく振りかぶる。
狐耳の少女は、素早く飛び退いた。刃に神気をまとわせた斧がコンクリートの地面を破砕し、コンクリート片を周囲に飛散させる。
そして、その一つ一つに神気が宿っていた。破片は、それだけで魔族に対する殺傷武器となった。
「ちっ」
初めて、妖狐の少女の表情が変化した。彼女は刀で、あるいは妖力をまとわせた袖で破片を弾いていたが、その内の一弾が白皙の頬をかすめた。
一筋の赤い雫が、王子の狐の頬を伝う。
「……へぇ」
ぺろりと、彼女は舌で自らの血を舐めた。その体から、物理的な圧迫感を以って妖気が噴出する。
「人間の作った傀儡風情が、舐めた真似をしてくれるね」
ラーズグリーズが認識した時には、彼女の右肩から血が噴き出していた。脳内に、右碗部損傷の報告が駆け巡る。
少し離れた場所では、王子の狐が左手の刀を振り上げた姿勢で止まっていた。その刀身から溢れる妖気で、刃は不気味な虹色に輝いている。
「さて、左腕も同じようにすれば、少しは大人しくなるかな? ああ、左腕を切り落とされたくなかったら、動かない方が身のためだよ」
淡々と、冷徹に、温度の消えた目と共に、刀を引いた王子の狐はそう宣告する。
損傷と出血により、戦闘能力は二割に低下。戦闘続行可能時間減少。
「防盾」
自身の前面に、疑似神気を凝縮させて構築した盾を展開する。
刃の形に放たれた妖力が神気の盾に激突し、ガラスのような盾に無数の罅が入った。
「くっぅ……」
神気の出力最大。損傷部への神気充填を優先。だが、直後に破砕音と共に盾が消滅する。
妖気と神気が混合し、小規模ながら爆発が起こった。
ラーズグリーズの華奢な体が、コンクリートの上で跳ねる。
「ぐぁ……」
倒れた体を、健在な左腕と戦斧の柄を支えにして立ち上がろうとする。
王子の狐は、そんなラーズグリーズを愚かで哀れなものであるかのように見つめていた。
人造人間は人間に使役される存在だ。それを、妖狐の少女は憐れんでいるのだ。だが、それをラーズグリーズは知る由もない。
聞こえたのは、小さな嘆息。その瞬間にはもう、妖狐はラーズグリーズの背後に回っていた。
「がっ……!」
放たれたのは、鋭い回し蹴り。立ち上がろうとした状態の不安定な体勢では、対応が出来なかった。
そのまま再び、戦乙女の少女の体はコンクリートに叩きつけられた。
消耗と負傷により、戦闘続行は極めて困難。
命令者による任務遂行に多大な支障が発生したと判定。
ぐっと、王子の狐がラーズグリーズの髪を掴み、顔を引っ張り上げる。
「さて、君に命令を下している人間はどこにいるのかな? このままだと君が壊れるよって、警告してあげないといけないからね」
冷徹というよりも、淡白に響く感情の起伏の少ない声。ラーズグリーズの生死など、歯牙にもかけていないのだ。
「ぅぁ……」
しかし、ラーズグリーズはただ苦痛の呻きを上げることしかできない。自身の作成者と、命令者の情報を渡すことのないよう、予め術式が組み込まれているのだ。
苦痛により虚ろとなったホムンクルスの視線と、興醒めした妖の視線が交差する。
刹那。
「―――そこまでにしてもらおうか、野狐」
中々物語が進展せず、申し訳ございません。
取りあえず、この五章(+エピローグ)で第一部は完結する予定でございます。
現実世界との違いを出すために、東京タワーは廃艦となった金剛型などの鋼材を利用して建てられております。
また、大日本帝国が存続している以上、多くの宮家が残り、現実世界では某ホテルとなってしまった伏見宮邸などが健在なはずです。
第二部では、横須賀で記念艦となっている戦艦長門なども登場させたいと思います。
正直、そんな世界に住んでみたいという筆者の願望が垂れ流しとなっている帝都の情景であります。
こうしてみますと、大東亜戦争の結果が日本にもたらした影響の大きさを、改めて実感します。
戦争というものの重みを忘れずに、今後とも執筆活動を続けていまいります。
どうか、これからもよろしくお願いいたします。




