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第一部 第四章 第五節 対決の前に

 コツコツと、宮殿の廊下に足音が響く。軍隊で使うような、革製の頑丈な長靴が出す音が、中華風の意匠の施された回廊に反響する。

 〈あわい〉はその空間の曖昧さを示すように、空の色も不可思議なものだった。

 昼とも夜ともつかぬ、それでいて暁降(あかときくた)ちとも、黄昏時ともとれぬ、淡い色をしている。曇天のような重苦しさはないが、やはり時を感じさせぬ空には物寂しさを覚えてしまう。

 出来れば、宮殿だけでなく空間そのものの環境も整えたいものだと篁太郎は思った。

 〈火鼠の衣〉である赤い外套をひらめかせた彼は、宮殿の中の武器庫の扉を開けた。

 中は整理整頓されているとはいえ、武器庫としては統一感のない印象を受けるだろう。

 久遠がかつて王妃として潜り込んだ殷代や周代の武器や鎧。あるいは、古代インド・摩訶陀国時代の武具も見える。

 そして、久遠が玉藻の前として潜り込んだ平安日本の太刀や鎧。

久遠によって〈あわい〉に放り込まれていた武器たちは、錆もせずに当時のままの姿を残していた。

 だが、これらは霊装などではない、ただの武器である。長い時を経たことで霊的価値は上がっているものの、通常の武器に過ぎない。

 久遠の集めた神具や霊装は、彼女の宝物庫に収蔵されていという。宝物庫の位置は、篁太郎もよく知らない。異空間である〈あわい〉の中にさらに異空間を作り、久遠自身が厳重に保管しているのだ。

 さて次に、久遠の封印が解かれた第二次世界大戦期の武器。三八式歩兵銃や一〇〇式機関短銃、ステン短機関銃、ドイツ製のグロスフスMG42も見える。

 そして、篁太郎が集めた銃火器類。王子神社でミュラーの〈人形〉を仕留めたバレットM107A1、P90、ウージー、MP5、AK47など。

 それ以外にも、武器庫には篁太郎の霊装などが収められていた。

 彼はその中から、二振りの愛刀を取り出すと腰に差した。三振りの剣、大通連、小通連、顕明連はどうすべきかと悩んだが、結局は武器庫においたままにする。もし必要になれば、久遠に転送してもらえばいい。

 銃器は愛用のマウザーC96を選んだ。日本では「モーゼル」と誤った発音で呼ばれている特徴的な銃である。

 弾薬クリップを差し込み、それを引き抜くと薬室に第一弾が装填される。安全装置をかけて、外套の内側、脇のホルスターに差し込んだ。

 最後に篁太郎は指貫の手袋をきゅっとはめる。


「おや、もう起きていたのか」


 いつの間にか現れた久遠が、武器庫の入り口に背を預けて佇んでいた。


「我が起こしてやるまで、眠っておっても構わんかったのだぞ」


 篁太郎が自分で起きてしまったことに、少しだけ残念な思いを抱きながら久遠が言う。


「そういうわけにもいかないでしょう」篁太郎は懐中時計を取り出すと、それを彼女に示した。「もう午後の七時を過ぎています」


「それで、よく眠れたか?」


「おかげ様で」少し恥じ入るように、篁太郎は言う。「まさか十二時間近くも眠ってしまうとは、我ながら情けないものです」


「まったく、式神の契約条件に、主の健康管理は含まれておらんぞ」呆れた口調のまま、久遠は続ける。


「とはいえ、お前に倒れられてもらっては我も困る。そういう意味では、今後も容赦せんぞ」


「それじゃ、今後もお願いしますね、久遠」


 本気とも冗談ともつかぬ篁太郎の言葉に、久遠はくふと笑いの息を漏らした。その目が柔らかい色をたたえて、目の前の青年を見ていた。


「仕方のない奴よの、お前は。まあ、お前に頼まれたとあっては断る道理もなかろう」


 どうせ、この男はこれからも自分の体に負荷をかけ続けるだろう。

 一度決めたことをやり遂げるまでは止まろうとしないのが、有坂篁太郎という男なのだ。自分はあの世界を巻き込んだ大戦の最中に復活してからずっと、その姿を見てきた。

 この男は、女帝たる自分が導いてやらねばならない愚鈍な臣下なのだ。


「それで、俺が眠った後はどうなりましたか?」


 篁太郎がそう問うた瞬間、視界が切り替わった。武器庫から、玉座の間へと瞬時に移動する。

 玉座の間には、首都圏の地図が映し出されていた。

 悠然とした動作で久遠が玉座に腰かける。

 彼女が手をかざすと、バサリと手元に紙の束が表れた。それを、無造作にペラペラとめくる。


「お前が計算して割り出した範囲に、相違なかったぞ」


 彼女は虚空に映し出された地図の一角を指差す。千葉県の北部に、光点があった。


「ミュラーとかいう男の居場所は、ほれ、この通りよ。お前の解読した術式を元にした方位測定、そして管狐どもに王子神社での〈人形〉の匂いを元に捜索させると、ここに行き着く」


 久遠の妖力によって描き出されていた地図が切り替わる。次に映し出されたのは、コンクリートを鉄骨が奇妙に剥き出しになった廃墟であった。剥き出しの鉄骨はすでに赤錆び、等間隔で並んでいるガラスのない窓はまるで深淵に続いているかのような黒い穴と化している。


「その場所には、このようなものがあった」


「集合住宅、マンションか何かですね」篁太郎は映像を見ながら言った。「恐らく、バブル期に建設が開始され、その崩壊と共に建設が放棄されたものでしょう」

 広い敷地にそびえ立つ未完成の建物は、まるで遺構である。いや、実際に遺構なのかもしれなかった。


「バブル崩壊で建設が放棄されたままのマンションは、関東県内にも数ヶ所あるはずですからね。廃墟マニア程度しか近づかないでしょう。人が近寄らないという点では、天然の結界です。川口の廃工場と同じく、そこに隠蔽のための結界を張れば、魔術師の拠点としては十分機能します」


「我が眷属による監視は続けておる。今のところ、匂いの主が移動した形跡はない」


 監視用の管狐と感覚を共有している久遠は、そう断言する。

 この廃墟が単なる偽装である可能性もあるだろうが、篁太郎は自らの式神の能力に一片の疑いも抱いていない。彼女が断言するのならば、〈人形〉よりも濃い本人の匂いを探知したのだろう。


「それで、お前は自分が眠っている間に我が動くと判っていたから、武具を揃えていたのだろう?」


 篁太郎の装備を見て、久遠は言う。


「今から殴り込みと行くか? 王子の狐には話を通してあるぞ」


「本当に、久遠の能力はでたらめですね」


 篁太郎は呆れと感嘆を言葉に込めた。十五年以上も世界の公的魔術機関や捜査機関から逃れ続けてきた錬金術師も、彼女の前ではかくれんぼをする子供同然である。

 とはいえ、常に久遠を頼れるというわけでもない。彼女は中々に気難しいのだ。妖狐の女帝としての矜持と、篁太郎の祓魔官としての役割は、時折衝突してしまうこともある。

 今回は運よく彼女の矜持が篁太郎の任務に合致していたといえる。


「本当にありがとうございます」


「ふん、この程度、我には造作もないことよ」久遠はにやりと唇を歪めた。「それで、どうするのだ?」


「もう一つ、“魂食い”の進展を聞かせてくれますか? 状況次第では、そちらを先に片付けます」


「ああ、そちらはちと厄介なことになってな」


 内容の割に、口調はどうでもよさそうだった。久遠にとって、人間社会の出来事など所詮はその程度のものなのだ。


 とはいえ、篁太郎の求めに応じて、久遠は説明を続ける。


「まず、帝都各地で白昼堂々と“魂食い”の術式が発動された。まあ、これは我とあの狐で対処してある。安心せよ」


「なるほど」


 安心しろと言われても、篁太郎としては内心で抱いた警戒心が顔に出てしまう。


「あと、帝都周辺でカラスや犬などの動物を使役する術が使われていた。監視用であったり、“魂食い”のためであったりと、使役術式は様々だったがな」


「続けてください」


「それと、陰陽学園に通う二重存在者が例の罪人に襲われた。これも我と王子の狐、駄犬が対処して、大事ない」


「そこだけ、ミュラーの犯行ですか?」


「うむ。別に、“魂食い”と外津国の罪人が共犯であるならば不可思議なことはなかろう。獲物の分け合いといったところだろう。ミュラーとかいう男にとって、あの()(わらわ)は価値ある存在であろからな」


「で、相馬楓の身柄は今どこに?」


「清州の陰陽学園内よ。まあ、あそこならば問題なかろう」


「ふむ」


 篁太郎は思考を巡らせる。

 先に対処すべきは、ミュラーか“魂食い”か。

 本来の任務を考えれば、ミュラーの方だろう。だが、帝都の安全を考えると“魂食い”も無視出来ない。特に強引に霊力を回収し始めているということは、昨夜の百鬼夜行絵巻の発動で消耗した霊力を急いで回復しなければならない理由があるはずである。

 つまり、二度目の霊的テロを目論んでいる可能性が高い。

 ただし、昼間の“魂食い”は久遠たちによって阻止されている。そうなると、「霊的自爆テロ」の危険性もある。自分自身の肉体と魂を代償にして呪詛を放つ存在に堕ちるか、自分自身の血肉を百鬼夜行絵巻発動の霊力源とするか。

 ただ、相手の目的が判らない。神国派か、あるいはそれ以外の政治的思想を持つ集団か。

 とはいえ、それは些細な問題でしかないと篁太郎は割り切ることにした。

 帝都を守護するにおいて、敵は敵である。その主義主張など関係ない。


「久遠」


 篁太郎は言った。その声は、己が式神に命を下す陰陽師としてのもの。


「あなたの力に期待させていただきます。ミュラーの魔術陣地への突入と、昨夜のような霊的テロの対処、その二つを、あなたならば同時に対処出来ますね?」


 硬質な声での問いは、答えの判り切った確認のようなもの。

 久遠は自慢げに、悠然と微笑む。


「誰に問うているのだ、篁太郎よ。我は大妖九尾。神代に生まれし妖狐だ。その程度、造作もない」


 彼女は傲然と、そう言う。


「では、万が一の場合はお願いします。沙夜と虎徹くんには、今夜は警戒を厳にするように言います」


「ふん、心配性よの」久遠は篁太郎を軽く嘲った。「あの小娘と駄犬などに頼らずとも、帝都の守りは我に任せよ。奴らには精々、お前の気にしている傀儡の相手でもさせてやればよい」


 久遠には、この国の帝都がどうなろうと知ったことではない。だが、篁太郎がそれを求めている。久遠の力を信頼している。だからこそ、彼女はその矜持にかけて帝都の守護を全うするのだ。

 そこに、沙夜と虎徹の助力などという「汚点」は必要ない。

 故に、篁太郎の言葉は久遠に対するこの上ない侮辱なのである。

 だが、それを彼自身も理解しているし、久遠もこの青年があえて自分の矜持を傷付ける言葉を発した理由を判っていた。

 この男が優先したのは、久遠の矜持を傷付けぬことではなく、帝都の守護なのだ。

 そして、有坂篁太郎という陰陽師がそういう人間であることを、久遠は長い付き合いの中で理解し、許容してもいた。


「では、王子の狐を呼んで、まずは外津国の罪人に裁きを下すとするか」


 だからこそ、久遠は今も篁太郎の式神という立場にあるのだ。


「ええ、お願いします」


 篁太郎が慇懃にそう言った刹那のことだった。


「むっ!?」


 ぴん、と久遠の狐耳が跳ねる。同時に、金色の尻尾がざわりと逆立った。


「これはこれは何とまあ……」久遠は虚空に向けて呟いた。「芸がないというべきか、それだけ手段がないのか、いずれにしても愚かなことよ」


「どうしました?」


 何かを感じ取ったらしい久遠に対して、篁太郎は何も感知することは出来ない。〈あわい〉は外界と隔絶した空間である。それを自由に行き来出来るのは、本来は妖程度なのだ。いくら篁太郎でも、〈あわい〉の外で起こった事象を探知することは不可能である。


「帝都で変事よ。跳ぶぞ、篁太郎」


 久遠はさっと篁太郎の手を取ると、空間を転移させた。

 〈あわい〉に築かれた宮殿の玉座から、陰陽庁庁舎の屋上へと瞬時にして転移が行われる。

 すでに日は没し、夜の東京が眼下に広がっていた。


「……なるほど、これは」


 低く険しく呟いて、篁太郎は変事の原因を理解した。

 大気中の霊子の乱れ、それが体内の霊力をざわつかせている。


「今夜は、忙しくなりそうです」


「ふん、望むところよ」


 気負うことなく、二人はそう言った。


◆   ◆   ◆


 かつて憧れた太陽の光が、彼方へと沈もうとしている。

 それでも、明日になれば太陽は上るのだろう。

 夕日の残光によって茜色に染められた保健室の片隅で、虎徹はそう思った。

 自分は、この地上で生きている。そして、世界の広さを知った。あの小柄な主人が自分をここまで引っ張り上げてくれたのだ。

 だからこそ、自分は主人と共にあるのだと思った。眷獣(サーヴァント)だからとか、式神だからとかではなく、ただ自分がそうしたいと望んだから、人間と共に自分はいる。

 でも、本当にそれでいいのだろうかと、虎徹は自問したくなる。

 自分の望んだままに生きて、誰かを傷付けてしまったらどうしよう。本当に自分は、この地上にいていいのだろうか。

 だって自分は化け物なのだ。

 今、自分の手を放さない少女。彼女が自分を恐れたことを、虎徹は当然だと思っている。それが、本来の人の在り方なのだと知った。

 自分はきっと、恵まれすぎるほどに恵まれていたのだ。お師匠様、久遠、ご主人、恵蘭。誰も自分を化け物として扱わない。

 でも、それが例外なのだ。人間にとって、自分たち魔族は異形の怪物でしかない。

 ご主人は、久遠を嫌悪している。化け物として、忌避している。それが、本来は自然な感情なのかもしれない。


「……楓ちゃん」


 かつて自分が怯えさせてしまった少女の寝顔を見る。彼女はずっと、自分の手を放さずに握っている。

 彼女が誰かの手を必要とするなら、自分はそれを拒絶するつもりはない。楓の兄から礼を言われた時には、素直に嬉しかった。

 だから、自分は今もこうしている。

 だけれども、同時に怖くもある。彼女が目を覚ました時、繋いでいる手が自分だと知ったら?

 本当は、この手は彼女の兄であるべきだったのではないだろうか?

 自分なんかが、彼女の手を握っていていいのだろうか?

 時間が経つにつれ、虎徹のその思いは強くなっていた。

 もしかしたら、彼女がずっと目覚めないのは自分が傍にいるからかもしれない。でも、彼女の無意識の求めを拒絶することも出来ない。

 虎鉄が内心で煩悶していると、楓の瞼がぴくりと動く。

 そこに安堵と緊張を覚え、虎徹はじっと彼女の様子を見つめていた。


「……虎徹くん?」


 まだ意識が覚醒しきっていないような、ぼんやりとした声だった。視線がゆっくりと周囲を確認する。


「……そっか、私……」


 どうして自分はここにいるのか、楓は悟ったようだった。


「先生に、楓ちゃんが目覚めたことを知らせてくるのだ」


 そう言って、虎徹は席を外している養護教諭に楓が目覚めたことを知らせに行こうとした。


「待って」


 意外に強い力で、楓は繋がっていた手で虎徹を引き留めた。腰を浮かせかけた虎徹は、再び腰を下ろすことになった。

 楓は寝台の上で上半身を起こすと、どこか縋るような視線で魔族の少年を見つめた。


「……ありがとう、助けてくれて。それと、ごめんなさい」


「うん?」


 虎徹は、楓の謝罪が何のことなのか判っていない様子だった。


「まだ、楓はあの時のことを謝れていないから……」


 目を伏せて、楓はすまなそうに言うのだった。


「……あれは、楓ちゃんは悪くないのだ」


 虎徹はかぶりを振った。

 そう言ってくれるこの犬耳の少年は、きっと優しいのだろう。楓はそう思った。

 でも、その優しさに甘えて、自分が彼を傷付けてしまったことを忘れてしまうわけにはいかない。


「楓ちゃんのことはご主人から聞いたのだ。だから、楓ちゃんは悪くない」


「でも、私、あなたのこと……」


「オレは、怪物なのだ。だから、本当は怯えさせたオレの方が謝らなくちゃいけないのだ」


「虎徹くんは、怪物なんかじゃない」


 楓は自身でも驚くほど強い口調で、そう断言した。虎徹の瞳が頼りなさげに揺れる。

 この少年は、己を卑下しているわけではない。自分は怪物だと、事実として言っている。

 でも、楓にとっては卑下に聞こえる。純粋な彼は、それを卑下だと思っていないだけなのだ。

 物語の中の怪物は、人に従ったりはしない。人を守ったりはしない。いつだって、人を害するものたちなのだ。

 だから、虎徹は怪物ではない。

 そう、楓は思うのだ。


「虎徹くんは、怪物じゃない」


 もう一度、一言一言を噛みしめるように、楓は言った。あるいはその言葉は、虎徹だけでなく、自分自身へ言い聞かせようとしているのかもしれなかった。


「……ありがとう、なのだ」


 どこか救われたような声で、虎徹は言った。

 結局、あの出来事に縛られていたのは楓だけでも、虎徹だけでもなかったのだ。


「ねえ、虎徹くん」


 意を決したように、それでもどこか不安そうに、楓は言った。


「楓と、友達になってくれないかな?」


 そう言った瞬間、彼の手を握っている自身の手が、かすかに震えているのが楓自身も判った。きっと、相手にもそれは伝わっている。

 それが魔族への恐怖からくるものなのか、拒絶される不安からくるものなのか、楓には判らなかった。

 ただ、虎徹はその震えが自分に対する恐れからだと思っていた。


「無理はよくないぞ」


 そう言って引っ込めようとする虎徹の手を、楓はさらに強く握りしめた。


「大丈夫、楓は大丈夫だから……」


 脳裏に浮かぶ悪い映像を振り払うように、楓は言った。


「虎徹くんなら、大丈夫だから……」


 力を込めればすぐに振り解けるのに、虎徹がそれでも無理に振り解こうとしないのは、楓の次の言葉を待っているからだろう。


「ねえ、虎徹くんは、楓と友達になるのは嫌?」


「嫌じゃない、のだ」心配そうに答える虎徹。「でも、楓ちゃんは……」


「嫌じゃない。虎徹くんのことは、嫌じゃないよ」


 虎徹が続きを言う前に、楓は告げた。

 謝りたかった。傷付けてしまったことを、ただ謝りたかった。でも、許しを期待とすると同時に、どこか嫌われることを望んでもいた。

 人間と魔族は結局、相容れないんだって、それで自分を納得させたかったのかもしれない。魔族恐怖症の自分を、正当化したかったのかもしれない。

 結局自分は、他者を傷付けた罪から逃れたいだけだったのかもしれない。

 でも、この眷獣(サーヴァント)は楓を嫌ってもくれないのだ。

 だったら、自分はこの少年とどう向き合えばいいのだろう。そう考えたらもう、これしか道はないじゃないか。


「だからさ、楓と友達になってくれないかな?」


 もう一度、その問を繰り返す。


「オレも、友達が増えるのは嬉しいぞ。楓ちゃんに嫌われていないことが判って、オレは嬉しい。だから、ありがとうなのだ」


「こっちこそ、楓と友達になってくれて、ありがとう」


 なるべく引き攣らないように、精一杯の笑みを楓は浮かべた。虎徹も、ほっとした笑みを浮かべていた。

 ただ、それだけで楓は随分と精神的に疲労してしまったようだった。ぽすん、と再び寝台に横になる。


「ねえ、虎徹くん」


 そのまま姿勢で、楓は虎徹に語りかけた。


「小さい頃、私さ、いろんなモノが視えていたんだ。よく判らない、変なモノ、恐いモノ」


 楓は巫女の素質があるといわれるほど、良質な霊力を持つ人間だ。それ故、人一倍優れた見鬼の才を持っている。

 だからこそ、彼女には常人(ただびと)には視えないモノが視えた。それは、低級霊に分類されるような些細な妖怪の類だったのだろう。

 だが、幼い少女にとって、それは恐怖の対象だった。

 学校の校庭で、近所の公園で、帰り道で、楓はそういうモノに遭遇した。

 別に、低級霊に楓が襲われた事実はない。

 人間の伝承にあるほど、彼らは無意味に人を襲わない。それは、彼らが己の住む領域を弁えているからだ。

 霊的存在とは本来、実在と非在の間にある存在。

 その領域を犯すのはいつだって人間の方で、だからこそ縄張りを荒らされた彼らは人間に害を加えるのだ。

 だが、そうした事情を知らない少女にとって、見えないモノが視えること、そしてそんな自分が他の人とは違うことは、十分に恐怖を抱く理由になったのだ。


「そんな時、いっつもお兄ちゃんが一緒にいてくれた。お兄ちゃんがいないときはお母さん、そうでないときはお父さん。みんなで私を守ってくれた」


「いい人たちだな」


 素直な感想を、虎徹は言う。自分の兄弟と比較して、素直にそう思うのだ。


「だからさ、あの時虎徹くんが助けにきてくれて、楓は本当に嬉しかったんだよ」


 今度は気負いなく、心からの柔らかい笑みを楓は浮かべることが出来た。

 面と向かってそう言われると、虎徹としても照れ臭いものを感じてしまう。


「どういたしまして、なのだ」


 自分はまたちょっとだけ、この地上での居場所を広げられたのかもしれない。

 虎徹はそんなふうに思った。


  ◇◇◇


「それで、右腕の調子はどうだ、馬鹿犬?」


 陰陽学園の屋上にて、沙夜は問うた。

 完全に日は没し、海を挟んだ東京都心部には、煌々とビル群の明かりがそびえ立っている。

 あの後、虎徹は楓が目覚めたことを養護教員に伝え、楓は今夜一晩、清洲にある学園附属病院の一室で過ごすことになった。


「う、全然治っていないのだ」


「ちっ」


 自身の眷獣(サーヴァント)の報告に、沙夜は苛立たしげに舌打ちをした。


「馬鹿犬、今夜も出てもらうぞ」


「了解なのだ、ご主人」


「目標はあの人造人間(ホムンクルス)の少女だ。ラーズグリーズとか名付けられているそうだが、そいつの剣を破壊しろ。そうすれば、その傷は治る」


「ご主人、そのラーズグリーズって子はどうすればいいのだ?」


 一抹の不安を抱きながら、虎徹は問うた。


「安心しろ、奴を殺せなどという命令を出すつもりはない」


 主人の言葉に、彼は明らかに安堵の表情を浮かべた。


「お前の好きにしろ、倒すのも、捕らえるのも、逃がすのも。今回に関しては、特別に認めてやる」


「ご主人に感謝なのだ」


「様を付けろ、馬鹿犬め」


 いつものごとく、沙夜はそう罵った。

 それから、彼女は屋上の柵に近づき、帝都の夜景を睨みつけるような視線を向ける。


「さて、狩りの時間だ、ホムンクルス」


 獰猛な口調で低く呟いて、彼女は自らの怨敵の姿を幻視した。


「女狐め、私の眷獣(サーヴァント)をあまり舐めるなよ」


◆   ◆   ◆


 東京港の埠頭に、その少女は立っていた。

 薄ぼんやりとした岸壁の街頭に照らされているその姿は、存在感がひどく希薄であった。

 透き通るというよりも、病的という表現の方が適切な白い肌。その肌の上に、外套一枚だけを羽織ったままの姿。

 妖精じみた美しくも愛らしい顔立ちは、一切の表情を欠いている。

 感情の薄いその瞳は、ただ海を隔てた先にある清洲陰陽学園を見つめていた。

 あの犬耳の少年は、今夜もまた現れるのだろうか?

 何故そんな思いを抱くのか自分でもよく判らず、ラーズグリーズは内心で困惑していた。これが、期待という感情なのだろうか。

 それを教えてくれる人間はいないし、教えてくれたところで遠からず命尽きる自分には関係のないことだろう。

 でも、この思いが期待だとするならば、自分はあの少年に来て欲しいと思う。

 彼に、自分を殺して(止めて)欲しいと思う。

 死というものへの実感を欠いたまま、ラーズグリーズは最後の戦いに赴こうとしていた。


 これにて、第四章は終了となります。

 更新に時間がかかり、お待たせして申し訳ございませんでした。


 次の第五章にて、第一部は完結となる予定です。

 どうか、読者の皆様にはもう少しのお付き合いをお願い申し上げます。

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