表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/36

第一部 第四章 第四節 黒妖犬と兄妹

 賀茂は渋い表情で、壁に広げられた首都圏の地図を見ていた。


「現在、都内数ヶ所で不審な霊力の波動を確認。立川の分析室や公安の分析班による霊力波長の解析から、“魂食い”の術式である可能性が高いとの分析結果が出ています」


 今回の“魂食い”事件のために設けられた捜査本部で、廣岡がそう報告する。


「ただし、現在のところ、被害者は確認されておりません。観測所によれば、“魂食い”の霊力が確認されるのと間を置かず、それを消滅させた未確認の霊力が観測されております。ただ、その霊力の発動はごく短時間であり、詳しい波長や発動源などの特定には至っておりません」


「ふむ」


 賀茂は部下からの報告に頷いた。

 廣岡は、未確認の霊力波への警戒心を抱いているようだ。それもそうだろう。いかに陰陽庁に都合よく、“魂食い”の被害を未然に防いでくれているとはいえ、こちら側の把握出来ていない未確認霊力は警戒にするに越したことはない。

 とはいえ、それは事情の知らない者だけの話だ。

 賀茂は、事前に久遠から説明を受けていた。問題は、それをどう部下たちに伝えるかである。

 機密事項に関わる事柄でもあるし、陰陽庁の権限の及ばない相手でもある。縄張り意識の強い人間からすれば、自分たちの職権を侵されたと感じることだろう。

 だが、説明しなければ無用の混乱を生じる。


「それに関しては、先ほど宮内省から長官のところに連絡があった。皇宮警察御霊(ごりょう)部が動いているとのことだ。未確認の霊力波に関しては、彼らのものだろう」


 宮内省皇宮警察御霊部の言葉に、廣岡を始め捜査本部に詰めている者たちの表情が硬くなる。

 その理由は様々だろう。

 皇宮警察御霊部は、皇室の霊的警護を担う祓魔官組織である。ただ、帝国の公的魔術機関である陰陽庁も、その実態を正確に把握している者は少ない。

 多くの者は、漠然と安倍晴明のような平安時代の宮廷陰陽師のようなものを想像するはずだ。

 その不気味さに嫌悪感を抱く者。あるいは、独自に行動する彼らに対して職権を侵されたと感じている者。もしくは陛下の御宸襟を騒がせたことに自責の念を抱いている者。

 捜査員たちの内心は様々だろう。

 ある意味で、御霊部は彼らの口をつぐませるのに最も適した存在だった。皇室というものの重みは、帝国臣民にとってそれだけのものなのである。

 これでは会議で聖上の名を出した連中を嗤えないな、と賀茂は内心で皮肉な思いに囚われていた。

 とはいえ、本当に御霊部が動いているのかは彼にも判らない。あくまで賀茂は、久遠の行動を捜査員たちに秘すために、御霊部の名を出したに過ぎない。

 問題は、有坂篁太郎からの連絡が昨夜からまったくないことである。あの大妖が「伝言役」と称してたびたび、賀茂や土御門に連絡を寄越すが、有坂祓魔官の動向はまったく不明なのだ。一応、久遠にこちらの捜査情報を託してはいるが、情報共有が上手く出来ているのは不安ではある。

 元々、陰陽庁の指揮下にない人間なのでそのことを咎めることは出来ないが、ヴォルフラム・ミュラーの捜査の進捗はどうなっているのか、確認を取りたいことはいくつかあるのだ。

 いや、と賀茂は内心で否定した。

 つまりは、陰陽庁は信用されていないのだな、と彼は思った。昨夜の沙夜と虎徹の件もある。それ以前から、あの陰陽師は陰陽庁の持つ負の部分を見てきた。

 あえて、捜査情報を回さないようにしているのかもしれない。

 久遠が“魂食い”の阻止に回っていることを考えれば、あの陰陽師はミュラーの捜索に専念していると見るべきだろうか。

 ミュラーが日本にいるという情報を最初に入手したのは、G機関である。そこから、宮内省を通じて輪王寺宮邸の警護を任されている有坂篁太郎にミュラー逮捕の依頼が出された。

 陰陽庁も彼の支援を任されているが、捜査への関与は限定的でしかない。有坂篁太郎という存在を知る者自体が少ないからだ。

 必然的に、情報の共有範囲は狭くなる。

 国際魔導犯罪者であるミュラーの逮捕は帝国の国際的威信に関わる案件であるが、その捜査の主管が陰陽庁でないことに、賀茂はある種の歯がゆさを感じていた。

 つまり、陰陽庁という組織の信用度は有坂篁太郎という一個人に劣るということである。

 有坂篁太郎があの化け狐を飼い慣らしているからこそというのもあるのだろうが、陰陽庁に所属する祓魔官としては、何も思わないわけではないのだ。

 賀茂は帝都の地図を見ながら小さく息をついた。

 ……我々は、我々に出来ることをやり遂げるだけだ。それが、帝都の霊的安定を任された者たちの使命なのだから。


  ◇◇◇


 猶予は少ない、と丹羽教光は思った。

 陰陽庁内部の同志より、霊装の特徴から昨夜の百鬼夜行もどきを発生させた実行犯の特定が進みつつあるという情報を入手した。

 恐らく、自分の名が容疑者の一人として挙がっているだろう。

 だが、内務省が即座に動くことはないと丹羽は判断していた。

 彼はかつて、魔導犯罪捜査の第一線にいた人物である。だからこそ、警察や陰陽庁が身内の犯罪にどのように対応するのかがよく判っていた。

 結局、官僚というものは組織利益を優先する生物である。身内から犯罪者を出すことは、組織利益が許さない。

 言い訳のような曖昧な捜査を続けて、どうにもならなくなってから初めて、誰か一人が詰め腹を切らされるのがオチだろう。恐らく、犠牲の羊に捧げられるのは陰陽庁第一部長のはずだ。

 逆にいえば、どうにもならない状況に陥らない限り捜査は停滞する。だから、自分に捜査の手が伸びるまでは、まだ時間はあるだろう。

 だが一方で、“魂食い”自体に関しては、陰陽庁はその威信にかけて阻止しようとするだろう。これもまた、組織利益故の行動だ。

 昨夜、霊装の〈百鬼夜行絵巻〉を展開したことで、蒐集した霊力のほとんどを使い切ってしまった。それでいながら、帝都に騒擾を起こすことに失敗したのだから、自分の目的はまだ達成出来ていない。

 夜が明けてから、式神を使っていささか強引ともいえる形で“魂食い”を行ったが、どれもことごとく失敗している。

 昨夜の一件といい、陰陽庁は遠野祓魔官以外に、手練れの祓魔官を“魂食い”阻止のために投入したようだ。

 だからこそ、時間は少ないのだ。

 ここで、陰陽庁の対応を上回る騒擾を引き起こさなければ意味がない。今の陰陽庁に、帝都の霊的治安を維持するだけの能力が不足していることを、国民に知らしめなければならないのだ。


「……やるしか、ないか」


 彼は低く呻くように呟いた。

 丹羽は潜伏先の拠点で、自分以外のもう一人に目を向ける。

 人造人間(ホムンクルス)、ラーズグリーズである。彼女の体には、ミュラーが調整のたびに魔力を注入している。それと彼女の体内の魔力器官で生成された魔力を、特殊な体内器官で神気に変換しているのだという。

 だからこそ戦乙女(ヴァルキュリヤ)としての能力を引き出せるのだと、丹羽はミュラーから聞いている。


「……」


 彼女は物憂げにも見える無表情で、拠点の中に佇んでいる。

 これを使うしかないか、と丹羽は決断した。

 所詮は人の形をした傀儡である。使い潰したとて、良心が痛むことはない。


   ◇◇◇


 妹の楓が学園の保健室に運び込まれたと聞かされたのは、高等部最後の授業が終わった直後であった。

 今日は昨夜の百鬼夜行事件の影響もあり、部活動もなかった。生徒の安全確保のためと、実技系講師も帝都の霊的治安維持のために動員されたからである。

 剣道部に所属している柊一も、本来であればすぐに帰るつもりだった。


「妹に、何かあったんですか?」


 妹の件を柊一に伝えた担任教師に、努めて冷静な口調で柊一は訊いた。


「いや、私も詳しいことは判らんが、とにかく妹さんのところに行ってあげなさい」


 教師はそう言って、柊一を促した。


「わかりました! ありがとうございます!」


 それだけ言うと、柊一は廊下を駆けだした。この時ばかりは、担任教師もそれを咎めるようなことはしなかった。






 保健室の前に、一人の少女が所在なさげに立っていた。

 その制服が少し土で汚れていることが気になるが、端正ながらまだ幼さの残る顔立ちの中等部生徒だった。黒く真っ直ぐな髪は肩の下あたりまでの長さ、いわゆるセミロングで特に結えることはしていない。


「えっと、君は確か楓のクラスメイトの……?」


「李恵蘭です」女子生徒はそう名乗った。「まあ、面と向かってお話した回数は少ないので、覚えていないのも無理ないですが」


「悪い」


 柊一は素直に謝った。


「楓ちゃんのことですね?」


「そうなんだが、李さんは何か事情を知っているのか?」


「いえ」恵蘭は首を振った。「ただ、楓ちゃんが心配になってここにいるだけです」


「そっか、ありがとな」


 すでに帰ったはずの中等部生徒が何故、学園内に残っているのかということに、柊一は疑問を覚えなかった。学園には学生寮があるため、この李恵蘭と名乗った少女もそこに住んでいると考えたのである。

 柊一は一度、深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、保健室の扉を開いた。


「あら、相馬さんのお兄さんと李さん」


 白衣を着た保健室の教諭が、机に向かって診断書らしきものを書いていた。


「それで、楓は?」


 大声ではなかったが、切迫したような柊一の言葉に、初老に差し掛かった女性の養護教諭は苦笑を返した。


「そんなに心配せずとも大丈夫よ。霊力回路が不安定に活性化しかけたらしいけど、今は落ち着いて眠っているわ」


 それはつまり、楓が霊力を暴走させかけたということだ。いったい、何があったのか?


「こう言ってはなんですけど、あなたの妹さん、少し霊力の制御を苦手としているでしょう?」


 それは暗に、楓の魔族恐怖症を差しているのだ。

 日常生活で魔族と出くわすことはほとんどないが、見鬼の才に優れた楓は、幼少期から常人(ただびと)には視えないものが見えていた。だから、帰宅途中で何かを視て、魔族恐怖症を発症してしまったのかもしれない。

 もしかしたら、昨夜の百鬼夜行からはぐれた妖にでも出くわしたのかもしれない。

 ぎゅっと柊一は拳を握り込む。多少、帰りが遅くなっても、楓には自分の授業が終わるまで学校で待っていてもらえば良かったのかもしれない。

 一人で帰るよりも、家族の誰かが一緒にいるだけで楓の精神は安定したはずだ。


「それで、楓は?」


「奥よ」


 養護教諭は、保健室奥のベッドを指差した。今は、白いカーテンが引かれている。

 とりあえず妹の無事を確認しようとしてカーテンをめくった柊一は、ぎょっとした。付いてきた恵蘭は事情を知っていたのか、特に驚くようなことはしなかった。


「お前……」


 どうしてここに、という言葉は衝撃が大きすぎて言葉にならなかった。

 妹が眠るベッドの横に置かれた椅子の上に、ちょこんと犬耳の生えた少年が座っていたのだ。


「柊一くん、こんにちは、なのだ」


 眠っている楓のために、わざと小声で挨拶をして頭を下げる虎徹。

 彼のことを、柊一はよく知っている。何せ、柊一の所属する剣道部の練習で、たびたび練習相手として呼び出されていたのだ。

 そして、楓が入学当初に霊力を暴走させる原因となった魔族でもある。

 今も昔も、その水干風の服とフード付きコートという姿は変わらない。


「妹さんを保健室まで連れてきてくれたのは、そこの虎徹くんよ」先生が、説明する。「妹さんが、虎徹くんを離してくれなくてね」


 微笑ましそうに、彼女は言った。

 柊一と恵蘭が見れば、無意識なのだろうか、安らかな寝息を立てている楓が虎徹の手を握りしめていた。虎徹の犬耳さえ無視すれば、妹を見守る兄のような光景だった。

 それが柊一には意外であったし、同時にちょっと悔しくもあった。


「楓ちゃんが落ち着くなら、オレはずっとここにいるぞ」


 親愛と、優しさの籠った声だった。

 妹はこの魔族の少年を苦手としていたはずなのに、これはどうしたことか。だが、兄の知らない内に仲直り出来ているのならば、それはそれで嬉しいことでもある。

 妹の魔族恐怖症は、柊一にとっても不安材料だったのだ。それをこの少年が癒してくれるのなら、自分も母親も安心出来るだろう。

 だが、突然のことに素直に納得し難い面があることも確かだった。


「相馬先輩」そっと恵蘭が話しかける。「ここは、彼に任せた方がいいかと」


「……そうだな」


 兄の立場を奪われたような、あるいは妹が兄離れをしてしまったような、何ともいえないも気分を味わいながらも、柊一はその場を離れようとする。

 だが、その前に訊かなければならないことがあった。


「なあ、虎徹。お前、どうして楓が倒れたか知っているか?」


「……う、それは……知らないのだ」


 妙に歯切れの悪い解答。それに、柊一は怪訝さを覚える。何となく、小さかった頃の妹が隠し事をした際の様子に似ている。

 握っている手を見る限りでは、昏倒の原因は虎徹ではないだろう。では、何だ?

 ふと、訳の判らぬ嫌な予感が頭をよぎった。

 彼の主人である遠野先生は、陰陽庁の職員として数々の魔導事件の捜査に加わってきたという。なら、今回も何かの事件の捜査に携わっている可能性が高い。職務上の守秘義務から、遠野先生が己の式神に口止めをしているのならば?

 考えすぎかもしれないが、一度膨れ上がった不安は容易にしぼんでくれそうにない。

 だが、ここでこの犬耳の少年を問い詰めても無駄だろう。彼は、主人に忠実な式神なのだ。


「そうか。変なこと訊いて悪かったな」


 今度こそ、柊一は保健室の扉に向かおうとする。


「ああそれと、楓を守ってくれて、ありがとな」






「相馬くん」


 保健室を出たところで、養護教諭が言った。


「妹さんの件は、お母様にも連絡してあるわ。でも、お仕事の関係でお迎えに来られないらしいの」


「まあ、うちの母はいつもそうですから」


 柊一は、そのことを冷たいとは思わない。父が死んでから女手一つで子供二人の養育費を稼いでいる母の大変さは、自分も楓も理解しているのだ。そして、母の仕事が魔術師であるが故に特殊であることも。


「だから今日一日、楓さんを学園に泊まらせることになるわ。お兄さんとしては、それでいいかしら?」


「ええ、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」


「一応、附属病院の空いているベッドを借りて、今夜一晩、様子を見ることになると思うわ」


「俺も、付いていちゃ駄目ですか?」


 一緒に帰らなかったという後悔がある。だから、柊一はそう訊いた。


「目を覚ますまでなら、って言いたいところだけど、昨夜、あんな事件があったばかりだからね。生徒の身を預かる側としては、今日は早く帰りなさいとしか言えないわ」


 申し訳なさそうに、養護教諭は言った。


「……そうですか」


 柊一は苦い顔になる。目を覚ますまでは傍にいてやりたかったが、そう言われてしまってはどうしようもない。


「わかりました。妹のこと、よろしくお願いします」


 後ろ髪を引かれる思いはあるが、ここで我儘を言っても仕方がない。その程度には、シスコンと友人に言われる柊一も理性的であった。


「それでは先輩、私も失礼します」


 李恵蘭と名乗った楓の友達は、ぺこりと一礼して廊下を歩いていった。その後ろ姿を見送り、柊一はもう一度保健室の扉を見た。案ずるような視線を、扉の向こうへと投げかける。

 そして、諦めたかのように息をついた。


「そんな憂鬱そうな顔して、妹さんが心配するわよ」


 呆れたような声が、耳朶を打つ。


「……アリス」


「何よ、すっかりしょぼくれちゃって」イギリス人の少女は、腕を組んで柊一を見ていた。「そんなに妹さん、深刻な状態なの?」


「いや、ただ霊力回路が不安定に活性化して、今は普通に眠ってる……」


「だったらもっと安心した顔をしなさい。じゃないと、逆に楓ちゃんに気を遣わせることになるわよ」


「すまん」


「別に、私に謝って欲しいわけじゃないのよ」


 アリスはひょいと肩をすくめた。


「ところで、さっき廊下で中等部の女の子とすれ違ったんだけど?」


「ああ、李さんか」柊一は言った。「楓のクラスメイトだよ」


「李さん、ね……」


 何かを考えているのか、アリスは手を顎に当てている。一瞬だけ、思索中であることを示すように遠い目となった。


「……まあ、いいわ」ふるふると彼女は首を振った。「妹さんが大事なくて、私も安心したわ」


「ああ、心配してくれてありがとな」


「前にも言ったでしょ、私は気にかけてあげるくらいしか出来ないって」


 その台詞はこの間のおどけたような口調と違い、楓への親愛が込められたものだった。妹を心配している人間が自分だけではないことに、柊一は安堵感と心強さを覚える。


「……なあ、アリス。ちょっと気になることがあるんだが、いいか?」


「気になること?」


 柊一が話したのは、虎徹の態度。

 楓の霊力回路が暴走しかけた原因を知っているようだが、それを隠したがっているあの判りやすい態度。

 話を聞いたアリスは、怪訝そうに眉を寄せた。


「確かにちょっと奇妙ではあるわね」彼女は首を捻った。「だったら直接、……遠野先生のところに行ってみたらどうかしら?」


 「遠野先生」の部分だけを言い辛そうに発音しながら、アリスはそう言った。彼女の遠野先生への心証がよく判る。

 そのことに柊一は内心苦笑した。


「それで何かが解決するわけでもないでしょうけど、原因を知るだけでもあんたの場合、多少は安心出来るんじゃないの? まあ、逆効果になる可能性も否定しないけど」


「……そう、だな」


 柊一は重く頷いた。確かに、もし楓が何らかの事件に巻き込まれているならば、遠野先生に保護を求めるのもいいだろう。

 あの先生は、学園最強と言われる実力派魔術師なのだ。

 自分にもっと力があればな、と普段は諦観と共に受け入れている自身の無力さを、珍しく柊一は嘆いた。


◆   ◆   ◆


 遠野沙夜の個人研究室は、講師陣の研究室の中でも整理整頓が非常に行き届いていると評判だった。

 もっとも、彼女自身がそれを行ったのではなく、彼女の眷獣が行ったのであるが。

 時刻は午後五時を過ぎた放課後、相馬柊一とアリス・クリスティアン・エスターモントはその研究室を訪れていた。

 魔術師の研究室ということもあり、両側の壁に埋め込まれた書棚と蔵書にまず圧倒される。西洋魔術を得意とする彼女の研究室らしく古い革張り装丁の洋書が書棚に並ぶ一方、和綴じの古書が平積みになっているところに、遠野沙夜という魔術師の特徴があるだろう。

 この部屋の主は、窓際の椅子に西洋人形よろしく端然と座って、生徒を迎え入れた。


「これまた珍しい客人が来たものだな」


 傲岸不遜さを崩さない人物ではあるが、自室ということもあるのか、授業中以上に傲然とした口調だった。

 普通であれば少女が妙に背伸びして偉そうな口調で喋っていると思われるところだが、遠野沙夜はそうした思いを抱くことを許さないだけの威厳があった。

 若く幼い外見ながら、死が間近に存在する実戦を経験した者ならではの凄みがあるのだろう。


「高等部の人間が、大学部の講師の部屋を訪れるのは珍しい。しかも、二人同時に、とは特に珍しい」


 じろり、と鋭い視線が二人に向けられ、思わず柊一は後ずさりそうになる。一方のアリスはそうした柊一を咎めるように、肘で彼を突っついていた。


「……お時間を取らせて、すみません」

 

 柊一が律義に頭を下げる。


「ふん、どうせ妹の件だろう、相馬柊一?」


「はい」


 素直に、柊一は頷く。


「単刀直入に言おう」沙夜は相手の心情を斟酌することなく、言った。「“魂食い”の件が解決するまで、相馬妹には私が守護の呪符を渡してやる。登下校の際には必ずそれを身に付けるようにさせろ。それ以外の不用意な外出は控えるよう、兄として言い聞かせておいてやれ」


 事情の説明もない、一方的な命令。

 これが講師としての言いつけではなく、国家祓魔官としての命令であることは明らかだった。


「それは、相馬楓が霊力源として狙われているということでしょうか?」


 アリスが確信を持って尋ねた。丁寧な言葉遣いではあるが、そこに生徒としての卑屈さはなく、一人の魔術師として遠野沙夜に対峙している姿勢がうかがえた。


「そうだ。家族である相馬兄には知っておく権利があるだろう。ただし、不用意に口外するなよ。そしてこれを聞いてしまった貴様にも、当然守秘義務が生じる」


「判っています」


「それなら、他の学園の生徒も危ないんじゃないですか?」


 当然の疑問を、柊一は沙夜に投げかけた。


「全学部の実技系講師が、朝と放課後、通学圏内の巡回を行っている。最近、一部の運動部で顧問の都合で朝練や放課後練習が中止になっているところがあっただろう? あれはこの所為だ。陰陽庁の方でも、事件発覚以降、捜査員や警邏を行う人間を増員している。正直、そちらの方がいい餌になる」


 冷徹ともいえる返答であったが、現実的な結論でもあった。奪う霊力は多ければ多いほどいいのだから。


「実際、昼間、霊力奪取を目論んだ術式の発動が感知されているが、どれも未然に防いでいる。それだけの戦力を“魂食い”阻止のために投入しているのだ。これで少しは安心したか、相馬兄?」


 つまり、一定程度の技量の人間を選んで警邏を行っているということだろうか。

 しかし、襲われたという事実がある以上、柊一は被害者の兄として到底安心出来るものではない。

 そして、沙夜はなおも冷厳として事実を突き付ける。


「まあ、逆に言えば、相馬楓はいい餌であると同時に、捜査員などの祓魔官連中と違って技量が未熟、狙いやすい標的であるということだ」


「くっ……」


 その言葉に、柊一は歯噛みした。ぎゅっと拳を握りしめる。嫌な事実を隠さずに伝えてくる講師だな、と思った。


「……俺に、何か出来ることはありますか?」


 兄としての情が、柊一にそう口にさせていた。


「それは遠回しな自殺願望か?」溜息をつくような調子で沙夜は言う。「だとしたら、教師として止めさせてもらうぞ」


 つくづく、この生徒は自分とは正反対の位置にいる人間だな、と沙夜は思う。

 こんなにも家族の繋がりを大切にする人間など、自分に対する最大限の皮肉以外のなんでもない。苛立ちが募る。


「貴様もだ、留学生。どうして相馬兄と一緒に来たのかは知らんが、実技の成績が良いからといって余計な手出しはするなよ」


「しかし、我々魔術師には民間人を守る義務があります。私は父や祖父から、そう教えられてきました」


 自分の矜持が傷付けられたように感じ、アリスは思わず反論してしまう。


「『高貴なる者(ノブレス・)の義務(オブリージュ)』という奴か、エスターモント子爵家令嬢?」


 皮肉げな視線を、沙夜はアリスに向ける。それに負けないだけの強い視線を、金髪の少女は小柄な講師に返した。

 ふん、沙夜は鼻を鳴らした。


「青いな、貴様ら」


 冷水を浴びせるような声に、柊一とアリスは固まった。

 妹のために、同級生のために、何かがしたい。それは、人として当たり前の感情かもしれない。だが、その思いを実行できるだけの力がお前たちにはないと、この小柄な講師は言っているのだ。

 どれほど悔しがろうと、歯噛みしようと、反論しようと、その事実は変えられない。

 理性ではそう理解しているのに、それでも感情がそれを拒むのだ。

 そうした渦巻く内面を抱く二人を冷たく見遣って、沙夜は口を開いた。


「戦いたいのなら、強くなれ。弱者の(さえず)りなど、誰も耳を傾けん」


 それは一面の真実ではあるが、この国で祓魔官として生きていくのならば不完全な言葉だった。

 現場に出る祓魔官ならば、確かに強さは必要だ。だが、陰陽庁は役所である。官僚たちの利権にまみれた魔窟。そこで生きていくためには、狡猾さも必要だ。

 若さ故の純粋さなど、いずれ嘲笑われる時が来る。

 それでも、陰陽庁に限るならば、魔術師として高い技量を身に付ければ、己の地位を保障してくれる武器になる。

 沙夜はそのようにしてきたし、これからもそうするつもりだ。そしてそれは、彼女の師の生き方でもあった。


「さて、そろそろ日も暮れる。お前たちもさっさと家に帰って、明日の講義の予習でもしていろ」


 追い出すように、沙夜はそう言った。


「相馬妹には、うちの馬鹿犬がついている」そして、小さく嘆息した。「……まったく、相馬楓がうちの駄犬を手放さないとは」


「……あいつに任せて、大丈夫なんですね?」

 

最後に柊一が、どうしてもそれだけは確認しておきたいという口調で、念を押してくる。

 虎徹に妹を任せて大丈夫なのかと、“魂食い”を行っているのがどんな魔術師なのかは知らないが、小柄な式神一匹で大丈夫なのかと、そう彼は問うているのだ。

 ふん、と沙夜は鼻を鳴らした。


「あれは、私の眷獣(けんじゅう)だ。私は役立たずの犬を養ってやるほどの善人ではないのでな。あれを倒したければ、伝説級の魔族でも持ってこい。そうでなければ話にならん」


 傲岸不遜に言ってのけた沙夜を、どこか不思議なものを見る目で柊一とアリスは見つめていた。

 「この世界」では大日本帝国が存続しておりますので、「宮内省」のままです。

 なお、「皇宮警察御霊部」は架空の組織であり、当然ながら過去にもこのような組織が存在していたということは寡聞にして存じておりません。


 さて、仲の良い兄妹を描くのが中々難しいです。現実世界で経験したことのない家族関係ですので。

 何か参考になるような小説や心理学の書籍、アニメ等がございましたらば、お教えいただけると幸いに存じます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ