第一部 第四章 第三節 黄昏時の襲撃
奉祝 令和
令和元年五月一日
「……ふむ」
久遠は玉座の上から、空中に映し出した首都圏の地図を眺めていた。
管狐によって集められた情報を、地図に反映していく。
〈あわい〉は、その存在自体が曖昧な空間である。
そもそも空間自体が不安定であり、人間が不用意に迷い込めば二度と出てこられないといわれている。だが、大妖九尾の久遠は、自身の妖力によって〈あわい〉の一定空間を固定化してしまった。
だからこそ、宮殿の構築が可能になったわけである。
古来より狐の妖怪は幻術を得意とするが、神代の妖である久遠は幻想を具現化する能力を持つ。
彼女はその膨大な妖力を元にした妖術によって、その縄張りを維持しているのである。
久遠の築いた宮殿に、篁太郎は「北辰宮」という名を付けた。天空に不動な北極星の名を冠することで存在を固定化しようとする、名前を使った一種の呪である。その意味では、この空間は久遠と篁太郎の縄張りであるともいえた。
「何をやっているんだい?」
誰もいなかったはずの玉座の間に声が反響する。どこかサバサバとした、冷淡にも聞こえる特徴的な口調。
「王子の狐か」
玉座の間に、臣下の礼を取ることもなく入ってきた白い髪と毛並みの良い尻尾を靡かせた狐耳の少女。久遠にとっては、篁太郎を介したある種の同盟者でもある。決して対等の立場であると認めているわけではないが、ある程度の無礼を許している相手でもあった。
「ミュラーとやらの行方を追っている。篁太郎に約束した故な」
視線は地図から外すことなく、久遠は応じる。
「その篁太郎は?」
「無理矢理寝かせた」久遠は答えた。「で、この宮殿の寝台の中に突っ込んでおいたわ」
それを聞いた王子の狐は、思わず噴き出した。そして、からからと笑い出す。
「ははっ、あなたも、相変わらず面白い。本当に、篁太郎はいい式神と契約したと思うよ」
「ふむ、何か不愉快な発言よの」
とは言いつつも、久遠の口調は駄々をこねる子供のようだった。
「何がかな?」
「お前が、自身を篁太郎よりも上だと思っておるような口ぶりが、だ」
「別に、私は自分が篁太郎よりも優れているとか、そう思っているわけじゃない」王子の狐は言う。「そもそも、妖と人間を比べるだけ無駄だよ」
そして、彼女はちょっとだけ懐かしそうな顔をと共に、過ぎ去った日々を愛おしむように続けた。
「ただ、私は篁太郎の成長をずっと見守ってきたからね。彼が子供の頃からずっと、それこそ、篁太郎が封印を解かれたあなたを討伐するために出発したところも」
「それが、何となく我には許せんのだ。あれは、我のものだ」
威嚇するような獣の視線で、久遠は白髪の妖狐を見据えた。
「判っているよ」宥めるように、狐耳の少女は言う。「篁太郎はあなたのものだ。私はそれを取ろうなんて思っちゃいないよ。でも、いくら大妖九尾でも、過ぎ去ってしまった時間をどうこうすることは出来ない。あなたは多分、それに苛立っているんだ」
「……」
久遠は憮然とした。妖狐の女帝として、自身の所有物は独占しなければ気が済まない。だから、篁太郎も久遠にとっては自身の所有物なのだ。
だが、独占するには自分は篁太郎と出会うのが遅すぎたのかもしれない。自分の知り得ない篁太郎の欠片を持つ彼女が、羨ましいのだろう。
そう久遠は自己分析をした。妖狐の女帝たる自分の意外な女々しさに、何となく不愉快な気分になる。
「王子の狐よ」
「何?」
「手伝え」
久遠は地図を指差して言った。それが腹いせに近い行為だと判っていた。
「やっぱり、あなたたちは面白い」という少女の呟きは、久遠の耳にしっかり届いていた。
◆ ◆ ◆
相馬楓は一人、家路についていた。
清洲陰陽学園は一般の中学校のような学区制ではないので、同じ方向に帰る友達というものが非常に少ない。せいぜい駅まで一緒か、あるいは同じ行き先の列車に乗ることもあるが、結局、降りる駅が違う。
アニメや漫画、ドラマなどでは数人の友達と学校から帰る場面があるが、学園の生徒たちには無縁に近い光景だった。
楓自身も、小学校の時とは違って友達と一緒に帰ることは出来ないので寂しいと感じることもある。だが、中等部三年ともなればもう慣れてくる。学園に行けば友達もいるので、まったく孤独というわけではない。
だが、今日くらいは一緒に帰る友達が欲しいと思ってしまう。兄の前では平気なふうを装っているが、本心ではやはり不安なのだ。
彼女の特徴的なポニーテールも、今ばかりは萎れて見える。
自宅までの間にある木場公園を横切るが、公園の様子はいつもと違っていた。時刻は午後四時半ごろ、普段であれば人のいるはずの公園も、昨夜の百鬼夜行事件の所為か、今日は閑散としている。
逢魔が時。
妖たちが活性化する夜になるこの夕暮れ時の時間帯を、日本人はそう称していた。「逢魔が時」はまた、「大禍時」とも書く。
魔に逢いやすい時間帯、大きな禍をもたらす時間帯。
それを思い出した楓は、わけもなく体が震えてくるのを自覚した。
何故だろう?
さっきから、奇妙な感覚を覚える。何が奇妙かはよく判らない。でも、自分の直感が奇妙だと叫んでいるのだ。
「……えっ?」
気付けば、公園内に人は一人もいなくなっていた。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、どこにも、誰もいない。
いくら百鬼夜行の件があったとしても、あまりに奇妙だった。そして、それを奇妙と思わず大きな公園の半分まで進んできた自分はもっと奇妙だった。
葉を揺らす風の音が、いやに不吉に聞こえる。
「だ、大丈夫。きっとみんな早く帰っちゃっただけだから」
そう自分に言い聞かせて、楓は足早に公園を出ようとする。
「っ!?」
だが、それは出来なかった。足が、自身の意に反して止まってしまう。
彼女の進もうとした方向にある木の下、その長い影に一体の犬が佇んでいた。
堂々たる体躯に黒い毛並みを持つ大型犬。
だが、それが普通の犬でないことくらい、楓には判っていた。犬には、イッカクのような角は生えていない。そして、あんな禍々しいまでの赤い目をしていない。
方向を変えようとして、彼女は息を呑んだ。
そちらにも、漆黒の大型犬が佇んでいたのだ。
「っ!?」
慌てて、別の方向を見る。
だが、そこにもやはり角を生やした犬が。
自分は今、四頭の魔犬に囲まれてしまっているのだ。彼らは、獰猛な唸り声と共に、徐々に楓に迫ってくる。
「あっ……」
頭の中では逃げろと叫んでいるのに、意図せず体が硬直してしまう。口の中が乾き、呼吸が不自然に荒くなる。心臓が早鐘のように鳴っている。
発作の前兆だ。
自分の裡で、急激に膨れ上がる霊力。
誰か、助けて―――!
その心の叫びすらも自らの霊力の波動にかき消され、魔犬が楓に飛び掛かった刹那。
ふわりと、楓は誰かに抱きかかえられた。一瞬の浮遊感が彼女を包み込む。
「間に合ったのだ、楓ちゃん」
すとん、と地面に着地した虎徹が、楓を下ろす。だが、彼女は自力で立つことが出来なかった、足に力が入らず倒れそうになったところを、虎徹が支える。
四頭の魔犬は、楓を抱えた先の一瞬で蹴り倒されていた。
「もう、大丈夫なのだ」
楓を怖がらせないように、穏やかに語りかける。
「……め」
虎徹の腕の中で、楓が何かを呟く。
「えっ?」
彼女の言葉は、虎徹の耳でも聞き取れなかった。不自然に荒い呼吸で、言葉が上手く発音出来ていないのだ。それでも、必死に何かを虎徹に伝えようとする。
「……だ…め……」
楓は両腕で自分を抱えるようにして、小さく震えていた。目は、何かを堪えるようにきゅっと閉じられている。
あの時と同じだ、と虎徹は思う。自分とこの少女が初めて出会った時と。
ぶわりと、少女の発する霊力が膨れ上がる。
「っ!?」
虎徹にその霊力が叩きつけられようとする瞬間。
「見し夢は、獏の餌食となるからは、心も晴し、暁の空、アビラウンケンソワカ」
すっと白い手が楓の顔にかざされた。
霊力の膨張が止まり、ふらりと気を失った楓が虎徹の腕の中に倒れ込んでくる。
「恵蘭」
悪夢払いの呪文を唱えた者は、虎徹もよく知る人物だった。
陰陽学園中等部の制服をまとったままの李恵蘭は、案ずるような視線で楓を見つめた。
「結局、こうなっちゃったわね」悔恨を滲ませた口調で、彼女は言った。「私が中途半端な間に合い方をした所為で、あなたと楓に負担を強いることになっちゃった」
「そんなことはないぞ」虎徹が否定する。「オレは、楓ちゃんを守れて良かったのだ。例え楓ちゃんに拒絶されても、オレは楓ちゃんが無事で良かったって思っているぞ」
「楓に、あなたを拒絶するつもりはないわ」
恵蘭はふるふると首をふった。そして、虎徹の腕の中で意識を失った楓の髪をそっと梳く。
「ただ、彼女は過去のトラウマに翻弄されているだけ。きっと、さっきの『だめ』って言葉も、自分に近づいちゃだめっていう、この子なりの気遣いだと思うわ」
恵蘭は案ずるように楓の顔を見遣った。小さく安堵の息をつく。
「それで、これはどうするの?」
彼女は、人気の絶えた公園を見回す。
この場所に張ってあるのは、人払いの結界だ。それも、公園を丸々包み込むような大規模なものである。
そして、この人払いの結界は、かなり高度な術式で編まれている。並み程度の術者では、結界の暗示効果でこの場所に近づくことすら出来ないだろう。恐らく、外部から結界を破壊するのにはそれなりの時間が必要なはずだ。
「ていうか、あなたはよくこの結界を潜り抜けられたわね」
「うん? この結界、大したことなかったぞ」
「……ああ、なるほど」恵蘭は呆れと共に納得した。「鼻に頼っているから、意識に影響を及ぼす結界の効果が十分に効かなかったわけね」
相変わらず、頼りになる番犬だと恵蘭は思う。自分は、この場所を避けようとする結界の暗示効果に抗って侵入したというのに。
「とにかく、こんな所に楓を置いておけないわ。とっとと出ましょう」
この結界は外部からの侵入を防ぐためのもので、内部からの脱出はそれほど難しくないはずだ。
ただ問題は、楓だけがこの人払いの結界の効果を受けずに入れた、いや、逆に誘い込まれてしまったということだ。結界を張った人間の意図が推測出来る以上、長居は出来ない。
恵蘭は、虎徹と共に踵を返そうとする。
「っ!?」
彼女たちの行く手を阻むように、地面に現れた洞から異形の生物や一角を備えた魔犬が飛び出てくる。
「ぐるるるるっ!」
虎徹が威嚇の唸りと共に後ろを振り返った。
「ほう、やはり鼻だけは良いようだな。この結界、単に人払いだけの機能を持たせたのは失敗だったか」
「オマエ!」
敵意の声を虎徹は上げる。それは昨夜、廃工場で対峙したのと同じ容姿の男だった。
「だが、思わぬ人物が釣れたことだ。これはこれで良しとしよう」
ヴォルフラム・ミュラー、あるいはその〈人形〉は、ねっとりとした視線で恵蘭を見る。
一瞬、その視線にぞっとする彼女だったが、行動は早かった。
「はっ!」
裂帛の意思と共に、異形や魔犬たちに呪符を投げつける。そして、楓を抱える虎徹と見知らぬ西洋人魔術師の間に飛び込む。
「虎徹、あんたのご主人様は!?」
「う、大学部で授業中なのだ」
「くっ……」
つまり、支援は期待出来ない。
「いい、虎徹? 楓を抱えてここから逃げなさい。取りあえず学園まで行くか、結界に近づけずにウロウロしているうちの人間たちと合流しさない」
恵蘭には、楓を抱えた状態で逃げ切る自信はない。そして、虎徹にも少女とはいえ人間二人を抱えて逃げる余裕はないだろう。彼は今、右手に癒えぬ傷を負っている。
「恵蘭はどうするのだ?」
「はん! 友達も守れないで陰陽師なんてやってられっかっての!」
ぞんざいに言い放ち、追加の呪符を制服の内から取り出す。恵蘭はミュラーを睨みつけた。
「どこの誰だか知らないけど、人の友達に手を出さないでくれるかしら?」
「友、か。これだから近年の魔術師養成制度は劣化している」不満そうに、ミュラーは言った。「魔術師にとって、友など不要。ただ己と真理あるのみ。その探究こそが魔導を極めるということだ」
「典型的な魔術至上主義者のご高説をどうも」
恵蘭は油断なく相手を見据える。到底、自分一人では勝目のある相手でないことは判っていた。
「虎徹、行きなさい」
一瞬だけ背後の少年に目を遣った恵蘭は、そう言って促す。
「う……」
虎徹に、逡巡が見られた。心根の優しい彼の、悪い面である。犬耳の少年は腕の中の楓と恵蘭を見比べた。
「行け、眷属たちよ」
「オン・アビラウンケン・シャラクタン!」
ミュラーが異形たちをけしかけるのと、恵蘭が真言を唱えるのは同時だった。
何体かの異形や魔犬が、術の直撃を受けて弾き飛ばされる。
「くっ!」
だが、数体が捌ききれずに恵蘭に牙を剥いた。咄嗟に地面に転がって回避する。口の中に砂が入った。
「恵蘭!」
「あんたは早く楓を!」
口の中の砂を吐いて立ち上がりながら、彼女は虎徹を促した。どうやらあの男は、虎徹や楓ではなく、自分に狙いを切り替えたらしい。恵蘭の思惑通りとはいえ、状況は厳しい。
相手は二兎追う愚行を避け、与し易い恵蘭を標的に選んだのだろう。その冷静な判断力が憎々しい。
「不可視の理を以って、我が敵を討ち果たすべし。【風刃】」
「臨兵闘者皆陣列在前!」
二人が呪文を唱えるのは同時。恵蘭の切った九字がミュラーの風刃と激突し、土埃を舞わせる。
「オンシュチリ・キャラロハ・ウンケンソワカ」
続けざまに、恵蘭は真言を唱えた。
「汝、我に触るること能わじ」
「ナウマク・サンマンダ・センダマ……がっ!」
恵蘭の詠唱は、苦痛の呻きと共に中断させられた。背後から、一匹の魔犬が恵蘭に体当たりを仕掛けたのだ。
目の前の男と真言の詠唱だけに集中していたために生まれた隙。
そのまま、彼女の体は地面に叩きつけられた。魔犬が恵蘭に圧し掛かるようにして、肩に爪をかける。
「ぐっ!」
爪が肩に食い込み、鋭い痛みが恵蘭の体を駆け巡った。
不意に、自分の体が地面に沈んでいることに気付く。異形や魔犬たちが出てきた、あの洞だ。
あれは、自身の影を異界化することで、そこに収めたものを瞬時に取り出し可能とする高位魔術なのだ。
「恵蘭!」
虎徹の叫びが恵蘭の耳に届く。この期に及んで、彼は自分の言いつけを守らなかったらしい。ただまあ、自分が完全に捕らえられてしまえば、虎徹も楓のことに集中せざるをえない。
魔術師としての冷徹な部分で、恵蘭は洞に沈みゆく自分を醒めた目線で見つめていた。
「―――うん、やっぱりまだまだ甘いね」
ザシュ、という切断音と共に、恵蘭を取り押さえて洞に引きずり込もうとしていた魔犬の首が飛んでいく。
ぐっと、誰かの手に恵蘭は引っ張り上げられた。
「さて、外津国の君と会うのはあの夜以来かな?」
サバサバとして、いっそ無関心にも聞こえる口調。その声の主を、恵蘭も虎徹も知っていた。
「あなた……」
片手に日本刀を下げた、狐耳の少女。彼女は冷徹な目でヴォルフラム・ミュラーを見つめていた。
「言っただろう? ここは私の縄張りでもあり、妖狐の女帝の縄張りだって」
すっと目を細めた妖狐の少女は、刀の切っ先をミュラーに向ける。その瞬間、魔術師の胸から鋭い爪が伸びた。
「左様。貴様はいささか目障りよの」
ミュラーの背後に、突如として顕現した久遠。その鋭く伸ばされた爪が、男の胸を貫いていた。魔術師の口から、血が流れ出す。
「なるほど、妖狐の女帝とは、九尾のことか」
血泡を噴き出しながら、苦痛を感じさせない平然とした口調でミュラーは言う。やはり、これも〈人形〉だったのだ。
「ほう、我を知っておるのか?」
「その昔、人間に封印された愚かな化け狐の話はな」
「ふむ、それを言われると耳が痛い」
皮肉げに唇を歪めて、久遠が言う。
「では改めて。我は九尾。白面金毛九尾よ」久遠は〈人形〉の耳に囁きかける。「どうだ? 貴様の求める“材料”だ。神代の妖に出会える幸運など滅多にあるまい? せっかく日ノ本の国まで来たのだ、我が直々に歓待してやる故、光栄に思うがよい」
そのまま彼女は魔術師の心臓を引き裂いた。血が辺りに舞う。
「ふん、他愛ない。やはり、傀儡ごときではこの程度か」
手を振って、久遠は爪についた血を飛ばす。王子の狐の方も、刀を鞘に戻した。
「……傀儡って?」
死体を前にして、顔を若干青ざめさせながら恵蘭が訊いた。努めて平静であろうとするが、それはあくまで表面上のことだ。
魔術師の暗黒面は理解し、覚悟もしているつもりだったが、実際に目の前にするとそうもいかない。
「そのままの意味よ」久遠は下らないとでも言いたげな口調だった。「これは人間ではない。篁太郎曰く、クローン技術とホムンクルス製造技術の合わせものよ」
「そう、なの……?」
いささか半信半疑といった恵蘭は、虎徹に視線を向けた。
「う、そいつは普通の人間の匂いじゃないのだ」
そして、魔族の少年は久遠の言葉を肯定した。とはいえ、見た目が人間そのものの死体が目の前にあるのは、恵蘭としてはあまりいい気分ではない。
だがこの際、それは意識の片隅に置かざるを得なかった。
恵蘭は気持ちを切り替える意味で、一度、深呼吸をした。
「……ありがとう、助けてくれて。お礼を言うわ」
そして制服についた土埃を払い、肩の調子を確かめつつ、彼女は言った。
「ふむ、貴様は駄犬の主と違い、最低限の礼儀は弁えているようだな」
「相変わらず、その見下した物言いは癇に障るけどね」
久遠と恵蘭は、互いに挑発的な視線を交わす。
「……それで、狙われたのは楓だけ?」恵蘭は問う。「帝都は大丈夫なの?」
「それについては、私と久遠とで早々に駆除したからね。心配ない」
答えたのは、王子の狐だった。そして、久遠が続ける。
「まあ、昼間から“魂食い”を強行しようなどと、相手も相当に追い詰められているようだがな」
「で、楓はその標的にされたってことね」
小さく憂鬱そうな溜息をついて、恵蘭は虎徹の腕の中の楓を見る。
「いや、ここだけ相手が魔力の波動が違ったぞ」
久遠の言葉は、重大な情報を含んでいた。つまり、ヴォルフラム・ミュラーの狙いは楓だけであり、他の“魂食い”とは目的が違うということである。
当然、ミュラーのことを詳しく聞かされていない恵蘭も、久遠の言葉を不審に思った。
「どういうこと? つまり、この子だけを狙う必然性があったってこと?」
「まあ、この男の本質が情報通りであれば、大いにあるであろうな」
久遠は平然とした口調で肯定した。
「これは、二重存在者だ」
顎で、彼女は楓を示した。
小柄な少女を抱きかかえる虎徹は、二人の会話の意味が判っていないようで、首を傾げていた。
「……そう」
納得出来ないものを無理矢理納得させたような口調で、恵蘭は頷いた。
「お前たちは、早々に立ち去るがよい」久遠が言う。「陰陽庁の人間に駆け付けられては、いろいろと厄介なことになりそうだからな」
「……ええ、その方が良さそうね」
やはり不承不承といった感じで頷きながら、恵蘭は虎徹を促した。
「さて、我らはこの肉片の片付けよな」
久遠はミュラーの〈人形〉や異形、魔犬の死体に狐火を放ち、それらを消滅させていった。
まるで、この場所では初めから何もなかったかのように。
作中でまともに呪文が登場したのは、今回が初めてです。
陰陽道の呪文に関しては、豊島泰国『図説 日本呪術全書』(原書房、一九九八年)などを参考にさせていただきましたが、西洋魔術に関しては資料が見つかりませんでしたので、筆者が勝手な想像を元にして呪文を書いております。
何か参考になる資料がございましたらば、是非ともお教え願いたく存じます。




