第一部 第四章 第一節 主従の契り
生まれて初めて見た太陽に、その犬は憧れた。
自分を始めて地上に連れ出した男が語り聞かせてくれた冒険譚に、その犬は憧れた。
それが、すべての間違いの始まりだった。
「我々は、決してここを離れてはならない」
兄弟たちは言う。
「お前は、決してそこを離れてはならない」
主人は言う。
それが、お前に課せられた使命だから。それが、お前の存在意義だから。
番犬として生まれた犬は、持ち場を離れた瞬間に番犬ではなくなる。その役目を忘れて地上に出るなど、きっと話にもならないだろう。
だから、胸の内で膨れ上がった好奇心が痛かった。
ああ、自分はきっと欠陥品なんだ。
兄弟を失望させ、主人を失望させた。
それでもなお、犬は地上に憧れた。
その異質な存在を、主人は決して認めなかった。犬を兄弟たちから引き離し、暗い地下へと封印した。
誰からも存在を忘れられ、その名すら失った犬は、ただ暗いだけの世界で、長く眠りにつくことになった。
◇◇◇
深いシュヴァルツヴァルトの森の中で、沙夜は荒い息をついた。
その吐息は、凍えた空気によって白く立ち上る。
ぐったりと地面に横たわる異形の黒犬を前にして、彼女はねじくれた木の枝を支えにして立っていた。魔力の消耗は、そのまま体力の消耗にも繋がる。
彼女もまた、倒れたままの黒妖犬と同じく限界だったのだ。
彼と彼女の勝敗を分けたのは、ただ一つ。
彼らを支えてくれる存在がいたかどうか。
沙夜はこの黒妖犬を自身の眷獣とすることに決めた。ならば最後は自力で仕留めるようにと、篁太郎は、黒妖犬が消耗し始めたあたりで後方へと下がっていた。
だが、それでも十五歳の魔術師にとって、消耗しているとはいえ怪物相手の戦闘は苛酷を極めた。
篁太郎は助言はするが、支援はしない。
そして、丸一日近い戦闘を経て、沙夜は黒妖犬を降すことに成功したのだ。
無残に切り裂かれてぼろ切れのようになってしまった衣服の上に、沙夜は篁太郎の赤い外套を羽織って素肌を隠していた。
師たる陰陽師の防御霊装〈火鼠の衣〉。
決して、独力でこの魔物を倒したとは言えないが、それでも勝ちは勝ちである。
「夢は覚めたか、狂犬」
声は疲れていたが、未だ立っている者の意地を感じさせる響き。
魔犬の赤い瞳からは、狂気の色が抜けていた。消耗と沙夜の術により、狂化の呪いが解けたのだ。
だが、その瞳には疲れ以外のもの、諦観ともいえる感情が宿っていた。
「お前も、かつての私と同じ目をしているな」
同情ではない。自嘲の声と共に、沙夜は彼を見た。その目が、ひどく気に喰わない。
「利用され、利用し尽くされ、要らなくなれば捨てられる。ああ、そうだ。その感情を、私はよく知っているとも」
蠱毒という術がある。
器の中に様々な動物を入れて、共食いをさせる。そして、生き残った動物には神霊としての霊格が宿るとされる呪術だ。だが、負の術である蠱毒は、同時に生き残ったものが強い毒性を持つとされる。
古代東洋では、呪詛の一種としても使用されてきた魔術である。そのため、今では国際的に禁じられている、黒魔術の一種だ。
だが、生き残った動物の霊格が上がるという術の特性に注目した魔術師がいた。彼は神獣とまで言われる高位の魔族たちを捕らえ、より高位の存在を生み出すべく蠱毒の術を使った実験を行った。
狂化の呪いをかけ、共食いをさせる。
喰ったものが喰われたものを取り込んで、最後に生き残ったのはこの魔犬。
だが、共食いの結果、魔犬が手にしたのは神性などではなかった。悪霊と呼ぶに相応しい、負の力。西欧教会が神の敵として定めた悪魔を、魔術師は生み出してしまったのだ。
だから、この森に捨てた。
彼にとって、この魔犬は失敗作。処分するだけの能力も、錬金術を得意としたその魔術師は持ち合わせていなかったのだ。
後にはただ、同族殺しの怪物だけが残った。
「お前は、生きたいか?」
じっと黒妖犬の赤い瞳を見つめ、沙夜は問う。
「答えろ」威圧的に、彼女は続ける。「私の言葉が判らないわけではないだろう?」
反応のない黒妖犬に、沙夜は一歩一歩近づいた。
「お前は、死にたいのか?」
先ほどとは逆の問い。
見下ろす赤い瞳には、変わらずに諦観の色がある。それは、従容として死を受け入れたものの目だった。
やはり、沙夜は気に喰わなかった。
この名もなき怪物は、負けたから死を受け入れたのではない。自分という存在が世にあることを諦めてしまった、だから死を受け入れているのだ。
「私は、生きたかった。だから、ここにいる。お前は、生きることを諦めるのか?」
それは、責めるような言葉だった。
同族である神獣たちを殺し、喰らい、自分の血肉とする。それは、この怪物を蝕む毒の記憶だ。それこそ、自分という存在を否定したくなるほどに。
だが、沙夜はそれが許せない。これが自分の独善だということも判っている。死を希うものに生きろと説くのも、酷な話かもしれない。
それでも、沙夜は納得出来ないのだ。同情などではない。純粋な、憎悪すら伴った怒りだ。
かつて、沙夜も呪ったことがある。自分を生み出した者たちを、自分を利用し尽くして捨てた者たちを、そして自分自身を。
でも、生きたかったのだ。
その思いを肯定してくれたのが、篁太郎だった。
ならば、自分を生み出した者たちを、自分を利用した者たちを、嗤いながら生きていこう。どこまでも傲慢に、自分の生を謳歌すると決めたのだ。
だからこの怪物は、もう一人の自分なのだ。自分とは逆の選択をした自分。だからこそ、沙夜は気に入らない。
「お前がお前の存在を否定しようとも、私はお前を肯定してやる。誰かがお前を捨てるなら、私がお前を拾ってやろう」
勝ったのだからお前を好きにさせてもらうと、沙夜は言う。
それが救いなのかどうかは、判らない。だが、すべてはこの怪物次第だ。
「だから、お前は私の眷獣になれ」
ふわりと、沙夜の魔力が彼女自身と黒妖犬を取り巻くように渦を巻き始める。
「―――我が言葉に偽りはない。我が為業に虚偽はない。告げる。汝が身を我が下に、我が命運を汝の下に、此処に契約の印を結ぶ。我が血潮を楔となし、汝が血潮を軛となし、以って契りの証とせん。成れ、成れ、成れ。果ての日まで変わらぬ誓いを此処に―――」
『懐かしい光景よな』
〈あわい〉に控えたままの久遠が、篁太郎に語りかけた。
『お前と我も、あのように戦ったのであったか』
「ええ、もうだいぶ前の話ですね」
太い木の枝に腰をかけたまま沙夜と黒妖犬を見守っていた篁太郎が答える。
『だが、お前の本質はあの頃とさして変わらぬな。まったく、我も面倒な奴の式神になったものよ』
言葉とは裏腹に、久遠は楽しげだった。篁太郎も、小さく笑みを浮かべた。
『しかし、よいのか? あの犬は、あれでなかなか使えそうだぞ。お前こそが式神とすべきであろうに』
神代を生きたものだからこそ判る力を、久遠はあの黒妖犬から感じ取っている。せっかくの駒を前にして、それをみすみす捨てるような真似をしていいのかと、彼女は言っているのだ。
「構いませんよ」篁太郎の声に、未練はない。「沙夜はそろそろ親離れをした方がいい。あの魔犬は、そのいいきっかけになるでしょう」
『お前が父親なら、母親は我ということになるが、我はあの小娘の親代わりは御免だぞ』
青年の言葉に呆れを含んだ声が応じた。
「沙夜もあなたをそうは思っていないでしょう」
『まあ、そうであろうな』
納得した調子で久遠が言う。
「それに」
篁太郎は視線を虚空に向けて、続けた。
「俺の式神は、あなただけで十分です。あなたがいれば、それでいい」
『……そういう恥ずかしい台詞を、よくもまあ言えるものだな』
呆れたような、照れ隠しのような声が、篁太郎の脳裏に響く。
「そうですかね? 久遠の父親母親発言も、十分恥ずかしいと思いますが」
『……うむ、そうであるな』
一瞬の間が、彼女が努めて冷静であろうと感情を整えた時間なのだろう。
「それにしても、意外でした。久遠が他に式神を従えるよう、俺に言うなんて」
『我はお前の契約者だ。お前にとって有利になる助言をすることに、何の不思議があるのか』
その発言は、ますます篁太郎を不思議な気分にさせた。
「俺が他に式神契約を結べば、契約の対価の取り分が少なくなりますよ」
『そういえば、そうであったな』
まるで、今思い出したかのような口調であった。もしかしたら、本当に忘れていたのかもしれない。
彼女が、篁太郎が彼女に対して支払うべき契約の対価を忘れていたことを、好都合だと彼は考えなかった。それは、式神という地位に甘んじてまで自分の我儘に付き合ってくれているこの大妖に対して、不誠実極まりない。
「だから、俺の式神は後にも先にもあなただけです」
『……つくづく、変わった男よな、お前は』
諦観を抱きつつも、その在り様を受け入れる、そんな包容力のある声だった。
「俺たちはこの後、イギリスへ戻ります。せっかくですから、知り合いの魔術師のところに寄って、沙夜の霊装に使えそうな木を買ってあげるつもりですが、久遠も何かお土産で希望はありますか?」
『料理の不味さに定評のある国の土産など、期待するだけ無駄ではないか?』
いつの間にか、土産は食べ物限定に決定していたらしい。露骨に嫌そうな声だった。篁太郎はくすりと笑う。
「では、ドイツで何か美味しそうな腸詰でも見繕っておきますよ」
『うむ、その方が多少なりとも期待できそうであるな』
安堵したような声が脳内に響き、もう一度篁太郎は笑った。
『それと、篁太郎よ』
ぽう、と彼の胸の前に青い炎が表れた。狐の妖が操るという炎―――狐火。
『その森は瘴気が濃すぎる。それでは失われた魂も道に迷おう。せめてもの手向けだ。お前ならば、その炎を使って導けるだろう? 陰陽師、有坂篁太郎よ』
それは、蠱毒の中で喰われ、死んでいった魔族たちを悼む言葉。
篁太郎は頷くと狐火を受け取り、静かに呪文を唱え始めた。
この辺りで、虎徹が何の魔獣であるのか、お気付きになられた方もいるかと思います。
予定では、第五章にて虎徹の正体は明らかにする予定ですので、そこまでお待ちいただければ幸いに存じます。
さて、この第四章は物語の終局へ向かう一歩手前のような形となっております。
そのため、各登場人物たちの置かれた状況の説明のような冗長さがあるかと思います。
果たして、そのような部分は物語にとって必要であるのか。ある程度、読者様の想像にお任せする方が余韻のある物語に仕上がるのではないか。
そのような思いを抱きつつ、現在、執筆にとりかかっております。
どうか今しばしのお付き合いをお願いすると共に、皆様からの御意見など頂ければ、今後の執筆の参考にさせていただきます。
どうかよろしくお願いいたします。