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幕間 欧州戦線の推移と日米開戦

  7 日米関係の悪化と欧州戦線の推移

 ワシントン海軍軍縮条約によって保たれていた日米の軍縮条約体制は、条約の失効と共に終焉を迎えていた。

 ロンドン海軍軍縮条約に加盟しなかったアメリカは、それまで第一次ヴィンソン計画(一九三四年)や、ワシントン条約で認められていた主力艦の代換建造を実施するなど独自の軍拡路線をとっていた。

 日本はこうしたアメリカの軍拡に対抗するために第三次補充計画(一九三七年・昭和十二年)を策定するが、それは日米間に熾烈な建艦競争を引き起こす結果となった。

 日本が第三次補充計画を策定したのと同年、アメリカ議会において一九三九年以降のさらなる主力艦代換建造の予算が承認された。

 翌一九三八年には第二次ヴィンソン計画に着手するなど、アメリカは日本海軍を圧倒すべく、次々と建艦計画を実行していく。

 アメリカの建造量は日本の第三次補充計画の約四倍の規模のものであり、日本側は危機感を強めていた。

 そして日本海軍はアメリカ海軍の増強に対抗するため、昭和十四年度予算において第四次海軍軍備充実計画を実施した。

 この計画によって、大和型戦艦三番艦〈信濃〉、四番艦〈甲斐〉、筑波型巡洋戦艦一番艦〈筑波〉、二番艦〈生駒〉、大鳳型装甲空母一番艦〈大鳳〉、二番艦〈白鳳〉といった大型艦艇を建造した他、重巡に改装された最上型の穴を埋めるため、最上型の十五・五センチ三連装砲を流用した重武装の阿賀野型軽巡四隻、潜水戦隊旗艦用の大淀型軽巡二隻などの建造も行った。

 さらに日本は第二次世界大戦が勃発すると、第一次世界大戦の戦訓に鑑み、シーレーンの保護と船団護衛の緊急性が高まったとして、海防艦や護衛駆逐艦の大量建造を決定する。

 後に松型と名付けられる護衛駆逐艦は、徹底して量産性が重視され、一九四〇年に設計が始まると、翌四一年の中頃には続々と就役して、太平洋・インド洋・地中海・大西洋と各地で船団護衛任務において活躍することとなる。

 この他、量産性を重視した戦時標準船の建造も続々と行われ、艦船・船舶の建造によって日本国内では第一次世界大戦に続く二度目の大戦景気に沸いた。

 また、大戦に伴い海軍は新たな建艦計画の実行に着手した。この時、策定された戦時艦船急速建造計画(マル急計画)において、伊吹型重巡洋艦(後に雷装を撤去して防空巡洋艦に変更)二隻、雲龍型航空母艦一隻などが建造される。また、飛行艇母艦として建造が進められていた〈秋津洲〉は、同型艦〈千早〉と共に建造途中で護衛空母に改装することが決定された。

 しかし、こうした第二次世界大戦に伴う日本海軍の増強と、陸海軍の欧州派兵は、対米関係を徐々に悪化させていた。

 特にアメリカが警戒感を露わにしたのは、カナダの大西洋沿岸に配備された日本海軍の陸攻隊であった。これはドイツのUボートに対抗するために配備されたものであったが、長大な航続距離を誇る九六陸攻はアメリカ東海岸の主要都市を空襲圏内に収めてもいたのである。

 日英両政府は、対独戦が終結次第、陸攻隊は撤退させるとアメリカ政府に確約していたが、アメリカは日本政府に対して直ちにカナダに配備された日本軍航空隊の全面撤退を要求した。

 このように日本との対立要因を抱えていたアメリカであったが、一方でルーズベルト大統領は対独参戦の方法を模索してもいた。

 ニュー・ディール政策による不況からの脱出を目指していた彼は、日本のような戦争特需によって景気を回復させようとしていたのである。

 しかし、孤立主義を好む民衆や議会は、むしろドイツよりも日本を脅威と感じており、ルーズベルトは対独参戦の機会を掴めずにいた。

 また、ルーズベルトらアメリカ政府首脳部は、日英主導による戦後世界の出現を恐れていた。そのため、戦後世界での発言権を失わないためにも、アメリカの第二次世界大戦への参戦を計画していたのである。

 こうしたルーズベルトの戦後構想は、国民の反日感情の増大により、対独参戦ではなく対日開戦による日英同盟の切り崩しという方向へと向かうことになる。

 アメリカ政府は日本軍のカナダ駐兵に抗議すると同時に、日華防共協定を九ヶ国条約違反であり、アメリカの在華権益を侵害しているとして日本政府を非難し、日英ブロック経済圏や中国に対する機会均等、門戸開放といった経済的要求を行っていく。

 また、アメリカ政府はシベリア事変において日本が行ったソ連への爆撃で民間人に死傷者が出たとして、民間企業に対して日本に対する道徳的(モーラル)禁輸(エンバーゴー)を行うよう、要請した。

 アメリカはこのようにして、日本との関係を徐々に悪化させていったのである。

 一方の日本は、本国が陥落したフランス、オランダの植民地を、イギリス軍と共に保障占領していった。特にそれは東南アジアにおいて顕著であり、一九四一年早々、仏印、蘭印の現地総督府との間に協定が成立し、仏印進駐、蘭印進駐を決行した。

 これは、仏蘭の植民地が親独的な本国の傀儡政権に合流するのを防ぐと共に、アメリカによる保障占領を警戒してのことであった(実際、アメリカは一九四〇年五月、西インド諸島のオランダ植民地・アルバ島、キュラソー島を保障占領している)。

 この当時、フィリピンの軍事基地化はほぼ完了しており、日英ブロック経済圏のシーレーンに巨大な楔が打ち込まれた形となっていた。

 日英は対独戦を行うと共に、露骨に日英同盟の切り崩しを狙っているアメリカに対抗しなければならなかったのである。

 さて、その欧州戦線であるが、日本義勇航空隊も参加したバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)は、イギリス側の勝利で終わった。

 一九四〇年八月以前の段階でイギリスに派遣された日本の航空隊はすべて義勇軍扱いであったが、この義勇軍航空隊の派遣は日本軍の航空機開発に少なからぬ影響を与えた。

 海軍は零式艦上戦闘機を派遣することが出来たが、陸軍は欧州へ派遣するに足る性能の戦闘機を持っていなかった。陸軍の一式戦闘機、通称「隼」は、その名称の通り一九四一年(皇紀二六〇一年)に正式採用された機体であり、英独航空戦に間に合わなかったのである。

 そこで陸軍はやむを得ず、海軍から零戦の供与を受けることになった。

 これは、陸海軍で分断されていた航空機行政を一本化する契機となった出来事であった。

 零戦は防弾性能に致命的欠陥を抱えている戦闘機であり、その点では逆に防弾性能が考慮されている陸軍戦闘機は海軍の参考となるものも多かった。

 さらに、イギリスの優れた液冷エンジンを目の当たりにした軍関係者は、イギリスに多数の技術者を派遣してその技術の吸収に努めることとなる。この液冷エンジンの技術は、後に海軍の高速艦上爆撃機「彗星」の開発に繋がっていく。

 日本の航空部隊がイギリス空軍と共にドイツ軍に対抗する一方、遣欧艦隊もまた、独伊軍との死闘を繰り広げていた。

 特に船団護衛のために新設された第三十戦隊は、大西洋の各地を転戦して船団護衛と対Uボート戦に明け暮れ、その後の日本海軍に貴重な戦訓をもたらすこととなる。しかし、その代償として多数の駆逐艦や水上機母艦〈瑞穂〉が激しい対潜戦闘の中で失われている。戦隊旗艦〈名取〉も、一九四一年八月十八日、Uボートの雷撃で失われた。

 一方の遣欧艦隊主力部隊は、当初は地中海が主な活動地域であった。

 タラント空襲作戦成功後、日英艦隊はマルタ島を巡る攻防戦で、イタリア艦隊と何度か対峙している。しかし、この時はイタリア艦隊のカンピオーニ提督の消極的な指揮により、大規模な海戦は発生しなかった。

 日英艦隊とイタリア艦隊との艦隊決戦が発生するのは、ドイツによるバルカン半島侵攻後のことであった。

 一九四一年三月二十八日、ギリシャのマタパン岬沖において、ギリシャ救援に向かう日英艦隊とそれを阻止せんとするイタリア艦隊との間にマタパン岬沖海戦が発生した。

 この時、イタリア側の戦艦が〈ヴィットリオ・ヴェネト〉一隻であったのに対し、日英連合艦隊は〈ウォースパイト〉、〈バーラム〉、〈ヴァリアント〉、〈金剛〉、〈榛名〉という圧倒的優位に立っていた。しかも、空母戦力を有さないイタリア側に対して、日英側は〈フォーミダブル〉、〈赤城〉、〈加賀〉の三隻を戦場海域に投入している。

 海戦は、空母艦載機による空襲で損傷した〈ヴィットリオ・ヴェネト〉を日英の戦艦部隊が追撃して撃沈、さらに伊重巡三隻も撃沈されるなど、イタリア側の完敗に終わった。

 四月、イギリスのリヴァプールに第二次遣欧艦隊が到着した。

 この艦隊は、激しさを増すドイツ海軍水上艦艇による通商破壊作戦に対抗するために派遣された艦隊で、編成は以下の通りである。


  第二次遣欧艦隊(一九四一年四月)

   司令長官:高橋伊望中将

第十一戦隊【戦艦】〈比叡〉〈霧島〉

第二航空戦隊【空母】〈蒼龍〉〈飛龍〉

第四航空戦隊【空母】〈龍驤〉〈瑞鳳〉

第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉

第一水雷戦隊【軽巡】〈阿武隈〉

 第六駆逐隊【駆逐艦】〈暁〉〈電〉〈雷〉〈響〉

 第十五駆逐隊【駆逐艦】〈黒潮〉〈親潮〉〈早潮〉〈夏潮〉

 第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉


 この艦隊最初の任務は、〈ビスマルク〉追撃戦であった。

 一九四一年五月十八日、ドイツ海軍の戦艦〈ビスマルク〉は北大西洋での通商破壊作戦のために出撃した。

 イギリス海軍は迎撃の艦隊を派遣し、二十四日、デンマーク海峡において英独両艦隊は激突することとなった。しかし、イギリス海軍は巡洋戦艦〈フッド〉を轟沈させられ、〈ビスマルク〉の大西洋進出阻止に失敗してしまう。

 このため、イギリス海軍は投入可能な全艦艇に〈ビスマルク〉の撃沈を命じると共に、第二次遣欧艦隊にも〈ビスマルク〉の撃沈を要請した。

 二十四日夜、英空母〈ヴィクトリアス〉が〈ビスマルク〉に夜間雷撃を仕掛けるが、その足止めには失敗してしまう。

 二十五日、英艦隊が見失った〈ビスマルク〉を、重巡〈筑摩〉の偵察機が発見する。

 〈蒼龍〉座乗の第二航空戦隊司令・山口多聞少将は、高橋司令長官に対して直ちに攻撃隊を発進させるよう進言、〈蒼龍〉、〈飛龍〉の二空母から、まず江草隆繁隊長率いる九九艦爆三十六機、零戦十二機が出撃した。

 この攻撃隊は、〈ビスマルク〉に対する急降下爆撃で命中率八十七パーセントを叩き出し、後世伝説的な攻撃として語り継がれることとなる。

 しかし、九九艦爆の二五〇キロ爆弾では〈ビスマルク〉に致命傷を与えることは出来ず、山口はさらに第二次攻撃隊として九七艦攻三十六機、零戦六機を発進させた。

 この第二次攻撃隊は、艦爆隊によって対空火器のほとんど破壊された〈ビスマルク〉に対して雷撃を敢行し、魚雷十二本命中という損害を与え、これの撃沈に成功した。

 これは、航空機によって洋上航行中の戦艦を撃沈した初めての例であり、撃沈された〈ビスマルク〉と共に〈蒼龍〉、〈飛龍〉の二空母の名は戦史上に燦然と輝くことになる。

 ただ、当初はこの事実を真剣に受け止める海軍軍人は少なかった。ドイツ海軍自身は〈ビスマルク〉の喪失をさほど真剣には受け止めておらず、以後も水上艦艇による通商破壊作戦を立案している。

 その他の海軍関係者も、護衛の艦艇もなく単艦で行動していた戦艦であるので、航空攻撃は成功して当たり前であるとの意見が多かった。

 ただ、日本海軍だけは異なった対応を見せている。

 彼らが想定していた対米作戦計画は、来寇する米艦隊を潜水艦と航空機による攻撃で漸減し、その後、主力艦隊との決戦において敵艦隊を殲滅するという、「漸減邀撃作戦」であった。

 主力艦同士による決戦によって雌雄を決する前に、航空機による攻撃によって決着がつく可能性が、〈ビスマルク〉撃沈によって証明されてしまったのである。

 特に日本海軍は、日米艦隊決戦において、アメリカ側がその優勢な空母戦力によって戦場の制空権を確保した上で艦隊決戦を挑んでくると想定しており、なおさら航空機による攻撃には敏感になっていた。

 そのため、まず海軍は建造中の大和型戦艦の対空兵装を充実化すること、日進型水上機母艦を空母に改装することを決定し、さらに第五次充実計画を、大鳳型を拡大、発展させた五万トンの神鳳型空母一隻、雲龍型空母十五隻、瑞鳳型軽空母八隻の建造決定という、空母中心の建艦計画に大幅に変更した。この第五次充実計画では、阿賀野型の船体を流用して設計した十勝型防空巡洋艦四隻も建造されている。

 このように、〈ビスマルク〉の撃沈は日本海軍の軍備計画に重大な影響を及ぼしたのである。

 さて、欧州戦線では六月二十二日、ドイツ軍は「バルバロッサ作戦」を発動し、ここに独ソ戦が勃発して第二次世界大戦は新たな局面を迎えることとなった。

 しかしながら、日英同盟とソ連との連携はまったく欠いていた。もともと日本は帝政ロシアと日露協商を結んで同盟関係にあり、ソ連を仮想敵国と見ていた。イギリスとしても、ソ連を支援するだけの余力はなかったのである。

 どちらかといえば日英同盟側は、この機会に独ソの共倒れを期待していた。

 そして、ドイツ軍の主力が東部戦線に引き抜かれたことから、日英両軍による大陸反攻作戦が徐々に具体化していくこととなる。

 日本からはさらに名古屋の第三師団、大阪の第四師団、弘前の第八師団、久留米の第十二師団が欧州戦線に派遣されることが決定した。

 一方の地中海戦線では、北アフリカやマルタ島への補給路を巡る制海権争いが激しさを増していた。

 マルタ島救援のための作戦の最中、ドイツ軍の爆撃によって重巡〈衣笠〉が撃沈される一方、十二月十七日の第一次シルテ湾海戦において〈金剛〉、〈榛名〉がイタリア戦艦〈ジュリオ・チェザーレ〉を撃沈するなど、地中海戦線では一進一退の攻防が繰り広げられている。

 だが、全体的にみれば地中海を巡る戦闘は日英側が有利に進めていた。マルタ島への救援は妨害されつつも、枢軸軍による北アフリカへの補給を阻止し続けていたのである。

 特に北アフリカの要衝トブルクを巡る戦闘では、〈金剛〉、〈榛名〉が陸上のドイツ軍に対して艦砲射撃を行い、ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団の進撃を阻止することに成功していた。

 補給も滞りがちな北アフリカの枢軸軍は、このトブルク攻防戦以降、積極的な行動に出ることが出来なくなった。

 イタリア海軍も、相次ぐ敗北によって健在な戦艦は〈リットリオ〉、〈アンドレア・ドリア〉だけとなっており、地中海の制海権を失うのも時間の問題であった。ただ、イタリア海軍も有人魚雷〈マイアーレ〉によって英戦艦〈クイーン・エリザベス〉、〈ヴァリアント〉をアレキサンドリア港内で大破着底させるなど、一定の戦果も挙げている。

 一方、日英海軍は残存するイタリア艦隊を撃滅して地中海の制海権を確実なものとすべく、さらなる戦力の増強を行った。

 イギリス海軍は戦艦〈プリンス・オブ・ウェールズ〉、巡洋戦艦〈レパルス〉を地中海に派遣し、日本海軍も、その象徴ともいえる戦艦〈長門〉、〈陸奥〉の欧州派遣を決定した。

 一九四二年三月二日、地中海戦線の趨勢を決定付ける第二次シルテ湾海戦が勃発する。

 これは、マルタ島へ向かう英輸送船団を襲撃すべく出撃したイタリア艦隊と、日英艦隊とによる艦隊決戦であった。

 輸送船団の間接護衛として日英の四戦艦がいたが、イタリア艦隊は空軍の稚拙な洋上偵察技術のためその情報を得ることが出来なかった。

 巡洋艦と駆逐艦に護衛されていた英輸送船団の捕捉に成功したイタリア艦隊であったが、急行した〈プリンス・オブ・ウェールズ〉、〈レパルス〉によって船団攻撃を阻止され、さらに夜間にまでもつれ込んだ海戦により英艦隊よりも低速であった〈長門〉、〈陸奥〉も戦場に到着、これにより戦艦〈リットリオ〉、〈アンドレア・ドリア〉、重巡〈ゴリツィア〉、〈トレント〉が撃沈され、事実上、イタリア艦隊は壊滅した。

 これにより、地中海・北アフリカを巡る戦局は一気に日英軍有利となり、最終的にロンメルはドイツ本国に帰還、補給の途絶えた北アフリカの枢軸軍は四二年七月までに全軍が降伏することとなる。

 一方、大西洋方面では、ドイツ艦隊が日英両軍の猛攻に晒されていた。

 フランスのブレスト軍港に停泊していた巡洋戦艦〈シャルンホルスト〉、〈グナイゼナウ〉、重巡〈プリンツ・オイゲン〉は連日、イギリス本土からの爆撃を受けており、大損害を受ける前にドイツ本国へ回航することが決定された。

 一九四二年二月十一日、ドーバー海峡を白昼突破してキールへ向かう「ツェルベルス作戦」が発動される。

 白昼にドーバー海峡を突破するため、夜間の内にブレストを出港したドイツ艦隊であったが、英仏海峡付近にて警戒を行っていた日本海軍第二水雷戦隊に捕捉されてしまった。

 第二水雷戦隊司令・田中頼三少将は、劣勢な状況にも関わらずドイツ艦隊への攻撃を決断する。ビスケー湾海戦と呼ばれるこの海戦で二水戦旗艦〈神通〉は沈没、田中少将も戦死するが、〈シャルンホルスト〉に魚雷三本を命中させてこれを撃沈に追い込んでいる。

 二水戦からの報告によってドイツ艦隊の出撃を知った英艦隊もドイツ艦隊の迎撃に加わり、残った〈グナイゼナウ〉、〈プリンツ・オイゲン〉は北海においてイギリス空母からの空襲を受けた。これによって〈グナイゼナウ〉に魚雷二本が命中、撃沈には至らなかったもののドック入りを余儀なくさせ、後にイギリスの爆撃によって〈グナイゼナウ〉はドック内で破壊された。

 四月、第二次シルテ湾海戦の勝利によって地中海戦線が落ち着きを見せると、日英海軍はさらに積極的にドイツ艦隊の殲滅に乗り出した。

 四月九日、地中海戦線から引き抜いた〈赤城〉、〈加賀〉を加え、日本海軍の〈赤城〉、〈加賀〉、〈蒼龍〉、〈飛龍〉、イギリス海軍の〈イラストリアス〉、〈フォーミダブル〉、〈インドミタブル〉の計七隻の空母がドイツ戦艦〈ティルピッツ〉の停泊するノルウェーのトロンヘイムへの空襲を敢行する。この空襲作戦はドイツ側が事前に日英艦隊の出撃を察知して、〈ティルピッツ〉を本国に回航させたため失敗に終わったが、ドイツ水上艦隊をバルト海に封じ込め、事実上、無力化することには成功した。

 さらに大西洋に回航された日英空母部隊は、フランスの大西洋沿岸地域を相次いで空襲し、鉄道網などの陸上交通網に重大な打撃を与えている。

 また、空母部隊によるフランス沿岸空襲と並行し、ロリアン、サン・ナゼールなどのドイツ海軍Uボート基地に対して、〈長門〉、〈陸奥〉、〈ネルソン〉、〈ロドネー〉などの戦艦部隊による艦砲射撃を実施した。ただし、この作戦はドイツの建設したUボート・ブンカーが非常に堅固であったため、十分な効果を上げることは出来なかった。

 一連の日英海軍の作戦に、最も敏感に反応したのは、ドイツではなくアメリカであった。

 日英海軍が行った空母部隊によるゲリラ的な沿岸都市空襲は、アメリカにとっても脅威となるものであったからである。

 特にアメリカは、日本艦隊が大西洋に進出していることに警戒感を強めていた。日本の空母部隊がその気になれば、アメリカ東海岸をいつでも襲撃出来るからである。

 このためアメリカ政府は、日本の欧州戦線介入が国家の自衛権を逸脱した軍事行動であると非難、パリ不戦条約違反であるとして、一九四二年七月二十六日、日米通商航海条約の廃棄通告を行うに至った。条約の規定では、廃棄通告後半年で条約の効力は失われるとしており、失効後、アメリカは日本に対していつでも経済制裁が可能となった。

 さらにアメリカは、日本に対する示威行為として、フィリピンのアジア艦隊の大幅な増強を行った。〈カリフォルニア〉、〈テネシー〉、〈ネバタ〉、〈オクラホマ〉、〈ペンシルバニア〉、〈アリゾナ〉という六戦艦がフィリピン・キャビテ軍港に集結し、日本に圧力をかけたのである。

 こうして増強されたアジア艦隊は、東南アジアから物資を満載して日本に向かう輸送船をたびたび至近距離から追跡・監視、航路妨害、場合によっては臨検を行うなどして、シーレーンを脅かしていた。

 一方、アメリカはイギリスに対しても、日英ブロック経済圏の開放やカナダの英連邦軍の縮小などを要求していくことになる。

 こうした一連のアメリカの圧力により、日本海軍はこれ以上の遣欧艦隊の増強をすることが出来ず、むしろ遣欧艦隊の一日も早い日本帰還が望まれるようになった。

 一九四二年七月には、設計当初よりも大幅に対空兵装を強化した戦艦〈大和〉、〈武蔵〉の慣熟訓練が終了して戦力化されたが、これもアメリカ海軍と対峙する必要性から日本近海にとどめ置かれた。

 もっとも、この時期となってくると枢軸海軍の主力はUボート程度となっており、大型艦艇を欧州に派遣する必要性は低下していた。

 そのため、八月以降、日本は欧州に派遣した大型艦艇を次々と日本本土へと回航させている。

 イギリス政府も、太平洋の情勢が切迫しつつある現実から、日本艦隊の本国帰還に異を唱えなかった。むしろイギリス海軍も、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランド防衛のために東洋艦隊の戦力を増強する必要に迫られた。このため、日本艦隊を追うように、〈キング・ジョージ五世〉、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉、〈レナウン〉、〈レパルス〉、〈フォーミダブル〉、〈インドミタブル〉がセイロン島に回航されている。

 この結果、欧州戦線に残された日本艦隊は、護衛空母六隻や松型駆逐艦を中心とする船団護衛用の艦隊のみとなった。

 このような日本の遣欧艦隊の引き上げと英海軍の東洋艦隊増強は、結果として日英の計画していた大陸反攻作戦の実施を延期させる重大な要素となった。後世、アメリカの対日政策は結局、ドイツを利しただけであるとの厳しい評価を下す研究者もいる。

 アメリカ政府による日米通商航海条約廃棄通告後、日本政府は避戦に向けた対米交渉を活発化させていくことになる。

 しかし、野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル国務長官との間の交渉は、互いに妥結点を見いだせないまま続いていった。

 アメリカ側は日本に求めたのは、日英同盟の廃棄とそれに伴う日英ブロック経済圏の開放、日本軍の欧州、カナダおよび東南アジアからの撤兵、太平洋の平和維持、日華防共協定の廃棄、日露協商の廃棄と日本がソ連をロシアにおける唯一の正統政府であることを承認すること、などであった。

 アメリカはこれらが認められれば、日独間の和平交渉を斡旋し、さらに日本の重要資源獲得に協力するとしていた。

 ただ、当時、米独関係は、日独間の和平交渉を斡旋出来るほど良好なものではなかった。一九三八年、ドイツで発生したユダヤ人迫害事件「水晶の夜事件」以降、両国は駐在大使を相互に召還するという険悪な関係に陥っていたのである。

 こうした点を野村は指摘し、第二次世界大戦は欧州の民主主義を守るための戦いであるとハルを説得しようとした。

 だが、ハルは日本の天皇制をナチス・ドイツと変わらぬ全体主義であるとして、第二次世界大戦が結局は大国同士の覇権争いであり、民主主義対全体主義という大義名分は、日本が戦争目的を正当化しようとして打ち出したものに過ぎないとして野村の発言を否定した。

 また、ハルは自由貿易論者であり、日本やイギリスに対してたびたび日英ブロック経済圏の解消を要求していた。

 日本としては太平洋の平和維持など同意可能な部分があったものの、アメリカの要求は全体としては受諾しかねるものであった。

 この時期、外相を務めていた東郷重徳は、イギリスも含めた日英米三国による相互不可侵条約を締結して太平洋の平和維持に努めようとした。この相互不可侵条約に対してアメリカは内容的に賛成であったが、日英同盟と日露協商が条約締結交渉の妨げになるとして、日本にその廃棄を再度、求めていく。

 一九四三年一月二十六日、日米通商航海条約が失効し、日米は無条約時代に突入する。

 アメリカの経済制裁を警戒していた日本は、すでに主な輸入先をオーストラリアに切り替えていた鉄鉱石に加え、石油の輸入先を蘭印と中東に切り替えた。

 これらの地域からの石油の輸入交渉は、すでに第二次世界大戦参戦前後から、日本の外務省で行われていた。この時はアメリカの経済制裁を警戒してというよりも、中立法の発動を懸念していたのである。

 当時、日本は国内に北樺太油田を有していたものの、参戦によって増大した石油需要を賄えるほどではなく、その大半をアメリカに依存していた(当時、日本の石油輸入量の八十五パーセントを米に依存)。

 そのため、軍部や外務省は、蘭印や中東の石油を重視していたのである(ただし、一九四〇年代の中東の石油産出量はそれほどでもなく、この当時、世界最大の石油産出国はアメリカであった)。

 一方、アメリカは条約の失効と同時に、対日資産凍結を行い、日本側に圧力をかけて譲歩を引き出そうとしていた。

 こうした事態に対し、東郷外相は仏印、蘭印からの日本軍の撤兵と共にそれらの地域を中立化して、各国とも公平に物資の買い付けが出来るように協定を結ぶという「仏印・蘭印中立化提案」をアメリカに対して行った。

 ジョセフ・グルー駐日大使も、アメリカ本国に対して日本側提案を受け入れるよう積極的に進言するが、ハルは日英ブロック経済圏の開放要求を優先し、ルーズベルトも日英同盟の切り崩し工作を優先させたため、アメリカ政府は日本の提案を真剣に検討することはなかった。

 日本側はさらに、岡田首相とルーズベルト大統領による首脳会談によって行き詰った局面の打開を図ろうとしたが、ハルは、事前に日米間の基本問題に合意が成立しない限り首脳会談は行わないとしてこの提案を拒否した。

 日本はアメリカの要求が過大であり、かつその要求が必ずしもアメリカにとって死活的な問題でないにも関わらず強硬な態度を崩さないことに不満を募らせていた。

 一方のアメリカも、日英同盟がナチス・ドイツの侵略を阻止する上で重要なものであるとの理解を欠き、日英に対する自国の安全保障問題と通商問題のみだけを考えて、孤立主義という視点でのみ世界情勢を見るという外交上の過ちを犯していた(後にドイツ第三帝国の脅威は、一九六二年のキューバ危機という形でアメリカは実感することとなる)。

 日米両国は互いに対して譲歩することなく、時間だけが無為に過ぎていくこととなる。


  8 日米対立の激化と太平洋戦争の勃発

 一九四三年四月二十五日、フィリピン、ルソン島のキャビテ軍港において、アメリカ海軍アジア艦隊の軽巡〈マーブルヘッド〉が突如として爆沈するという事件が発生した。

 混乱する軍港内では「軍港内で日本軍の潜水艦を発見した」、「日本軍がフィリピンに上陸した」などの情報が錯綜し、一部では友軍を誤射するような事態にまで発展した。

 こうした現地からの報告を受けたアメリカ本土では、〈マーブルヘッド〉の爆沈を日本軍潜水艦の攻撃であるとして反日感情が高まり、アメリカ国務省は日本に対して厳重に抗議すると共に、賠償金の請求を行った。

 しかし、日本側にとってみればこの事件はまったくの寝耳に水であり、アメリカ側に対して日本海軍の潜水艦がアメリカ艦艇を攻撃した事実はないと反駁した。

 当時の岡田啓介内閣は、海軍の協力の下、当時の日本海軍の潜水艦の行動記録などをアメリカ側に提出して、〈マーブルヘッド〉爆沈事件に関与していないことを証明しようとしたが、アメリカ側の態度は頑なだった。

 アメリカは日本に謝罪の意思がないと見るや、即座に石油を含む対日経済制裁を発動した。

 現在ではこの事件は、〈マーブルヘッド〉の弾薬庫が爆発したことによる事故であることが証明されており、アメリカ政府も事件直後の調査でこの事実は知っていたとされる。

 にもかかわらず、アメリカ政府の態度が強硬であったのは、この機会を利用して日本軍のカナダ撤兵など安全保障上の懸念や対日貿易問題などを解決したいという思惑があったからだとされる。

 このため、〈マーブルヘッド〉爆沈事件は、アメリカによる陰謀であるとの説が日本側の一部で唱えられている(逆にアメリカ側では日本の陰謀論が唱えられている)。

 実際、当時からこの事件を日本軍の攻撃であるとすることに疑問を持つ者たちは多かった。もし日本軍がフィリピンを攻撃するならば、航空基地が最大の脅威であったからである。

 日本側はアメリカ側の態度を軟化させるべく、山本五十六連合艦隊司令長官自らの志願もあり、彼を特使として米国に派遣して日本側に戦争の意図がないことを示そうとした。

 しかし、爆沈事件に関する日米交渉は、双方の主張が平行線を辿り、五月十日、コーデル・ハル国務長官は後世、「ハル・ノート」と呼ばれる対日最後通牒を日本側に手交するに至った。

 これは、アメリカが以前から求めていた日英同盟・日露協商の廃棄や日本軍の撤兵、無差別通商問題に加えて、日本の南洋群島の基地の撤去と以後の非武装化、日本海軍の軍備を対米五割に縮小すること、事件の調査のためにアメリカ軍の調査団が日本国内で自由に活動する権利などを求めた、広範な対日要求であった。

 日本政府はハル・ノートを最後通牒とは認識しつつも、東郷重徳外相は「試案ニシテ拘束力ナシ」という「ハル・ノート」の文言に注目、回答期限が示されていないことに光明を見出そうとした。

 そしてその間に、スイスを通じて日英米の相互不可侵条約の交渉を何としてでも進める構えであった。

 しかし、ハル・ノート手交の七日後の五月十七日、突如として帝都や京浜地域、名古屋、大阪などにアメリカ軍の爆撃機B25が来襲、都市部に空爆を行うという事態が発生した。

 これは宣戦布告なく行われた攻撃であったが、アメリカ側は日本政府の抗議に対して最後通牒への返答がなかったために行った攻撃であると回答した。

 この空襲では、兵舎と誤認された神奈川の中学校が攻撃を受けて教師、生徒多数が犠牲となるという悲劇が発生しており、日本国民の間で反米感情が一気に高まる結果となった。

 このB25はアメリカ海軍の空母〈ヨークタウン〉、〈ホーネット〉から発進したものであり、彼女たちを含む艦隊はハル・ノート手交と前後して真珠湾を出撃していたのである。もちろん、双発の爆撃機が空母に着艦することは不可能であるため、これらの機体は爆撃後、フィリピンへと向かった。

 直後、この攻撃を合図としてアメリカ議会上院において対日宣戦布告が決議され、ここに日米開戦による太平洋戦争が勃発したのである。

 開戦と共に、アメリカに抑留された山本五十六に代わって連合艦隊司令長官に堀悌吉が親補され、主力部隊は東洋へ来寇する米太平洋艦隊に備えるため、トラック島へと回航された。

 イギリスは太平洋での戦争勃発に関し、アメリカがイギリスの植民地や英連邦の諸領土への攻撃を行わない限りは日本寄りの中立を保つ旨、両国に通知した。

 一方、宣戦布告前にアメリカ軍の攻撃が始まったことにより、シンガポールから日本へ向けて航行中の輸送船団が壊滅するという事態も発生した。

 これは、これまでのようにフィリピンの米アジア艦隊から嫌がらせのように追跡を受けていた船団であり、B25による日本空襲と時を同じくして戦闘が発生し、事実上、日米最初の海戦となった。

 海南島沖海戦と呼ばれるこの戦闘では、米軍の巡洋艦二隻、駆逐艦六隻からなる艦隊と、輸送船八隻、海防艦四隻、駆逐艦二隻からなる日本側輸送船団が激突した。

 低速の輸送船を逃がすため、護衛の駆逐艦〈皐月〉は単艦で米艦隊に向け突撃し、何度も魚雷発射態勢を取ることで米艦隊を牽制、時間を稼ごうとした。

 この結果、二時間余りに及んだ戦闘によって〈皐月〉は撃沈され、生存者なしという壮烈な最期を遂げた一方、米艦隊による輸送船団の追撃を一時的にせよ遅らせることとなった。しかし、船団は台湾の基地航空隊の制空権内に入る直前、フィリピンの米航空隊による空襲を受け、輸送船七隻、海防艦二隻撃沈、駆逐艦〈文月〉大破という大損害を受ける結末を迎えた。

 この戦闘により、日本側は輸送船に積載されていた物資を失うと共に、〈皐月〉、〈文月〉の乗員や輸送船の船員など軍民あわせて八百名近い戦死者を出すことになった。

 この海戦によって、事実上、シンガポール―日本間の輸送ルートは遮断されることになった。

 当時、日英海軍が租借していた蘭印リンガ泊地には改翔鶴型空母〈神鶴〉、〈飛鶴〉を中核とする第二航空艦隊が訓練のために存在しており、またシンガポールにはこの地域の船団護衛を担当する第一海上護衛隊が在泊していた。

 〈神鶴〉、〈飛鶴〉は翔鶴型三番艦、四番艦として建造された空母であったが、途中で設計変更がなされ、日本空母初の舷側エレベーターを持つ空母として完成した、日本海軍最新鋭の空母であった。

 第二航空艦隊には台湾の基地航空隊と共同しての在比米軍の撃滅が命令され、第一海上護衛隊には南シナ海を経由せず、蘭印を迂回してパラオへ向かう航路での船団護衛を行うよう命令が下った。

 これにより、開戦直後より比島沖航空戦が始まった。バトル・オブ・ブリテンの戦訓を取り入れた台湾の基地航空隊は当初、完全に迎撃に回ることでアメリカ航空兵力の消耗を図ろうとした。

 一方、戦艦六隻を基幹とする米アジア艦隊は、周辺海域の日本の輸送船団撃滅と仏印、蘭印、そしてシンガポールの英東洋艦隊の牽制を目的として出撃した。

 この米艦隊の出撃により、仏印カムラン湾などに退避していた輸送船がさらに四隻撃沈され、日本軍が対潜警戒のために仏印側と協議の末に建設した飛行場は艦砲射撃により壊滅的被害を受けた。また、フランス海軍の巡洋艦〈ラモット・ピケ〉もこの攻撃により撃沈され、アメリカ側は自由フランス政府、ヴィシー・フランス政府の双方から抗議を受けることになった(ただし、アメリカ側はフランス側の中立違反を理由にこの抗議に応じなかった)。

 開戦二日目の五月十九日、台湾から長駆進撃してきた海軍の陸上爆撃機銀河十六機が南シナ海を遊弋する米艦隊を捕捉した。

 この攻撃で、銀河は八〇〇キログラム爆弾の急降下爆撃によって戦艦〈アリゾナ〉の弾薬庫を貫通しこれを爆沈させ、戦艦〈オクラホマ〉も大破という損害を与えることに成功した(後に浸水の増大により沈没)。ただし、米アジア艦隊を壊滅させるには至らず、依然として南シナ海の制海権は米側が掌握している戦況に変化はなかった。

 このため、フィリピンの包囲と米アジア艦隊の牽制のため、第二航空艦隊はフィリピン近海を離れることが出来ず、アメリカ太平洋艦隊の迎撃に参加出来なかった。


  資料「第二航空艦隊編成」

第二航空艦隊  司令長官:角田覚治中将

第四航空戦隊【空母】〈隼鷹〉〈飛鷹〉

第七航空戦隊【空母】〈神鶴〉〈飛鶴〉〈龍鳳〉

第十六戦隊【重巡】〈那智〉〈足柄〉【軽巡】〈球磨〉

第一駆逐連隊【軽巡】〈大淀〉

 第四十一駆逐隊【駆逐艦】〈新月〉〈若月〉〈霜月〉〈冬月〉

第七水雷戦隊【軽巡】〈五十鈴〉

 第三十三駆逐隊【駆逐艦】〈清波〉〈藤波〉〈玉波〉〈涼波〉

 第三十五駆逐隊【駆逐艦】〈早波〉〈沖波〉〈浜波〉〈岸波〉


  資料「第一海上護衛隊編成」

第一海上護衛隊(担当区域:日本~シンガポール)

 第三十一戦隊【軽巡】〈由良〉

  第二十二駆逐隊【駆逐艦】〈皐月〉〈水無月〉〈文月〉〈長月〉

  第四十三駆逐隊【駆逐艦】〈松〉〈竹〉〈梅〉〈桃〉

  第五十二駆逐隊【駆逐艦】〈桑〉〈桐〉〈杉〉〈槙〉

  【海防艦】五隻

  附属【護衛空母】〈神鷹〉

 第一海防隊

 第十二海防隊

 第二十一海防隊

 第二十二海防隊

附属【護衛空母】〈大鷹〉〈雲鷹〉〈冲鷹〉


  9 第一次マリアナ沖海戦の発生

 トラック島に回航された連合艦隊主力は、次のような編成となっていた。


第一艦隊  司令長官:古賀峯一大将

第一戦隊【戦艦】〈大和〉〈武蔵〉〈長門〉〈陸奥〉

第二戦隊【戦艦】〈伊勢〉〈日向〉〈扶桑〉〈山城〉

第三航空戦隊【空母】〈千歳〉〈千代田〉

 附属【駆逐艦】〈三日月〉〈夕風〉

第六戦隊【重巡】〈青葉〉〈古鷹〉

第九戦隊【重雷装艦】〈大井〉〈北上〉

第一水雷戦隊【軽巡】〈阿武隈〉

 第六駆逐隊【駆逐艦】〈暁〉〈電〉〈雷〉〈響〉

 第十八駆逐隊【駆逐艦】〈霞〉〈霰〉〈陽炎〉〈不知火〉

 第二十七駆逐隊【駆逐艦】〈初霜〉〈白露〉〈時雨〉

第三水雷戦隊【軽巡】〈川内〉

 第十一駆逐隊【駆逐艦】〈吹雪〉〈白雪〉〈初雪〉〈叢雲〉

 第十九駆逐隊【駆逐艦】〈磯波〉〈浦波〉〈敷波〉〈綾波〉

 第二十駆逐隊【駆逐艦】〈天霧〉〈朝霧〉〈夕霧〉


第二艦隊  司令長官:南雲忠一中将

第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉

第六航空戦隊【空母】〈日進〉〈春日〉

 附属【駆逐艦】〈汐風〉〈帆風〉

第四戦隊【重巡】〈高雄〉〈愛宕〉〈摩耶〉〈鳥海〉

第五戦隊【重巡】〈妙高〉〈羽黒〉

第七戦隊【重巡】〈最上〉〈三隈〉〈熊野〉〈鈴谷〉

第二水雷戦隊【軽巡】〈能代〉

 第十五駆逐隊【駆逐艦】〈黒潮〉〈親潮〉〈早潮〉〈夏潮〉

 第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉

 第三十二駆逐隊【駆逐艦】〈長波〉〈高波〉〈巻波〉〈大波〉

第四水雷戦隊【軽巡】〈那珂〉

 第二駆逐隊【駆逐艦】〈村雨〉〈夕立〉〈春雨〉〈五月雨〉

 第九駆逐隊【駆逐艦】〈満潮〉〈朝雲〉〈山雲〉〈峯雲〉

 第二十四駆逐隊【駆逐艦】〈海風〉〈山風〉〈江風〉〈涼風〉


第六艦隊  司令長官:高木武雄中将

司令部直率【軽巡】〈香椎〉【潜水母艦】〈迅鯨〉〈長鯨〉

第一潜水戦隊【特設潜水母艦】〈靖国丸〉【潜水艦】伊号潜水艦十三隻

第二潜水戦隊【特設潜水母艦】〈さんとす丸〉【潜水艦】伊号潜水艦七隻

第三潜水戦隊【特設潜水母艦】〈平安丸〉【潜水艦】伊号潜水艦九隻

第四潜水戦隊【潜水艦】伊号潜水艦六隻、呂号潜水艦二隻

第五潜水戦隊【潜水艦】伊号潜水艦六隻

第六潜水戦隊【潜水艦】伊号潜水艦六隻

第七潜水戦隊【潜水艦】呂号潜水艦十一隻

(註:第五潜水戦隊は旧式艦、第六潜水戦隊は機雷潜で構成された戦隊)


第一航空艦隊  司令長官:小沢治三郎中将

第一航空戦隊【空母】〈赤城〉〈加賀〉〈祥鳳〉

第二航空戦隊【空母】〈蒼龍〉〈飛龍〉〈龍驤〉

第五航空戦隊【空母】〈翔鶴〉〈瑞鶴〉〈瑞鳳〉

第十一戦隊【戦艦】〈比叡〉〈霧島〉

第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉

第十戦隊【軽巡】〈阿賀野〉

 第十駆逐隊【駆逐艦】〈夕雲〉〈秋雲〉〈巻雲〉〈風雲〉

 第十七駆逐隊【駆逐艦】〈谷風〉〈浦風〉〈磯風〉〈浜風〉

 第四駆逐隊【駆逐艦】〈萩風〉〈舞風〉〈野分〉〈嵐〉

 第六十一駆逐隊【駆逐艦】〈秋月〉〈照月〉〈涼月〉〈初月〉


 またこれらの艦隊の他、内南洋の防衛を担当する第四艦隊もトラック島を根拠地としていたが、グアム島攻略のために出撃しており、米艦隊の迎撃には参加していない。

 日本艦隊では当初、アメリカ海軍がマリアナ諸島に来寇するのか、マーシャル諸島に来寇するのかで意見が分かれていた。

 マリアナをアメリカが奪取すればフィリピンへの補給路が開かれると同時に、石炭や鉄鉱石を日本に輸送するオーストラリアからの航路を遮断することが出来る。さらにアメリカが開発中であった新型爆撃機がマリアナに配備されれば、日本本土のほぼ全域が空襲圏内に収められることになる。

 一方のマーシャル諸島も戦略拠点としては重要であった。

 このため、基地航空隊である第十一航空艦隊(司令長官:草鹿任一中将)の主力陸攻隊(一式陸攻、銀河)はトラックに集結させ、状況の変化に対応しようとした。一方、航続距離の短い艦爆、艦攻隊は、それぞれの配備されている基地航空隊に留め置かれている。

 開戦から三週間後、上陸船団の準備が整った米太平洋艦隊は真珠湾を出撃した。

 アメリカとしては、イギリスの参戦やカナダ経由での日本軍の本土進攻が現実となる前に、短期決戦で日本を降伏に追い込むつもりであった。日米開戦と同時に、対米関係を配慮したカナダ政府は日本政府と事前協議に基づき、国内の日本軍を武装解除していたが、アメリカとしては日本に日英同盟を破棄させない限り、自国の安全保障は成り立たないと考えていたのである。

 そのため、アメリカの進攻目標は、日本のシーレーンに壊滅的打撃を与えることの出来るマリアナ諸島であった。

 出撃したアメリカ太平洋艦隊の主要部隊は、次の通りである。


太平洋艦隊 司令長官:ハズバンズト・キンメル大将

第五十一任務部隊 司令長官:ジャック・フレッチャー中将

 第一群 司令官:ジャック・フレッチャー中将

【空母】〈エセックス〉〈イントレピッド〉

【軽空母】〈インディペンデンス〉

【重巡】〈ボルチモア〉

【軽巡】〈アトランタ〉〈ジュノー〉

駆逐艦十四隻


 第二群 司令官:ウィリアム・ハルゼー中将

【空母】〈ヨークタウン〉〈エンタープライズ〉〈ホーネット〉

【重巡】〈ペンサコラ〉〈ノーザンプトン〉〈ポートランド〉

【軽巡】〈サンファン〉

駆逐艦十二隻


 第三群 司令官:オーブレイ・フィッチ中将

【空母】〈レキシントン〉〈サラトガ〉〈ワスプ〉

【重巡】〈ニューオーリンズ〉〈アストリア〉

【軽巡】〈ヘレナ〉〈サンディエゴ〉

駆逐艦十二隻


第六十四任務部隊 司令長官:ウィリアム・パイ中将

【戦艦】〈サウスダコタ〉〈インディアナ〉〈マサチューセッツ〉〈アラバマ〉〈ノース・カロライナ〉〈ワシントン〉〈メリーランド〉〈ウェスト・バージニア〉

【重巡】〈サンフランシスコ〉〈ミネアポリス〉〈タスカルーザ〉〈クインシー〉〈ヴィンセンス〉〈ウィチタ〉

【軽巡】〈ナッシュビル〉〈ボイシ〉〈セントルイス〉

駆逐艦十四隻


 潜水艦や飛行艇からの報告により、米太平洋艦隊の進撃目標を把握した連合艦隊は、マリアナでの艦隊決戦を決意する。

 彼らはこの一戦でアメリカ艦隊に壊滅的打撃を与え、短期で講和に持ち込むという構想を持っていた。いわゆる、一撃講和論である。

 六月十八日、アメリカ海軍空母部隊によるサイパン、テニアン空襲により、マリアナを巡る攻防戦の火蓋が切られた。

 グアム島沖に展開中であった第四艦隊と輸送船団は事前に退避しており損害はなかったが、アメリカ海軍機動部隊との戦闘を行ったマリアナ諸島に展開していた基地航空隊の損害は大きかった。

 アメリカ艦隊は空母艦載機(護衛空母搭載機を除く)だけで八〇〇機以上の兵力を擁していたのに対し、サイパン、テニアンなどに配備されていた基地航空隊は一五〇機程度の兵力しか持たなかったからである。

 戦闘機隊を除けば、日本がマリアナに配備した航空兵力は戦闘初日にして壊滅的損害を被ってしまったのだ。

 さらに基地航空隊は、上陸船団を護衛する護衛空母部隊をアメリカ正規空母部隊と誤認して攻撃を仕掛けるなど、アメリカ艦隊主力に十分な損害を与えることが出来なかった(それでも、護衛空母三隻、護衛駆逐艦二隻、輸送船一隻を撃沈する戦果を挙げている)。

 同日、トラックを出撃してマリアナ西方の海域に到着した連合艦隊は米艦隊への空襲を試みようとするが、両艦隊の距離が離れていたため、断念されている。

 翌十九日、日米両艦隊は互いに索敵機を発進させ、ここに史上初の空母対空母の決戦が生起する。

 この時、日米両艦隊の陣形は、互いに正反対のものであった。

 日本側は戦艦部隊である第一、第二艦隊を前衛とする一方、アメリカ太平洋艦隊は空母部隊を前進させ、戦艦部隊をその後方に配置したのである。

 これは、両国海軍の戦術的思考の違いであった。

 連合艦隊は欧州での戦訓から空母を極力守ることの出来る陣形を選んだのに対し、アメリカ側は南シナ海で戦艦二隻が航空攻撃によって撃沈された戦訓から、決戦兵力たる戦艦部隊を航空攻撃の届かない場所に配置したのである(この他、戦艦〈メリーランド〉、〈ウェスト・バージニア〉が最大速力二十一ノットの低速戦艦であったことも関係している)。

 先に相手を発見したのは、前日の時点ですでにある程度、敵艦隊の位置を把握していた日本側であった。

 六時十五分、一航艦の空母〈赤城〉、〈加賀〉、〈蒼龍〉、〈飛龍〉から計一〇八機の第一次攻撃隊が米第五十一任務部隊第三群に、〈翔鶴〉、〈瑞鶴〉から計九十六機の第二次攻撃隊が同第二群に向けて出撃した。

 アメリカ艦隊も七時過ぎには、日本艦隊に向けて攻撃隊を放っている。しかし、攻撃隊発艦直後、第三群の空母〈サラトガ〉が〈伊二六〉潜水艦に襲撃され、魚雷二本命中の被害を受ける。これにより〈サラトガ〉は機関部に大損害を負った。

 米艦隊の不運はさらに続き、日本側攻撃隊の迎撃のために戦闘機を発進させようと直進を開始した空母〈ワスプ〉に〈伊一九〉潜水艦の放った魚雷三本が命中し、大火災が発生した。

 このため、フィッチ中将率いるアメリカ機動部隊第三群は、日本側の第一次空襲の終了までに〈レキシントン〉、〈サラトガ〉、〈ワスプ〉の全空母が撃沈された他、重巡〈ニューオーリンズ〉、駆逐艦二隻も撃沈されるという大損害を被ってしまった。

 一方、〈翔鶴〉、〈瑞鶴〉の放った第二次攻撃隊はハルゼー中将率いる第二群に殺到したが、戦闘機隊の迎撃や濃密な対空砲火により、空母〈ホーネット〉に魚雷三本、爆弾四発、〈ヨークタウン〉に爆弾三発を命中させるに留まった。

 アメリカ側の放った攻撃隊は、第一波がまず日本艦隊の最前衛であった第二艦隊への空襲を開始した。

 この時、日本側は各艦隊に配備されていた計七隻の軽空母に最新鋭の零戦五二型を満載しており、これらを防空担当艦として扱っていた。

 そのため、アメリカの第一次空襲は軽空母〈春日〉に魚雷一本、爆弾二発を命中させ大破、重巡〈妙高〉に爆弾三発を命中させ大破させるという損害しか与えられなかった。

 アメリカ側の第二次空襲は、戦艦八隻を擁する第一艦隊に集中したが、軽空母〈千代田〉に爆弾二発、戦艦〈扶桑〉に爆弾一発を命中させた他は、至近弾多数という戦果に留まった。

 しかし、ハルゼー中将の第二群が放った攻撃隊は、第一、第二艦隊の直掩戦闘機隊の妨害を受けつつも、目標である一航艦へ到達することに成功した。

 日本側にとって第三次空襲となったこの攻撃は、ハルゼー中将が麾下の空母に全力出撃を命じたため、計二〇〇機を超える大編隊による空襲であった。

 この攻撃により、それまで無傷であった一航艦に初めての損害が生じた。〈赤城〉、〈加賀〉、〈蒼龍〉、〈祥鳳〉が米軍の急降下爆撃により、航空機発着不能となる損害を受ける。この他、重巡〈筑摩〉も命中弾、至近弾多数を受けて大破した。

 さらに不運なことに、〈赤城〉に命中した爆弾の一発が操舵装置に損傷を与え、〈祥鳳〉は搭載していた航空燃料に引火して大火災が発生してしまう。

 この結果、雷撃隊の攻撃は〈赤城〉に集中し、最終的に〈赤城〉は魚雷四本命中の損害を受け、沈没することになる。〈祥鳳〉も、総員退艦命令が出された後、大爆発を起こして沈没した。

 日本側は残った三空母(〈飛龍〉、〈翔鶴〉、〈瑞鶴〉)から第三次攻撃隊を発進させ、空母〈ホーネット〉、〈ヨークタウン〉を撃沈し、〈エンタープライズ〉に魚雷二本、爆弾三発命中の損害を与えることに成功した(翌日、〈エンタープライズ〉は〈伊一六八〉潜水艦の雷撃で沈没)。

 一方、アメリカ側の第四次空襲は、損傷していた軽空母〈春日〉の撃沈を果たした。

 この時点で、防空担当の軽空母を除いた日本空母の稼働機は、二三〇機程度にまで落ち込んでいた。損害を受けた四空母の艦載機は健在な空母に収容されていたが、事実上、一航艦の戦力は当初の三分の一程度にまで低下していた。

 対するアメリカ側は、第一群の空母三隻が無傷のまま残されていた。こちらも沈没した空母の所属機を収容するなどして、約三〇〇機の戦力を維持することに成功している。

 しかし、日没寸前、第一群はトラックから出撃した第十一航空艦隊の銀河二十六機の空襲を受けた。これは二式飛行艇の先導を受けた攻撃隊であり、航続距離の関係から護衛の戦闘機隊を付けられないため、あえて薄暮攻撃を意図して発進した部隊であった。

 この攻撃で、軽空母〈インディペンデンス〉が魚雷二本、体当たり一機の損害を受けて炎上、軽巡〈アトランタ〉にも魚雷一本、体当たり二機の損害を受け、両艦とも後に沈没した。しかし、二隻のエセックス級空母は健在であり、稼働可能機も二五〇機と、なお日本側を凌駕する航空兵力を持っていた。この他、アメリカ主力艦隊後方には上陸船団援護のための護衛空母部隊も存在していたので、キンメル長官は侵攻作戦の続行を決断する。

 アメリカ側は翌日の艦隊決戦を意図して、空母部隊を後方に下げると共にその護衛の巡洋艦部隊を再編、戦艦部隊である第六十四任務部隊と共に前進させた。

 一方の日本側も、航空機の損害の多さから戦艦部隊による攻撃を仕掛けるべく、第一、第二艦隊を前進させる。

 日付が変わる頃、夜戦部隊の役割を担っている第二艦隊は、アメリカ海軍前衛隊に接触した。

 この時、第二艦隊前衛として警戒に当たっていた駆逐艦〈夕立〉は吉川潔駆逐艦長の指揮の下、敵艦隊に単艦突撃し、アメリカ艦隊を大混乱に陥らせている。そして、その混乱に乗じて第四水雷戦隊がアメリカ前衛艦隊に突撃した。

 この結果、夜戦において第二艦隊は米重巡〈ノーザンプトン〉、〈ポートランド〉、〈サンフランシスコ〉、〈アストリア〉などを撃沈する戦果を挙げた。しかし、その後方の戦艦部隊への突撃を行った第七戦隊、第二水雷戦隊は護衛部隊や戦艦八隻の砲火に妨げられ、重巡〈最上〉、〈三隈〉を失って後退、戦艦部隊への雷撃は不成功に終わった。

 翌二十日、キンメル長官は艦隊決戦に先立って日本の戦艦部隊に空襲を仕掛けることを決意した。

一方の日本側は、第一艦隊の古賀峯一長官が敵空母戦力が健在な状況下での艦隊決戦を危険視し、後退した第二艦隊から健在な軽空母〈日進〉を第一艦隊に編入、損傷から復帰させた軽空母〈千代田〉と健在な〈千歳〉で防空体制を整えた。

 小沢治三郎中将も、敵艦隊への攻撃よりも第一艦隊の援護を優先し、朝から直掩隊を発進させている。また、わずかに残存していたマリアナの基地航空隊が、零戦十二機、彗星七機、天山十一機、一式陸攻三機を米機動部隊に向けて出撃させた。この部隊は至近弾以外の戦果を挙げられなかったが、米機動部隊にマリアナの基地航空隊の健在を印象付け、以後、米機動部隊の攻撃をサイパンやテニアンの航空基地に吸引する役目を果たした。

 こうしたことからアメリカ側の第一艦隊に対する空襲は不調に終わり、午前十時頃、日米両戦艦部隊による艦隊決戦が開始された。

 第一艦隊は五十口径四十六センチ砲九門を備える大和型二隻を擁していたものの、全体的な砲戦能力という点では、全戦艦が十六インチ砲搭載戦艦、さらに八隻中六隻が新鋭戦艦であるアメリカ艦隊が有利であった。

 そのため第一艦隊は砲戦開始と前後して、重雷装艦〈北上〉、〈大井〉による先制雷撃を敢行した。遠距離からの雷撃であったため、十分な成果を挙げることは出来なかったものの戦艦〈インディアナ〉に一本、〈ウェスト・バージニア〉に二本を命中させ、米艦隊を一時的にせよ混乱に陥れた。

 しかし、旧式戦艦の多い日本は米艦隊相手に苦戦し、〈扶桑〉は早々に戦列から脱落し、〈山城〉は〈ウェスト・バージニア〉と相打ちになる形で戦闘不能となった。

 第一艦隊も〈大和〉が〈ワシントン〉を、〈武蔵〉が〈サウスダコタ〉を航行不能にさせるが、直後に〈日向〉が戦闘不能になるなど、苦戦が続いた。

 この状況を打開したのは、重巡〈古鷹〉と水雷戦隊であった。

 戦艦同士による砲戦と同時に、第一、第三水雷戦隊は敵戦艦への雷撃を行うべく、アメリカ艦隊へ向けて突撃した。

 アメリカ側も巡洋艦部隊など護衛部隊がこれに応戦し、第六戦隊旗艦〈青葉〉は艦橋に直撃弾を受けて戦闘不能に陥る。しかし、残された〈古鷹〉は優勢な米巡洋艦戦隊の砲撃を引き付けることで、水雷戦隊の道を開いた。〈古鷹〉の奮戦に呼応した第一水雷戦隊は米巡洋艦部隊への雷撃を敢行し、その間隙を突いて〈川内〉以下第三水雷戦隊は米戦艦部隊に向けて突撃、ついにアメリカ戦艦部隊への雷撃に成功したのである。

 この結果、すでに損傷していた〈ワシントン〉、〈サウスダコタ〉、〈ウェスト・バージニア〉が止めを刺され、〈ノース・カロライナ〉、〈メリーランド〉が航行不能に陥った。

 さらに〈大和〉からの砲撃によって、〈アラバマ〉が射撃管制装置を破壊されたことにより砲戦不能になったため、キンメル大将はついに撤退を決意した。

 彼は沈みゆく〈ワシントン〉と運命を共にし、パイ中将も〈サウスダコタ〉から脱出した後、日本軍の捕虜となった。

 この戦闘では、最終的に戦場海域の制海権を日本側が握ったため、五隻の戦艦を始めとする沈没艦のアメリカ軍将兵のほぼ全員が未帰還となった。彼らは戦死するか、日本軍の捕虜となったのである。

 特に古賀長官はアメリカ国民の世論を気にして、沈没艦から脱出したアメリカ兵の救助を徹底させたという。

 日本側は最終的に、主要な艦艇だけでも〈扶桑〉、〈山城〉、〈日向〉(損傷の後、サイパン島浜辺に擱座させ沈没そのものは免れた)、〈赤城〉、〈祥鳳〉、〈春日〉、〈古鷹〉、〈最上〉、〈三隈〉を喪失したものの、マリアナ防衛という戦略目標は果たしたのである。

 アメリカ側は最終的に戦艦五隻、空母七隻、重巡七隻などを喪失し、三万人近い将兵を失った。

 ただし、日本海海戦のような完全勝利ではなかったために、日本海軍の目指した一撃講和論は実現することはなかった。

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