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第一部 第三章 第五節 百鬼夜行は過ぎ去りて

 事件から一夜明けた朝、陰陽庁東京本部は昨夜ほどではないが、騒がしかった。

 現在、百鬼夜行が現れた地域の汚染は確認されていない。そもそも、本物の百鬼夜行ではなかったのだから当然である。

 事件による死者は存在していない。負傷者は存在するが、それは百鬼夜行に襲われたのではなく、その出現に驚いて逃げる中で転倒するなどしたからである。結界の構築が早急であったために、インフラや建物への被害もない。

 賀茂憲行は、髭の伸びた顔のままコーヒーを啜った。ブラックで、砂糖もミルクも何も入れていないコーヒーである。熱い液体が喉を通り抜けていく。

 遠野沙夜を捜査要員に加えた二日前から寝ていない。流石に徹夜二日目ともなると、無理にでも頭を覚醒させないと仕事は出来ない。

 コーヒーと共に、地下の食堂から部下に買わせてきたサンドイッチを摘まんで、パソコンや書類に目を通しながらの朝食である。

 机の脇に置いてある新聞は、多くが一面を帝都東京で発生した百鬼夜行出現事件で飾っていた。死者や直接的な負傷者を出さなかったことを評価する一方、事前に百鬼夜行を探知出来なかった陰陽庁の観測体制を批判する内容がほとんどだ。

 ただし、百鬼夜行が霊的テロ事件である可能性は、各種報道機関には伏せられていた。ほぼ未遂に近い形で終結したため、いたずらに国民の不安を助長すべきではないというのが内務省の判断であった。

 だがいずれにせよ、“魂食い”の一件に続き、陰陽庁は不手際を重ねていると国民は見ていることだろう。

 一部の新聞記事では、この事件が国会で審議中の魔導関連法案に影響を与えるのではないかという社説を載せている。

 今は四月。一月から始まった常会(通常国会)も、大詰めを迎えている頃だ。あり得ない話ではない。


「本部長」


 賀茂と同じく、髭面になってしまった廣岡がやって来る。


「昨夜の事件で使用された霊装ですが、()()()()()()()、『百鬼夜行絵巻』とのことです」


「やはり、そうか」


 寝不足で痛む頭を押さえながら、賀茂は応じた。すでに彼は昨夜、有坂篁太郎からその可能性を指摘されていた。その確認を、公安課に任せていたのだ。


「国家祓魔官、民間祓魔師問わず、『百鬼夜行絵巻』を霊装としている人間を洗い出したところ、それほど数はおりませんでした」


 絵巻物の中の妖怪を実体化させるのだ。霊装としての燃費は、決してよい方ではないだろう。それを自在に使える術者となると、数が限られてくるのは当然である。


「第一部(公安部)にも確認したところ、現在、『百鬼夜行絵巻』を所持する者で行方が判らなくなっている人間は一人だけです」


「決まりだな。で、誰だ?」


「丹羽教光。五十六歳。元陰陽庁職員の国家祓魔官で、主に千葉支部や埼玉支部といった関東圏で魔導犯罪捜査を担当する部署に配属されていました。主に、魔導犯罪捜査官としての経歴を重ねています。七年ほど前に退職し、魔導関連企業に再就職。典型的な天下りですね」


「国民からの批判の種がまた一つ増えるな。いや、二つかな」


 気怠そうにコーヒーを啜りながら、賀茂が応じた。天下りと、テロの実行者。ろくでもないな、と思う。


「丹羽は約三ヶ月前にその企業も退職し、陰陽庁では以後の行方を把握していません」


「裁判所へ、令状の要請は?」


「それが」心底不愉快そうな口調で、廣岡が続ける。「内務省の方から、令状の要請は慎重を期すようにとの伝達がありまして、未だ」


「なに?」


 賀茂の目が鋭く光った。つまり、陰陽庁の上部組織である内務省が、丹羽教光の捜査に「待った」をかけたということである。


「陰陽庁で把握していない『百鬼夜行絵巻』の保有者がいる可能性もあるので、慎重に確認を行った上で令状の要請をするように、との命令です」


「何だかんだ理由をつけて、組織の利益の優先したい、そういうことか」


 呻くように、賀茂は言った。犯人の逮捕、テロの阻止よりも、身内から犯罪者を出すことによって組織の面子が潰れることを恐れる官僚らしいやり口といえた。


「そうなると、警察と連携しての捜査も不可能ということだな?」


「はい」


 無念さを噛みしめるように、廣岡が頷いた。賀茂も、寝不足による頭痛がさらに酷くなったような気分になる。


「……遠野祓魔官の式神だ」


 不意に、ある閃きが賀茂の頭を占めた。


「陰陽庁か内務省に、丹羽教光の臭いの付いたものは残っていないか? 使っていたデスクでも、パソコンでも、何でもいい。それを虎徹に送るのだ」


「丹羽の前任者や後任者の臭いも付いているはずです。例えあの式神がそれぞれの人間の臭いを識別出来たとしても、どれが丹羽のものか判らなければ、あの鼻に頼った捜査は不可能でしょう」


 だが、廣岡の冷静な指摘が、それを不可能だと悟らせる。やはり、寝不足で判断力が落ちているらしい。


「せめて、令状さえ取れれば自宅を捜索して、丹羽の臭いのついたものを、遠野祓魔官の式神に送れるものを」


「今は、丹羽教光が関与していることを示す決定的な証拠を探すしかないでしょう。それさえあれば、内務省も令状の要請を許可せざるを得ないはずです」


 こういう部下を見ると、まだまだ陰陽庁は捨てたものではないと賀茂は思う。国民から批判を受けようと、自分たちが国家の安寧のために尽くしていることは事実なのだ。それが、自分たち国家祓魔官の誇りのはずである。

 もしその丹羽という陰陽庁ОBがテロを目論んでいるのならば、彼は国家祓魔官に値しない人間だ。

 しかし、疑問は残る。天下りまでして甘い汁を吸いながら、いったい国家のどこに不満を抱いているのか。帝国の官僚機構に感謝こそすれ、恨む理由はないはずだ。


「それと、もう一つの件ですが」


 廣岡が、周囲を憚るような調子で言った。


「他の部署に確認を取ったところ、遠野祓魔官とその式神が川口に行くことを知っているのは、東京本部公安課と龍脈監視担当の第三部のみとのことでした」


「ふむ」


 賀茂は険しい表情で部下の言葉に頷いた。

 昨夜の、あまりにもこちらの動きを見越したかのような頃合いに出現した百鬼夜行。こちらの内部情報が洩れているか、魔術的な監視が行われていなければ不可能な芸当である。

 魔術的な監視が行われていたのならば、〈遠見の術〉などといった観測用魔術の霊力反応を探知出来るはずである。もちろん、相手が霊力の波動を徹底的に秘匿しようと偽装工作を行ったならば探知出来ないことも不自然ではないが、それほど高度に魔術を操れる魔術師ならば、百鬼夜行もどきの出現で済むはずがない。

 昨夜の霊的テロ未遂事件は、もっと深刻化しているはずである。

 そうなると、昨夜の事件の主犯は、有坂祓魔官が追っている国際魔導犯罪者ヴォルフラム・ミュラーではない。彼は高位の魔術師であり、犯罪者でもあるが、テロリストという意味での犯罪者ではない。

 やはり、容疑者としては丹羽教光が妥当であろう。


「もちろん、情報漏洩などではなく、単に立川の分析官が、観測用魔術のような何らかの霊的反応を探知していても『問題なし』と判断して報告しなかったという可能性もあります」


「ならば本日只今を以って、立川の分析官は全員クビだな。長官にそう申し上げよう」


 賀茂は自身の首を掻き切る動作をしてみせる。


「第三部には、私の後輩が配属されています」苦笑と共に、廣岡は言った。「そいつに、それとなく聞いてみることにします。どこの部署まで遠野祓魔官の情報が共有されていたのか、探ってみます」


「頼む」賀茂は言った。「しかし、我が東京本部公安課に内通者がいる可能性も否定されていない」


「判っています。私としても、部下を疑うのは心苦しいですが、情報漏洩の疑いを見逃すことは出来ません」


「うむ」賀茂は頷く。「それにしても、局内にテロリストの内通者がいる可能性か。今日の報告会議で何と言うべきかな」


 皮肉に、彼は唇を歪めた。恐らく、第三部(龍脈部)の連中はいい顔をしないだろう。身内を疑われることが不愉快なのではなく、それによって自分の地位が脅かされることが、彼ら官僚にとっては不愉快なのだ。

 恐らく、丹羽の捜査に「待った」をかけた内務省の官僚たちと、同じ反応が返ってくることだろう。


「真実を報告するしかないでしょう」強い口調で、廣岡は言った。「立て続けに不手際を重ねた陰陽庁ですが、だからこそ国民を裏切るような真似は出来ません。もし内部にテロリストと内通している人間がいるのであれば、きっちりと裁いて公明正大な陰陽庁の姿を帝国臣民に示すしかありません。自浄作用のない組織は、腐敗するだけです。それが出来ないようでは、今回の事件に携わった捜査員や遠野祓魔官に顔向け出来ません」


 まっとうな部下の意見を、賀茂は嬉しく思った。同時に、こういう人間ばかりなら官僚の世界も楽なのだが、とも思う。

 帝都の霊的治安を担当する部署の長たるが故の、生真面目さか。

 そんなふうに、賀茂は廣岡を評価した。

 その後、彼は報告会議が始まるまで仮眠を取ることにした。


◆   ◆   ◆


 遠野沙夜の家は、東京都港区麻布にある。

 山の手の高級住宅街の一角に、古風な洋館といった佇まいで、彼女の自宅が存在していた。

 歴史のある魔術師の家系は、そのほとんどが大地主である。それは古来より、霊的に優れた土地の管理をその地域の豪族や領主から任されていたからであり、日本が近代国家として脱皮した後は、そうした土地の運用で富を蓄えていた。

 遠野家も現在の自宅とは別に、江戸時代まで一族が住んでいた近畿地方に土地を有している。明治維新による東京奠都(てんと)によって、本拠地を東京に移したのである。

 彼ら東京に移り住んだ魔術師たちは、競って龍穴のある土地を確保していった。龍穴とは、龍脈から霊子が噴き出す土地のことであり、陰陽道や風水術の解釈では、一族繁栄をもたらす土地とされている。

 もちろん、一番良好な龍穴にはすでに神社仏閣が存在しており、魔術師たちが新たな都に作った自宅は次点以下の土地ということになるのだが、それでも霊的に優れている土地であることには変わりなかった。

 遠野沙夜は今、自宅の食堂で不愉快そうに眉を寄せて座っていた。

 彼女の目の前には、すでに食べ終わった食器が置かれている。皿から推測すると、朝食はパンを主食とした洋食の献立だったらしい。

 テーブルの反対側にも、やはり食べ終わった皿が並べられていた。だが、椅子には誰も座っていない。

 この家に住んでいるのは、彼女の他には、彼女の眷獣だけである。故に、その席は虎徹のもの。

 すでに彼は、自宅を出て警邏に当たっている。


「不治の傷を付ける魔剣、か……」


 忌々しそうに、沙夜は呟いた。そこに己の眷獣を案ずる響きが混じっていることを、彼女は決して認めようとはしないだろう。

それを誰にも指摘されたくないからこそ、彼女は己が眷獣を早々に警邏に出したのだ。

 結局、虎徹の傷は治らなかった。傷口を、沙夜得意の氷系統の魔術で凍らせ、無理矢理出血と化膿を抑えている状態だ。

 彼女は昨夜の内に、師匠である篁太郎に相談を持ち掛けていた。

 未だ青年の姿を保つ男の言葉が、脳裏に蘇る。






「戦斧と弓に関しては原典となる武器が不明ですが、剣と鎚ならば予想はつきます。鎚は電撃を放ったことから雷鎚〈ミョルニル〉、北欧神話の雷神トールの武器。剣は魔剣〈ダインスレイヴ〉。伝説のデンマーク王ヘグニが持っていたとされるものですね」


 まず彼は、前提条件の確認に入った。しかし、西洋魔術を修めた沙夜は、西洋地域の神話に登場する武器の名と特性はある程度、頭に入っている。同様の予測は、すでについていた。

 〈ダインスレイヴ〉。一度抜かれると、血を見るまで鞘には戻らないと言われる呪われた剣。


「だけれども、一般的なその認識は正しくはありません」篁太郎は言った。「『スノッリのエッダ』には、続けてこう書かれています。決して癒えぬ傷を残す、と」


「似たような話は、ケルト神話の魔槍〈ゲイ・ジャルク〉、ギリシャ神話のアキレウスの槍にもあるな」


「まあ、厄介な神具の代表格のようなものです」


 神具とは、神代に作られた武具のことで、主に神話や伝説の中に登場する武具を指す。


「不治の呪いを解く方法は?」


 沙夜は日本最強であろう陰陽師に訊いたのだ。その時、視線が彼の侍らす黄金の神獣を睨むようになってしまったのは、この神代の化生(けしょう)の知識に期待してしまったからだろうか。


「一番早いのは、傷を付けた武器を破壊することです。あれが本物の〈ダインスレイヴ〉である可能性は一定程度ありますから、貴重な神代の遺産が一つ失われることになりますが」


 ヴァルキュリヤ・シリーズがドイツ第三帝国の遺物であるならば、あり得る話だった。第三帝国は、占領地から美術品などを大量に略奪したのだ。その中に本物の神具が混じっていた可能性は否定出来ない。


「あとは、アキレウスの槍の伝承に倣うという方法もあるでしょう」


 ホメーロスの『イーリアス』などには、傷の原因となった槍の錆、あるいは鉄粉を傷口に塗って不治の呪いを解いたという伝承がある。

 結局、篁太郎の示した解決策は、自分がすでに考えていたものと大差がなかった。単に、陰陽師であるにも関わらず西洋魔術にも造詣が深いことを再確認しただけだった。


「あとは、まあ」


 と、最後に篁太郎は傍らの式神を見上げた。未だ、狐の姿を保ったままの久遠を。


「我は協力せんぞ」


「でしょうね」


 冷たく切って捨てた久遠に、篁太郎が苦笑した。


「我はお前の式神だ。お前が呪いを受けたのなら、考えてやらんでもないが」


「ではその時は、お願いしますよ」


 にこりとそう言って、篁太郎は沙夜に向き直った。


「一応お伝えしますと、古代の神秘に対抗するには、より大きな神秘を用意することです」


 つまりそれは、神具という神秘を上回る、神獣という神秘で対抗するということだ。神代の魔術(久遠にとってみれば妖術になるのかもしれないが)を用いることの出来る大妖ならば、治癒できるということだ。


「小娘」心底、嫌そうな口調で久遠は言う。「我はこの男の式神だ。貴様が篁太郎を頼ってきた以上、式神として主の面目を潰すわけにもいかん。一つ、忠告をやろう」


 篁太郎が感謝するように、視線で礼を伝える。久遠は不貞腐れたように鼻を鳴らした。


「貴様の式神の本性を、もう一度思い出せ。アレは、我には及ばぬまでも神性を備えた獣よ」


 その言葉に、沙夜は唇を歪めた。それは、己の眷獣にかけた封印を解くということだ。その能力を何重にも縛った沙夜の眷獣は、今でこそ神性のほとんどを失っているが、封印を解けば再び力を取り戻すだろう。

 だがそれは、あの眷獣の望まぬことだ。彼は、封印された状態を良しとしている。


「ふん」だが、そうした内心を見透かしたように久遠は嗤った。「お前はあの駄犬の主の癖に、己の式神を信頼していないのだな。それならば、これ以上我の言うべきことは何もない」


「信頼、だと?」


 その言葉が、妙に沙夜の癇に障った。


「数多の人間を貶め、破滅させてきた奸物が、信頼など、笑わせてくれる」


 この大妖は、そうした信義を表す言葉から最も遠い位置に存在しているはずなのだ。


「沙夜」


 諫めるような篁太郎の口調は、きっと己の式神を庇ってのことなのだろう。

 だから、沙夜はこの狐が憎いのだ。女狐は、自分が欲しくても手に入れられなかったものを持っている。

 どうして自分の師がこの危険な大妖を式神として頼りにしているのか、沙夜にはまったく理解不能だった。


「もういい」


 これ以上、この場にいることが不快で、沙夜は先に眷獣を帰らせた自宅へと戻ったのだった。






 再び意識を自宅の食堂に戻した沙夜は、小さく溜息をついた。

 まったく手のかかる飼い犬だと思う。主の手を煩わせる使い魔で、アレに並ぶものはいないだろう。

 眷獣(サーヴァント)の主としての最優先課題は、早急な剣の呪いの解除。

 自分の所有物に傷を付けられて黙っていられるほど、遠野沙夜という人間はお人よしではない。


◆   ◆   ◆


 篁太郎が〈あわい〉に築かれた久遠の宮殿で朝食を終えた後、訪れた玉座の間では人型を取っている式神・久遠がどこか憮然とした表情で頬杖をついていた。

 昨夜は豪勢な食事を楽しんだ久遠であるが、ほとんどの魔族は大地や大気の霊子を取り込むことで生きている。食事をすることは、久遠にとってみれば趣味以外のなにものでもないのだ。


「篁太郎よ」


 苛立っているというよりは不貞腐れた声音と共に、久遠は高い位置にある玉座から篁太郎を見下ろした。


「我が神代より生きていることは知っておるな?」


「ええ、当然」


 唐突な話題であるが、篁太郎は嫌な顔を一つせずに応じる。


「故に、我は人の世では失われた魔導の知恵も持っておるし、また神代の武具も我が宝物庫に収めておる」


「ええ」


「故に、だ。篁太郎よ」


 久遠は虚空から、己の手の中に美しい陶磁器製の小瓶を出現させた。


「あの小娘の式神の傷を治すなど、我には造作もないことなのだぞ?」


 妙に強調するように、久遠は言った。どうやら沙夜に協力しなかったことを、篁太郎に能力がないからと評される可能性が残されたことを、我慢出来なかったらしい。

 別に、篁太郎は微塵もそう思っていないのだが。


「たかだか千年二千年前に造られた神具の呪いなど、我が妖術の前では児戯も同前よ。それに、我にはこれがある」


 久遠は手で篁太郎を招いた。それに従い、彼女の主は玉座への階梯を登っていく。

 大妖は、己の手の中にある小瓶を示した。


「人はこれを『仙丹』、あるいは西の言葉で『エリクサー』と呼ぶのだったか? いかなる傷や病も即座に治癒させる、万能の霊薬」


 それを無造作に、篁太郎に渡す。


「まあ、今ではそれの材料となるべきものは、人に取り尽くされて残っておらんがな。お前の身に何かあったら、それを飲むがよい」


 篁太郎はしばらく小瓶を見ていたが、それをやんわりと久遠の手に返す。


「ありがとうございます。でも、こんな貴重なものは、あなたが使ってください。久遠には、俺の望みを叶えてもらう契約ですから」


「ふん、欲のない男よ」


 自身の厚意を受け取らなかったことに不快を示さず、どこか面白がるように久遠は篁太郎を見た。そして小瓶は、再び虚空へと戻っていった。


「ああ、それと篁太郎よ」


「はい?」


 久遠は、篁太郎の顔を覆うように手を伸ばした。ふっと篁太郎の体から力が抜け、倒れかけた体を久遠が支える。


「お前は少し、我に対して無防備過ぎるな」


 呆れる彼女の腕の中にある篁太郎の目は、閉じられていた。ただ寝息だけが聞こえる。


「我は白面金毛九尾の久遠だ。人間どもに恐れられこそすれ、信頼される余地などないであろうに」


 この男の弟子である小娘は、自分を信義という言葉から最も遠い存在だと言った。

 その言葉を、妖狐の女帝たる自分は肯定しよう。人間の歴史に記されてきた自分の姿は、まさしく小娘の指摘した通りの存在なのだから。

 所詮、自分たち魔族を(よこしま)な存在として、歴史の中で幾度となく迫害を続けてきた人間どもだ。その罪科の報いを受けさせるために、多少人の世に混乱をもたらしたとしても、罪悪感など微塵も覚えない。


「ならば、お前は何者なのだ? 篁太郎よ」


 人間からは恐れられ、魔族からは(おそ)れられ、しかしそのどちらでもない有坂篁太郎という存在。

 それは久遠にとって、永遠に解けぬ謎だった。

 式神の契約を結んでから、ずっと彼女は考え続けてきたのだ。この男を傀儡とするか、それとも破滅の淵に追いやって絶望する顔を見るか、あるいは自分を信頼させて土壇場で裏切るか、どれが一番この男を楽しく壊せるか。

 そして、篁太郎は久遠が何を考えているのか判っている。これは、そういう存在だ。

 判った上で、あえて無防備に振舞っているのだ。

 今の妖術も、久遠以外が相手ならば篁太郎は確実に対処しただろう。その程度も出来ない人間が、自分を式神に出来ようはずもない。


「無防備だ、まったく無防備な奴よ」


 愚痴を零すように、久遠は繰り返す。

 この男は判っているのだ。久遠が篁太郎の心を壊すまでもなく、どうしようもなく自分は壊れてしまっていることを。

 だから、自分の前でこうまで無防備でいられるのだ。壊れてしまったものを壊すことなど、久遠にだって出来はしない。

 そして、壊れてしまった心は二度と元には戻らないのだ。


「我の方が、気を回さねばならぬとは。まったく、手間のかかる臣下よ」


 腕の中の篁太郎に聞こえていないと判りながら、久遠は言った。


「今は心安らかに眠るがよい」


 彼女の主は、静かな寝息を立てていた。この男が外津国の罪人の捕縛を命じられて以来、まともに寝ていないことを久遠は知っていた。そして、ヴァルキュリヤ・シリーズの出現以来、妙に感情を高ぶらせている。

 昨日の昼間も、転移魔法の術式を解き明かすために、ずっと首都圏を回っていたのだ。その上、自身の我儘に付き合わせて食事まで作らせてしまった。

 無理やりにでも寝かせて、休息を取らせねばならなかった。


「夜になれば、起こしてやろう。それまでには我が、その罪人の居所を突き止めておろうからな」


 久遠は篁太郎を抱えたまま、玉座の間から姿を消した。

 これにて、第三章は終わりとなります。

 ここまでのお付き合い、ありがとうございました。


 篁太郎と久遠の出会いについては、どこかで描写したいと思っています。

 ただ、いずれにしても第二部以降での課題としたいと考えております。

 現状、第一部に色々な要素を詰め込み過ぎたために、予定していた終盤のシーンに中々辿り着けないという情けない事態となっております。

 一応、この章にて折り返し地点を通過し、四章、五章にて終了する予定です。

 まだまだ、自分の構想力は未熟であると痛感する次第です。

 繙読叱評を賜れば幸甚。

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