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第一部 第三章 第一節 過去の一ページ

 二度にわたる欧州大陸での大戦は、欧州各地に深刻な霊的荒廃をもたらしていた。

 不安定な龍脈、頻発する霊災、戦禍によって死亡した者たちの怨念、それらから生み出される負の気は、淀みを作って瘴気となる。

 ドイツ南西部の森、シュヴァルツヴァルトも、瘴気に汚染された地域の一つだった。

 そこは「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」の名前の通り、暗黒の森と化していた。

 奇妙にねじくれた木々。頭上を不気味に覆う無数の枝葉。

 風通しは悪く、空気はじめじめと湿っている。積み重なった落ち葉は腐り、瘴気交じりの腐臭を放っていた。

 そこは、魔界と紹介されても納得してしまいそうなほど、負の気配に満ちていた。

 太陽の光さえ遮られる、闇の世界。

 それが、今のシュヴァルツヴァルトであった。かつては温泉の町として栄えたバーデン=バーデンも、今や幽霊街の様相を呈するほどに寂れている。

 その不気味な森を、淀みない足取りで歩く二人の人間がいた。


「足元に気を付けてください」


 ハイキングでもするかのような泰然とした口調で、先を歩く有坂篁太郎は言った。彼は時折、後ろを歩く少女の手を引きながら、闇に包まれた森の奥へと迷いなく進んでいく。

 篁太郎は法被のような赤いフード付きコートを羽織り、足は陸軍将校が履くような頑丈な革長靴で覆われていた。両の腰には、計五本の日本刀と剣が差してあった。そうしたいささか重装備といえる格好であっても、彼の歩みは確かだった。

 一方、後ろを歩く遠野沙夜の服装は、良家の令嬢を思わせる少女らしい服装。毛皮の帽子を被り、ロングコートを羽織って森の寒さを防いでいるが、およそこの森を踏破するに似つかわしくない格好であった。一応、ロングブーツを履いているが、下はスカートである。

 ただ、その気の強さ、苛烈さを感じさせる瞳は、やはりこの森に踏み入った者に相応しい覚悟が宿っていた。

 とはいえ、前を歩く青年に比べ、彼女の身長はあまりに小さかった。整っているがあどけない顔立ちは幼さを感じさせ、実際に外見年齢は十一、二程度。第二次性徴の手前といった体格、身長である。

 流石に時折、盛り上がった木の根を越えるのに苦労していた。


「思った以上に瘴気が濃いですね。沙夜、大丈夫ですか?」


「心配するな」


 つっけんどんな口調で、沙夜は返した。今年で十五になるが、その口調は背伸びをするかのように大人びていた。


「お前は欠陥呪符を私に渡したのか?」


 加えて、憎まれ口すら叩く。沙夜の衣服の下には、篁太郎の描いた浄化用の呪符が仕込んであるのだ。


「まさか」


 太い木の根元を越える際、篁太郎は沙夜の手を取って引っ張り上げた。

 一方、篁太郎にはそうした呪符は必要なかった。この程度の瘴気など、術式を発動させずとも耐えられるようでなくては、優秀な陰陽師とはいえない。加えて、彼には妖狐の女帝の加護がある。


「流石に歩きにくそうですね」


「このくらい、何ともない」


 篁太郎に子供扱いされるのが不服なのか、沙夜の語気は強かった。


「でも、到着前に体力を消耗されても困りますから」


 そう言うと、篁太郎は断りなしに沙夜の両脇に手を入れた。


「おいこら、何をするっ!」


 焦ったような抗議の声を無視して、篁太郎は彼女の体を自身の肩の高さまで上げた。そのまま、沙夜を肩車する。


「……服が汚れるぞ」


 泥だらけのブーツを手と両腕で挟み込んだ篁太郎に、沙夜は言った。


「構いませんよ。洗えば済むことですし」


 気にした様子もなく、篁太郎は沙夜を肩車したまま歩いていく。


「一応、頭上に注意して下さいね」


 低い位置にある枝に注意するよう、篁太郎は言う。


「ふん、だったら最初から肩車などするな」


 そうは言いつつも、沙夜の声はどこか嬉しそうだった。

 人理の及ばぬ魔境の森で、そうして歩く二人の姿はどこか兄妹めいていた。牧歌的にすら思える、微笑ましい光景でもあった。

だが、二人は忘れていない。ここは、人の世の理が及ばぬ地。魔と邪が支配する、忌み地。

 彼ら異邦人を、等しく拒絶する魔性の地。


「■■■■■■■■――――っ!!」


 その咆哮は、大気と森を震わせた。

 獣の遠吠えというには、あまりにおぞましい響きを湛えた音。怒りに震えるその叫びは、己が縄張りを荒らした人間という生物への警告だった。

 いかなる侵入者も等しく追い詰め、喰い殺すという魔物からの宣言。


「俺たち侵入者への、宣戦布告といったところでしょうか」


 しかし、篁太郎は相変わらず泰然とした態度を崩さない。


「ならば、受けて立つの道理というものだろう?」


 とんとん、と沙夜は泥に汚れた靴で篁太郎の胸を叩く。降ろせ、という意思表示だ。

 再び地面に降り立った沙夜は、篁太郎に寄り添うように横に並んだ。

 チャキ、と鉄の鳴る音がする。篁太郎は三振りの剣を、指で挟み込むようにして抜いていた。


「それでは沙夜、戦闘準備を」


 深みを感じさせる落ち着いた口調で、篁太郎は魔物の宣戦布告に応じた。

 そして刹那の瞬間には、彼らの前に異形の魔物は現れていた。地面を抉り、木を薙ぎ倒しかねない勢いで現れた魔物は、二人の侵入者から一定の距離を保った位置で停止した。

 相手を威嚇するがごとくに低く唸り、敵の力量を見定めるがごとくに赤い目を向ける。そしてその姿勢は、いつでも飛び掛かれるように低く保たれていた。

 墨を溶かし込んだ黒い体毛に覆われた魔犬。額にはユニコーンの角を、背には鷲の翼を生やした異形。獲物を喰らう貪欲な狂獣。

 篁太郎と沙夜の目の前に現れたのは、神話の世界すら連想させる巨大な一頭の魔物であった。






 黒妖犬は獲物と対峙した瞬間に直感した。この(つがい)のニンゲンたちは己に匹敵する牙を持つ、と。

 迂闊に近づけば、返り討ちに遭う。獣としての感覚が、彼にそう告げていた。

 だから体勢を低くして、隙を伺う。

 雌のニンゲンの方が襲いやすそうだが、雄のニンゲンにはおよそ隙というものがない。雌を襲ったところで、対応されるだろう。


「ようやくお会い出来ましたね。ジェヴォーダンの獣。大狼(ダイアウルフ)。いえ、人の歪んだ理想と欲望によって生み出された悲しき獣。名もなき怪物よ」


 うぅ、と獣は唸り続ける。雄のニンゲンが何かを言っているが、よく意味が判らない。それは、自分のことなのか?


「お前は何を言っているのだ、篁?」呆れたように、雌のニンゲンが言った。「この野良犬への憐憫か?」


 雌は、自分を見て嗤った。


「こういう狂犬は、鞭で叩いて躾けるに限る。存分に苛め、泣かせ、恐怖という知識を植え付けてやるのだ」


「欲しいですか?」


「そうだな、苛め甲斐のあるペットになりそうだ」


 この雌も獣だ、と黒妖犬は思った。雄が狩人、雌は獣。この番は、やはり強敵だ。


「貴女にその覚悟があるのなら、俺はそれを叶えましょう。そうして実感なさい、式神の命を背負うとはどういうことなのかを」


 にこやかに、だが断固としてそう雌に告げた雄は、手に持つ三つの光る牙を投げ放った。


「■■■■■■■■――――っ!」


 狩りの始まりを告げる号砲が森に響き渡る。

 直線的に放たれた武器など、避けるのは容易だ。飛ぶようにして跳躍し、前足の鋭い爪で人間の番に襲いかかる。

 土が抉られ、腐った落ち葉が舞う。だが……


「惜しい惜しい」


 雄のその言葉は、誰に向けられたものか。

 小柄な雌を片手で抱えるようにして、ニンゲンの雄は太い木の枝の上に立っていた。


「ウ――――ゥゥゥゥゥゥッ!」


 黒妖犬は即座に、己の身の異変に気付いた。前足が、後ろ足が、そして着地した地面が凍り付いている。


「解式」


 その言葉に凄まじい殺気を感じた彼は、力業(ちからわざ)で氷結の戒めを脱した。一瞬前まで己の体があった場所を、白銀の煌めきが貫いていく。

 避けた! そう思ったのも一瞬のことだった。

 三つの牙は地面に突き刺さる直前、物理法則に逆らうように向きを変えた。戒めを脱した黒妖犬を追うように、三つの閃光が迫る。

 狂獣は、吠えた。

 大地を震わせ、木々を震わせ、瘴気を震わせた。

 地面が、割れる。

 無数の木々の根が、彼の盾になるように伸びた。


「戻れ」


 雄の声に、三つの牙が退く。根が崩れ、再び両者の間を遮るものはなくなった。

 三つの牙は、今は雄の背後に控えるように浮遊していた。

 黒妖犬は知らないが、見る者が見ればそれがどのような霊装なのかが判っただろう。かつて鈴鹿山に棲んでいた鬼の首領、大獄丸(おおたけまる)が阿修羅から授かった三振りの名剣、「大通連(だいとうれん)」、「小通連(しょうとうれん)」、「顕明連(けんみょうれん)」。持ち主の手を離れても自在に空中を飛び回り、自在に攻防をこなす武器。


「流石に、やすやすと勝たせてはくれませんか」


「まったく、これのどこが狂戦士(バーサーカー)だ。猪突猛進なだけの獣なら仕留めやすかったものを」


「狂っているというよりは、理性をなくしているだけです。野生の勘だけが異様に研ぎ澄まされている」


 番が何かを言っているが、黒妖犬には関係がなかった。どうせ、自分は長い思考には耐えられないのだから。

 いまはただ、この異邦人たちを殺すのみ!

 再び飛び掛かる漆黒の獣。枝の上から飛び降りる番。破壊される枝。軋みを上げる大樹。

 鋭い爪は、さらに二人を追撃する。

 火花が、散った。

 黒妖犬にとって驚愕すべきことに、自身の突進を受け止められていた。

 それは、美しい氷の華だった。

 雌が雄の腕の中で、手を黒妖犬に向けて掲げている。展開された氷華は、彼の爪を受け止め、触れた前足を徐々に凍らせていく。

 だが、それでも黒妖犬は前足に力を込めた。彼の唸り声が大きくなるにつれて、氷の花弁にひびが入り、雌の顔が苦痛に歪んでいく。

 破局は、突然に訪れた。

 華全体にひびが及んだ氷の防御壁が、砕け散ったのだ。

 だがその直前には、ニンゲンの番は近くの枝の上に跳んでいた。またも虚しく、黒妖犬の前足は地面を抉った。

 雄は腕の中の雌を枝の上に降ろすと、腰から新たな牙を取り出して彼の前に降り立った。反りの入った、輝くような牙だ。

 雄はその牙を片手に疾駆し、黒妖犬に向け刺突を放った。体を捻じった黒妖犬の皮膚一枚が切り裂かれる。

 この雄は危険だ……!

 咄嗟の判断で後ろに跳び退(すさ)り距離を取ると、鋭く尖った木々の根を操り、雄に突き刺そうとする。だが、地面から根が盛り上がった瞬間にそれらは凍り付き、高い音と共に砕け散る。

 氷を操るのは、番の雌の方だ。

 未だ木の上でこちらを見下ろす小さな雌。だが、あれを倒すには雄が邪魔だ。

 だからこそ黒妖犬はニンゲンの雌を警戒しつつも、まず倒すべき獲物を雄と定めた。突進する彼に、雄はもう一つの牙を抜いた。両手にそれぞれ一本の牙。背後の空中には三本の牙。

 獣の爪と鉄の牙が火花を散らして乱舞する。

 そして氷で造られた剣が、槍が、斧が、鎖が、雄の攻撃と呼吸を合わせるように魔犬に降り注ぐ。

 それでも、彼は一歩も退かなかった。






 これは、彼女と彼の始まりの物語。そして、もう一人の彼にとっては、一つの通過点でしかなかった、今は昔の物語。

 お判りかと思いますが、沙夜と虎徹の出会いの場面を描いてみました。

 登場人物の過去については、徐々に徐々に描写していくことにしています。沙夜と篁太郎との出会い、そして何故、両者の肉体的成長が止まっているのかについても描写していきたいです。

 なお、二人の成長が止まっている理由は、それぞれ別になっております。多少、物語中に伏線として出しているつもりではあるのですが、果たしてそれが上手くいっているかの自信がありません。

 改めて、伏線を十全に活用出来る小説家さんたちの技量に脱帽する次第です。

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