幕間 戦間期日本の外交と統帥権
4 一九二〇年代の東アジア情勢と日本
一九二〇年代の日本外交は、英露と協調しての中国大陸での権益の保持と、経済的依存性からの対米協調という二重性を孕んでいた。
まず、日本にとって問題となったのは、ソ連の防波堤としての再興ロシア帝国との関係、そして満洲での権益をいかに維持するかであった。
一方、帝政ロシアにとっては、内戦が一旦終結したとはいえ、ソ連は自国の存立を脅かす存在に外ならず、いかに日本との連携を確保するかが問題であった。
このため、一九二五年、日露間において第五次日露協約が締結され、事実上の対ソ軍事同盟が成立した。
列強によるシベリア出兵の結果、辛うじてロシアの権益となっていた中東鉄道の哈爾濱駅へ満鉄が接続したのは、この第五次日露協約による。
満鉄の哈爾濱までの延長は創業以来の悲願であり、これによって日本の北満進出が確定的となった。
ロシアとしても、有事の際に同盟国たる日本軍を迅速に哈爾濱まで輸送することの出来る満鉄の哈爾濱進出は、哈爾濱―長春間の鉄道権益を日本に譲ることによる損失よりもはるかに利益のあることであった。
また、シベリアや沿海州のみをその領土とする再興ロシア帝国の国力は大幅に低下しており、経済開発において北満やロシア帝国領に日本やイギリスの資本を導入出来るという利点もあった。
これに加えて、帝政ロシアはシベリアでの資源開発と工業化の資金を得るため、北樺太を日本に売却した。
すでに第一次世界大戦の結果、赤道以北の南洋群島を委任統治領の形で手にした日本にとり、北樺太の買収はさらなる領土の拡大であり、さらには北樺太の油田を入手したという意味でも重要な出来事であった。
このように日本は対露政策で一定の成果を挙げる一方、原敬内閣の「東方会議」などでは満蒙政策の再構築が図られていた。
第一次世界大戦後、ロシア国内での内戦によって日露協約における満蒙分割が一時的にせよ無効化し、日本の独占的な満蒙進出を抑えるための新四国借款団の結成など、満洲を巡る状況は変化していた。
東方会議が行われた一九二一年段階では、ロシア内戦はまだ継続している段階であり、万が一、再興ロシア帝国が崩壊した場合に備える必要もあった。
東方会議では、「満蒙ニ対スル政策」、「張作霖ノ態度ニ関スル件」、「東支鉄道財政援助ニ関スル件」の三つが閣議決定を見た。
まず、「満蒙ニ対スル政策」では「満蒙ハ我領土ト接壌シ我国防上並国民ノ経済的生存上至大緊密ノ関係ヲ有スル」土地であるとされ、「右二大利益ヲ主眼トシ満蒙ニ我勢力ヲ扶植スルコト即チ我対満蒙政策ノ根幹ナリ」と規定された。ただし、満蒙での権益拡大に関しては「借款団組織ノ根本義トスル協調ノ精神竝支那ニ於ケル門戸開放機会均等主義ニ鑑ミ帝国ノ国防乃至国民ノ経済的生存ノ脅威タラサル限リ妄リニ排他独占ノ方向ニ走ルハ決シテ策ノ得タルモノニアラス」と、欧米と協調しつつ権益拡大を図る方向性が示されている。
「張作霖ノ態度ニ関スル件」では「張作霖カ東三省ノ内政及軍備ヲ整理充実シ牢固ナル勢力ヲ此ノ地方ニ確立スルニ対シ帝国ハ直接間接之ヲ援助スヘシト雖中央政界ニ野心ヲ遂クルカ為帝国ノ助力ヲ求ムルニ対シテハ進ンテ之ヲ助クルノ態度ヲ執ラサルコト」と規定して、「彼ノ力ニヨリテ東支鉄道庁ヲ動カシ以テ南線改築促進ヲ計ルニ努ムヘシ」として、当時東三省(奉天省、吉林省、黒龍江省)の実力者であった張作霖の力を利用して広軌を採用していた中東鉄道南部線を標準軌に改築させることを決定したものである。
最後の「東支鉄道財政援助ニ関スル件」では、財政難が伝えられる中東鉄道に対して三〇〇〇万円を貸与する代償として、南部線を標準軌に改築するか、満鉄車両を哈爾浜まで乗り入れさせることを決定したものであった。
こうした中東鉄道に対する政策は、前述の通り、ロシア内戦の終結と帝政ロシアの再興、そして第五次日露協約により一九二五年に実現することとなる。
原は北満への積極的な進出を目指しつつ、満鉄を実行主体とすることで一企業が経済的合理性に基づいて利潤を追求しているという姿勢を中国や列強に印象付けようとしたのであった。
翌年のワシントン会議で九ヶ国条約が締結されると、いよいよ中国に対する露骨な帝国主義的進出は不可能となった。この条約によって「支那ノ主権、独立竝其ノ領土的及行政的保全ヲ尊重スルコト」が謳われ、「一切ノ国民ノ商業及工業ニ対シ支那ニ於ケル門戸開放又ハ機会均等ノ主義ヲ一層有効ニ適用スル」ことが定められたからである。
一九二四年、清浦圭吾内閣において「対支政策綱領」が陸海外蔵の四相間で確認された。ここでは「満蒙ハ我領土ト境ヲ接シ国防及国民的生存上支那ノ他地方ニ比シ一層深甚且特異ノ関係ニ在ルニ顧ミ此ノ際特ニ該地域ニ於テ我地歩ノ確保及伸展ヲ図リ殊ニ従来我施設ノ乏シカリシ北満方面ニ新ニ進路ヲ開拓スル」と、北満進出がより明確に謳われるようになる。
当時の満蒙政策において問題となっていたのは、中華民国との間に結ばれた一九一三年の「満蒙五鉄道協約」、一九一八年の「満蒙四鉄道借款契約」に基づく満鉄培養線の建設が遅々として実現しないことであった。これらの路線は一部が新四国借款団の結成により譲渡を余儀なくされたが、依然として日本の満蒙政策における懸案事項であった。
こうした状況を打開したのは、一九二一年に満鉄理事となった松岡洋右であった。彼は着任早々、日中間で紛糾していた四洮線(四平街―洮南。満蒙五鉄道の一つ)の一部を成す鄭洮線(鄭家屯―洮南)敷設交渉を手掛け、これを成功させている。
一九二四年、松岡が続いて取り組んだのは、その延長線である洮斉線(洮南―斉斉哈爾)敷設の具体化であった。
この松岡の行動に対し、外務省亜細亜局はソ連を刺激し、さらに新四国借款団との間に摩擦を引き起こすという理由から反対していた。
このため松岡は外務省の反対を無視し、極秘裏に奉天側と交渉を始め、これを成功させてしまう。
張作霖にとっても、その影響力を東部内蒙古や北満に及ぼすことが出来るようになる洮斉線の敷設は望むところであったのだ。
この時、松岡はこれまでの借款権獲得を目指す方式から、建設請負契約という方法で中国側に主体性を持たせることで、新四国借款団からの束縛を逃れようとした。
こうして、建設請負方式による「洮昻鉄道建造請負契約」が正式調印された。ただし、斉斉哈爾まで伸ばすためには中東鉄道の了解が必要であったが、それが得られなかったために斉斉哈爾手前の昻々渓までの敷設であった。
松岡の読み通り、この契約に関して新四国借款団からの反対はなかった。
同年九月、安徽派と直隷派による上海を巡る戦争が勃発すると、安徽派と同盟関係にあった張作霖は出兵し、第二次奉直戦争が勃発する。加藤高明内閣が成立し、幣原喜重郎が外相に就任していた日本は、表向き不干渉の態度を取ったが、張作霖が敗北すれば満蒙における権益が脅かされると考えた陸軍が裏工作を行い、馮玉祥を奉天派に寝返らせて呉佩孚を敗走させた。これによって、張作霖は北京政府において実権を握ることとなる。
これは、日本の張作霖を利用した満蒙政策の挫折の始まりとなった。
張作霖は北京政府の実力者となった以上、勃興する中国のナショナリズムへの対応とそれを背景にした国民党の勢力拡張に対抗するため、日本側の要求をそのまま受け入れるわけにはいかなくなっていたのである。
このため、松岡によるその後の鉄道敷設交渉は失敗の連続であった。
こうした状況下、日本はロシアとの第五次日露協約によって、中東鉄道南部線を手に入れることが出来たのである。それは、日本の満蒙政策の最大の成果といえるものであった。
ただ、こうした外交成果を上げつつも、中国でのナショナリズムの高揚とそれに伴う国権回復運動はワシントン体制そのものを動揺させ、日本の対中国政策の舵取りを難しくする要因となっていた。
当時、幣原外相は対英協調・対中不干渉政策を掲げた外交を展開していたが、中国で国民党軍による北伐が進展すると、その外交は矛盾を来すようになる。
一九二七年三月、北伐を進める国民党軍が南京に入城すると、外国領事館や外国人居留民に対する略奪・暴行を行い、南京事件が発生した。
この時、英米の警備艦が報復措置として南京に対する砲撃を行った。日本政府も対英協調の観点から、当時、南京の下関に在泊していた日本の駆逐艦三隻にイギリス海軍との協同砲撃を命じている。
一方、現地の第二十四駆逐隊司令は、この報復措置が城内日本人居留民の虐殺を誘発するとして反対した。日本領事館は下関から離れた位置にあり、英米の警備艦に比べて自国の居留民収容が難しかったのがその理由であった。
しかし、現地の英米からの協力要請、海軍からも「帝国海軍の武を瀆すこと」を戒める命令があったことから、駆逐艦三隻は英米艦に続いて砲門を開いた。
この結果、比較的警備艦から近い位置に居留民が集中していた英米人たちは南京からの脱出に成功したが、日本人居留民は駆逐隊司令の恐れた通り、国民党軍のさらなる略奪・暴行、そして虐殺に晒されることになった。
砲撃開始の時点で南京の日本領事館には国民党軍側の責任者が陳謝のために訪れていたため、一般の国民党軍兵士たちはこれを日本側の裏切りであるとして激高、凶行に及んだのであった。
そして、幣原外相によるその後の対応は、他の地域の居留民を保護しなければならないという理由から国民党政府に妥協的であり、対英協調外交と対中不干渉外交という二重外交の矛盾を露呈することとなった(この時、中国側に対して最も強硬であったのはイギリス)。
こうして、日本国内には「幣原外交」と呼ばれる対英協調・対中不干渉政策を「軟弱外交」として批判する政治勢力が勢いづく結果となった。
この幣原「軟弱」外交を批判していたのは、軍部、右翼、そして立憲政友会である。金融恐慌の中で憲政会内閣の若槻礼次郎内閣が総辞職すると、一九二七年四月二〇日、政友会内閣である田中義一内閣が発足した。
内閣成立後間もない五月、産業立国策実現のための恒久的国策としての対中国政策を樹立させる手段として、原敬内閣に続く二度目の「東方会議」が開催された。会議は田中首相兼摂外相の下で外務政務次官に就任した森恪によって提議されたものであった。
会議開催中も北京政府の張作霖は国民党軍との戦闘で敗走を続けている状況であり、ついには第一次世界大戦時、日本が満蒙権益の延長の代償として中国に返還した山東省も戦火が及ぶことになる。だが、この時は北伐軍側が敗北し、責任を取って蔣介石が一時、下野したことで、北伐は収まっていた。
こうした状況下、日本としては満蒙権益をいかに維持していくかが課題となっていた。
田中は反共を掲げる国民党の蔣介石を高く評価しており、蔣介石に関内での覇権を認める一方で、張作霖には東三省の統治に専念させることで両軍の衝突を避け、日本の満蒙権益を擁護する構想を抱いていた。
この結果、七月七日、東方会議において「対支政策綱領」が訓示された。これは満蒙の中国よりの分離政策を明らかにしたものであった。
しかし、日本の在満出先機関は、張作霖の対日政策に根強い不信を持っており、現地と本国政府との間には政策認識に対する温度差が生じていたのである。
一九二八年四月、国民革命軍総司令に復職した蔣介石が第二次北伐を開始すると、ついに山東省は陥落した。
その後、国民党軍は北京へ向けて進撃を続け、張作霖の敗北は決定的な状況となる。
五月十六日、日本政府は「満洲地方ノ治安維持ニ関スル措置案」を討議し「支那南北両軍ニ交付スヘキ覚書」を閣議決定、十八日に張作霖、蔣介石に通達した。内容は、南北いずれの部隊を問わず、武装軍隊の満洲進入を阻止するというものであった。
田中らは厳正中立主義に基づく両軍の武装解除を名目として張作霖と奉天軍を満洲に帰還させ、張作霖に「保境安民」政策を実行させることで日本の満蒙特殊権益を確保しようとしていたのである。
この覚書は、中国側に通達される前日の十七日、英米仏伊露の各国大使に極秘裏に伝達された。各国は、これによって日本の大規模な干渉が始まると予感した。
アメリカのケロッグ国務長官はこれに対して明確な批評をすることは避けたが、その態度は日本側の行動を容認するものではなかった。
一方の日本の同盟国であるイギリスは、世論では賛否があったものの、政府としては日本政府の方針を歓迎していた。
南京事件の後、居留民保護のためには五万の兵力が必要であると算出されており、本国としてはそれだけの兵力を中国大陸に派遣することが出来なかったため、それを日本側が出してくれるのならば渡りに船であると考えたのである。
ロシア帝国としても、自国の北満での権益を守る必要から日本軍の出兵には賛成であった。
しかし、この覚書は陸軍、特に参謀本部と現地の関東軍によって拡大解釈されており、殊に関東軍司令村岡長太郎は錦州への出動準備に着手した。これは、在留邦人保護の目的を越え、満蒙問題の武力解決を目指した行動であった。
こうした現地の動きを受け、白川義則陸相は田中首相に対して兵力の増派を求めたが、田中ら他の閣僚は応じなかった。特に外務省は、関東軍の錦州出動は対外関係の面から悪影響を与えるとして反対している。
村岡関東軍司令は、今行動を起こさなければ奉天軍や国民党軍が満洲に侵入するのを阻止出来ないとして、参謀本部に再三、出動命令を求めた。彼は二十一日、関東軍主力を奉天に集結させている。
村岡は錦州出撃の奉勅命令が下るのを待ったが、その命令はついにもたらされることはなかった。
蔣介石も張作霖も個人的不満はあったものの日本側の勧告を受け入れようとしており、田中首相はそうした中国側の事情をよく把握していたからこそ、関東軍の出動に否定的だったのである。
六月、ついに奉天軍の敗北が決定的となると、張作霖は全軍に東三省への撤退を指示した。そして、その情報を入手した関東軍は、「居留民保護」を名目としてついに行動を開始した。
関東軍の独断による錦州出撃と南満占領を目的とした軍事行動は、後に「満洲事変」として歴史に名を残すことになる。
彼らは奉天軍の武装解除を行うと共に、北京を脱出した張作霖を捕らえて下野を強要した。関東軍の武装解除に抵抗した奉天軍との間に軍事衝突が発生し、戦火は錦州以外の南満洲に及びかねない事態となる。
日本政府は、この関東軍の暴走に対して、臨時の閣議を開いて対応した。閣内では、白川陸相や小川平吉鉄道相が関東軍の行動に賛成の立場を取っており、結論は出なかった。
また、元老の西園寺公望は田中首相に対して、日本の国際的威信を守るためにも責任者を軍法会議にかけて厳罰に処すよう迫った。
そのため、田中は単独で昭和天皇への内奏を行った。その際、国軍の軍紀を厳粛にするように、との昭和天皇からの強い言葉があったという。
この単独内奏は閣内や軍部からも不満の声が上がったが、田中としては自らの対中政策を逸脱した関東軍を抑えるために、昭和天皇の存在を利用せざるを得なかった。
その後の閣議で、事変の不拡大方針と関東軍の満鉄附属地への撤退が決定されたものの、関東軍は「居留民保護の必要性」を理由にこれに応じない姿勢を明らかにした。さらに関東軍は、吉林方面へ進撃する態勢を見せつつあった。
田中を始めとする不拡大派の閣僚たちは、陸相や参謀総長が関東軍を統制出来ないのであれば、内閣総辞職もあり得ると陸軍側に圧力をかけた。
さらに不拡大派の岡田啓介海相は海軍軍令部長の鈴木貫太郎と諮り、訓練と称して艦隊と陸戦隊を佐世保に集結させた。万が一の場合、「反乱軍」となった関東軍へ実力行使をするためである。
こうした中で、昭和天皇による田中首相叱責事件が発生した。これは、田中義一が以前の内奏の際、関東軍の撤退と責任者の処罰を約束しておきながら、それが実現していないことが原因であった。
この叱責事件は、昭和天皇が自身の在位中に政治に深く関与した最初の事例となった。
天皇は、内閣が関東軍を統制出来ないのであれば自らの命令を携えた勅使を関東軍に派遣すると宣言したのである。
これに猛反対したのが、牧野伸顕内大臣や元老の西園寺公望などの宮中勢力であった。もし勅使を派遣して、それでも関東軍の統制が回復出来ないようであれば、天皇の権威に重大な傷が付くと考えたからである。
しかし、勅使を派遣すると否とに関わらず、天皇の発言は陸軍を大きく揺さぶった。
陸軍内部では、皇族軍人である東久邇宮稔彦王が勅使として派遣されるのではないかという噂が立った。海軍は皇族の勅使派遣に備えて御召艦〈比叡〉を用意するなど、昭和天皇の発言は各所に重大な影響を及ぼしたのである。
村岡関東軍司令や参謀も、勅使が派遣される事態となれば自らの行動の正統性を保てなくなると悟り、参謀本部からの撤退命令に従わざるを得なくなった。
満洲事変における関東軍の軍事行動は一ヶ月足らずにて、終わりを告げたのである。
一九二八年八月、田中義一は関東軍の満鉄附属地までの撤退を見届けると、事変の責任を取る形で内閣を総辞職させた。そして、事変の対応に当たっての過度の精神的重圧からか、田中は辞職から一年と経たず、持病の狭心症を悪化させて死去した。
さて、田中内閣の総辞職後、大命が降下したのは立憲民政党総裁の浜口雄幸であった。
浜口内閣最初の課題は、田中内閣から半ば責任放棄の形で丸投げされた満洲事変の事後処理であった。
浜口の対中政策は田中義一のような満蒙権益重視ではなく、満蒙権益を擁護するために内政干渉することを批判して、中国とのより広範な経済関係を築くことであった。そのため、統一中国の出現はむしろ好ましいことであると考えていた。
すでに蔣介石は北京に入城し、長城以南の中国統一を成し遂げていた。
この時点ですでに満洲事変は発生していたのであるが、蔣介石は事変に対し、表向きは関東軍の行動に抗議する声明を発表したものの、実態としては静観の構えを見せた。彼にとってみれば、奉天軍と関東軍が軍事衝突している以上、そこに国民党軍が介入する益がないと考えていたのである。
奉天軍は関東軍によって各地で武装解除されるか、敗走しており、関東軍自体も日本政府の統制が回復されれば満鉄附属地へ撤退せざるを得ない。まさしく漁夫の利の故事成語通り、蔣介石は国民党の勢力を東三省に伸ばすことの出来る絶好の機会を得たのである。
そして実際、関東軍が撤退すると、軍事力を失った張作霖は国民党政府への合流を宣言せざるを得ない事態となる。易幟と呼ばれるこの出来事により、東三省を含めた蔣介石による中国統一が実現したのである。
十月には、蔣介石を主席とする国民政府が正式に発足した。
浜口内閣は関東軍の撤退直後から中国側との停戦交渉を行い、これを実現させている。ただし、満蒙権益に関する問題は日中間の懸案事項であったので、両国政府の間で一時棚上げという措置が取られている。
また浜口は、宇垣一成陸相と共に事変の首謀者たちの処罰と関東軍の規模縮小に着手した。
大元帥たる天皇の命令なく独断で軍を動かした関東軍首脳部は、本来であれば軍法会議の上極刑に処せられるのが筋であった。だが、これは陸軍内部での猛反発を生んだ。もともと、宇垣は大正時代に軍縮を行ったことで陸軍将校たちからの支持を失っていた人間であった。そのため、事変の関係者には行政処分が下されるだけで済み、報告を受けた昭和天皇は「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」と激怒したという。
一方の関東軍の規模縮小については、駐箚一個師団を内地に帰還させるという措置が取られた。これにより、関東軍は独立守備隊六個大隊の兵力を持つのみとなった。
ちなみに、こうした中国大陸からの帰還兵が、日本に餃子の食文化を持ち込んだという。
結局、事変の処理は陸軍側の反発もあり中途半端なものに終わってしまったが、中国側は関東軍の規模縮小に歓迎の意を示した。
さらに浜口内閣は国民政府の不平等条約撤廃方針に応じ、イギリス、アメリカと足並みを揃える形で一九二八年十二月、中国の関税自主権を認める日華関税条約を締結した。同時に、国民政府を正式に承認している。治外法権の撤廃についても、段階的に行う方針を中国側に示した。
また、中東鉄道の権益回収を巡って発生した中国と帝政ロシアの紛争の仲介を行うなど、浜口内閣の対中政策は国民政府からある程度、好意的な目で見られていた。
以後の日本の対中外交は、浜口内閣の示した中国への経済進出という形で進んでいくこととなる。
5 国際協調の終焉と日本
一九二九年に発生した世界恐慌は、日英同盟とアメリカとの対立をいよいよ決定的なものとした。
日英同盟は、オーストラリアやカナダなどの英連邦諸国と共に日英ブロック経済圏を構成し、保護貿易主義へと走ったからである。
特に陸軍を中心に総力戦体制の構築を目指していた日本は、アメリカに依存しない自給自足圏として日英ブロック経済圏の重視していた。日本はそれまでアメリカから輸入していた屑鉄などに代わり、オーストラリアの鉄鉱石を自国産業にとっての重要資源と位置づけ始めたのである。
また、日本は第一次世界大戦への本格参戦を機に重工業国化を進めており、大戦中、アメリカから学んだ自動車技術などを一九二〇年代を通して発達させ、二〇年代末から三〇年代初めにかけてモータリゼーションが始まっていた。そうした意味でも、工業国として自立化したい日本は、アメリカからの経済依存状態を脱しようとしていたのである
そうした中で始まった一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議は、英米の対立をいよいよ深めることとなった。
予備会議である二七年のジュネーヴ会議の時点から英米の対立があり、それを日本が仲裁するという形となっていたが、ロンドン会議ではその仲裁すら意味をなさなくなっていた。
この会議は、ワシントン会議で保有量が制限されていなかった補助艦艇について、保有制限を設けることを目的とした会議であったが、広大な植民地を持つイギリスにとって巡洋艦を筆頭とする補助艦艇の大幅な制限は到底受け入れられるものではなかった。
また、会議ではアメリカが日本の補助艦艇保有比率を自国の五割に抑えようとして日本側の反発を買い、結果としてアメリカが会議を途中離脱することとなった。アメリカにとってみれば、ワシントン会議で定められた日本の主力艦六割の保有比率であっても、自国にとって脅威であると考えていたのである。
会議からアメリカが離脱したことにより、ロンドン海軍軍縮会議は実質的に意味のないものとなったが、残された日英仏伊ともに成果なく会議を終了させるのは政治的な面子から不可能であった。
そのため、この四ヶ国で補助艦艇の保有制限に関するロンドン海軍軍縮条約が締結された。
しかし、この条約には非条約加盟国が加盟国の条約制限量を上回る建艦を行った場合、自動的に保有制限を撤廃するというエスカレーター条項が組み込まれており、当初からロンドン海軍軍縮条約は空文化しているといえた。
ロンドン会議を通してアメリカとの対立が深刻さを増したと判断したイギリス政府は、直後にカナダの英連邦軍を増派している。
こうした中、日本海軍の一部では、条約締結反対を叫ぶ「艦隊派」が政治的な混乱を引き起こしていた。彼らは、補助艦艇の保有について日本がイギリスの七割の比率を有しているものの、アメリカには何ら保有制限が課されていない以上、日本もこの条約に調印すべきではないと主張したのだ。
この筆頭は軍令部次長の末次正信であり、彼は上司である海軍軍令部長の加藤寛治を取り込んで政治的運動を引き起こそうとした。
しかし、ワシントン会議と同様に対英協調を重視する加藤寛治は、内心では条約に反対しつつも、公には浜口雄幸内閣に協力する姿勢を取っており、末次らの思惑は外れることになる。
こうした海軍の反対を利用したのは、立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎であった。彼らは軍部の反対にも関わらず政府が条約を調印しようとするのは、統帥権の干犯であると浜口内閣を攻撃したのである。
もちろん、海軍大臣である財部彪も、海軍軍令部長である加藤寛治も、内閣に協力的である以上、この議論は成り立たない。また、昭和天皇がロンドン条約に賛成であった事実から考えれば、まったく無意味な主張でもあった。
しかも、政友会の主張は政党政治の根幹を危うくする理論であった。
条約そのものは批准されたものの、「統帥権干犯」と非難された浜口はその後、東京駅で右翼の青年に狙撃され、その傷が原因となって翌年、命を落とした。
その後、内閣は若槻礼次郎が引き継いだものの、十月事件(橋本欣五郎ら陸軍中堅将校によるクーデター未遂事件)などへの対応として陸軍のコントロールを強化するために政友会との協力を唱えた安達謙蔵内相と、それに反対する若槻首相との意見の対立、閣内不一致によって総辞職となる。
後継首相には、立憲政友会総裁の犬養毅が選ばれた。
犬養内閣で蔵相となったのは金融恐慌でもその辣腕を振るった高橋是清であった。彼の下で金輸出再禁止などの不況対策を行い、日英ブロック経済圏などの効果も構築も相まって、日本は世界恐慌の影響から徐々に脱し始めていた(一九三六年までに完全に脱出した)。
しかし、国内では政党政治を否定し、テロリズムによる性急な国家改造を目論む勢力が出現してきており、犬養毅はその犠牲となってしまう。一九三二年五月十五日、海軍将校藤井斉らが首相官邸を襲撃し、犬養を暗殺してしまったのである。
五・一五事件と呼ばれるこの事件により、一時的に政党政治は途絶することとなった。
後継首相の奉薦は困難を極めた。西園寺公望は首相経験者などを集めて意見を聴取したが、特に陸軍は政党内閣に反対であった。
満洲事変によってその政治的権威に傷がついていた陸軍は、これを機に軍人内閣か、それに近い内閣を成立させようとしたのである。陸軍としては、国粋主義者である平沼騏一郎を後継首相に考えていたという。
結局、軍部を納得させる必要もあり、後継首相とされたのは海軍軍人の斎藤実であった。
さて、一九三〇年代になってくると、工業化の進展によって日本の旧態依然とした農村制度が徐々に崩壊していた。工業化によって農村から都市部に人口が流れ込み、農村部の労働人口が減少していたからだ。
斎藤内閣はこうした農村部の状況から自作農育成方針を打ち出し、同時に時局匡救土木事業を起こして全国各地で公共事業を起こし、失業者に現金収入を得させようとする政策を行った。
この事業によって全国の交通網が整備され、折からのモータリゼーションに対応する国土が出現することとなった。
一方、同時期には軍部の統帥を巡る問題も引き起こされている。
二八年の満洲事変や三一年の三月事件、十月事件などで内部の統制が乱れていた陸軍は、参謀総長に皇族軍人である閑院宮載仁親王を据えることで、統制を取り戻そうとしていた。これに対抗した海軍が、伏見宮博恭王を海軍軍令部長に就任させている。また、伏見宮の軍令部長就任には、艦隊派が条約派との対立を自派有利に解決しようとするという思惑も絡んでいた。
こうした結果、それまで海軍省優位体制が築かれていた海軍内部に動揺が生じることとなる。
一九三三年、海軍軍令部は海軍省と間で事務分掌を定めた「省部事務互渉規程」を、海軍軍令部の有利になるよう改定を目指した。この動きの背後には、艦隊派である高橋三吉軍令部次長が伏見宮の威光を利用して海軍軍令部の権限拡大を図ろうとする試みが存在していた。
この時、海軍大臣には定年退職を余儀なくされた岡田啓介に代わり、ロンドン海軍軍縮会議当時も海軍次官を務めていた山梨勝之進が就任していた。
海軍軍令部側の意図した規程の改正交渉は、山梨海相、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長、井上成美軍務局第一課長などの反対により遅々として進まず、ついには伏見宮自らが出向く事態となった。
しかし、省部事務互渉規程の改正を迫る伏見宮に対し、山梨は辞職を仄めかすことで対抗した。
やむを得ず伏見宮は昭和天皇に対する帷幄上奏を行い、事態の打開を図ろうとした。しかし、昭和天皇は省部事務互渉規程の改正に憂慮を示し、皇族でありながら伏見宮の行動はあまりに軽率であると注意されたことにより、海軍軍令部側の思惑は外れることになる。
また、昭和天皇はこうした事態から皇族参謀総長、軍令部長の弊害を悟り、二人に対して勇退を求めていくことになる。
結局、省部事務互渉規程の改定は、海軍軍令部の意図したものとは違い、完全に骨抜きな形で実現することとなった。
海軍軍令部の権限は拡大されず、わずかに「海軍軍令部」が「軍令部」に、「軍令部長」が「軍令部総長」に名称を変えた程度であった。
さて、公共事業を起こすなどして経済復興を進めていた斎藤内閣であるが、一九三四年七月、帝人事件の余波を受けて総辞職する事態となった。しかし、この疑獄事件は枢密院副議長の平沼騏一郎が政権を取れなかったことを恨んでの陰謀であるとの説が強い。何故ならば、逮捕・起訴された全員が無罪となるという、奇妙な結末を迎えているからである。
後継首相は岡田啓介であった。彼は組閣直後、ワシントン海軍軍縮条約の更新問題について対応することとなった。
この条約は一九三六年末で期限が切れるが、廃棄のためには二年前に通告が必要であった。ワシントン条約は、一九三四年の段階でアメリカがすでに廃棄を通告しており、日本国内でもそれに応じる形で廃棄を通告すべきだとの意見が高まっていた。
岡田内閣はイギリス政府と協力し、当初はアメリカ政府に対して条約の更新を説得していたが、アメリカ政府はこれに応じなかった。
このため、日英両政府はアメリカに倣い、三四年の十二月にワシントン条約の廃棄を通告することになる。
アメリカでは大規模建艦計画であるヴィンソン計画の予算が議会で承認され、これによってロンドン海軍軍縮条約のエスカレーター条項が発動し、ワシントン条約の期限の切れる一九三六年十二月末日以降、世界は無条約時代に突入することが確定した。
こうした中、一九三六年一月、無条約時代に備えて参謀本部と軍令部は帝国国防方針の第三次改定作業を開始する。
その直後の二月二十六日、天皇親政による国家改造「昭和維新」を唱える皇道派の青年将校たちによるクーデター未遂事件、「二・二六事件」が発生した。
事件には皇道派の他、高度魔導国家の建設を目論む陰陽師勢力も加わっていた。彼らは神国思想(天照大神の末裔である天皇が国家を統治し、その神勅によって国家を運営することで神の永遠の加護が受けられるとする思想)を元にした独特の魔導国家構想を抱いており、魔術面で政治的実権握ることを目指していた。
陸軍皇道派は早朝、重臣たちを次々と襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長らに重傷を負わせた。首相の岡田啓介のみは、義弟が身代わりになったことで難を逃れている。
一方の神国派陰陽師も内務省陰陽庁の幹部などを襲撃したが、襲撃対象の家族には手を出さなかった陸軍側と違い、こちらはその家族を含めて皆殺しにするという凄惨極まる行為に走った。魔術師である彼らにとってみれば、残された家族による呪詛などを警戒して一家皆殺しという凶行に及んだのであるが、流石にこの行為は同志である陸軍皇道派にも異様なものに映ったそうである。
この事件に際して、一番対応が早かったのは海軍であった。
殺害された者たちの多くは海軍関係者であり、海軍省の建物は直ちに臨戦態勢に入った。
また、横須賀鎮守府長官の米内光政と参謀長の井上成美が鎮守府の権限において、軽巡〈木曾〉に陸戦隊一個大隊を満載し、これを芝に突入させた。さらに軍令部からの正式な命令もあり、追加で三個大隊、計四個大隊二〇〇〇名が蹶起軍と対峙することになったのである。
さらに井上は、天皇を〈比叡〉にお招きして反乱軍の鎮圧にあたっていただく案を米内に提示した。
しかし一方、伏見宮軍令部総長は蹶起将校に同情的であり、昭和天皇の説得のために参内したが、天皇が取り合うことはなかった。
二十七日早暁には、天皇の意向を受けてついに戒厳令が敷かれている。
しかし、陸軍上層部は蹶起部隊への同情や皇軍相撃を恐れたことから鎮圧への動きは遅々として進まなかった。この段階に至っても、陸軍側公文書では蹶起部隊を反乱軍と定義していなかったのである。
一方、天皇からの信頼の厚い山梨勝之進海相は反乱の早期鎮圧を望む天皇の意向に応え、反乱部隊への降伏勧告を行い、応じない場合には陸戦隊による鎮圧作戦も準備している。
しかし、蹶起部隊は海軍を通じての降伏勧告に対して、天皇の持つ統帥権を盾に応じようとしなかった。
反乱部隊による重臣殺害や陸軍側の消極的な態度に怒りを募らせていた天皇は、この「統帥権をかざしての降伏拒否」を聞くとついにその怒りを爆発させた。
「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ之ガ鎮定ニ当タラン」と宣言すると、すでに部隊の展開を完了していた海軍、そして近衛師団に対して天皇自らが反乱の武力鎮圧を命じ、ついに皇軍相撃という事態へと発展した。
この天皇の命令の正統性について、天皇・皇室について論じることが自由となった大日本帝国憲法改定後、様々な意見が憲法学者を中心に出されている。しかし、明治憲法下で天皇の統帥権が認められていたことを考慮すれば、この時の天皇の鎮圧命令には正統性があったというのが学界の定説となっている。
二十七日の午後には戦艦〈長門〉以下第一艦隊が東京湾に到着しており、蹶起部隊の劣勢は明らかであった。
結局、二十九日までにはすべての蹶起部隊が鎮圧されるか、投降するか、自決するかし、事件は終わりを告げた。
神国派陰陽師も、彼らが従うべきとした天皇自ら鎮圧に乗り出したことにより士気を喪失、関係者は自決するか逮捕されている。
事件の責任を取って岡田啓介内閣は総辞職し、代わって大命が降下したのは事件の解決に尽力した山梨勝之進海相であった。
また、二・二六事件の影響として、事件の解決にほとんど寄与することがなく、むしろ身内から明確な形で「賊軍」を出してしまった陸軍の政治的権力の大幅な低下が挙げられる。
閑院宮、伏見宮は事件後、昭和天皇による説得によってそれぞれ辞職し、以後、軍に影響力を及ぼさないことを約束させられた。
陸軍の政治的凋落を決定づけたのは、帝国国防方針の第三次改定であった。事件の結果、陸軍は海軍に大幅に譲歩することを余儀なくされ、昭和十一年帝国国防方針には明確に軍の「海主陸従」が記された。仮想敵国もアメリカが第一とされ、当然ながらそれに伴う軍備の優先権も海軍に与えられた。
これにより、「軍備充実ノ大綱」として平時二十七個師団、戦時四十個師団に増加することを決定した陸軍の軍備拡張構想も日の目を見ることはなかった。昭和十二年度予算で増設が認められたのは、大正軍縮によって廃止された仙台の第十三師団、名古屋の第十五師団、姫路の第十七師団、久留米の第十八師団の計四個師団だけであった。
これが認められたのも、ドイツの再軍備宣言(一九三五年)による二度目の欧州大戦に備えるという意図からであり、それがなければ予算が承認されることはなかったといわれている。
一方の海軍は、昭和十二年度予算において、アメリカの大規模な海軍拡張に対抗するため、第三次海軍軍備補充計画を実行した。
これは、後に大和型戦艦と呼ばれることになる五十口径四十六センチ砲九門を備えた新型戦艦二隻、アメリカのヨークタウン級航空母艦に対抗するため〈加賀〉を超える新型艦載機九十八機を搭載することを想定した新型空母四隻(後に翔鶴型として完成)などを含んだ海軍拡張計画であった。
さて、山梨内閣は二・二六事件の事後処理に関連して、軍部大臣武官制廃止を進めることになった。
軍部大臣武官制廃止論はすでに大正時代に存在しており、時の加藤友三郎海相はこれに賛成であった。山梨首相や堀悌吉海軍次官は、その加藤友三郎の系譜に連なる軍人たちである。
伏見宮に代わって軍令部総長に就任した永野修身も、国家のためには軍の粛正が必要であると考えていた人物であり、海軍には二・二六事件の影響もあって皇道派に近い艦隊派が排除されていたことから、武官制廃止論に強硬に反対する勢力は存在していなかった。
一方の陸軍には根強い反対論があったが、天皇の信頼の厚い畑俊六が陸相であったため、彼の根気強い内部への説得と内閣に協力的な姿勢により、軍部大臣武官制廃止は、山梨内閣の下で実現することになる。
こうして二・二六事件の事後処理を終えた山梨勝之進内閣は、再び「憲政の常道」と呼ばれる政党政治に戻すため、内閣総辞職を行った。
ただし、斎藤内閣以来の挙国一致内閣によって、政友会も民政党それぞれの政治路線が行き詰っており、彼らは政民提携による内閣の出現を望んでいた。政友会の小山完吾は、西園寺公望に後継首相として陸軍大将の宇垣一成を推薦する。宇垣はまた、浜口内閣などで陸相を務め、民政党にも近い人物であった。
宇垣は反ファシズム、穏健派であったため世論の評判も良く、牧野内大臣も宇垣に大命が降下するのには賛成であった。
一九三七年四月、山梨内閣に代わって宇垣内閣が成立する。陸軍中堅層は同じ陸軍軍人でありながら軍縮に積極的な宇垣を敵視しており、これ以上の陸軍の政治的影響力低下を阻むべく、宇垣内閣の出現を妨害しようとしたが、山梨内閣による軍部大臣武官制廃止とそれに伴う軍部大臣文官任用制度の確立によってこの策謀は実現しなかった。
こうして、日本の国内政治は安定を取り戻しつつあった。
しかし、国際社会に目を向ければ依然として国家間の対立は深まっており、日本もまたそうした国際情勢に翻弄されていくことになる。
6 第二次世界大戦の勃発と日本の欧州派兵
ワシントン海軍軍縮条約が廃棄されたことにより、太平洋防備制限条項もまた無意味なものとなった。
これにより、アメリカは一九三七年以降、それまで軍事施設の建設が禁止されていたフィリピンのマニラ・キャビテ港に軍港を築いていくことになる。
日英はアメリカの動きに懸念を示していたが、アメリカは変わらずにフィリピンの軍事基地化を続行した。
太平洋防備制限条項の対象外であったシンガポールは、英米関係の悪化によって以前から軍港化の工事が進められていたが、これによってその工事は急速に進んでいくこととなる。
日本もまた、委任統治領となっていた南洋群島の基地化を進めていかざるを得ない状況となった。
本来、南洋群島は国際連盟の委任統治条項による非軍事化規定があったため、ワシントン条約が失効しても軍事基地化が許されるわけではなかった。
だが、この時期になってくると、国際連盟はその機能を発揮し得なくなっていたのである。
一九三〇年代前半に開かれたジュネーヴ一般軍縮会議は成果を挙げられないまま停頓し、ドイツの連盟脱退、エチオピア戦争やスペイン内戦に対しても連盟は効果的な措置をとることが出来なかった。
一九三〇年代後半、国際連盟に加盟していた主要大国は日本、イギリス、フランス、帝政ロシアである。内、日本と同盟関係にあるのはイギリス、帝政ロシアであった。なお、アメリカは孤立主義の観点から、ソ連は帝政ロシアが加盟していること、資本主義の同盟であるとの認識から、国際連盟に参加していない。
イギリスやオーストラリアなどの英連邦としても、太平洋におけるアメリカの防波堤として日本を必要としている面があった。このため、日英は太平洋の委任統治領(これは日本だけでなく、イギリス、オーストリア、ニュージーランドの委任統治領も含む)の軍事基地化を正当化する理論として、ヴェルサイユ条約を持ち出した。
旧ドイツ植民地を支配する権利は、連盟規約ではなく、ヴェルサイユ条約に基づくとしたのである。
そしてまた、その南洋群島の帰属問題が日本外交をヨーロッパと連結させる原因となった。
南洋群島はもともとドイツの植民地であり、第一次世界大戦の結果、日本の委任統治領となった場所である。そのため、ヒトラー率いるドイツ第三帝国による現状打破運動に巻き込まれることとなった。
一九三八年、日独間において旧ドイツ植民地問題に関する非公式な交渉が開始された。
南洋群島はドイツにとって死活的に重要な場所ではなかったが、旧ドイツ植民地を取り戻せたとなればヒトラーにとって大きな政治的成果となる。
また、ヒトラーはこの地域が日本の政策決定集団の一つ、日本海軍にとって死活的に重要な土地であることに気付いており、交渉によって日本に揺さぶりをかけることが可能であると考えていたのである。
一方、日本のドイツに対する警戒心は強かった。
満蒙権益問題が国内で大きな問題となったことからも、国民は自らが血を流して手に入れた土地を手放すつもりが毛頭ないことは明白である。イギリスなど欧州諸国のように、ドイツに融和的な姿勢を見せれば、国内に大きな政治的混乱をもたらす可能性があったのである。
また、ヒトラーの著書『我が闘争』には日本人に対する差別的な内容が書かれており、これが日本語訳されたことで日本国民全体の間でドイツに対する不信感が広まっていた。ただし、『我が闘争』の全訳刊行が許可されたのは、国民の反独感情を煽るための政治的決定だったとされている。
南洋群島の帰属を巡る日独交渉は進展せず、一九三九年九月、第二次世界大戦を迎えることになる。
しかし日本は、ただちに対独参戦をしたわけではない。この年の五月から九月にかけて、シベリアにおいてロシア帝国とソ連との間の国境紛争(両国は互いにロシアの正統政府を自認し、相手を国家として認めていないが、国際的には国境紛争と見られていた)、「シベリア事変」が発生しており、北東アジアで軍事的緊張が高まっていたため、当面はそちらの状況を注視する必要があったからである。
シベリア事変は五月から九月の停戦まで断続的に戦闘が発生しており、ロシア内戦以来の露ソ対決であった。
日本はこの事変に対して、日露協約に基づき武器や満鉄による輸送の便宜を図り、六月以降にはロシア政府の要請から陸軍部隊と航空部隊を派遣している。
これにより、シベリア事変は後世、「日本にとってのスペイン内戦」と表現されるようになった。これは、スペイン内戦が新兵器の実験場的性格を持っていたことからきた表現である。つまり、日本にとってシベリア事変が新兵器の実験場となったのである。
戦場に送り込まれた日本の主な兵器は、戦車が九七式中戦車、九五式軽戦車、航空機が九六式陸上攻撃機、十二試艦上戦闘機(後の零戦)などであった。
まず、シベリア事変における日本戦車であるが、その性能はソ連軍のものに劣っており、以後、日本陸軍は戦車性能の向上に力を注ぐことになる。
一方、九六陸攻と十二試艦戦は戦車とは対照的な活躍を見せた。航続距離の長い陸攻、そしてそれを護衛出来る同じく航続距離の長い戦闘機の存在は、シベリアに向かうソ連の鉄道網を次々に寸断することに成功したのである。
「陸戦ではソ連の勝利、航空戦では日露の勝利」というのが、後世におけるシベリア事変の評価である。
その後の停戦交渉でソ連側の主張する国境線(露ソ両国の言い方では境界線)が認められることになったが、日本にとって第二次世界大戦参戦前に実戦経験を積めたことの意義は大きかった。
また、ソ連による極東方面への勢力伸長は、北部でソ連と国境を接する中華民国にも影響を与えた。
中華民国総統の蔣介石は反共主義者であり、長年にわたって中国共産党との内戦、「国共内戦」を行っていた。
すでに中華民国はドイツと軍事・経済面で提携していたが、シベリア事変の最中に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツは反共を掲げる蔣介石の中華民国への支援を打ち切っていた。その代わりとして蔣介石が提携先として選んだのが、日本であった。
日中関係は浜口内閣以降、比較的友好関係が保たれていた。その結果、一九四〇年二月、日華防共協定が締結された。これは、中華民国に対する武器輸出などを取り決めた条約であり、九ヶ国条約に照らせばいささか問題のある条約であった。
実際、アメリカはこの条約を中国への内政不干渉を定めた九ヶ国条約違反であると、日本政府を非難する声明を発表している。
また、この条約交渉と並行して、領有権が不明確になっている南シナ海の島々の帰属についての交渉も行われた。
特に南シナ海に浮かぶ南沙諸島は、二十世紀初頭から日本人が漁業や硫黄採掘をして実効支配していたが、一九三〇年代にはベトナムを植民地とするフランス軍によって一時占領され、さらにそれを日本が占領し返すなど、帰属を巡っての紛争が発生していた。
一方の中華民国も、南シナ海の西沙諸島がフランスに領有される前に領有権を獲得することを狙っていた。そこで、両国は互いに南沙諸島、西沙諸島の領有を認め合うという秘密協定を結んだのである。
四月、イギリス政府への根回しも済ませた日本政府は正式に南沙諸島の領有を宣言する。こうした日本の露骨な南進政策に、南沙諸島と隣接するフィリピンを支配するアメリカは警戒を強めることとなる。
一方、日本はイギリスに南沙諸島の領有を承認してもらう対価として、欧州に航空部隊を派遣した。これは援英義勇軍として組織された部隊であり、露骨な派兵ではあるものの日本政府が正式に第二次欧州大戦に参戦したわけではなかった。
この時期、欧州方面では独仏国境で両軍が睨み合ったまま、一切の戦闘行為がない「奇妙な戦争」と呼ばれる状況が続いており、陸軍部隊の派遣は緊急の必要があるとは考えられておらず、むしろドイツの通商破壊を阻止するための艦艇や哨戒機の派遣が急務とされていた。
だからこそ、日本はシベリア事変で威力を発揮した航続力の長い九六陸攻や九七式飛行艇を、次々とイギリスに派遣したのである。同時に海軍は、陸軍の動員命令に当たる出師準備に取り掛かった。
しかし、五月、ドイツによる西方電撃戦でフランスがあえなく降伏すると事態は一変する。
日本国内では宇垣一成内閣の後、政界進出を果たした近衛文麿率いる新党が選挙で勝利して内閣を組閣するが、混迷を深める世界情勢に対応するにはその能力が不足していた。近衛は結局、責任を投げ出すような形で内閣総辞職を行った。
こうした混乱を収拾するため、一九四〇年五月には再び岡田啓介に大命が降下して、第二次岡田内閣が発足する。政党政治は、またしても中断した。
ドイツによる西方電撃戦は、こうした中で発生したのである。
六月、岡田内閣は欧州における英仏軍の大敗を見て、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を閣議決定する。
これは、日英同盟に基づく第二次欧州大戦への正式参戦を決定したものであった。
同時期、日本国民の対独感情を悪化させる出来事が発生する。房総半島沖で日本の客船〈浅間丸〉がドイツ仮装巡洋艦に捕捉、臨検を受けた結果イギリス人多数が戦時禁制人としてドイツ側に捕虜として連行されたのである。
いわゆる「浅間丸事件」は、戦時国際法の観点からは合法であったが、それが日本の目と鼻の先で起こったことが問題であった。
日本国内では友邦であるイギリス人を無抵抗で引き渡した船長に対する非難が殺到した他、日露戦争時のウラジオストック艦隊の再来であるとしてドイツ脅威論が急速に台頭した。ウラジオストック艦隊は日露戦争時に通商破壊で活躍し、東京湾沖にまで現れるなどの行動をとった艦隊である。
ある意味でこの事件は、国民が岡田内閣の対独参戦を支持する切っ掛けとなったといえ、戦時国際法を遵守したドイツにとって実に皮肉な結果をもたらしてしまったのであった。
八月、日本は正式に対独宣戦布告をし、第二次世界大戦への本格参戦を果たすことになる。
日本は第一次世界大戦と同様に、欧州へ陸海軍を派遣することとなった。
ドイツのイギリス上陸に備えるため、朝鮮の第二〇師団、広島の第五師団、熊本の第六師団がイギリス本土に派遣され、さらに九月、イタリア軍がアフリカに上陸すると姫路の第十師団、善通寺の第十一師団がアフリカに派遣された。
また、八月段階で欧州に派遣された艦隊は次の通りである。
第一次遣欧艦隊(一九四〇年八月)
司令長官:小沢治三郎中将
司令部直率【重巡】〈鳥海〉
第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉
第六戦隊【重巡】〈青葉〉〈衣笠〉〈古鷹〉〈加古〉
第一航空戦隊【空母】〈赤城〉〈加賀〉
附属【駆逐艦】〈野風〉〈波風〉〈沼風〉
第二水雷戦隊【軽巡】〈神通〉
第八駆逐隊【駆逐艦】〈朝潮〉〈満潮〉〈大潮〉〈荒潮〉
第九駆逐隊【駆逐艦】〈朝雲〉〈山雲〉〈夏雲〉〈峯雲〉
第十八駆逐隊【駆逐艦】〈霞〉〈霰〉〈陽炎〉〈不知火〉
第三十戦隊【軽巡】〈名取〉
第十二駆逐隊【駆逐艦】〈叢雲〉〈東雲〉〈白雲〉
第二十駆逐隊【駆逐艦】〈朝霧〉〈夕霧〉〈天霧〉〈狭霧〉
第二十一駆逐隊【駆逐艦】〈初春〉〈若葉〉〈子日〉〈初霜〉
第二十七駆逐隊【駆逐艦】〈有明〉〈夕暮〉〈白露〉〈時雨〉
付属【水上機母艦】〈千歳〉〈千代田〉〈瑞穂〉
(註:第三十戦隊は船団護衛用に新設された部隊)
折しも欧州戦線ではバトル・オブ・ブリテンが開始されており、派遣された海軍第一連合航空隊(木更津海軍航空隊と鹿屋海軍航空隊から成る)はイギリスと共に防空戦闘に従事している。
この時得られた戦訓は、日本本土の防空体制の形成や艦隊防空体制の形成に役立てられている。
また、遣欧艦隊はイギリス本土に到着する前、アレクサンドリアにて第二次世界大戦最初の日英海軍共同作戦に従事した。
すなわち、一九四〇年十一月十一日のタラント空襲作戦である。
〈赤城〉、〈加賀〉、〈イラストリアス〉の三空母によるイタリア・タラント軍港への空襲作戦は、戦艦〈コンテ・ディ・カブール〉、〈カイオ・ドゥイリオ〉を撃沈し、戦艦〈リットリオ〉を大破着底させる大戦果を挙げた。
こうして、日本海軍は地中海において華々しい初陣を飾ったのである。
以後も、遣欧艦隊は増派され、独伊海軍との間に戦闘を繰り広げていくこととなる。