第一部 第二章 第四節 異界の宮殿
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〈あわい〉と呼ばれる空間がある。
「間」の文字の通り、此岸と彼岸の間、現世と常世の間、現実と夢の間、過去でもなければ未来でもなく、まして今でもない、曖昧な空間。
現世や常世と繋がりながらも、場所の概念も時間の概念も現世とは異にする異空間。
古事記や日本書紀に「常世の国」と記され、中国では「蓬莱」などの仙境として伝えられ、あるいは欧州では「妖精郷」と呼ばれる、世界各地の神話・伝承に残される異界。
それが〈あわい〉と呼ばれる場所だった。
こぽこぽと音を立てて、芳醇な香りを放つ赤い液体がグラスに注がれていく。
「ふむ、少し酸味が強い気もするが、まあ、よかろう」
ワインを口に含んだ久遠が、満足げにそう評した。
彼女の目の前には、無数の料理が並べられていた。
玉ねぎソースのかけられたローストビーフ。鮮やかな赤身に脂が光っている。香ばしく焦げ目のついた羊のスペアリブ。器に添えられた温野菜が鮮やかさを演出している。きのこを添えた鮭の蒸し焼き。溶け出すバターがほどよい塩味を付け加える。刻みねぎがまぶされたあさりの酒蒸し。にんにくと生姜の香りが食欲をそそる。白身魚の刺身カルパッチョ風。レモンの香りが爽やかだ。
他にも和洋中様々な料理が卓上に並んでいる。
「しかしまあ、一時期と比べて随分とお前の腕も上がったものよな」上機嫌なまま、久遠は続ける。「今ならば、我の専属料理人も務められるぞ」
彼女の傍らで、まるで給仕のようにワインボトルを持っている篁太郎は苦笑した。
「いや、本当にお前の料理は酷かったぞ。食材への冒涜もここに極まれり、といった程にな」
「俺は、栄養が取れれば味なんてどうでもいいので」
「と、いうような考え方がいかんのだろうなぁ」久遠はわざとらしく溜息をついた。「まあ、億歩譲って戦時中だったから仕方ないとはいえ、一時期のお前は本当に生の楽しみを知らん人間だったからな」
優雅に箸を使いながら、久遠はローストビーフを口に運んだ。ソースのコクと肉の脂が口の中で絶妙に溶け合う。
「食事とは楽しむものだ。味はもとより、見た目も香りもまた然り」
かつて殷王朝紂王の后として、あるいは周王朝幽王の后として、そして日本では玉藻の前として、その美貌と暴虐性を歴史に残してきた大妖は、己を式神として扱う男の料理に舌鼓を打った。
「まあ、多様な食材が自由に手に入るのは、平和な証拠です。料理をしていると、それが実感出来る。俺にとっては、そっちの方が重要ですよ」
「……ふん、やはりお前の本質の根本は変わらんか」
それを嘲るでも、憐れむでもなく、ただ少し納得していないような口調で久遠は言うのだ。
「ほれ、篁太郎」
久遠は、空になったワイングラスを突き出す。
彼女を式神として使役する篁太郎は、給仕としての役割を忠実に果たすことに疑問を持たなかった。これは「九尾の狐」とまで呼ばれる大妖を犬代わりにしてしまった代償なのだ。
式神との関係を円滑にするのも、陰陽師としての能力の一つである。
今は篁太郎によって「久遠」という名を与えられた大妖は、酒と料理を存分に楽しんでいた。
「それにしても、この空間、また広くなりましたね」
空になったグラスに、フランス・ブルゴーニュ産の高級赤ワインを注ぎながら、篁太郎は言った。
「ふむ、微々たる速度ではあるが、確実に広がっておるぞ。まあ、我の宮殿はすでに完成しているがな」
彼らは今、東洋風の宮殿の中にいた。中国の紫禁城や日本の平城京・平安京の内裏が奇妙に混ざり合ったかのような建築物である。
中国、日本、果てはインドにまでその名を轟かせた大妖が、己の記憶にある各地の宮殿を参考に、己が理想の宮殿を〈あわい〉に築き上げていた。
すでにそこは、大妖九尾の縄張り。彼女だけの箱庭。彼女の描くままに構築された異空間。
「流石ですね」
素直に感嘆の言葉を漏らす篁太郎。
「たわけ、我を誰だと思っておる?」久遠がころころと楽しげに笑う。「この程度、我には造作もないことだ。古今東西の皇帝や王がこれを見れば、度肝を抜くであろうなぁ」
お気に入りのおもちゃで遊ぶ子供を見るような目で、篁太郎は微笑ましく口元を緩めた。
大妖たる彼女は、霊体化するなど力を抑えていようとも現世にいるだけで何かしらの霊的影響が出るといわれている。だからこそ、普段はこの異空間に留まっているのだ。
もちろん、それは久遠自身が人間たちに配慮しているからではない。あくまで、彼女が篁太郎の式神だからこそ、この状況に甘んじているだけなのだ。
その異界で彼女が何をしようと、陰陽庁の人間は気にしない。むしろ、異界に留まっているのならば万が一、彼女を封印しなければならなくなった際に好都合だとすら考えている。
もちろん、人間側の思惑など数千年の時を生きてきた大妖にはお見通しだろう。それでもなお、久遠は篁太郎の立場を尊重していた。
それを、篁太郎は素直にありがたいと思う。もちろん、久遠がそう振舞ってくれるのは式神契約の内容が彼女にとっても利益のあるものだからなのだろうが。
とりあえず、己の式神が上機嫌であるならば篁太郎としても結構なことであるし、料理を褒められるのも嬉しいことだ。一時期は罵倒の嵐だった。
「ふん、井の中の蛙とは貴様のことか、女狐」
だが、そんな上機嫌な久遠に水を差すような言葉が宮殿に響いた。
「姫路城、名古屋城、ノイシュヴァンシュタイン城、ベルサイユ宮殿、シェーンブルン宮殿、タージマハル、アルハンブラ宮殿、それらと比較しても貴様の趣味の悪い宮殿は見劣りするな」
霊装たる杖を片手に、遠野沙夜が広間に現れる。彼女の言葉に、久遠の機嫌は急降下した。
「ちなみに、タージマハルは城でも宮殿でもなく、霊廟だそうですよ」
一方、場違いじみた指摘をする篁太郎。師匠の指摘に、沙夜はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
彼も久遠も、突然現れた沙夜に驚きはない。そもそも彼女を呼んだのは篁太郎であり、この異空間へ来るために回廊を繋いだのは久遠なのだ。
「まったく無礼な小娘よの、貴様は」
久遠は沙夜へと苛立ちの視線を向ける。沙夜の方も、相手を挑発するように鼻を鳴らした。
しばらく、無意味ともいえる睨み合いが続く。
彼女たちの仲の悪さは今に始まったことではない。それに、篁太郎としても己の式神と弟子の関係を修復するつもりもなかった。それが無意味な行為であると自覚しているからだ。お互いが殺し合わないよう、間に入って均衡を保つ程度の対応でよいと篁太郎は考えている。
久遠がグラスを振ったので、篁太郎は新たなワインを注ぐ。
その様を不愉快そうに見ながら、沙夜は篁太郎に向かって口を開いた。
「そこの女狐に借りを作ったのは癪だが、昨夜のホムンクルスの居場所を探知したそうだな?」
匂いが希薄とはいえ、あの少女にも特有の匂いがある。それを追跡するのは、久遠にとって難しいことではない。
ただし、追跡の際、ホムンクルス側が転移魔法を使って逃走したため、嗅覚を利用した追跡が不可能になり、一時的に足取りが途絶えていたのだ。
とはいえ、転移魔法の術式を解読すれば、転移先を特定することは出来る。暗号解読に等しい術式の解読は、久遠ではなく篁太郎の役目である。
「ええ、埼玉県川口市の廃工場。不況の影響で倒産した鋳物工場です」
そう言って、篁太郎は外套から取り出した地図を無造作に沙夜に投げた。それは、空中でふわりと浮遊し、沙夜の手元へと降りてくる。魔術で小規模に風を操っているのだ。
「ふん、随分とあっけない幕切れだな」
手元の地図を眺めながら、沙夜はつまらなそうに呟いた。
「そうでもないようですよ」
「何?」
「ですから、俺と久遠が居場所を特定したのは『ヴァルキュリヤ・シリーズ』の少女のみ。それを特定したからといって、“魂食い”の犯人を見つけたことにはなりません」
まるで詐欺にでも遭ったかのような視線で、沙夜は篁太郎を睨んだ。
「それならばお前は、何のためにあの少女を探したんだ?」
「『ヴァルキュリヤ・シリーズ』を操る犯人、ないしはその作成者についての情報を得るためですよ。しかも今回の事件、『ヴァルキュリヤ・シリーズ』の件に関しても、“魂食い”の件に関しても、単独犯だという確証はどこにもありませんよ」
「まあ要するに」ワインを煽りながら、久遠が青年の言葉を引き継いだ。「あの傀儡とその操り主を探し出して捕縛、尋問して初めて、事件の一端が明らかになるということだ。そう楽観は出来んだろうよ」
その言葉に、唇を歪める沙夜。
「そうだったな。失念していた」
教師として過ごすうちに、少し鈍ったかと沙夜は思う。
あの白い少女に指示を下していた人間が、“魂食い”に関わっていることは間違いない。そうでなければ、捜査を妨害するかのように表れたことへの説明がつかない。しかし、篁太郎の言う通り単独犯と判断する材料はどこにもないのだ。
「それで」彼女は自身の師を睨むように見つめた。「昨夜も言っていたが、その『ヴァルキュリヤ・シリーズ』とは何なのだ?」
「まあ、機密情報なのですが、沙夜には虎徹くんの件もありますし、情報を開示しても問題ないでしょう」
篁太郎の言葉に、久遠も食事の手を止めた。どうやら、彼女にも篁太郎は何も話していなかったらしい。
「昨夜もお伝えした通り、端的には言えば、あれは戦闘用人造人間。ナチス親衛隊が研究、製造したものです。まあ、一九二五年のジュネーヴ議定書に照らし合わせればグレーゾーンの研究ですね。あの議定書は『戦場での魔術の使用禁止』を定めていますが、戦時における魔術の研究自体は禁止していません。それに、例えホムンクルスであっても、製造を後方で行い、戦場で一切魔術的行為をさせないのであれば、議定書違反とは言い難い面があったことも事実です」
実際、ジュネーヴ議定書は他にも毒ガス、細菌兵器の戦場での使用禁止を定めているが、研究・製造・保有までは禁止していない。そのため、議定書採択後も各国では秘密裏にそうした研究・製造・保有が行われている。
現在では、ホムンクルスの製造、毒ガス、細菌兵器の製造・保有は国際条約によって禁止されている。ホムンクルスの保有が禁止されていないのは、条約制定前に製造されたホムンクルスに対して、一定程度の人権を認めようとする運動が各国で存在したからだ。
もちろん、神の摂理に逆らって人間が造り出した人間に似た生命体に対する拒否反応は、西洋の教会勢力を中心に根強く存在しているが。
「私は国際法の講義を聞きに来たわけではない」
早く本題に入れ、と沙夜は急かす。
「まあ、とりあえずドイツ第三帝国はそうした計画の下、彼女たちを作り出した。もっとも、どこまでが純粋なホムンクルスで、どこまでが違法な魔術的人体改造の産物であったのかは不明です。何しろ、彼らは占領地から、“材料”をほぼ無尽蔵に手に入れられましたからね」
「胸糞悪い話ではあるな」
「ええ。俺もそう思いますよ」
篁太郎も嫌悪感を伴った声で同意した。
「もちろん、そのような存在が戦場に投入されれば、一般の歩兵では太刀打ち出来ません。大陸反攻作戦も計画されていた一九四四年当時、その存在は脅威だった。だからこそ、ストックホルムの小野寺信少将を最高指揮官として、ラトビア、リガの研究施設を破壊する極秘作戦が発動されました」
「そして篁、貴様もその一員だったと?」
「もともと、俺はG機関の一員でしたからね」
G機関とは、日本の特務諜報機関の名である。日露戦争において明石元二郎大佐が発足させた諜報・謀略機関が母体となっている。明石大佐が発足させた当初から、諜報要員には陰陽師が含まれていた。
明石機関は日露戦争における第一次ロシア革命を、裏で操っていたという。G機関と名を変えてからは、第一次世界大戦におけるニコライ二世皇帝一家救出作戦、太平洋戦争における米本土への空挺降下作戦などの特殊作戦の立案、実行にも関わっている。
「作戦は成功。無事、研究施設は破壊。研究員たちもほぼ全員が殺害されました」
「それが、七、八十年も経ったこの日本で何故現れた?」
「破壊工作の際、研究主任とされたエドゥアルト・フォン・ローゼンブルクの死体は、結局確認出来ませんでした。唯一、あの作戦における失敗はそこでしょう。彼はドイツ人ですが、別にヒトラーやナチスに忠誠を抱いているわけではない。己の研究のためならばどのような非人道的な行為も厭わず、国家という概念に縛られない、典型的ともいえる魔術至上主義者でしたから」
「つまり、魔導技術の流出が起こったというわけだな? で、その男は生きているのか?」
「G機関による諜報活動、あるいは国際刑事警察機構によれば、数年前に南米で目撃情報があるようですよ」
「まあ、貴様が生きているのだからそうなるだろうな」
沙夜は納得して頷いた。
「一応、俺の方がはるかに年下なのですけど」
妙にその点を強調する篁太郎に、隣の久遠が小さく笑いを漏らした。
「篁太郎よ、肉体的な時を止めたお前でも年齢を気にするとはなぁ」
「久遠も、年齢を指摘されるのは嫌でしょう?」
「たわけ」久遠は楽しげに罵倒した。「我らと貴様ら人間を同じに扱うでないわ。貴様らと我らは時間の概念を異にしておる」
「では、女狐改め老害狐と呼んでも貴様は怒らんわけだな?」
沙夜がすかさず挑発する。彼女は彼女なりに、昨夜の件で久遠に対する恨みがあるのだ。
「ふむ、貴様に言われるのは何か不愉快であるな」
途端に憮然とする久遠。篁太郎は手を打って話を元に戻した。
「今回の一件ですが、俺は“魂食い”の捜査とは無関係に、G機関と陰陽庁からある国際魔導犯罪者の捜査を依頼されていました」
「なるほど」沙夜は頷いた。「だから貴様は、わざわざ私に“魂食い”の捜査を依頼したわけだな?」
「ええ、流石に俺一人では二つの捜査を同時にこなすのは無理がありますから」
久遠がどこか不満そうな顔で篁太郎を見上げたが、彼はそれを無視する。確かに、久遠の力を活用すれば二つの事件を同時に捜査することも可能だった。しかし、篁太郎はそうしなかった。それが、やはり久遠には不満であるらしい。
「しかし、どうも“魂食い”の犯人とその国際魔導犯罪者は繋がりがあるようです。昨夜、虎徹くんによる捜査を妨害しようとしたことから、そう考えられます」
「誰なんだ、その国際魔導犯罪者とは?」
「俺も沙夜も、よく知っている人間ですよ?」
その言葉に、沙夜は思い当たる人物がいたらしい。目が見開かれる。
「まさか……」
「ええ、ヴォルフラム・ミュラー。十年前、神獣といわれる高位の魔族を捕らえて合成獣製造実験を行い、一体の成功例を生み出した魔術師。錬金術を得意とする、国際魔導犯罪者」
「……」
沙夜の目に剣呑な光が宿った。
「そう、沙夜の眷獣、虎徹くんを実験体として捕らえていた魔術師です」
これにて、第二章は終了となります。
ここまでのお付き合い、ありがとうございました。
次の第三章を掲載するのには、また少しお時間をいただきたく思います。
論文も小説そうですが、文章というのは生き物で、当初の構想があっても、実際に書いてみるとなかなか思い通りにはいかないものだと、つくづく感じます。
さて、久遠の宮殿は、竜宮城などの類と同様のものだとご想像下さい。
「妖狐の女帝」を名乗らせている以上、彼女のための宮殿は必要かと思い、こういう設定にさせていただきました。当初予定していた異世界和風ファンタジーの設定を流用したというのもありますし、妲己のイメージに引き摺られたというのもあります。
作中、説明過多と思われる文章や台詞があり、文の流れが悪くなっている気がしてなりませんが、筆者の未熟故とご容赦頂きたく存じます。
以後も、精進していく所存です。
なお、篁太郎の口からこの世界における第二次世界大戦史の一端が語られていますが、作中における第二次世界大戦や太平洋戦争の歴史は、すでに自分の中で設定が固まっております。
後々、掲載していく所存です。