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第一部 第二章 第三節 人間と魔族の狭間で

 清洲陰陽学園中等部三年の相馬楓は、大学部の食堂を訪れていた。

 午前中、最後の授業が武道の授業であったため、着替えなどで時間を取られ、他クラスや他学年の生徒たちに対して出遅れてしまった。その所為で、すでに中等部の食堂は満席に近い状態だった。

 購買のパン屋も、そういう訳なのでほぼ品切れ状態。

今朝が兄の朝食当番日であれば弁当があったのだが、間の悪いことに楓の当番日。朝食を作るだけで精一杯だったのだ。

 幸いに、というべきか、大学部の食堂は教職員の利用も想定されているため、中等部や高等部の食堂に比べて広い。そのため、中等部の食堂ほどには混んでいない。それでも、程度問題ではあるのだが。


「何とか昼休みには間に合いそうだね」


 ガラス張りの壁面から食堂内を見た楓は、上がった息のままそう言った。教室から距離のある大学部食堂まで、走ってきたのだった。


「ええ、不幸中の幸いね」


 同じく上がった息のまま、彼女と共にここまでやってきた同級生の()恵蘭(けいらん)が応じる。


「早く食券を買って、席取らないと午後の授業に遅刻しかねないわね」息を整えながら、彼女は続けた。「学年変わって、時間割も変わって、やっかいな曜日が出来たもんだわ」


 昼休み直前の授業に武道が入ったのは、彼女たちが三年に進級して新しい時間割になってからだ。だから、新学年が始まって二週間目では、楓も恵蘭もこの事態に慣れていない。


「来週から、この日はお兄ちゃんにお弁当作ってもらうようにしないと」


 思わず楓の口からそんな言葉が漏れてしまったが、直後にその発言が拙いものではなかったかと不安になる。


「あなた、判りやすいわね」


 すると、楓の表情から内心を読んだのか、恵蘭が呆れたように言う。


「……私、そんなに判りやすい?」


「喜怒哀楽が顔に出やすいのよ」恵蘭は言う。「それに、そんな些細なこと、いちいち気にしなくていいのよ。友達に気を遣われるなんて、冗談じゃないわ」


 ひらひらと恵蘭は手を振る。

 李恵蘭は、名前から判る通り朝鮮系日本人だ。

 かつて大日本帝国の植民地であった朝鮮はすでに独立して久しいが、独立に際して内地に生活基盤を築いていた朝鮮人の一部は、そのまま日本への残留を希望した。彼らは日本国籍を与えられて、朝鮮系日本人となった。李家も、その一つであると楓は恵蘭本人から聞いている。

 だが、彼ら朝鮮系日本人への差別意識というのは、内地人の間で未だ残っている面があった。

 恵蘭自身も、入学当初に弁当を持ち込んだ際にそれを経験している。弁当の中身が日本食であったことを、一部の生徒が揶揄したのだ。

 以来、恵蘭の周囲で弁当の話題というのは禁句として扱われている。

 しかし、恵蘭自身はそうした差別意識に屈することなく、堂々としている。それを楓はすごいと思うし、自分も見習わなければならないとも思っている。


「そんなことはいいから、早く入りましょ」


 あっさりとした口調で恵蘭はそう言い、二人で自動ドアをくぐる。

 だが、自動ドアが開き、食券機へ向かおうとしたところで、楓の足が止まった。


「……?」


 一瞬、友人の行動に疑問を持った恵蘭だったが、その理由をすぐに悟る。

 食券機の前に、目立つ格好の少年が並んでいた。

 水干風の服装をして、その上にコートを羽織った人物。今はフードを目深に被り、顔を隠している。

 大学部で西洋魔術科講師を務める遠野沙夜の眷獣(サーヴァント)、虎徹だった。


「……ぁ」


 どくん、と楓の心臓が跳ねた。

 一度、深呼吸をする。それで、少しは落ち着いた。

 そんな楓の存在にも気付かずに、虎徹は手の中にある小銭と食券機の上にあるメニュー表を交互に見返している。

 手の中には五百円玉。これで食堂の大抵のメニューは買えるとはいえ、逆にそれが悩みの種となることもある。

 犬の魔族である彼が肉好きかつ大食漢であることは、この西洋魔術科講師の眷獣(サーヴァント)を知る生徒たちの間では周知の事実となっている。


「あら、あの子も来ていたみたいね」


 恵蘭は楓の様子を窺いつつ、そう言った。


「うん……」


 どこか歯切れ悪く、楓は頷く。自分がこの場でどうすべきなのか、逡巡しているのだ。

 楓は魔族に対して拭い難い恐怖心を持っている。それが、自分とあの魔族の少年との間に溝を作ってしまったことも自覚している。

 自分とあの魔族の少年との出会いは二年と少し前。ちょうど、楓が陰陽学園中等部に入学して少ししてからのことであった。

 だが、楓にとってその出会いは決していい思い出ではない。むしろ、十五年近い人生の中で最悪の出会いだと断言出来る。

 相馬楓は、重度の魔族恐怖症だった。

 自分でも、どうしてそのような体質になってしまったのかは覚えていない。ただ、幼少時に霊災に巻き込まれたことによるトラウマだと、精神科医には診断されている。

 楓の入学当時、遠野沙夜はすでに魔術講師として頭角を現していた若手教員だった。その眷獣である虎徹は講師としての彼女の助手のような役割であると共に、生徒たちからマスコットキャラのように扱われていた。

 だから、入学したての新入生たちが興味本位で彼に近づこうとしたことは、ある意味必然だった。

 彼に罪はなかった。

 あれは、魔族恐怖症は小さい頃のことだから大丈夫だと過信して、入学して初めて出来た友達と共に好奇心に耐え切れなかった自分が悪いのだ。

 四月のある日、学校探検と称して楓たち数人が高等部の校舎へと向かった。今もそうだが、遠野先生の担当授業は大学部での講義が中心なのだが、高等部でも幾つかの授業を担当していた。

 だから、そこで見つけられればよし、見つけられなければ今度は大学部の校舎まで足を伸ばすつもりだった。

 案外、目的の魔族はすぐに見つかった。見つかってしまった。

 己の主人の教材を抱えて廊下を歩いていた彼と遭遇した瞬間に、絶叫。

 その後のことは、よく覚えていない。

 暴走させた霊力を彼に叩きつけて、血塗れにしてしまった姿だけが唯一の記憶だ。

 その後自分は学園附属の病院に運び込まれ、母親が謝罪のために学園にやってきたという。一緒にいた同級生たちが霊力の暴走の余波に巻き込まれなかったことだけが、せめてもの救いだった。

 それは、今でも友人である李恵蘭が咄嗟に結界を張ったお陰だったと後になって知った。

 それ以降、彼と直接会うことはなかった。

 校舎がそもそも違うということもあるのだが、遠野先生が己の眷獣を講義に伴わせる頻度が極端に低下したからだ。この二年間、中等部校舎のガラス越しなど遠目に彼を見かけることはあったが、直接会ったことは一度もない。恐らく、遠野先生が己の眷獣に言い含めたのだろう。

 それは同時に、楓に謝罪の機会を奪うことも意味していた。

 今が、もしかしたらその機会なのかもしれない。そう思った楓は、一歩、前に進もうとする。

 だが、その刹那。


「……楓ちゃん……?」


 びくり、とした動作と共に虎徹が振り返った。それだけで、楓の足は床に張り付いたかのように止まってしまう。

 自分は今、どんな顔をしているのだろう?

 虎徹が申し訳なさそうにふっと目を逸らした。だからきっと、自分は怯えたような顔をしているのだろう。

 虎徹がフードをぐっと下げて目深にかぶり直した。


「……あっ……」


 喉が、少し痺れたようになる。そんなことはしなくていい、そう言いたいのに口は思い通りにならない。

 虎徹はそのまま食券機の列から離れると、そのまま楓たちが今くぐってきた出入口へ向かおうとする。

 すっと恵蘭が体を動かして、虎徹と楓の間に立った。それが楓を庇うような動作で、ますます彼女を申し訳ない気持ちにさせてしまう。

 楓は喉に力を込めた。


「……久しぶり、虎徹くん」


 何とか絞り出した声は、自分でも判るほど震えていた。

 彼女たちの脇をすり抜けようとしていた虎徹の肩が、びくんと跳ねた。恐る恐るといったふうに、フードの下から楓の方を覗く。

 恵蘭も、楓が自分から虎徹に声をかけたことに驚いていた。


「……久しぶりなのだ、楓ちゃんに恵蘭」


 その声には、普段の彼の溌剌さがない。虎徹は虎徹なりに、この少女への接し方に悩んでいるのだ。


「あら、私は呼び捨てなのね」


 おどけたように、もう一方の少女である恵蘭が言う。


「む、それはごめん、なのだ」


 それを本気と受け取った虎徹が謝罪する。


「別にいいわよ、そのままで。楓はともかく、私の名前にちゃん付けは語呂が悪いもの」


「そうか。じゃあ、恵蘭は恵蘭なのだ」


 恵蘭の背に隠れている楓は、そのやり取りに小さく笑みを浮かべた。自分も、彼とこんな風に会話をしたい。そう思うのだ。


「……楓ちゃんから声をかけてくれて、嬉しかったのだ。でも、無理しちゃダメだぞ」どこか壊れ物を扱うかのような、穏やかだが壁のある声。「じゃあ、ごゆっくりと、なのだ」


 それだけ言って、虎徹は食堂を後にしてしまった。明らかに、楓を気遣っての行動だろう。


「虎徹の言う通り、あんまり無理するんじゃないわよ」


 食券機の列に並びながら、恵蘭は友人を案ずるように言った。


「うん、でも」


 楓の顔は、少しだけほっとしているようだった。それは、魔族が自分の前から去ったからではない。虎徹に、声をかけることが出来たからだった。


「でもね、この学園に通うなら、絶対に克服しなきゃいけないことなんだよ」


 きゅっと、彼女は小さな胸の前で拳を握った。


「きっと、楓から行動しないと、何も変わらないと思うの。だから、もっと虎徹くんと話せるようになったらいいな、って。ダメかな?」


「あなたがそう決意しているなら、私はそれを応援するだけよ」


 ふっと恵蘭は小さく笑みを浮かべる。元来は快活な楓と、溌剌とした性格の虎徹。もし二人のわだかまりが解けたならば、きっといい友人になれるだろう。

 二人の友人である恵蘭は、そう祈らずにはいられなかった。


   ◇◇◇


「……って、あの子は言っていたわ」


「そうか」


 放課後の屋上、柵の上に器用に立った虎徹は、恵蘭から聞かされた楓の決意にその言葉だけを返した。その声に、少しだけ怯えが混じっていることに彼女は気付いていた。

 自分に背を向けたまま柵の上に佇む虎徹の背中を、恵蘭はじっと見つめる。


「もう少し、喜んだらどうなの?」


「うん、楓ちゃんに嫌われてないって知れて、オレは嬉しいぞ」


 その言葉は、どこか寂しそうだった。


「だったら……」


「でも、オレは化け物なのだ」


 断ずるように、虎徹は言う。それは自虐でも何でもなく、彼自身が本心からそう思っているが故の言葉だった。


「馬鹿ね」しかし、恵蘭はその言葉を一蹴する。「あなたが化け物なら、あの九尾の狐は何なのよ? あれこそ、真正の化け物だわ。それに比べたら、あなたなんて精々、可愛い飼い犬くらいなものよ」


「……恵蘭は、優しいのだ」


「私は私の思っていることを言っているだけよ」腕を組んだ姿勢の彼女は、小さく息をついた。「私は私の友人たちが、いつまでも変な溝を作っているのが気に喰わないだけ」


 主人の教育が行き届いているのか、虎徹は真面目で律義な性格だ。それだけに、自分が少女を怯えさせてしまったことを深刻に考えすぎているのかもしれない。

 楓が自身の魔族恐怖症を克服しようとしているのに、当の相手がこれでは困りものだと恵蘭は思う。

 本来は主人である沙夜が、この魔族の少年の精神面まで面倒を見るべきなのだろうが、残念ながら助力は期待できない。彼女は、虎徹自身が悩んで悩んで自分で結論を出すことを求めているのだ。

 だから恵蘭も、そうした主人の意向を汲んで、あくまで仲介程度の役割に留めるつもりだった。最終的にどうするかは、虎徹や楓の意思だ。


「まあ、もともとあなたは難しいことを考えるのが苦手なんだから、ウジウジ悩んでいないで、自分のやりたいようにやればいいと思うけどね」


「やりたいようにやって、駄目だったらどうするのだ?」


 普段は楽天家な少年の、ひどく後ろ向きな発言。

 自分を化け物と言う彼の悩みを、恵蘭は本質的な部分では理解出来ない。彼女は日本人社会の中では、差別を受けやすい人間の一人だ。だが、虎徹はそもそも人間ですらない。

 人間同士の差別も始末に負えないが、人間とは明確に異質な存在である虎徹の葛藤は、人間以上のものがあるのだろう。

 そして、彼の悩みを本当に理解出来る存在を、恵蘭は知らない。彼女の知る魔族たちは、虎徹のような悩みなど存在しないのだ。恵蘭の知る魔族たちは、明確に人間と自身を区別している。

 虎徹の葛藤は、ある意味では人間社会に溶け込もうとするが故の苦しみなのかもしれない。

 だから結局、恵蘭はこう言うしかなかった。


「駄目だったら、その時は謝ればいいのよ。失敗しても、前に進んでいこうとするのが人間ってものよ。だから楓は、あなたと仲直りをしたがっている。その意思を蔑ろにはしないであげて」


「うん、それだけは絶対にしないのだ」


 自分の発言を、一句一句噛みしめるように虎徹は頷いた。


「それと、帝都で起こっている“魂食い”事件。出来れば、楓のことも気にかけてあげて。彼女はきっと、狙われやすいから」


「うん、絶対に、みんなを守ってみせるのだ」


 力強く、虎徹は頷く。眷獣(サーヴァント)としての義務や使命感からだけではない、自分の知っている人たちを守りたいと思うから、彼は頑張ることが出来る。


「だから恵蘭も、気を付けるんだぞ」


「忘れているようだったら言っておくけど、私はあなたのご主人様の妹弟子みたいなものよ。自分の身くらい、自分で守れるわ。まあ、篁太郎からはまだ実戦に連れていってもらったことはないけどね」


 最後はおどけるように舌を出して、恵蘭は笑った。

 自分はいい友人を持ったようだと、彼女の笑顔を見た虎徹は思った。あの少女とも、本当は仲良くなりたいのだ。でも、それにどこか躊躇してしまう自分もいる。

 また怯えさせてしまうことが、怖いのだ。

 自分は本当に、彼女と友達になる資格があるのだろうか? 虎徹は、そんなことを思った。

 後々に描写するつもりではありますが、この世界の日本の版図は北は樺太から南は南洋群島、南沙諸島となります。

 樺太は、史実でも実際に交渉が存在した北樺太買収がこの世界では成功し、全土が日本領となっています。朝鮮は独立しましたが、台湾は帝国海外領土として日本の領土のままです。


 一日遅れてしまいましたが、昨日三月二十一日は「国際人種差別撤廃デー」です。

 この作品には差別の描写がありますが、それを助長する意図は一切ございません。

 また、日本の植民地支配に関しては、種々の議論があるかと思います。しかし、一九三〇年に発生した台湾の霧社事件に際して昭和天皇が「我が国の新領土の人民に対する統治官憲の態度は甚だしく侮蔑的、圧迫的であるように思われ、統治上の根本問題であると考えられるが如何」と御下問になった事例は、我々が近現代日本史を学ぶ上で考慮を要するのではないでしょうか。

(参考文献:宮内庁編修『昭和天皇実録』第五巻、二〇一六年)


 さて、日本の近現代史に詳しい方ならば、今回の話のとある登場人物の出自の秘密に気付いていらっしゃるかと思います。この人物は、第二部にて掘り下げていくつもりですので、今しばらくお待ちください。

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