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第一部 序章


 人と(あやかし)、妖と人。

 それは決してとけ合うことのない二つの種族。

 現世(うつしよ)に住まうものと、幽世(かくりよ)に住まうモノ。


 これは、神話でもなければ伝奇でもないつもりだ。

 ただ、人が科学という力で世界を席巻していた時代に起こった、人と妖の交錯を描いたものに過ぎない。


  ◇◇◇


 階段を上る有坂(ありさか)篁太郎(こうたろう)がその声を聞いたのは、目的の階の二つ下の階に差し掛かった辺りだった。

 ふんふんふん、と軽快な鼻歌が清洲陰陽学園教員研究棟に響いている。

 廊下の左右にずらりと扉が並ぶ、講師たちの個人研究室がある階である。

その廊下の端、エレベーターホールの隅で新聞紙を広げ、フードを被ってちょこんと座っている人影が、鼻歌の主だった。水干を現代風にしたような衣服の上に、フード付きの薄手のコートを羽織った小さな人影は、小さな布で女性用の靴を磨いている。

 広げた新聞紙の上にクリームの入った瓶やブラシを置き、実に楽しそうに、それでいて丁寧に靴を磨いていた。縫い目など、クリームが溜まりやすい場所に気を付けつつ、布で靴全体を丹念に擦り続けている。


「楽しそうですね」


 思わず笑みを零して、階段から上がってきた篁太郎は声をかけた。


「下の階まで、聞こえてきましたよ」


「うん、楽しいぞ」


 変声期に入る前の男の子特有の声で、靴磨きをしている少年は応じた。磨き終わった靴を眺め、実に満足そうな表情を浮かべる。

 そして立ち上がり、現れた青年にぺこりと丁寧にお辞儀をした。


「ご無沙汰しているのだ、お師匠様」


 新聞紙の上には、磨き終わったらしい靴たちが綺麗に揃えられている。


「ええ、虎徹くんも元気そうで何よりです」


 篁太郎は柔和な笑みを浮かべて、小柄な少年の挨拶に応じた。


「うん、オレはいつでも元気だぞ」


 虎徹と呼ばれた少年は、確かに誰が見ても元気いっぱいの腕白小僧という雰囲気を漂わせていた。ただ、鈍く光る灰色の髪と、琥珀色の瞳と、いささか容姿には特徴があった。


「お師匠様もいつも通りで、安心したぞ」


 一方の青年の容姿は、二十歳を越えているかいないかという若木を思わせるもの。身長は高くもなければ低くもない、日本人の平均的な身長だ。ただし、その雰囲気は虎徹とは対照的にひどく落ち着いている。彼は黒い服装の上に、法被とフード付きコートを足して二で割ったような赤い外套を羽織っていた。


「しかし、式神に靴磨きとは」篁太郎は苦笑する。「沙夜も中々斬新なことをしますね」


「う、オレはご主人の眷獣(サーヴァント)だから、これくらい当然だぞ。それに、綺麗になっていくのを見るのはとっても楽しいぞ」


「楽しい、ですか」


 ちょっと首を傾げる篁太郎。


「お師匠様にも、楽しいことはあるだろう?」


 それは、何の思惑もない、好奇心から出た疑問だったのだろう。


「ああ、俺ですか」


 ただ、少し意外に思った篁太郎は、思わず瞬きしてしまう。


「まあ、俺は陰陽師ですからね。何が楽しいかと言われれば、古い漢籍を読む事でしょうか。それに限らず、読書は己の知見を広めてくれるので、楽しいですね」


「む、オレは読書が苦手だぞ」


 ちょっと嫌そうな顔をする虎徹。そうした表情の変化も、身長相応の印象を与えている。


「おや、それはいけませんね」悪意なく、柔和な表情のまま篁太郎は続けた。「今度、君向けに何か本を見繕ってきましょう」


「うう、分厚いのは勘弁して欲しいぞ」演技ではなく涙目になりかける虎徹。「時々、お師匠様がご主人の先生だって納得する時があるぞ」


「俺も、いきなり上級者向けの本など持ってきませんから、安心して下さい」


「うう、約束だぞ」


 身長差の関係上、どうしても虎徹は篁太郎に対して上目遣いになってしまう。それを見て、篁太郎はまた苦笑すると共に、この式神の感情の豊かさを好ましく思った。


「それで、沙夜は個人研究室ですか?」


「う、この時間、ご主人は午後の講義の準備をいているところなのだ」


「ということは、もう昼食は食べたということですか?」


「オレもご主人も、お昼は食べ終わっているぞ?」


 時刻はそろそろ午後の一時を回ろうとしているところ。虎徹はこてんと首を傾げた。


「ちょっとしたお土産を持ってきたのですが、少し遅かったですか」


 そう言って、篁太郎は左手に提げていた風呂敷包みを掲げる。それを見た虎徹が、すんすんと鼻を動かした。


「油と醤油とお酢の匂い。稲荷ずしなのだ」


 虎徹の目が期待に輝く。お昼を食べたばかりであろうに、その口調からは旺盛な食欲が垣間見えた。


「ええ、ご名答です。ちょっと作り過ぎてしまったので、おすそ分けをと思って」


「お師匠様は優しいのだ」


「取りあえず、沙夜のところに案内してもらっていいですか?」


「はーい、なのだ」


◆   ◆   ◆


「ご主人、お師匠様がやってきたのだ!」


 美味しそうな稲荷ずしの到来に声を弾ませて個人研究室の扉を開いた虎徹を迎えたのは、額への不可視の衝撃波であった。


「……このポンコツ眷獣(サーヴァント)。ご主人“様”だと何度言えば判る?」


 傲岸不遜を絵に描いたような、高圧的な声が室内から響く。


「う、痛いのだ、ご主人」


 ひっくり返らないよう、後から入ってきた篁太郎に体を支えられながら、虎徹は部屋の主に小さく抗議の声を上げる。


「だいたい、何故(こう)には“様”付けなんだ? 私への嫌味か何かか?」


「だって、お師匠様はご主人の先生なんだろ?」


「……貴様はいったい、誰の眷獣だ? 私か、そこの男か?」


「もちろん、ご主人の眷獣なのだ」


 一片の淀みもなく、虎徹は即答した。それに留飲を下げたのか、部屋の主はふんと鼻を鳴らして来客を招き入れる。

 小柄な虎徹と同程度に、いや、それよりも幼く見える少女が、部屋の主であった。西洋の陶製人形(ビスクドール)を思わせる色白で端正な面持ちに長い黒髪を持つが、やはりその顔はどこか幼い影が残っていた。

 しかし、その優美な所作と、強い意志の籠った黒い瞳は、見た目の幼さを打ち消そうとするかのような彼女の意地を感じさせる。

 遠野(とおの)沙夜(さや)

 清洲陰陽学園の西洋魔術講師を務める二十五歳の女性である。

 窓から見える東京湾を背景に、彼女は研究室の机に座っていた。天気がいい所為か、東京湾の水面に陽光がきらきらと反射している。


「この部屋からの景色はなかなかいいですね」


 部屋の主の背後に視線を向け、篁太郎は暢気な発言をした。


「ふん、そうだろう?」


 そして、どこか自慢げに沙夜が応じる。

 研究棟の上層階にある講師の個人研究室からは、東京湾が一望出来た。清洲と名付けられた東京都江東区の埋め立て地は、南部にこれ以上視界を遮る高層建築物が存在していないのだ。

 雲の浮かぶ青い空の下に広がる海と、その上に屹立する巨大な橋、東京ゲートブリッジ。それは確かに、一講師の研究室から望める光景としては贅沢なものであったろう。


「ちょっと稲荷ずしを作り過ぎてしまったんで、おすそ分けです」


「稲荷ずし?」


 一瞬、沙夜は怪訝そうな顔をする。だが、すぐに何かを理解したような表情になった。


「まあ、今日の夕飯にでもさせてもらおう。虎徹」


 主人の声に応じた虎徹が、篁太郎の持っている風呂敷包みを受け取る。虎徹はそれを研究室の空いている机の上に置くと、備え付けの冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルを取り出した。そして冷蔵庫の横の棚からガラス椀を出し、お茶をそこに注ぐ。


「はいなのだ、お師匠様」


 応接セットの机の上に、虎徹はお茶を置く。

 先ほどの失言が生んだ主人からの仕置きによって、被っていたフードは脱げていた。

 その頭の上にあったのは、一対の犬耳。頭髪と同じく、灰色の体毛に覆われていた。ただ、先っぽに行くにしたがって色が濃くなり、先端部は完全に黒い毛に覆われている。


「ああ、ありがとうございます」


 そう言って、篁太郎は応接椅子に腰を下ろし、出されたお茶を一口飲む。それを見計らって、沙夜の鋭い声が飛んだ。


「で、篁。わざわざお前が私のところにまで出向くくらいだ。どうせ、面倒事の類だろう?」


「ええ、否定はしません」


 やはり穏やかな態度を崩さずに、篁太郎は応じた。沙夜はそれに対して、不服そうではあるが、どこか嬉しがっているような感情の色を瞳に浮かべていた。


「取りあえず、沙夜の式神を数日、俺に貸してくれませんか?」


 だが、その言葉を聞いた途端、露骨に嫌そうな表情を沙夜は浮かべた。しばらく、沙夜は来客の青年に睨みつけるような視線を送る。


「……それは私に対する命令か、有坂篁太郎祓魔官(ふつまかん)?」


「いえ、俺の個人的なお願いですよ」


「ならば断る」


 きっぱりと、沙夜は断言した。


「そう言うと、思っていましたよ」


 しかし、篁太郎は納得したような表情を見せるだけで、沙夜の返答に不快感を覚えた様子は微塵も見せなかった。


()()は、私の眷獣(サーヴァント)だ」顎で虎徹を示しながら、沙夜は言う。「いかに貴様が私の庇護者とはいえ、私は貴様の従者ではない。貴様が私の社会的地位を保障するのは当然だが、私が貴様に尽くす義理などどこにもない」


 高圧的で頑なな態度は、どこかおもちゃを取り上げられそうになった子供を篁太郎に連想させた。

 だから彼は軽く肩をすくめることで、沙夜の言葉への反応を返す。自分の提案が彼女にとって非常に不愉快なものであることは、先刻承知のことだった。彼女の反発も当然だと、彼は納得している。

 沙夜は篁太郎の方を見ず、不満そうに壁に備えられた本棚を睨んでいた。苛立たしそうに、指が机を叩いている。

 篁太郎はいつものことと、依頼を断られたことに焦りもせずに待った。


「……だが、私が私自身の意思で貴様に協力することにはやぶさかではない」


 しばらくすると、少し拗ねたような口調で沙夜はそう言った。


「で、その面倒事とやらは何なんだ? これでも私はこの学園の講師でな、貴様に取れる時間は限られているんだ」


 尊大ともいえる口調で、沙夜は尋ねた。


「“魂食い”、それが首都圏内で発生しています」


◆   ◆   ◆


 国立清洲陰陽学園の屋上からは、東京の中心部が遠望出来た。

 四月の爽やかな風が、潮気を含んで屋上を吹き抜ける。

 特徴的な東京都庁の庁舎ビルを始めとする新宿の高層ビル群、六本木や汐留の高層ビル、東京タワーや東京スカイツリーも見える。

 しかし、夕日が残照に変わりつつあるこの時刻、それらは黒く無機質な影として目に映るだけだった。

 それは、虎徹と名付けられた魔族の少年に、墓標の連なりのように見えた。

 昏い淵へと延々と続くかのような黒い影が立ち並ぶあの場所は、確かに冥界へと連なる自らの故郷を連想させた。

 ただ、故郷を懐かしむ気持ちは不思議と生まれてこなかった。

 自分の居場所はあの小さな主人の傍だという思いだけがある。

 大気や大地に宿る霊子(エーテル)と自らの魔力(マナ)(日本式に言えば「霊力」)を反応させてこの世界の(ことわり)に働きかける秘儀を行う者―――魔術師の使い魔(サーヴァント)が今の自分なのだ。

 ご主人は魔術師(メイガス)で、お師匠様は陰陽師(シャーマン)というらしいが、その違いは自分にはよく判らなかった。もともと、頭の良いほうではないのだ。

 ご主人が気まぐれに魔術講義をしてくれることもあるが、その大半だって自分は理解出来ていないのだ。

 そのたびに、ご主人から制裁を喰らうのだが……


「異常はないか、馬鹿犬」


 華美ではないが、それでも十分女性らしい服装を優美に着こなす主が、後ろから声をかけてきた。

 罵倒するような調子の声だが、虎徹の主はこれが平常なのだ。

 柵の上に器用に立つ虎徹は、屋上へ続く入り口の方へ振り返った。


「う、今のところ何にもないぞ、ご主人」


 虎徹は犬の魔族だ。だから、鼻を利用した探知能力に長けている。加えて、魔族であるためにその探知能力は臭気のみに限定されるものではない。意識を集中させれば霊子の動きも、魔力の動きも知ることが出来る。


「“魂食い”か、また古典的な方法の魔導犯罪が起こったものだ」


 どこか嘲るように、沙夜は鼻を鳴らした。

 その手には、自らの身長に合わせた杖が握られている。ケルトのドルイド僧たちが愛用したという、オーク材で作られた杖である。魔術師たちが持つ霊的装備、通称「霊装」だった。


「お師匠様は、この学園でも起こるかもしれないって言っていたぞ」


「ふん、それは最も効率のいい“魂食い”が霊的素質を持った人間や魔族を喰らうことだからだ」


 だからこの学園は餌場として最適だな、と虎徹の主は平然と指摘する。


「清洲全体に探知・迎撃用の結界を張っておいた。ふん、もし侵入を試みる馬鹿がいれば、私が特別講義をしてやろう」


「流石はご主人なのだ」


「“様”を付けろと言っているだろう? この鳥頭め」


 まんざらでもない調子で、沙夜は罵倒した。


「犬と言ったり鳥と言ったり、ごちゃごちゃなのだ」


「ふん、ものの例えも理解出来んとは、我が眷獣(サーヴァント)ながら嘆かわしいことだ」


 わざとらしく、沙夜は溜息をついて見せる。


「むぅ、でも使い魔(サーヴァント)はご主人のために戦うモノなんだろう?」


「私は戦闘機械が欲しい訳ではない」唐突に、冷たい声に切り替えて沙夜は言う。「そこを履き違えるなよ、馬鹿犬。私は狂戦士(バーサーカー)や犬畜生を眷獣にしたのではないのだからな」


「う、了解なのだ」


 高圧的とも取れる主人の発言に、虎徹は生真面目に頷いた。主人の命令に従うのが使い魔の役目、それが虎徹にとってささやかな誇りでもあった。


「それでご主人、オレはこれから夜警に出ればいいのか?」


 主人が結界を張り終えるまでの間、侵入者がないか見張っていた虎徹がそう尋ねる。


「ああ、東京二十三区は言うに及ばず、千葉は浦安市川、神奈川は川崎横浜まで、くまなく見回ってこい。 私の眷獣(サーヴァント)だというのなら、その程度は余裕でこなしてもらわんとな」

 

 嗜虐的な笑みでそう命令を下す沙夜に対して、虎徹は合点承知とばかりに大きく頷いた。

 フードを外したその精悍な顔には、若武者を思わせる頼もしげな表情が浮かんでいた。


 この作品は、歴史を研究する者の端くれである筆者が、「異世界転生もの」というジャンルへのアンチテーゼとして構想したものになります。

 とはいえ、素晴らしい「異世界転生もの」の作品は数多あり、筆者も愛読しております。そうした作品への敬意と対抗心故に、こうした作品を執筆しようと思いました。

 現実世界を舞台にしてもファンタジー小説は書けるのだということを実験してみたかったのです。

 また、私が歴史の研究を志した原点は、「何故、日米開戦は起こってしまったのか」、「日本はもっと別の道を歩んだ可能性があったのではないのか」という疑問でした。それを今回、魔術というものに仮託して、「あり得たかもしれない二十一世紀の大日本帝国の姿」を描こうとしております。

 もちろん、これはあくまで娯楽小説ですから、ご都合主義満載の歴史改変を行っている自覚はあります。


 筆者初めての投稿小説なので、稚拙な面、お見苦しい点は多いかと思います。それでも、「もう一つの日本」を舞台とした拙作にお付き合いいただければ幸いに存じます。


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