あの日の恋(卅と一夜の短篇第10回)
僕は鈴木勝夫、男子高校生。
両親ともに大好物は鰹。
そのため、僕に勝夫という名前を付けたらしい。響きは魚そのものだし、漢字で書けば僕よりも上の年代の雰囲気があり、この名前が好きじゃない。
もちろんDQNは嫌だけれど、もう少し今時な名前がほしかった。
だって僕、平成生まれだよ? 勝夫って、昭和生まれ率百パーセントじゃないか。
苗字はごく普通なのだけれど、名前が勝夫というものだから、ダブルで魚状態である。
鱸鰹である。
そういう僕は、魚が好きじゃない。
正直、野菜だけを食べていれば、生きていけると思っているくらいだ。魚も肉もいらないと思う。
甘いものは少しほしいけれど、大体は野菜で問題ない。
好きなものを食べているだけなのに、女子かと馬鹿にされる。食べたいものを買うだけなのに、女性に人気とか女性にオススメとか言うものだから、ひどく買いづらい。そしてこの名前も相まって、やはり馬鹿にされる。
それでも僕は肉ではなくて、野菜が好きだった。スウィーツが大好きだった。
何が悪い。
しかし残念ながら、僕の見た目はかっこよくも可愛くもない。下の上というところだろうか。
男子とは話が合わないし、よく馬鹿にされるものだから、友だちなんてできない。少女漫画とかも読むし、話は合うと思うのだけれど、女子にはキモいと避けられる。
僕は下心があって、少女漫画を読んでいるわけではないのに。
結局、恋人はおろか友だちもできない。一人でスウィーツを頬張るのは、なんだか僕に孤独を思い知らせ、虚しいような気分にさせるようだった。
「はぁ、毎日嫌になっちゃうよ」
僕はたい焼きを食べながらも、幸せにはなれず、思わずそう呟いてしまっていた。
死んでしまったなら、楽になれるのだろうか……。
そう思ったこともあるけれど、僕には自殺をする勇気なんてなかった。生きていく力もないのに、死ぬほどの勇気はないのである。
中途半端に、体は生きているのに、心は死んでいるような僕。
いっそのことどちらも死んでしまえば良いのに。
そう願ったところで、僕の体は憎いくらいに健康そのものである。
生きることを願いながら、死んでいく人がたくさんいる。
それなのに、どうして僕みたいな人間が、ここで息をしているのだろうか。
一体そのことにどんな意味があるのだろうか。僕にはどんな価値があるのだろうか。
意味なんて、価値なんて、存在するのだろうか?
僕は海が好きだった。
海水浴が好きなわけではなくて、のんびり海を眺めているのが好きだった。
だから一人になりたいとき、決まっていく場所がある。
そこは崖の上。遥か遠くまで見渡せる、天気の良い日には、悩みなんてどうでも良くなるような、気持ちの良い場所だった。
今も僕はそこにいる。
今日の天気は快晴である。
僕が物語の主人公だったらば、僕の気持ちを反映して、天気もどんより曇るだろうにな。
そんなことを思って、馬鹿らしくなる。
ああ、やっぱり海は綺麗だな。海の続いていくその先には、何があるのだろうか。
僕の求めているものが、海を越えたその先にあるような気がした。
気がつくと手を伸ばし、吸い寄せられるように、そちらへと歩いていた。
食べ終わった後、きちんと握っていたはずのたい焼きの紙袋が、風に乗って海の方へと飛び立っていく。
”僕のことを置いて行かないで。僕も、一緒に連れて行っておくれ”
更に歩を進めて手を伸ばす。一歩。更に一歩、もう一歩。
気がつくと僕の悩みはなくなっていて、風が吹き抜ける心地良さだけが、僕を満たしているようだった。
体が宙に浮いている。僕も風になれたんだ。風とともに落ちていき、僕は憧れの海になれるんだ。
今までにないくらい、気持ちが良かった。
ここはどこなのだろう。
僕は風に乗って、それから海になったんだ。
なのにどうして――。
まさか生きていたとでも? いやいや、そんなわけがない。
「ようやく訪れてくれましたのね。わたくし、ずっとあなたを待っていましたのよ」
見たこともないくらい、豪華な部屋だった。豪華なだけでなくて、周り中には、メルヘンチックにシャボン玉が飛んでいる。
声を掛けられ、驚いて振り向くと、そこに立っていたのは着物姿の絶世の美女だった。
確信した。無事に僕は死んで、天国へとやってきたのだ。
「わたくし、乙姫と申しますの。あなたをずっとお待ちしておりましたわ」
「えぇ、初めまして、僕は鈴木勝夫です」
相手が乙姫と言っているのだから、僕は浦島太郎とでも答えておけば良かったかな。
それでも一度言った名前を訂正するだなんて、そんなおかしなこと、僕にはできない。
死後の世界でまで、嫌いなこの名前でいる必要なんてないのに。
「存じておりますわよ。海を物憂げに眺める姿に惚れていましたの。そんなあなたからその名を聞いたとき、運命を感じずにはいられませんでしたわ。きっと運命の人だから、わたくしのところに訪れて下さると、期待して……それでも待つことしかできないのがもどかしく、必死にあなたを呼んでいましたの。ありがとう。わたくしと出会ってくれて、ありがとう」
これが僕の妄想なら、かなり痛いな。
ずっとキモいキモいと言われていただけに、憧れが絶えなかったのだろうな。だから美女と海とを、融合させて、こうして夢を見せているのか。
しかし死ねばこんな楽園を見られるのなら、怖がらずに早くこちらへくるのだった。
「あなた、海がお好きだそうですね。わたくしと同じですわ。あなたにとっての海は海上で、わたくしにとっての海は海底、とはいえ同じ海ですもの。ご案内致しますから、一緒に海底散歩をなさりませんこと?」
照れるように目を逸らしながら、乙姫さんはそう提案をしてくる。
死後ってなんて便利なのだろう。
何もつけていなくても、海の中を歩いていられるだなんて。
「楽しそうですね。是非、ご案内宜しくお願い致します」
「はいっ。あの、手とか繋いでも、あぁでもやっぱり、なんでもございませんわ」
昔話の「浦島太郎」に登場する乙姫を見ていると、もっと大人っぽい人なのだろうと思っていた。
外見はイメージそのものなのだけれど、彼女は大人の魅力というよりも、少女の愛らしさを持った人だった。
「海の中って、こんなにも綺麗なものなのですね。海がますます好きになりました」
部屋の外へと連れて行かれると、ここは本当に海の中なのだと感じる。
たまに泡が浮いていたって、いくら海中と説明されたって、僕は海の中にいるのだと理解することしかできなかった。
こうして実際に海らしい景色を見せられてしまうと、頭での理解ではなくて、それが本当のことなのだと認識することになるじゃないか。
なのに体が濡れる感覚がないのは、なんだか不思議なものである。
映像を見せられているようだけれど、それよりはずっとリアル。実際に海を泳いでいるようだけれど、それにしては夢心地。
あぁ、魚のような名前を持つものだから、神様は僕を魚と間違えてしまったのかな。
そうだ。きっとそうだ。僕は本物の魚になったのだ。
海の中を散歩するというのは、かなり考えられないことなのだけれど、今の僕は何もかもを受け入れることができた。夢特有のものだろうか、それとも、死後の世界ならではのことなのだろうか。
もう違和感もなく、僕はこの美しい空間を歩いている。
「この辺りの海も綺麗ですけれども、わたくしはもっと南の海がオススメですわ。お魚も鮮やかで、素敵な模様がありますのよ。でも何よりもオススメなのは、珊瑚礁ですわ。あそこがもっと冷たいお水でしたら、絶対にわたくしはそこに住みますのに。どうしてもわたくし、暖かいのは苦手ですから、あまり長い間いることはできませんの」
楽しそうに目を輝かせて、彼女は語ってくれる。
昔に見た珊瑚礁の美しさが忘れられないのだそうだ。
乙姫が暖かいのを苦手としている、という話は初めて知ったのだが、それは彼女だけが特別そうということかもしれない。
同じ名前を持つというだけで、彼女が昔話に登場する”乙姫”と同一人物とは限らないのだから。
「でもせっかくですから、あなたに見てもらおうと思いますわ。でもわたくし、あなたと一緒にあの景色を見られたなら、どれほどの幸せを感じられることかわかりませんわね。あまりに幸せで、気絶してしまいそう、そうしたらあなたが、大丈夫か、ってわたくしを抱きかかえてくれるんですの。それで、それで、きっとわたくしとあなたは、美しい南の海を背景に、唇を重ねるんですわ」
彼女が妄想を口に出すものだから、僕も想像してしまって、恥ずかしくて仕方がなかった。
旅行などへ行くことはないので、実際に見たことはないけれど、南の海のイメージくらいは湧く。
おそらく僕の持っている南の海のイメージと、彼女の言っている南の海の記憶は、ほとんど同じものだと考えて良いだろう。
大丈夫か、なんて言って、乙姫さんを抱きかかえることなんて、そのような男らしいこと、きっと僕にはできないだろう。
それは彼女の思い描いている僕でしかなく、僕は彼女の期待に応えられるほどの人間ではない。
キスなんてしたことがないまま、死んでしまったのだから。
「早く行きたくて、少しも待てないみたいですの。今すぐ向かいたい、そんなわたくしのわがまま、許して頂けませんかしら?」
「そんなに素敵なところなら、僕も早く行きたくて、待っていることなんてできません。行きましょう、今すぐ」
「ありがとうっ! 嬉しゅうございますわ。亀を呼びますので、少し待って下さいませ」
跳んで跳ねて泳いで、僕の周りをぐるぐると回った後、乙姫さんは口笛で美しい旋律を奏でた。
彼女の姿を見ても、海の中を歩いていても、そして今この旋律を聴いても、美しいという言葉しか出てこない、僕の語彙力のなさが憎かった。
美しいと思っているのは本心なのに、それ以上の言葉が出てこないのだ。
たった一言で伝えられる魅力ではないのに。とはいえ、どれだけ言葉を紡いだところで、実際に見ないことには、この美しさを感じることなどできないだろう。
ならば、僕の素直な感想が零れた、たった一言こそが相応しいと考えることにしようか。
「やぁやぁ乙姫様、どこへ向かわれるので?」
後ろから急に声がするものだから、驚いて振り返ってみれば、そこには二匹の亀がいた。
不思議に思っていると、乙姫さんと亀の両方から、亀の背中に乗るように言われる。
「宝石の海へ連れて行ってちょうだい。できるだけ急いで、全速力でお願い致しますわね」
躊躇いながらも一匹の亀に跨ると、乙姫さんはもう一匹の亀に跨り、そう命令をしていた。
口調も柔らかく、お願いをしているようであるのに、彼女の言葉には有無を言わせぬ力があり、命令をしているのだと感じさせる。
不思議なのは、命令的な印象さえ受けているのに、全く嫌な感じがしないところである。
彼女自身は素直に頼んでいるという様子で、こちらがその愛らしさに負けているだけだからだろうか。
「きらきらとしていて、素敵な場所ですから、期待していて良くってよ。宝石のように綺麗なものですから、わたくしは宝石の海って呼んでいますの。あそこに住めたなら、毎日、ロマンティックでいられることでしょうね。今のわたくしにはあなたがいますから、宝石の海に住めなくても幸せですし、ロマンティックな気分ではありますけれど」
ああ、彼女は乙女なのだ。
恋に恋する乙女なのだ。
夢見る乙女なのだ。
記憶の中の景色を夢見て、理想の僕を夢見ている――
少しずつ温かくなってきているから、少しずつ近付いていることがわかる。
僕が水の温度に慣れてきたことにより、暖かく感じるだけかとも思ったが、最初から寒さは感じなかったのだから、そうではないのだろう。
宝石のような海を、僕は見ることができるのだ。
ずっと見てきた馴染み深い海の、海中を見て、一度は見てみたいと思っていた、南の方の美しい海を見て、外見も内面も魅力的な女性と時間をともにして。
これから地獄へと連れて行かれるのだろうか。
そう思うくらいに、僕の夢が叶えられていくのであった。
「なんですの、これ」
そろそろ目的地に着くだろうという頃、乙姫さんのそんな言葉があった。
ずっと夢を語っていた彼女なので、どうしたのかと僕も正面を見ると、その理由はすぐにわかった。
僕たちが望んでいた、それこそ宝石と呼びたくなるような、そんな海とは全く違う。
「乙姫様。わざわざお越し下さったようですが、もうここに、以前のような輝きはありませんよ。珊瑚たちも、魚たちも、みんな人間に捕まってしまったか、殺されてしまったか。運良くここまで生き残ってこれましたが、次の瞬間には、こうしている俺だって殺されてしまうかもしれません」
僕が地獄を想像したから、そうなってしまったのだろうか。
一匹の魚が驚く乙姫さんの姿を見て、力ない笑みとともにそう教えてくれる。
「ごめん、ごめん……。僕たち人間はこんなにもひどいことをしていて、なのに僕は、一度も胸を痛めたことなんてなかった。僕、魚なんていらないって、……あぁ……ああ」
僕には、乙姫さんと同じように、悲しむ資格なんてなかった。
このようなことを平気でできる人間を、恨む資格なんてあるはずがなかった。
だって僕も同じなのだから。
海が好きだと言いながらも、僕は一度も、海を守ろうと戦ったことなんてないのだから。
ただ一人になりたいからと、そんな理由で眺めていただけなのだから。
「あなたのせいではありませんのに、どうしてそんなにもご自分を責めるんですの? あなたは優しくて、お人好しで、そしてわたくしは、過去にもあなたに会ったことがあるような気が致しますわ……」
水の中にいるからか、涙が零れているだろうが、それを見られることはないようだった。
涙が見えなくたって、泣き声が聞こえるじゃないか。
そうは思うけれど、抑えることなんてできなくて、僕は泣き崩れた。
魚を嫌っていたとか、守るための努力をしなかったとか、それよりも僕は、海が好きだと言っていた自分が恨めしかった。
そんな僕を、気持ち悪がることなどもちろんなく、責めることすらせずに、彼女は優しい言葉を掛けてくれた。そして、僕の顔を両手で包み込み、俯かせないようにと固定する。
強い力ではないのに、僕は少しも動かすことができなかった。
それは彼女の言葉と同じで、その掌にも魔法が掛かっているのだろうと思った。
優しいのだけれど、優しいものだからこそ、抗うことなどできずに、従ってしまうそんな魔法が。
「あの頃は、わたくしにだけ優しくして下さるものと思っていましたわ。けれどそれは自惚れで、あなたは、だれにでも優しいのですわよね。もう、わかりますわ。どうしてあなたにこんなにも惹かれているのかも、全部わかりますわ。こうすれば、あなたもわかると思いますわよ」
何を言っているのか、僕にはよくわからなかった。
あの頃というのがいつを指しているのか、彼女は僕にだれを見ているのか、そんなことを思っていると、彼女は顔を近づけてくる。
その麗しい顔を、僕の方へと寄せてくる。
死んでいるはずなのに、五月蝿いくらいに僕の心臓の音は主張をする。
静かにしてほしいのに黙ってくれなくて、そのまま彼女の顔が近づいてきて、……――重なった。
ロマンティックとは程遠いようなものだけれど、甘いシチュエーションでは全くないのだけれど、唇は甘いロマンスを伝える。
痺れるような衝撃の後、僕の頭の中に、知らない記憶が流れ込んできた。
”いつかまた、巡り逢えたら、いつかもまた、私のことを好きと言ってね”
”必ず君を探し出して、心に響くくらいの声で叫ぶから。大好きだって”
知らない僕と、知らない君の言葉。
あるはずのない記憶の、知るはずのない二人。
なのに僕は彼女と一緒に過ごした、一度の夏を知っていた。
前世の記憶、というものなのだろうか?
わからないけれど、僕と彼女は確かに出会っていた。
ずっとずっとずっと昔のようにも思えるし、数時間前に出会った、その記憶のようにも感じられる。
「僕は君を愛していた。僕は君を探していた。この暖かい海を、知っているんだ」
「わたくしがここにいると気分を悪くしたのも、この場所に魅力を感じたのも、それが理由なのかもしれませんわね」
最初に彼女が言ったとおり、僕と彼女は運命に選ばれた二人だったんだ。
忘れないと約束した。探すと約束した。
なのに彼女のことを忘れてしまっていた、そんな僕を、彼女に出会わせてくれた。
しかし二人が見ていた海が、こんな姿になってしまったのは、約束を破った僕への罰だろうか。
「もう、別れることはありませんの? あなた、海の中にいても、大丈夫なのですよね? でしたらわたくしたち、これからは一緒にいることができるんですの?」
前世の記憶では、二人は愛し合っていたというのに、結ばれることはなかった。
運命というのはこんなにも優しいものなのだろうか。
元いた場所を失いはしたけれど、僕は彼女と愛し合う場所を与えられた。
叶ったのに叶わなかった恋。今は、二人が重なり合う。
「ええ、そうですね。僕と君とは、もう離れ離れにならなくて良いのです。ずっと、一緒にいましょう」
なんと素晴らしいところなのだろう。
僕は彼女と出会うために生まれてきたんだ。彼女を見つけるために、彼女と結ばれるために、生まれてきたんだ。
大好きな彼女と、永遠に、一緒に――。