第二話
早耶と壱夜の幼馴染みという関係性は、あっけないほどにあっさりと幕を閉じた。いや、いまだに幼馴染みである事に変わりはないが、いつでもどこでも一緒という関係ではなくなったという事である。
それも当然か、と早耶は思った。
あの衆目に晒された状態での失恋劇は、思った以上に周囲に影響を及ぼした。クラスメイトからは励まされ、近所の人間にも励まされ、早耶は失恋そのものよりも周りのそういった対応に嫌気がさした。そうしてより一層、壱夜との関係を断つべきだと考えたのだ。ちょうど季節も十二月の後半で、二人は気まずいまま冬休みに突入し、一度も会う事がないまま休み明けとなった。高校生活最初の冬休みがそれというのは少し味気無かったが、早耶にとって静かに過ごすのはそれほど悪くもなかった。時間を持て余すというのは贅沢だとしみじみ感じたものだ。
「秋谷とそこから新しい関係が始まるとかないの」
教室の隅である自身の机で冬休みの事を思い出していると、クラスメイトである有村が、なんとも無責任な言葉をかけてくる。
「ないけど」
早耶の返答に、有村は口を尖らせた。
「つまんない」
「ごめんね」
苦笑する早耶に、有村はため息を吐いて話を終わらせると椅子を動かして前へ向き直った。ちょうど、有村の席は早耶のひとつ前なのだ。秋谷と特別親しくしているわけでもないのに、有村はなぜああいう話をしたのか、早耶には良く分からなかった。
確かにコートを届けられ、その日いっしょに夕飯を食べはしたが、それ以上も以下もない。あれ以来、早耶は秋谷と個人的に会ってもいなければ、会話もしていなかった。相変わらずのご近所包囲網で、秋谷に恋人が出来たらしい事も早耶は知っている。相手の情報までは知らないが、なんとも早い伝達速度に早耶は思い出して眉をひそめる。
「ごはん食べてるのかなあ……」
ぽつりと呟いた一言は、なんとも情けなく響いた。
昼休みになり、前日になんだか面倒で作らなかった弁当の事を今さら思い出した早耶は、自分のお昼がない事に気が付いた。学校近くのコンビニに行くか、食堂へ向かうかしばし考え、早耶は前者を選択する事にした。恐らく、食堂はもう人が殺到してあまり良い物がないだろうし、近くとはいえコンビニは外に出ねばならず、食堂よりは混まないだろうと考えたのだ。
早耶は鞄をつかんで、少し億劫だと思う体を引きずりながら校舎の外へと歩き出した。ちらちらと同じような顔で歩いている生徒を見かける。友人と歩いている者は楽しそうに話しているが、やはりいちいち外に出るのは面倒なのだろう。
「あれ? 珍しいね久野」
「ん? ああ。玉井もコンビニ?」
声をかけられた方へと顔を向ければ、近所である玉井に声をかけられる。早耶の言葉にうなずくと、玉井は「今日はお弁当じゃないんだね」と繰り返し呟いた。
「前はねー、自分だけじゃなかったんだけどさ。親のを作らなくていい日とかは面倒になっちゃって」
「あ……」
しまった、という顔をした玉井は、いつも元気な印象を受けるポニーテールを揺らして、何と言ったらいいのかわからないように口を開けては閉じてを繰り返している。いつかの秋谷と重なって、早耶は笑ってしまった。
「ごめんごめん、わざわざ言う事でもなかったね! 壱夜の事はもう立ち直ってるから気にしないで。嘘くさく聞こえるかもしんないけど」
努めて明るい声を上げると、玉井はそんな早耶に安心したのかほっと短く息を吐いた。昔から、早耶は玉井の無邪気ながらも人の機微に敏感なところが好きだった。ちょうど、秋谷に対しての好感と似ている。ふたりは気づかいの仕方が似ているのだ。
「そういえばさあ、けっこうびっくりだよね」
「え?」
「いやほら、近所でまた回ったじゃない、私の失恋話のあと」
ほかに話題を振ろうとしたが、かといって堂々と言葉にするのは憚られたので、伝わるだろうと濁して早耶が話す。先ほど頭に浮かんだ秋谷の話題だ。
「あ、ああ、うん」
しかしどうした事だろう。そうだねという相槌が返ってくるだろうと思っていたら、玉井は無言でかたまると、慌てたように首を縦に何度も振った。
早耶はその反応に疑問を抱き、思わず「――ん?」と声に出してしまった。しかしそれは、玉井にとって余計に彼女を窮地に陥れる反応だったのだろう。みるみる顔を赤く染めて、ついには何も言えずに黙り込んでしまった。
これは――と、早耶は考えてしまう。
この反応から見て、よほど鈍い人間でもない限り、秋谷の恋人が誰であるかは明白だ。しかし、はっきりと言葉にしないという事は、早耶には知られたくないのかもしれない――というよりも、近所中に広がるのが恥ずかしいという方が正しいのかもしれない。
「……まあ、私もだけどあの伝達速度は嫌になるよねえ、おちおち失恋もできやしない」
「――う、うん、そうだよね」
結局、話題をまた戻して何事もなかったかのように振舞うと、安心したかのように玉井がうなずいた。早耶はどうやら正解を選べたらしい。思わず安堵の息を吐きそうになったが、ぐっと堪えて苦笑してみせた。
学校内でも、玉井と秋谷が並んで歩いているのを見かけた事がない。きっと、どちらかが、あるいは両方が徹底して周囲に知られたくないと考えているのだろう。まあ、早耶とて誰かと付き合い出した事を近所中に知られてしまうのは嫌だと思うし、当然といえば当然であろう。特に玉井は、引っ込み思案というわけではないが照れ屋な性質を持っているし、秋谷が気をつかってそういう結論に至ったのかもしれない。
「私もあんな猪みたいに行動しなければよかったー!」
あーあ、と早耶が愚痴っぽく言ってみると、玉井はそれに笑った。
「でも、早耶の姿に勇気をもらって告白したって子がけっこういたけど」
「え? そうなの?」
目を丸くして驚く早耶に、玉井は「そうだよ」とうなずいた。
まさかそんな事が起こっていたとは知らず、早耶は何だか胸が温かくなる。過去の自分をとことん否定したくなっていたが、誰かの何かに繋がってくれたのならば、そう悪くはなかったのかもしれない。
しかし。
「まあ、あんなにはしゃぐのはもういいや。疲れる」
「矢崎がいない時といる時じゃ、全然ちがったもんね」
「自覚なかったんだけどね私」
矢崎というのは、壱夜の苗字だ。苦笑する早耶に、玉井は「それもすごいね」と笑った。周囲に指摘されるまで気が付かなかったというのは、確かになかなかすごい事である。いかに早耶のはしゃぎようがすごかったかを思い出しては、早耶と玉井はしばらく笑いが止まらなかった。
何だかんだ億劫だと思っていた気持ちはなくなって、早耶は楽しくお昼の時間を過ごした。
しばらくして、妙な視線を感じると早耶は思った。それは気のせいではないらしく、ふと顔を上げると誰かしらが早耶を見てはさわさわと何事かを話しているのだ。それは不穏な空気というよりも、どちらかというと浮ついたもので、いじめとかそういう類のものではなかろうと早耶は思った。だからこそ、まあどうでもいいか、と捨て置いたのだ。
それから、数日経過したある日の事だ。
「早耶」
「――矢崎?」
早耶が移動教室のために廊下を歩いていると、背後から声がかけられた。振り向くと、そこに立っているのは妙に鋭い視線を宿す壱夜であった。早耶は目を丸くして一応は声に返事をしたものの、無視して歩いて行ってしまえば良かったと少し後悔した。
長い付き合いだから分かるが、壱夜が本当に怒っている時の顔だ。早耶はその理由に心当たりがない。そもそも、関係を断って久しいのだ。学校で声をかけられるのは本格的にやめてほしかった。
しかしどうした事か。早耶の声を聞いた途端に、壱夜はますます据わった瞳になり、あろうことか無言で早耶の手を取った。
「ちょっと」
「――矢崎ってなんだよ」
「は? いやあの」
なぜそんな事を指摘されるのか、早耶には分からなかった。
早耶は、関係を断つ事を決めて以来、壱夜の家へごはんを届ける事を止めた。お弁当も作らなくなった。休日にどこかへ誘う事もせず、学校で話しかける事もしなかった。当然、電子的なやり取りも徹底的に断っている。連絡先はもう早耶のポケットに仕舞われた機械の中には入っていない。
要するに、ふたりは他人になったのだ。
ならば、いつまでも親しげに下の名を呼ぶのはおかしいではないか。そもそも、付き合っているらしい恋人に悪い。この状況だって、早耶は信じられない思いだ。壱夜が、こんな非常識な真似をするとは。
「とにかく来て」
「なんで?」
「こんなところで出来る話じゃない」
「そんな事ないでしょ」
早耶と壱夜に、公衆の面前で出来ない話などないはずだ。早耶は堂々と壱夜に振られた。あれ以上の話はもうふたりの間に存在しないと早耶は思っている。それは壱夜だって同じはずだ。早耶は人気のない場でふたりきりになるつもりはないという意思を強調するように、その場で踏ん張った。
そんな彼女の様子に、壱夜は意外な反応を示した。
どうしてか、早耶を見てどこか苦しんでいるような表情を浮かべる。やがて何かを堪えて唇を噛むと、壱夜は何かを決意したかのように一度うつむけた顔を上げた。
「秋谷と、付き合ってんの?」
「!? は」
「もう俺のこと、嫌いになった?」
「はあ!?」
ちょっと待ってほしい。そもそもどこからつっこんで良いのかわからない。早耶は混乱した頭のまま、壱夜の腕を引っつかんだ。
「ごめん、やっぱちょっと来て」
確かにこれは往来の激しい廊下でしていい話ではない。
早耶は素直に言う事を聞かなかった少し前の自分を後悔しつつ、早足で壱夜を引っ張った。もうすぐ始業のチャイムが鳴るのはわかっていたが、こんな悶々とした状態で授業を受ける気にはとうていなれない。大股で歩きながら、早耶は一度だけ壱夜を振り返った。戸惑う様子は見て取れたが、抗議の声は上がらないので移動は問題ないのだろう。早耶はつかんだ腕をそのままに、人気のない裏庭を目指した。
目的地にたどり着いたところで、早耶は壱夜から手を離す。するとどうした事か。壱夜がふと寂しそうな表情を浮かべて自身の腕を見やった。早耶はその仕草に首をかしげるが、今はその理由を訊きたいわけではない。先ほどの疑問を解消する方が先である。
「まず、確認なんだけど」
「――ああ」
早耶が声を上げると、壱夜は少し遅れて返事をする。早耶は改めて壱夜を真っ直ぐ見つめながら、口を開いた。
「私と秋谷は付き合ってない」
「え? でも」
「もしかしてどっかで噂になってる?」
「…………近所でも、学校でもそういう話になってる」
早耶は壱夜の言葉に額を叩いた。なるほど、そうかと理解する。
最近の視線とさざめきは、そういう理由だったのだろう。ずっと壱夜を追っていた早耶が、秋谷との交際を始めた。暇な学生たちが噂するには、最適である。どこから漏れたのか、あの日、早耶の家にコートを届けてくれた事も、ごはんをいっしょに食べた事も話題にのぼっているようで、壱夜の口からそれを聞いた早耶はめまいをおぼえた。きっと、近所の人間が見ていたに違いない。
「あああどうしよう、ふたりに申し訳ない……!」
「ふたり?」
「あー……いや、その。とりあえずそこは置いておいて。とにかく、私と秋谷は付き合ってない」
思わず玉井の事を考えてしまったが、ふたりが隠したがっている以上、早耶が話していい事ではない。なんとか誤魔化して笑いつつ、早耶は事実を強調した。壱夜はとりあえず納得したのか、先ほどよりも怒りを緩和させたように鋭かった瞳を和らげてうなずいた。
「でさ――ええと、なんだっけ、さっき何て言ってたっけ?」
最大の晴らしたかった誤情報は正確に伝えられたので、すっかりそのほかの事は忘れてしまった早耶は、しかし壱夜が秋谷との交際以外にも何か話していた事自体は忘れていなかった。再度、確認のため質問すれば、壱夜は視線を早耶から地面へとずらして呟く。
「……俺のこと」
「うん」
「…………嫌いになった、のか」
「ん? なんで?」
妙に歯切れの悪い壱夜に、早耶は疑問を抱きながらも、辛抱強く言葉を待った。もじもじと手と手を合わせて何やら指を動かしているのが少し気持ち悪いと感じてしまったのはそんな彼を見るのが初めてだったからだろうか。早耶はこんな空気の中、少しおかしくなってしまい、笑いたくなった。
「俺の事、壱夜って呼ばないし」
「え? だってもう他人だしおかしくない?」
「――他人」
早耶の言葉に、壱夜は落としていた視線を上げて、その双眸をめいっぱい開いて早耶を見つめている。幼馴染みの口から、よもやそんな言葉が飛び出すとは思ってもみなかったのだろう。しかし早耶はどこかマイペースな様子で「いやちがうか」と呟いた。
「最初から他人だったのを、私のわがままでそうじゃなくしてただけだよねえ」
「早耶」
「ごめんね、矢崎。もう私の事は」
「早耶!」
気にしなくていいという言葉は、壱夜の力強い腕によって封じられた。早耶は今、信じられない事に壱夜の懐に閉じ込められ、身動きが取れなくなっている。抱きしめられている今の状況がまったく理解出来ずに、早耶はかたまった。
昔の早耶であるならば、きっと舞い上がるほどに嬉しかった事だろう。なんだって出来るような、そんな無敵感すら味わえたかもしれない。けれども。
今の早耶は、驚くほどに無感動であった。
「あのー」
「早耶、俺は」
「あの、離してくれる? そもそも矢崎、彼女いるんだから」
「彼女なんていない!」
「…………は?」
本日二度目の驚きに一瞬だけ思考が停止したが、やがて早耶はただその言葉に何を感じるでもなく事実を淡々と事実として受け止めた。
「確かにあの時、告白してくれた子がいたけど、断った。本当は付き合うつもりでいたけど、早耶と離れてから早耶の事しか考えられなくて」
「…………」
「俺の周りをうろちょろするのがうっとうしいって、そう思ってたはずなのに、いなくなったらすごく寂しいって思った。勝手だよな俺」
「…………」
「でも、もしまだ間に合うなら、俺はまた早耶にやかましく俺の傍をうろちょろしてほしいって」
「無理」
思っている、までは、言わせてもらえなかった。壱夜の言葉を遮った早耶に目を丸くしながらも、壱夜は「どうして」と早耶に訊ねる。腕の力をゆるめ、ふたりの距離を少しはなすと、壱夜は早耶の両腕に自身の手を置きながら、早耶を見つめる。
早耶はこの一連の流れに、どうしたらいいかわからない。ひたすらに、申し訳ない気持ちばかりが巡っている。
物語で言えば、これはハッピーエンドなのだろう。ずっとそばにいたがゆえに、距離が近すぎたゆえに、気付けなかった大切さ。しかし離れた事でその価値に気付き、少しのすれ違いから幸せな結末へと向かっていく。
しかし、早耶にはそれが出来ない理由があった。
「非常に言い辛いんだけど」
「ああ」
「もうあんなにテンション上げるの無理」
「…………え?」
真剣な表情をして早耶の言葉を待っていた壱夜が、今度こそ二の句が継げずにかたまってしまった。早耶はそんな壱夜の腕をそっと抜けて一歩距離を取りながら、額に手を当てて「本当に申し訳ない」と詫びの言葉を口にする。
「廊下で壱夜に失恋した瞬間に気付いたんだけど、私ずっと、壱夜に好かれたいがためにそういう、なんていうか、天真爛漫なわがまま妹みたいな人間を演じてたんだよね。ていうか壱夜がいないところでは普通に今の私みたいな感じだったらしいから、ほんっと、自覚なかったの自分だけですごい恥ずかしかったっていうか」
「…………」
「そんな私を壱夜は煙たがるでもなく、甘やかしてくれて、そばに居させてくれたじゃない? それに対してもものすごく申し訳ない気持ちでいっぱいだったから、なんか失恋のショックとか吹き飛んでたしそういう意味での立ち直りは早かったんだよね。だから嫌いになっただのもう好きじゃないだのとかより、今の気持ちはひたすら矢崎は過去の恥ずかしい自分の象徴というか、まあその、それは本当に私事でしかないから失礼な話なんだけど」
「…………」
「だから関係をとことん断つのがお互いのためだろうとか思ってたのに、そしたら何、矢崎が今度は私が好きだったとか、しかもあのうっとうしい方の私が好きとか、これ何? なんの悲劇? いやもう、申し訳ないどころじゃないわ、本当にもうなんと言ったらいいか、もう、でも私もあれ無理なのよ正直。キッツイのよ正直。もうさ、柄じゃないのわかってんだよね、迷惑かえりみずあんな事出来ないって無理だって」
「――もういい」
「え?」
「もう、わかった」
「え? あ、あの、矢崎」
まくしたてるように言った早耶の言葉は、すべて壱夜の体を貫いてしまったかのようだった。壱夜はまるで亡霊のようにふらふらと歩き出した。早耶はおろか、何もうつしてはいない、ビー玉のような瞳で。
早耶はそんな彼の後ろ姿が心配で仕方がなかったが、世話を焼く事はもう出来ない。きっと、早耶と壱夜にとって、ふたりの距離を縮めるのは悲劇でしかないとわかっているからだ。
どうしてこうなってしまったのだろう、と、早耶は途方に暮れるばかりだった。