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第一話

 昔、少女はある物語を読んだ。その物語ではこの世に生を持つ男女には必ず運命の相手がおり、その相手とは見えぬ赤い糸で結ばれている。そう書いてあった。少女は思う。

 ――私の運命の相手は、きっといっちゃんに違いない。

 と。


「いっちゃん!」

()()、うるさい」

 耳元で叫んだのが良くなかったのだろうかと早耶はちいさく首をかしげた。背中から飛びついて皆無であった二人の距離を、彼女はうなずいて適正なものに保つ。それに呆れたのか安堵したのかは分からないが、飛びつかれた男は短く息を吐く。ゆっくりと振り向いた男の顔を見て、早耶は顔いっぱいで微笑んだ。

(いち)()、俺さきに行ってる」

「ああ、悪い」

 壱夜の隣を歩いていた男は、壱夜の言葉に「別に」と呟いて、無表情のまますたすたと歩き去る。早耶はその背中を一瞥して「相変わらず淡々としている人だな」という感想を抱いた。

 とある公立高校の、生徒が往来する廊下で堂々と女が男に抱きつけば多少なりとも周囲は反応するものだが、どういうわけか今ふたりに注目する人間はほとんどいなかった。それだけ、今の光景が日常化している事を物語っていた。

「――や」

 遠巻きに何かが聞こえた気がするが、早耶は何を考えるでもなく、うっとりと両手を胸で組み合わせたまま壱夜を見つめている。それが分かっているのだろう、今度こそ呆れの表情を浮かべながら壱夜は深く長いため息を吐いた。

「いだっ!」

 思わず叫んだ早耶の頭には、数秒前に壱夜のげんこつが振り下ろされた。男が女に暴力をふるうのはいけない事であると教育をされている壱夜であったが、これは許される範疇であろうと多少の事はためらわない。

 ――早耶にたいして、という限定の言葉が付きはするが。

「女の子には優しくするものよ!」

「何度も呼んだけど反応しないお前が悪い」

「え? ごめんなさい、見惚れてた」

 目を丸くして話す早耶に、壱夜は手のひらで額をおおう。気のせいでもなんでもなく、壱夜の頭はずきずきと鈍い痛みに襲われている。いつもの頭痛だ――これまた早耶と一緒に居るとき限定で起きる。

 早耶と壱夜は、幼馴染みという間柄だった。生まれた日付が同じで、時間は一時間ちがい。早耶のがはやかったのをいい事に、彼女はその一時間を持ち出しては、しばしば壱夜を年下扱いする。壱夜にしてみればそんなもの無い事と等しい。しかし反論すると面倒なので、好きにさせていた。

 それがいけなかったのだろうかと、壱夜は今になって考えている。

 盛り上がったのは、早耶と壱夜の両親だった。たまたま同じ病室で、たまたま同じ日に生まれ、家も近所だった。当然のように仲良くなり、子育ても協力し合い、励まし合いでやってきた。そんな両親に感化され、早耶が壱夜を「運命の相手」だと息巻くのは、それもまた当然の流れであったのかもしれない。

 壱夜にとって、早耶は大切な存在だ。しかしそれはあまりに近すぎて、もう身内でしかない。妹という表現が彼の中ではいちばんしっくりくるようで、壱夜は早耶が「運命」という言葉を持ち出すとその都度「妹」というその言葉を投げて返した。しかし早耶はけろりとしたもので、めげずに何度も壱夜を説得にかかるのだ。

 壱夜は結局のところ、早耶を拒否しきれない。しかしその妹かわいさにも似た中途半端な優しさが、かえって良くなかったのだろうと壱夜は思う。きっと、早耶にとっても残酷であった。だから壱夜は、そろそろ決意しなければならないと思っていた。

「ねえいっちゃん、今年の誕生日は何が欲しい?」

 どうやら先ほど背中に飛びついたのはそういう理由であったらしい。早耶はきらきらとした瞳で壱夜を見つめながら、その答えを待っている。

 しかし壱夜はまったく別の事を考えていた。そしてその早耶の質問は、まさしく絶好の機会だと思えたのだろう。期待する早耶の顔を見つめながら、壱夜は口を開いた。

「それさ、もうやめない?」

「え?」

 目を丸くする早耶に、壱夜は無表情に言い放つ。

「もう一緒に誕生日祝う歳でもないだろ」

「どうしたの? 今までそんな事言わなかったのに」

 早耶の言葉に、壱夜はごくりと唾をのんだ。当然ながら、早耶は困惑の表情を浮かべている。ストレートなショートボブの黒髪がふわりと横に流れた。彼女が小さく首をかしげたからだ。なるべく顔を見ないようにと首に視線をやっていたからか、今更ながら「綺麗な黒髪だな」などという思考が壱夜の中に浮かぶ。しかしそんな思いはすぐに消え、壱夜は再度、幼馴染みの瞳をとらえた。

「俺――彼女できたから」

「え?」

「今年は彼女と過ごすから、お前のお守りはできない」

 早耶は、壱夜が放った言葉の意味をすぐには理解できずに、目を見開いてかたまった。そんな早耶を少し辛そうに見ていた壱夜だったが、やがて背中を向けると、動けない早耶を置いてその場を立ち去ってしまった。

 早耶には、そのすべてが信じられなかった。くわんくわんと頭の中で何か大きな音が響き、やがて反響したように鳴り続ける。痛みをおぼえて、早耶はうつむき頭をつかんだ。

 さわさわと、周囲が騒がしい。早耶にはその理由がわかっていた。

 ――こんな往来で振られれば、そりゃあ注目されるよね。

 冷静な思考が、早耶に事実を伝える。

 考えてみれば、早耶はそういう人間なのだ。自己を、他者を、客観的に見つめ分析する術に長けている。集団の中心に居るよりは、一歩下がってそれを見つめる方が性に合っているし、やたらと騒いでは注目を集める事が好きではなかった。そのはずなのに、壱夜に好かれたい、いつでもその視界に入りたい、という強い欲求があったからか、願いは早耶の人格までも超越してしまったらしい。やたらと無邪気で、他人の迷惑はお構いなしの、甘えたな人間が出来上がった。

 早耶は思う。今日に至ったのは、己の欲を押し付け、壱夜の優しさにつけこみ、彼を顧みる事をしなかった自身の愚かな行動ゆえではないか、と。天真爛漫な女性が好きな男はいるだろう。しかし早耶のそれは、少々、いやかなり度を越していた。相手の都合を聞かずに休日連れ出していたのもそうであったし、夜中だろうとメッセージを飛ばした。受験の時だって、わかっている問題なのにわからないふりをして聞いたりもした。馬鹿な人間を「演じていた」からか、どこか小賢しい。しかしそれらすべてを壱夜が許容してくれたのは、きっと、二人が幼馴染みというよりも実の兄妹のように育ったからに他ならない。そうでなければ、とっくに縁を切られていてもおかしくはないと思えた。

 急速に冷えていく思考に、早耶はどうしたらいいのか分からずに、震えた。それは羞恥心によるものだった。恥ずかしくて恥ずかしくて、震えが止まらなかった。

「うわあああああ!」

 ついに臨界点を突破したのか、早耶は叫びながら廊下を走り出した。途中で叫ぶのは止めたが足は止めずに、教室に戻り、鞄を引っ掴んだ早耶は、昇降口で靴を履き替えると、駅までの道をやはり走った。

「そもそも小さい頃にどうして思いこんじゃったの!?」

 ――両方の母親からの刷り込みだろう。

「あんな物語を読まなければ!」

 ――そこに運命の赤い糸などというハッピーな代物がとどめを刺してしまったのだ。

「どうして今日まで来てしまったのおおおお!」

 ――暴走した思考回路は、そこで停止していたからだ。そうではなければ、もっと早く冷静になれた。

「自分で自分にツッコミ入れるなあああっ!!!」

 うわあああ、とまた叫んだ早耶は、駅の改札でパスケースをかざしたところでようやっと足を止めた。ついでに叫ぶ事も止めて、早耶は少し落ち着こうと短く息を吐く。

 季節は冬だ。走って来たから気付かなかったが、コートを忘れてしまったらしい。急速に冷えていく体に、早耶はぶるりと震える。

 ここから家までは電車を降りればすぐだし、何とかなるだろうとため息を吐いて、ホームに着いた電車へと乗り込んだ。


 家に着いて、さすがに冷え込む体に耐えきれず、早耶はリビングの暖房を入れすぐ二階の自室に走ると着替えを引っ掴んだ。シャワーだろうと、頭から温かいお湯をかぶれば暖まるだろうと思い、そのまま風呂場へと直行する。

 早耶の住む家は住宅街に建つ一戸建てで、早耶が生まれる頃には今よりも家の数が少なかった。ちょうど早耶が生まれる一年ほど前に出来た新しい住宅街で、子どもが出来たことをきっかけに家を買った人間が多く、同い年の子どもが住むご近所さんは多かった。良い事もあれば、悪い事もある。その一つが、噂が回るのが早いという点だ。

 早耶は頭から温かいシャワーを浴びつつ、何度目かになるため息を吐いた。

 きっと、早耶が手酷く振られたという事実は、明日にはもう近所中に知られてしまうだろう。同じ高校に通う誰かが目撃していたら、一気にメッセージが飛ばされてしまうかもしれない。そうなれば、明日どころか今日中に知れ渡ってもおかしくはない。全員が全員、仲が良いわけではないものの、誰かと誰かは繋がっていて、まるで数珠繋ぎのように次へ次へと伝わっていくのだ。きっとそう遠くない未来にすべての人間が知る事になるだろう。早耶はその恥ずかしさに悶えたが、甘んじて受けようと思った。

「ごはんとか私が作ってるしなあ……仲悪くなったらそれがなくなるし、そりゃ拒否し辛いよね」

 本当はそういう理由ではないのだが、基本的に自分を過小評価しがちな早耶は、彼女が世話を焼いて時おり行っていた家事労働の対価として煩わしい幼馴染みを切れなかったのだろうと考えていた。

 早耶の両親も、壱夜の両親も、共働き夫婦だ。ものすごく忙しいというわけではないものの、家事を行うのは楽ではない。早耶は日々の晩ごはんや、両親が疲れて出来なければ土日の掃除、洗濯も引き受けていた。平日は面倒くさくなるため、一週間分はいつも洗濯物をためてしまうがえらい事になる。しかしわかっていながらも、ついつい後回しにしがちだった。

 壱夜は、早耶と同じく掃除や洗濯をやはり週末に手伝う事はあるが、どうにも料理は苦手なようで、作ってもかなり簡単なものしか作れないし、やや失敗しがちだった。だからこそ、早耶が作る料理はありがたかった事だろう。壱夜の一家分作っていたから、彼の両親からもずいぶんと感謝された。やはりそこでも小賢しい自分に、早耶は嫌悪すら抱いてしまう。

「なんかショックはショックなんだけど、それ以上に自分にショック……」

 失恋をしたという痛みがないわけではない。壱夜は優しい男だ。見た目も清潔感があり悪くはないどころか格好いい部類に入る。近くにいて、好きにならない方がおかしいかもしれないくらいにはいい男だった。しかし、身を焦がすほどの想いというのは早耶が強制的に暴走して見せた幻だったのかもしれない。案外、早耶の内心はすっきりとしたものだった。

 今は、久しぶりに取り戻したような気分の自分自身が、なつかしい。早耶はそう感じている。

「これからは、無理せずいこう」

 すっかり火照った頬をぴしゃりと打って、早耶は鏡にうつる自分へうなずいた。


 晩ごはんを作っていた早耶の耳に、インターホンの音が響いた。いったん火を止めて、早耶はパタパタとリビングに備え付けてあるパネルへ手を伸ばす。いくつかあるうち一つのボタンを押すと「はーい、待ってて」と返事をする。液晶画面に映された人物は、早耶の良く知る人物だった。

 玄関扉の鍵を開錠し開くと、男は「よう」と門の前で手を上げた。早耶はそれに「よう」と同じように返事をする。

(あき)()ん家って今日はご両親とも仕事?」

「ああ」

「夕飯食べてく?」

「ああ」

「んじゃ、どうぞ」

 早耶の言葉に、秋谷と呼ばれた男は門を通って玄関の中へ入る。着ている制服は早耶の通う高校と同じものであり、廊下で壱夜の隣に並んでいたのはこの男、秋谷であった。

 秋谷と早耶は、壱夜と同じく幼馴染みだ。もっとも、ずっとべったりだったわけでもなく、中学からはたまに話すくらいで、疎遠になっていた。高校に入り、壱夜にくっついてたまに夕飯を早耶の家で食べる機会が出来て、今はそこそこ親交があると早耶は一方的に思っている。

「コートごめんね、ありがとう」

「近所だし」

 靴を脱いで上がる秋谷から、早耶は彼が手に持っていた物を受け取った。見慣れた紺色のダッフルコートが自分のものだと早耶はすぐに分かったらしく、用件はそれであったのだろうとすぐに見当がついた。きっと、まだ事情を知らぬクラスメイトが壱夜に託し、弱り果てた彼が秋谷に頼んだに違いない。二人に申し訳ない事をしてしまったと早耶は「本当にありがとう」と苦笑して再度伝える。

「ねえ、ご両親の夕飯はいらないの?」

「ああ。二人とも今日はかなり帰りが遅くなるって言ってたから」

「年末はどこも忙しいねえ」

 早耶の言葉に、ダイニングテーブルに着いた秋谷はこくりとうなずく。早耶の両親も今日はかなり遅くなると話していた。ついでに戸締りを気をつけるようにと何度も言われたのだ。

()()――案外と大丈夫そうだな」

「えっ!? あ、ああ、まあ、うん」

 作業をしながら、早耶は歯切れ悪く返事をする。秋谷の性格からして誰かに話したりはしないだろうが、堂々と言える話でもない。何よりも理由を聞かされたところで秋谷が困ってしまうような内容ではなかろうか、と早耶はぐるぐるしたまま手を進める。食器棚から深皿を取り出し、ごはんを半分入れて、その半分には野菜がごろごろ入ったカレールーを注ぐ。秋谷が来てから追加して作った半熟卵とウインナーを添えて、早耶は「出来たよ」とキッチンカウンターへ置いた。早耶の家は対面型のキッチンなのだ。

 秋谷はそれを受け取ると、自分の前と向かい側の席にそれぞれ皿を置いた。そしてやはりカウンターに置かれたスプーンと麦茶入りのコップを同じように移動させる。

 早耶がキッチンから出て秋谷の向かい側に座ったと同時に手を合わせ「いただきます」と小さく言った。

「美味い」

「そりゃよかった。両親も今日はいないしと思ってありきたりなメニューにしちゃったよ」

 次の日にも出せると、早耶はこの日の夕飯にカレーを選んだ。手の込んだ料理を作り気を紛らわせるのも考えたが、食べるのが自分だけというのもなかなかむなしい。秋谷が来るのが分かっていれば早耶は最初の考えを実行していたかもしれない。

「訊いてもいいか?」

「ん?」

「どうして壱夜の前だと、その」

 いつもは無口で、しかし疑問をすぐ口にするこの男を、早耶は好ましく感じていた。威風堂々と言おうか、とにかく気持ちが良いのだ。

 しかし目の前の彼は、少し様子が違う。何かをためらって、口を開いたり閉じたりを繰り返している。実に珍しい光景だ。早耶は目を丸くして、やがてどうにも堪えきれずに、ついには笑い出してしまった。

 どんどん早耶の向かいに座る秋谷の表情が不機嫌になりつつあると感じているのに、早耶はなかなか笑いが止められない。手を前にかざして「ごめん」と一言詫びるも、肝心の笑いを止められないのではずいぶんと軽い謝罪に見える。秋谷はそう感じているのだろう、その言葉を耳にしても眉間のしわは尚も深く刻まれ、機嫌の悪さは解消されそうもない。

 しばらくすると、早耶はようやっと笑いを止めて、仕切り直すように一口麦茶を飲んだ。

「やー、ごめんごめん、なんかすごい気をつかわせちゃったよね」

「――分かってるなら答えるなり答えたくないと話すなりしてほしい」

「別に答えたくないわけじゃないよ」

 どこか拗ねたような口調もこれまた珍しく、秋谷に対してまたも笑いがこみあげてきそうな早耶は、咳ばらいをしてなんとかそれを誤魔化した。

「私も気づいてなかったんだよ、壱夜にはっきり振られるまで」

「……あのはしゃぎっぷりを?」

 苦笑して伝えれば、秋谷は目を丸くして早耶に訊き返す。早耶がうなずけば、秋谷は「へえ」と何か興味深いものを見つけたかのように呟いた。

「失恋してやっと作ってた自分を自覚するのも妙な話なんだけどさ。色々と衝撃で、あまり失恋自体はショックじゃないんだよね……。なんていうか、壱夜が決断してくれてありがたかったし、今までが申し訳なさすぎるというか」

「あの瞬間にそこまで自覚するってすごいな」

「それだけショックがでかかったとも言えるかもね。思ったより好きだったのかなあ……わからないけど」

「ふーん」

「ふーん?」

 何かを納得したような呟きに早耶は秋谷のそれを繰り返して声に出すが、秋谷は笑うだけで、早耶の疑問に答える気はないようだ。早耶はそれを諦め、食事を再開した。

 その日は、失恋をなぐさめられるでもなく、今までの早耶の失態をたしなめられるでもなく、ただ二人で食事をしたという奇妙な時間を過ごして終わりを告げた。


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