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元天才投手と薄幸少女

作者: 野ノ珠

この短編を開いてくださり、ありがとうございます。

夏の甲子園。


長い歴史を誇り、最早夏の風物詩となっているその場所は、大会が始まれば収用人数47000人の客席が満席となる。


そして、現在は夏の大会の決勝戦真っ只中。

当然、客席は満席。テレビの前ではそれぞれのチームの関係者達が、子供達の勝利を祈っていることだろう。




しかし、炎天下の甲子園は、その気温に反して静まりかえっていた。



観客の視線は、一点──バッターボックスに集中している。

ヒビの入ったヘルメットと硬球を傍らに、土の上に倒れ込む、1人の少年に。


未だ静まりかえる甲子園。その中で、マウンド上の投手の叫び声が、やけに響いた。



その投手の名は、須藤(すどう) 彼方(かなた)

世を揺るがした、天才投手だ(・)っ(・)た(・)。









──────────









「お願いします、この通り!」



桜が舞う昼下がりの公園で、背広を身に纏う壮年の男性が、一人の青年に頭を下げた。

しかし、対する青年の顔は苛立たしそうに歪む。



「何度来ても、同じですから。帰ってください」

「嫌です」

「なら、俺が帰ります」

「ま、待ってください!」



駐車場に戻ろうとする青年の右腕を、男性が掴んで制止するが、青年は脊髄反射もよもやという速度で振り払った。



「す、すみません!」



失礼な態度をとったのは青年の方にも関わらず、顔を真っ青にして謝ったのは男性。異様な光景である。



「でも、何故ですか!? あなたの優れた能力なら、あの舞台でも大成するのは確実だ! 速球、コントロール、変化球、フィールディング! その全てであなたは秀でて……」

「やめろ!!」



男性の言葉を、青年の叫び声が遮った。あまりの声量に、周りの木々から燕が飛び立つ。



「……とにかく、俺はもうマウンドには立ちません……いや、立つことはできません」

「…………」

「わかりましたか?」



目を細め、諭すように話す青年の言葉に、男性は強く首を横に振って否定する。



「わかりませんよ。あなたにとって、あの世界、プロのマウンド立つのは夢である筈です! そうでしょう……






……彼方さん!」





男性の気迫の篭った言葉。必死で投げかけられるそれに対し、青年は無表情のままで、



「……いいえ」



とだけ返し、再び男性に背を向けた。

今度は男性も追ってこず、ただ一言、諦めませんよと呟き、車に乗り込んだ。



「……無理なんですよ」



自傷気味に呟き、青年は歩き始める。


広い敷地を持つ相川公園を暫く歩くと、自分の所有するシルバーの車が目に入る。


当たり前だが、位置、駐車角度は数十分前に車を止めたときと同じ。しかし、トランクが開いている。


彼方には、開けた覚えは無かった。ということは……



「っ!」



それが視界に入るや否や、全力で走り出す。

高校時代に鍛え上げた俊足を飛ばし、逃げるそれの襟首をつまみ上げた。



「捕まえたぞ、この野郎」

「はーなーしーてぇー」



彼方がつまみ上げたのは、11歳程の幼い少女だった。

長めの黒髪をポニーテールに結い、大きな黒目を持つ活発そうな外見をしている。



「何すんのー」



少女が膨れっ面で抗議するが、彼方に拳骨を落とされて黙った。



「いったぁー……」

「何すんのは俺のセリフだ。俺の車で何をしてた」

「んーん? なにも?」

「じゃあ、そのグローブはどういうことだ?」



少女の背中に隠された、使い込まれた黒いグローブを指さす。

あれは彼方のもので、トランクの中のバックに入っていた筈だ。つまり、そういうこと。



「……んー?」

「とぼけるな。お前、家はどこだ」

「知らない人に教えちゃいけないって……」

「親に連絡すんだよバカ野郎。早くしろ」

「……えー……相沢市××××-○○○○」

「な……」



住所を聞いて、彼方は絶句した。なぜならそこは……



「児童養護施設じゃねえか……」

「うん」

「…………」



思わず、彼方は黙りこんでしまった。

施設育ちということは、両親が何らかの理由で引き取れない、またはいないということだ。


こんな幼い少女が、何故こんなに平然としていられるのだろうか。

彼方にはわからなかった。



「……名前は」

(さくら)

「……やけに素直に答えるな。知らない人に教えちゃダメなんじゃないのかよ」



名字を名乗らないのは、口にしたくないのか。それとも、知らないのか。

どちらだろうが、それは他人の彼方が触れて良いことではないと、からかってみせる。



「だって、言わないとおじさんにまた叩かれるしー」

「それはお前が悪いんだろ。あと俺は二十歳だ。おじさんじゃねえ」

「えへへー」

「…………」

「きゃー」



彼方が無言で拳を振り上げると、わざとらしい声を上げながら、少女──桜は頭を両腕で守る。



「はぁ……全然反省してねえな、お前。人の物盗んでおいて」

「してるよー」



若干拗ねるような仕草をする桜。そこに邪気は含まれていない。



「……だいたい、なんでグローブなんか盗んだんだ。盗むにしても他にも色々あっただろ」

「んー……」



何故か頬をひくひくさせながら笑い始める桜。彼方は、思わず怪訝な視線を向ける。



「なんだ。はっきり言えよ」

「笑わない?」

「よほどバカな理由じゃなければな」



している行動が既にバカなのだが、あえて口にしない。

彼女が口を開くのを待った。



「……私、野球やってみたいんだ」

「そうか」



頬を僅かに染め、本当に恥ずかしそうに言う桜。しかし、彼方からしたら「で?」である。


最近では女子プロ球団ができ、女性の野球人口もじわじわと増えてきている。なんら珍しいことではない。



「それと、グローブ盗むこと。どう繋がるんだ。勝手にやればいいだろ」

「持ってないんだもん、それ(グローブ)」

「買えよ」

「そんなお金ないしー」

「……それもそうか」



施設なのだから、金を自由に使えるわけではないのだろう。


実は彼方自身も、あまり裕福な家庭ではなかった。金欠でグローブを買えず、軍手で守備練習をしていた時期もあったため、桜の気持ちが良くわかる。



「だが、だからと言って許す訳にはいかない。お前の将来はどうでもいいが、俺は私物を盗られかけたんだからな」

「ごめんって言ってるじゃん……」

「言ってねえ。ほら、行くぞ」

「どこいくの?」

「お前の住んでるところだ。決まってるだろ」

「あ、そっか。はは……」



突然、桜の表情が曇った。


理由は、大体察した。

施設と言えば、自由が少ないというイメージがどうしても最初に来てしまう。


ましてや、桜は見た目からしてまだ小学校中学年ほど。遊び盛りなのだ。退屈な施設には帰りたくないのだろう。


しかし、このままほっとく訳にもいかないし、施設長にでもこのことを話しておかなければいけない。


子供のやったことなので、言動ほど彼方は怒ってはいない。やはり施設育ちという事実からの同情もあるが、結局は取り返したからだ。



「……どうした」

「…………」

「おい」

「…………」



何度呼んでも、動かない。むしろ呼ぶ度にギュッ、とグローブを抱き締めて、その場から離れそうになかった。


1つ、大きなため息をついた。



「……ほら、投げろ」

「えっ? わっ」



投げ渡したのは、グローブに挟んであった軟式ボールだ。桜は、ボールと彼方を交互に見て戸惑っている。



「少しやったら帰るからな。……ほら、早くしろ」

「……うん!」



にぱっ、と擬音がつきそうな笑顔を浮かべて、桜はボールを投げた。

手足はバラバラ。まるで踊っているようなフォームから放たれたボールは、丁度桜と彼方の真ん中でバウンドし、彼方の手のひらに収まった。


そのボールを転がして渡し、また投げる。バウンドした球を彼方が捕る。


それを10回ほど繰り返して、彼方はボールをポケットに入れた。



「終わりだ。行くぞ」

「えー……」

「もう十分やっただろ。約束は破るな」

「……はーい」



未だ渋る桜を乗せて、彼方は車を走らせた。


(さて、どの辺だったか……)


施設の場所は、たまに通る程度なのでうろ覚えだった。



「俺もうろ覚えだから、案内しろよ」

「……うん」



帰るとなると、やけに桜の態度がおとなしい。

初対面の時、元野球部なりに比較的体格が良い彼方の尋問にも、軽口を叩いた位には肝っ玉の座った元気っ子という印象だったのだが。



「さっきからおとなしいな。そんなに帰るのが嫌か?」

「あはは……そうだよ。ていうか、これからとんでもなく怒られるのに、気分良いわけないでしょー」

「……それもそうか」



何故そこに気がいかなかったのだろう。余程、児童養護施設という言葉が彼方の深層心理に影響を及ぼしていたようだ。


しかし、目的地まで不機嫌モードでいられるのも嫌だ。柄じゃないなと思いながら、慰めの言葉を探す彼方。



「……俺だってお前くらいの頃はよくやらかしてたんだ。何回ボールでガラス割ったかわかんねえくらいな」

「……そうなの?」

「あぁ。家の近くで友達と野球やって、俺が暴投してガラス割ったり、逆に、打った打球が隣の家に直撃したり。血の気が引くってこういうことを言うんだなって、そんとき知った」

「あはっ、おバカさんだねー」

「うるせえ」



ふと漏らした桜の笑顔に、なんとかご機嫌とりはできたとひと息つく彼方。

前方に見えてきた信号を右折すれば、施設が目に入る筈だ。


しかし、彼方には、桜を送り出す前にどうしても聞きたいことがあった。



「……ガキがやらかす時って何かしら理由があるもんだ」

「……え?」

「俺は、ただ野球が好きだった。だから野球をした。結果ガラスを割っちまった」

「…………」



黙る桜。彼方は、未だに桜の手にあるグローブを一瞥した。



「お前、本当はなんでグローブなんか盗んだんだ」

「え……だから、野球がやりたかったから……」

「それもあるんだろうな。だが、それだけじゃない筈だ。本当のことを言ってみろ」



聞きたいのは、それだった。

それだけじゃない筈、というのはただの勘。天才ピッチャーとしての勘だ。



「…………」



桜は話さなかった。

いや、正確には話そうとしているが、その度にやめる。つまりは躊躇していたのだ。



そのまま、車は施設前にに停車した。意外にも敷地は広く、運動場に遊具も備え付けられている。


彼方は、シートベルトを外しながら、俯く桜を横目で見た。



「……話したくないなら、話さなくて良い。ほら、降りろ」

「……うん」



施設内に入ると、多くの子供が広場で遊んでいた。その音を壁越しに聞きながら、施設長の部屋へ向かう。

大きな声と、絶え間無い床の振動。余程元気が有り余っているらしい。


(なら、外で遊べば良いのにな)


ついつい、心の中で呟きながら、広場の扉を通り過ぎる。



「…………」



そのとき見てしまった、桜の寂しそうな横顔。


それを見た彼方は、先ほどからのしおらしい態度の理由と、施設での彼女の立場を悟った。





当たり前だが、桜はめちゃくちゃ怒られた。


途中までは仕方ないなと傍観していた彼方だったが、罰則が~の話になった時その内容があまりに酷すぎた為、さすがに止めに入った。


そのお陰でなんとか罰則は(表面上)なしになったが、やはり施設での桜の立場はあまりよろしくないようだ。


子供たちを守る立場である筈の施設長があんなことまで口走るとは、かなりヤバい施設であることは確実だ。


なんとなく、隣をとことこ歩く桜をチラッと見た。頬は赤く腫れ上がっている。施設長の平手打ちを受けたのだ。


──女性とはいえ大の大人が、子供にここまでするのか。



「どうしたの? 顔怖いよ?」

「ん? ああ」



どうやら、いつの間にか険しい顔になってしまったようだ。



「気にするな」

「そっか」



桜は、さっきのことなどなかったように、彼方に向けてふわりと笑った。黒いグローブを抱えながら。



「……そろそろ、グローブを返してくれ」

「えー……」

「えーじゃない。返せ」

「…………ゃだ」



しかし、桜は、頑なに返そうとしない。それどころか、胸にきつく抱き締めた。



「あのな、人の物を勝手に取って、それは無いと思うぞ」

「でも……でも……」

「…………」



胸にしっかりと抱きしめられたグローブ。彼方は、そこに今回の件を起こした、桜の本当の動機があると察した。



「……言うことがあるだろ」

「え?……」

「こういう時、その人に言うことがあるだろ?」

「え……と……」



突然の言葉に、混乱している桜。彼方は、軽くため息をついた。



「……『貸してください』だろ?」

「えっ?」

「人に物借りる時は、『貸してください』って言うんだよ」

「あ……えと……貸して……ください?」

「……明後日の昼頃受け取りに来る。何でこんなもん欲しがるのか知らんが、大切にしろよ。それは俺の大事なものなんだ。分かったか」

「あ……」

「分かったか?」

「う、うん!」

「……じゃあな」



にぱっ、と満面の笑みを浮かべた桜を一瞥し、彼方は車を走らせた。





───────────






二日後。


グローブを受け取りに、彼方は再び児童養護施設に向かった。


事前に教えていた為か、既に桜は門の前に居た。



「よう」

「こんにちは……これ」



桜は、渋々といった様子でグローブを差し出した。



「ありがと……」

「あぁ」



グローブを受けとると、久々に感じる革の感触が懐かしく、心地よく感じた。


──野球……やりてえな……


一瞬湧き出た感情を、激しく頭を振って打ち消す。


──もう、やらないと決めたんだ。もう、あんなことになるのは……



「……ねえ」



彼方の思考を現実に引き戻したのは、遠慮気味の桜の声だった。



「……なんだ」

「野球って、やっぱり楽しいの?」

「いきなりか。それは人それぞれだろ」

「じゃあ、おじさんはどう思うの?」

「おじさんじゃねえって言ってんだろ……まぁ、嫌いじゃねえよ」



見るだけならな、と、心の中で付け足す彼方。

見るだけなら、傷つけることもない。



「そっか……」



数秒、固まる。

何かを覚悟したように、目をギュッと瞑った桜から飛び出したのは、とんでもない言葉だった。




「私……プロ野球選手になりたいの」









「…………は?」



彼方の反応は、当然であった。


桜の突然のカミングアウトは彼方にとって、笑う気にもなれないものだった。



「……それで?」

「おじさんに教えてもらいたくて……おじさんが凄い人だって聞いたから」

「!……知ってたのか」

「うん……グローブ盗った理由、野球やりたかったっていうのはうそじゃないよ。でも、おじさんが凄い人って聞いたから……」

「だから、『俺の』グローブを狙って盗んだのか」

「…………」



ばつの悪そうな様子で、こくりと頷く桜。

一昨日も会ったプロのスカウトの男性と、あそこで会うことは少なくない。


大方、偶然その事を聞いて、なんとか彼方ゆ接触しようとグローブを盗んだのだろう。



「プロにスカウトされるくらい凄い人に教えてもらえば、きっと私も……」

「無理に決まってんだろ」

「なんで」

「決めつけるの、か?」

「!?」



遮る彼方の言葉に、目を見開き図星を示す。



「確かに、最近は女子プロ野球だとかができて、女が野球を楽しめる環境が整ってきた」

「なら……」

「だが、プロとなれば話は別だ。お前、プロっつー言葉をなめてないか?」

「え……」



彼方はかなり不機嫌だった。子供とはいえ、無知とはいえ、一時期自分が憧れた世界をなんの努力もせず、さらりと口に出されたことに、かなり頭に来ていた。



「プロってのはな、その道のスペシャリスト。つまりは頂点だ。才能が無いやつは勿論無理。才ある者だって血の滲むような練習の果てに、やっと挑戦権を得られる程度。他は知らんが、少なくとも野球の世界はそうだ。そんな世界に、ポンポン入れるわけねえだろ」

「…………」

「生半可な気持ちでなれる職じゃねえんだよ」



大人からの大人げない否定に、俯いて涙ぐむ桜。

だが、彼方の言っていることを理解したのだろう。小さく、ごめんと呟いた。



「……ちっ」



少し頭が冷え、さすがに言い過ぎたかと反省する。でも、自分は間違ったことを言った訳ではない。

才能のある人が、限界まで努力をしてやっとチャンスが得られる世界。


そんな世界に、才能など欠片も感じないあの少女が通用するわけがない。

彼方はそう考えていた。



「……このグローブは、明日まで貸しといてやる」

「……良いの?」

「ああ……」



ただの詫びのつもりだった。しかし、桜は一昨日と同じ嬉しそうな笑顔を見せた。



「ありがと」



窓ガラス越しに写ったその顔に、微妙なこそばゆさを感じながら彼方は家路についた。



この些細な出来事がきっかけに、桜と彼方の人生は大きく変わる事となる。







それは後日、再びグローブを受け取りに施設を訪れた時だった。


施設に到着すると、昨日と同じように桜が門の前に立っていた。


律儀なやつだと思いながら車の窓を開け、彼方は目を疑った。



「お前……その顔……」



可愛らしい顔が、幾つもの殴打の跡で青紫に腫れ上がっている。袖から覗く腕にも、数えきれないほどの痣が。

間違いなく、まだあるだろう。シャツに隠された肌を想像して、ゾッとする。



「はい、これ返すね」



大切そうに抱えられていたグローブを、両手で差し出す。



「それはいい! お前……どうしたんだ……!」

「それはいいって、私頑張って守ったんだからそれはないでしょー」

「なに……?」

「施設長のおばさんが、かんしゃく? 起こしちゃったんだよ。それで私にあたってきただけ」



まぁ、これはいつものことなんだけど。そう付け足す。



「でも、これに目をつけちゃって、しかも何故か捨てようとしたからさ、グローブ持って逃げ回ってたんだよ。それだけ、以上」

「…………」

「? おじさん?」



彼方は黙っていた。まるで、沸き上がるなにかを押さえ込むように。


しかし、それは桜の顔を見て爆発した。



「……ざけんなよ」

「え?」

「ふざけんな!」



気付けば、桜の襟首を掴んでいた。



「な、なに!?」

「ガキが何もかも抱え込みやがって……ムカつくんだよ! ガキはガキらしく泣きついてきやがれ!」

「……え?」



頭の中が熱い。子供に平気で虐待をする施設長にも、それを平然とした顔で抱え込む桜にも、腹が立った。



「殴られてまであの場所に居たいのか!? ああ!? 俺だったら思わねえ! たとえ餓死しようと抜け出してやる」

「でも、ここ以外に住むところなんて……」

「俺が預かってやる」

「え……?」



時が止まったように、桜は動きを止めた。



「それは全部お前次第だ。……どうしたい」



何十秒、いや、何分間止まったままだっただろうか。

桜の目が動いた。焦げ茶色の瞳から、透明な液体が、軌跡を残しながら流れていく。



「たす…………けて」

「それは、合意ととっていいんだな?」

「う、ん」



頷いたのを見て、手に持っていたグローブと一緒に桜を助手席に放り込んだ。



「わっ!」

「しばらくそこに居ろ……!」



そう言い残して、鬼神のような表情で彼方は施設へ向かっていく。


怯える子供達の前を通りすぎ、以前開いた施設長室の扉をノックもせずに乱暴に開けた。


施設長は何も無いように執務をこなしていた。それがさらに頭にくる。



「! あなた、昨日の……あの子が、またなにかしたんですか?」

「……罪悪感の欠片もねえようだな……」

「はい?」

「てめえに、あいつを預かる資格はねえ!」

「ひっ!」



怒りを爆発させるように、彼方は拳をデスクに叩きつけた。金属製のデスクが凹む軋みと、施設長の悲鳴が重なった。



「……桜は俺が預かる。あいつを人間とも思ってねえ奴に預ける訳にはいかねえんだよ」

「い、いきなり何を言ってるんですかあなたは! 訴えますよ!?」

「それはお前だ。桜の傷でも見せれば、証拠になるだろう。とにかく、あいつは俺が引き取る」

「そんなこと、私が認めません!」

「てめえの承認なんざ必要ないんだよ。あいつがそう願ってんだ。俺が里親になれば問題ねえ。それだけだ」

「ま、待ちなさい!」



必死。その言葉が一番似合う施設長は、辛うじて笑顔を見せながら指を二本立てた。



「200万払うわ。だからあの子は諦めて。たかが孤児(みなしご)一人でしょう? 親もいない、一人でなにもできない役立たずでしょう!?」

「……とことんクズだな、お前。やっぱり、お前は務所にいった方が良いみたいだな」



更に金額をつり上げる施設長無視して、扉に手をかける。



「ああ、そうだ」

「?」

「さっき、あいつを役立たずと言ったが……違うな」



一呼吸置いて、あの時の桜の顔を思い浮かべる。



「あいつは、プロ野球選手になる女だ」



そう言い残して、今度こそ彼方は部屋を出ていった。

扉を閉めもう一度執務室へ視線を向けると、そこになぜか桜が居た。



「! 居たのか」

「えへへー、ビックリした?」

「……そんな子供騙しで驚くかよ」

「えー、つまんないの。……」

「……なんだよ」



桜は、まだ充血している目を、真っ直ぐに彼方へ向けていた。



「……ありがとね」

「なにがだ」

「預かるって言ってくれたのもあるけど、やっぱりプロ野球選手になれるって言ってくれたことかな」

「言っておくが、お前は才能の欠片もないからな」



とっさに出たこの言葉は、照れ隠しかも知れない。しかし、これは本気だった。



「俺は言ったよな。プロになれるのは、天才が死ぬほど努力してやっとだって」

「うん」

「なら、才能のないお前は二回死ぬほど努力しろって事だ」

「それなら、プロ野球選手になれる?」

「かもな」

「ならやる! ね、練習しよ、練習!」



そう言って、彼方の腕を掴んで促す桜。彼方は腕の痛みと共に、僅かな心地よさを感じていた。


自分でも信じられない。あのデッドボール以来、自分の心は冷たいまま。周りにどんなに励まされようと冷えたままだったのに。


なのに、この少女に溶かされた。会って僅か3日のこの少女に。



(……流石、お前の妹だ)



かつての親友であり、デッドボールの被害者の千賀(せんが) (かえで)を思い浮かべる。

感づいたのは、桜がプロになりたいと言ったとき。彼も、野球の才能は皆無だった。だが、プロになる、といつもうるさかった。


そんな彼の面影が色濃く残るこの少女と自分が出会い、関わることになるとは思わなかった。

しかも、兄も親も知らないはずのこの少女は、兄と同じくプロを夢見ている。



「なあ、桜」

「ん? なに?」

「お前、自分の名字知ってるのか?」



聞いてみたかった。

兄と住んでいたのは彼女が0~1歳だったため、覚えてるとは思えないが、知っているのなら、本当のことを言わなくてはいけなかったから。



「……しーらない」

「そうか。……ならいい」

「名字はおじさんのが良いな!……あ、名前聞いてない!」

「……須藤 彼方だ」

「へー。須藤……須藤 桜って結構良くない?」

「知らん」



感づいた訳ではない桜を見て、安心する自分が居ることに少し頬を緩ませ、空を見上げた。



──楓、お前の妹は、俺が責任持って育てるよ。そして絶対……



「……お前を絶対、プロにするからな」

「ん? なに?」

「何でもねえよ。帰るぞ、俺……達の家に」

「ふふっ。うん!」










2年前より女子の出場が認められた高校野球に、衝撃が走った。


その少女は突如現れ、女子にして高校通算防御率0.54。甲子園での奪三振32を記録し、鳴り物入りで女子プロ入り。


新人王と沢村賞を同時獲得という偉業を成し遂げたその人物の名前は……



「桜」

「ん、なに?」

「つれていきたい場所って何だよ。……おい、今信号赤だったよな」

「気にしない気にしない」

「気にするって……うおっ! やっぱダメだ。お前の運転危なっかしい」

「大丈夫。もう着いたから。……痛っ!」



出会った頃の面影を残したままの桜に、同じく拳骨を落とすのは、28歳となった彼方。



「大丈夫じゃねえ。俺は何度も死を覚悟したぞ」

「わかったから止めて~。帰りは運転しないからぁ~」

「まったく……で、ここは?」

「見てわかんないの? お墓だよ」

「そんなこと知ってる。何でここに来たんだよ」

「それはお楽しみ~」



ついてきて、と言わんばかりにリズミカルにスキップしながら墓の間を駆けていく。



「ここだよ」



立ち止まったのは、白い墓石でできた普通の墓。これがなんだというのか、その思考は、刻まれた名前を見て停止した。


『千賀』


確かに、そう刻まれていた。



「まさか……知ってたのか」

「うん」

「いつから」

「彼方お兄ちゃんと会う前から」

「…………」



まさかの事実だった。



「4年生の嘘に騙されるなんて、結構アホだよね、彼方お兄ちゃん」

「……なんであの時、言わなかったんだ?」



あの時とは無論、名字を知っているかと質問したときである。



「……だって、なにもないもん」

「……?」

「千賀って名乗ったって、なんの繋がりも無い。お兄ちゃんはもう居ないし、親は顔も知らない」

「一体……どういう……」

「でも、須藤って名前なら、彼方『お兄ちゃん』のつながりができる。そこから、楓お兄ちゃんにもつながる。どう? 私なりに考えたんだよ」

「どう? じゃねえ。良いのか? お前の兄貴を殺した俺なんかと……」

「しょうがないじゃん」



しょうがない。この言葉は何度も聞いた。親にも、チームメイトにも。


しかし、桜の言葉はここで終わらなかった



「って、楓お兄ちゃんは言うと思うよ」

「な……」

「なんでだか、覚えてる。楓お兄ちゃんが、友達とテレビを見てた。……デッドボールで死亡って流れて、お前、こうなったらどうするって聞かれてた」

「…………」

「そしたら、楓お兄ちゃんは、『その打席に立ったのは、自分が野球をやりたいと思うから。たとえデッドボールで死のうと、最後に野球ができたことに後悔はない』って。だから、私は恨んだりしてないよ」

「……ふ、ははは……」



帽子で目元を隠しながら、彼方は笑った。



「この……野球バカ……が。んな訳ねえだろうが」



彼方は車へと戻る。頭にクエスチョンを浮かべながら桜がその姿を目で追っていると、彼方は右手に酒瓶、左手に袋を持って戻ってきた。



「桜。……お前もバカだな。恨んでない訳ねえだろ」

「…………」



栓を開け、酒を墓にかけていく。



「少し、ほんの少しでも恨みがあるのなら、兄貴の前で晴らしておけ。なんでもいい。その権利がお前にはある」

「……わかった」



桜が拳を握りしめるのを見て、空の酒瓶を地面において目を閉じた。


──これでいい、桜がこれで許すならな。


しかし、彼方の顔に痛みが走ることはなかった。

感じたのは、唇に柔らかなものが触れる感触。


驚きで目を見開くと、いつもの表情で顔を真っ赤にしている桜の姿が目に入った。



「お、おい……」

「へへ、楓お兄ちゃん妬いちゃうかな。なんでも良いって言ったもんね。野球の楽しさを教えてくれた罰だよ。それと……」

「……?」

「……なんでもない。とにかく、本当に恨んでないの。私」

「……そうか。ありがとう」

「それより、自分の真っ赤な目を気にしたほうがいいよ」

「ほっとけ」



そして、深く帽子をかぶり直し、左手に持っていた袋を桜に手渡した。



「これなに?」

「楓のグローブだ。ずっと俺が持っていた。これはお前の好きにしろ」

「……そっか」



桜は袋からグローブを取り出すと、それを左手にはめた。



「じゃあ、キャッチボールしよっか。これで」

「まぁ……悪くないな」

「じゃあ、相沢公園に行こう! GO!」

「お前は運転しないからな?」

「分かってるよ~」



桜が助手席に乗り込むのを一瞥して、彼方は振り返った。



「殺した俺が言うのもあれだけどさ、お前との勝負は楽しかった。いつも俺が勝ってたけど、あの日、俺はお前に負けた。ああ、デッドボールだからじゃねえよ? あの時のお前は、本当に強かった。覚悟ってやつか」



僅かな酒の匂いをのせて風が吹く。それは、極めて爽やかな風だった。



「……本当に恨んでねえのな、お前。自分で聞いといてなんだけどよ、あん時、冗談が返ってくると思ってたんだ。なのに大真面目にこっぱずかしいこと言いやがって。…………お前、多分これ聞いたら口開けてアホ面見せるんだろうなぁ……それとも笑うか」



照れ臭そうに頭を掻いて、口を開く。



「本当、ありがとうな。────親友」



桜の声が耳に届く。

少し後ろ髪を引かれつつも、彼方は車に乗り込んだ。






彼方の車が去った後。

墓の頂点に残った酒の一部が、流れて筋を作った。



『妹をよろしくな、親友!』

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