#4 二人の少女
学校からの帰り道。ティレアは今日も一人で帰っていた。他の子はといえば、男子でも女子でも、それぞれ仲の良い子どうしで集団で帰っている。これは、先生が一人で帰るのは危ないと生徒たちにいつも言っているのも理由にあるのかもしれない。まあ、どちらにしても、一人で帰る帰り道というものは寂しく、ティレアとしては羨ましくなるばかりである。
(どうして私には友達がいないんだろう…。)
そんなことを思ったが、理由は分かりきっている。ティレアが魔法を使えない落ちこぼれだからだ。
(ああ、魔法さえ使えたら…!)
友達だってきっとできる。それに、もう親の目を気にして学校に行くこともなくなるのだ。雪がとける頃になっても学校で学び続けることができる。
(そうなったら、みんなみたいに魔法を使って、比べあったりできるのに。今できないことができるようになるかもしれないのに。)
ああ、そうなったらどれだけ良いだろう!みんなができることを自分も同じようにできる。そんな当たり前がティレアには無いのだ。それがどれだけ悔しいことか、他の人には到底理解できないことだろう。
「あっ…」
思わず呟いてティレアは足を止める。このまままっすぐ行くとすぐそこに家がある。ティレアは一番近い曲がり角で方向を変え、家から離れるように歩いた。家に帰るわけにはいかないのだ。最近は、家から離れた場所、というより人通りの少ない場所で簡単な魔法の練習をしてから帰るようにしている。なぜそんな場所を選ぶのかと言われると、それは魔法を使えない姿を誰かに見られたくないから、としか言いようがない。帰るのが遅くなると家族がうるさいが、学校に残って補習を受けていたと言えば大抵のことは許してくれるということに最近気づいた。
(本当は、そんな言い訳したくないけど…。)
寄り道をして帰るところを誰かに見られないように、あの角を曲がり、この角を曲がり、くねくねと人目を避けて歩く。ようやく目的地に着いた時には、空が黄色くなっていた。もうじき夕暮れだ。
(また嘘つかないといけないなぁ。)
気を取り直し、ティレアは念じる。魔力が自分の中で形になっていくことをずっと想像しながら。そして唱えた。
「火の粉の魔法。」
(お願い。今日こそ…!)
しかし、そんな思いを裏切るように、開いた手のひらの上には何も起こらなかった。
「はあ…。」
(やっぱり使えないなぁ、魔法…。)
親から学校をやめることを考えるよう言われてから毎日、うんざりするほど練習を繰り返していた。この魔法はティレアが知っている中で最も簡単で、難易度の低い魔法だ。だが、やはり魔法の効果が現れない。もう、無理なのだろうか。これ以上練習したところで、私は結局…。
「どうかしたの?」
今まさにうつむいてため息を吐こうとしていた、そんな時にいきなり声をかけられたものだから、それはそれは驚いた。ひっ、となんとも情けない悲鳴を上げ、飛び上がってしまった。こんなことになるから、わざわざ人のいない所までやってきたというのに。
「あの…大丈夫…?」
声は後ろからで、その人の顔は見えなかった。だが、何かいけないことをしたかと不安になっているのが声の調子で分かった。声の高さからすると…男の子だろうか?
「い、いいえ…大丈夫です。ただ、少し驚いたってだけで…」
振り返りながらその顔を見ると、驚きで声が止まってしまった。その子は、かなり低めの声をしていて、絶対に男の子だと思っていたのに、この顔つきはどう見ても男のそれじゃない。
「え…女の、子…?」
失礼だと分かっていながらも、ティレアはそう呟いてしまった。頭は白い毛糸の帽子ですっぽりと覆っているので、髪は見えなかったが、可愛らしい顔つきをしている。
「どうか、したの…?」
「い、いえっ。そ、その…声が低かったので、その、男の子かと…。」
時々どもりながら何とかそれだけ言って、ティレアはその少女の様子をよく見た。年齢は、自分と同じくらいだろうか。そんなに緊張することはない、と自分に言い聞かせるが、本当にそう思えたら苦労しない。なぜか足の先まで小刻みに震えていた。
「あの、私に何か用ですか…?」
震えているみっともない姿を見せたくなくて、早く会話を終わらせてしまおうと思った。
「ああ。なんか呪文みたいなのを唱えてたから、魔法の練習でもしてるのかなって思ってさ。」
「ま、まぁ、そんな感じ…ですかね。」
といっても、魔法はさっぱり使えないのだが。これでこの子もどこかに行くかな、と思っていると、彼女はとんでもないことを言い出した。
「どんな魔法なの?使って見せてよ。」
と、興味津々な顔つきで言ったのだ。ティレアとしてはかなり困る。何せ全く使えないのだ。見せようが無い。
「え、えっと…ウィクルって呪文なんですけど…分かります?」
とりあえずそう言ってごまかすことにした。失敗すると分かっている魔法を人前で使うなんてとんでもない。ティレアにはとてもできなかった。
「ウィクル…?ああ、私が苦手なやつだね。」
「え、苦手なんですか?」
ティレアは驚いた。自分と同年代でこの魔法を使えない人がいるとは思わなかったのだ。
「うん。あの魔法、ほんの少ししか魔力を使わないから、加減が難しいんだよ。私が使うと火の粉と言うよりは火の玉になる。」
「へ、へえ…それは、大変ですね…。」
そうか。この子は魔力を少しだけ使うということができないのか。それだと、自分の魔力を早く使い切ってしまうので、魔法使いとしての技術は未熟と言える。
「でも、使えるだけ、いいじゃないですか。」
反論するようにティレアは言った。
「私なんて、全然使えなくて…。」
(あれ、なんで私、初対面の人にこんなこと言ってるんだろう?普段なら、こんなこと、家族にだって話さないのに。)
「ほんと、人並みの力とか、才能があったらな、ってつくづく思いますよ。」
思わず呟く。どうしてこんなことを言えるのかは、まだ分からないままだった。少女は、何やら考え込んでいる様子で、ぼんやりとした口調で言った。
「その気持ち、分かるなぁ…。」
聞き間違えたかと思った。こんな独り言に反応してくれるとは思わなかったのだ。それに、自分の考えに共感してもらえたのも初めてだった。
「私も、人並みの魔力を持っていたら、きっと、こんなに苦しくなんかなかっただろうし、もっと友達ができていたかもしれないから…。」
(この子も、魔力を人並みに持っていなくて、魔法が思うように使えないのかもしれない。だとしたら、私と同じ…。)
「それって、やっぱり、嫌ですよね…。」
いつの間にか自分も少女に対して共感していた。自分がこんなにも自然に話すことができたのは、この少女に自分と同じものを感じていたからなのかもしれない。
「…あの、あなたの魔法を、見せてくれませんか?」
ティレアは言う。他人にこんなお願いをするのも初めてのことだった。少女は困ったような顔をして、少し視線を下に向けた。その表情は、唇を少し噛んでいるようにも見えた。悩んでいるのだろう。やっぱりいいです、と言おうとした時、少女が言った。
「…分かった。」
顔を上げ、ティレアの顔を見ながら、真面目な顔をする。
「魔法は…ウィクルでいいよね?」
それだけ言うと、少女は自分を落ち着かせるように一度大きく深呼吸をした。少女は手を伸ばし、手のひらを地面に向けて唱えた。
「火の粉の魔法…。」
魔力を使いすぎないように、だろうか。その声は小さく、聞き取ることさえ難しかった。だが、発動された魔法の威力は、かなり大きかった。
本来なら火の粉の魔法は、乾いた草に使っても燃え移らないほどの弱い魔法だ。だから、手のひらを上に向けていても手を火傷することはない。少し熱いだけだ。だが、この少女は、手のひらを下に向けている。つまり、手に直接当たったら危ないということだ。そして、その手のひらから放たれた魔法は、火の粉の一粒一粒が、少女の言っていた通り火の玉のように大きく、手のひらに六つも乗せられないほどだった。それがボトボトと熟れた果実のように地面に落ちると、そこに積もっていた雪は溶け、地面は黒く焦げた。
「あ、その…。」
ティレアは何を言ったら良いのか分からず、そんな声を出すことしかできなかった。
「ごめん。」
少女が言った。
「驚かせちゃったね。もっと自然に使える魔法にすればよかったかな…?」
申し訳なさそうに少女は言う。
「い、いえっ!そんなことありませんよ?確かに、驚きましたけど…」
ティレアは驚きながらもどこか安心していた。自分と同じような人がいることが嬉しかったのだ。そう考えると、自分は案外器の小さな人間なのかもしれない。
「そういう人も、いるんだなって思って…。」
少女は、その反応に驚いたようで、目を大きく開いていたが、やがてティレアと同じように安心した表情になり、可愛らしく微笑んだ。
「そっか…良かった。」
その様子を見てティレアもなんだか嬉しくなり、一緒に笑った。それから、空がもう赤くなりかけていることに気づき、慌てて言った。
「あの、名前。なんて言うんです?」
「えっ?」
知っておきたかった。こんなにも会話が弾んだ人は今までいなかったからだ。もし相手が許してくれるなら、仲良くなりたかった。
「名前…か…。」
少女は今までにないほど険しい顔をして考え込んだ。
「ごめん、名前は…言えない。」
少女自身も残念な様子でそう言った。何か事情があるのだろう。ティレアにはどうしようもない。
「また今度会えたら…その時はきっと、言えると思うから…。」
「別に良いですよ。無理にとは言いません。初対面ですし、仕方ないですよ。」
それでは、と言ってティレアは少女に背を向ける。しばらく歩いてから、思いついたように振り向いた。少女はまだそこで別れを惜しむように立っていた。ティレアは少女に声をかける。
「私、ティレアって言います。もし、今度会ったら、そう呼んでくれたら、とても嬉しいです。それでは、家に帰らないとなので。さようなら。」
家に帰るのがずいぶん遅くなってしまった。親がなんと言うだろう。そう思うと気が重い。
(でも…楽しかったな。)
他人とちゃんとした会話をしたのはいつ以来だろう。まだ自分が普通の魔法使いと思われていた頃。他人と比べられることがなかった頃。
(その頃に戻れたらなぁ…。)
そんなことをふと思ったが、それはすぐに頭の中から追い出した。
(そんなことになったら、あの子に会えなかったかもしれない。あの子とは、仲良くなれそうな気がする。今は、それでいいや。)
ティレアは家へと急ぐ。嬉しさからか、自然と駆け足になり、人の目も気にならなかった。きっと彼女とまた会える。そんな予感がした。
ーーーーーー
セクエは立ったまま、そこから動かなかった。彼女、ティレアと名乗っていたが、その子との別れを惜しんでいたわけじゃない。彼女の周りにあった、三つの魔力について考えていたのだ。
(あれは、間違いなく林で私を襲った魔力だ。だとしたら、なんであの子の周りにいるんだろう。もしあの子があの魔力を操っていたなら、私のことを初対面なんて言うはずないし…。)
それに、ティレアは魔法が全然使えないと言っていた。もしそれが本当なら、魔力を操ることもできないはずだ。
「うーん。なんか訳がわからないよ…。」
ぼそりと呟く。魔力を見つけて、とりあえずと思って彼女に声をかけてみたが、彼女自身からはほとんど魔力を感じられなかった。あれほどの魔力だったなら、おそらくあの魔力を操ることはできないだろう。にしても、あの魔力の少なさは異常だった。まるでどこかへ抜け出てしまったようで…。
(魔力が抜け出たよう、か…。)
自分の中で何かひらめきそうな気がした。彼女の魔力の少なさ、そしてその周りの魔力。それらが結びついて、もう少しで答えが出る。そう思った時、風に乗って何かを感じた。
(まったく、なんでこう次から次へと…。)
よく分からないものを感じ取ってしまったせいで、セクエの思考は止まってしまった。せっかく掴みかけた答えが指の間から逃げていくような感じがして気分が悪い。
セクエを悩ませているものはあの謎の魔力の他にもう一つあるのだ。それは、最近、村の外から何かの気配を感じることがある、ということだ。いや、正しく言えば、それは間違いなく魔力なので、魔力を感じると言った方がいいのだろうが、その魔力はかすかなもので、じっとしていないと見逃してしまいそうだった。魔法使いなら、もっと大きな魔力を感じるだろうし、魔道具だとしたら、これほどまでに大きな魔力にはならないだろう。
(村の中からでも感じられるほどの魔力。もしこれが魔道具だとしたら、かなり大掛かりな物になるはず。ケインが何も言わないのはおかしい…。)
ああ、まったく困ったものだ。他の人は何も感じないのだろうか。
(とりあえず、帰ってケインに相談、かな。)
自分一人で考えていてもどうしようもない。困った時は相談に限る。もしかしたら、アトケインが極秘で何かしようとしている、という可能性も無くはない。セクエは姿を消し、飛び上がって賢者の館へと向かった。
とりあえず自分の部屋に入る。もちろん壁をぬけて。窓から差し込む光は赤く、今が夕暮れであることを告げていた。机の上には三日月のような形をした道具が置いてある。
(ケインに言う前に、バリューガに渡しておいたほうがいいかな。)
あの、例の魔道具だ。バリューガはおそらく魔道具を使ったことがないのだから、早めに渡しておかないと使えるようにはならないだろう。
扉を軽く叩いて開ける。バリューガはそこにいた。
「うん?どうした?」
相変わらず気の抜けるような口調でバリューガは言う。
「これ、渡しておこうと思って。」
そう言って、セクエは魔道具をバリューガに見せた。興味津々、といった顔つきでバリューガが近づいてくる。
「へえ?何これ。」
「見てて。こうやって使うんだ。」
セクエはその道具に向けて少しだけ魔力を集中させた。すると、持っていた部分の先から光が出てきて固体になり、やがて長く平たい形の棒ができあがった。三日月のような形をした部分は持ち手だったのだ。
「これ、剣か?」
「うん。あくまで護身用だから、人に向けたら駄目だけど、これなら、魔法が使えないバリューガでも使いやすいと思ってさ。」
「ふーん、そいつはありがたいや。魔法っぽい物を渡されても困るしな。」
セクエは光を消し、それをバリューガに手渡した。それをまじまじと見つめながら、バリューガは首をかしげて言った。
「んで、これどうやって使うんだ?」
セクエは少しだけ困った顔をする。
「そればっかりは自分で感覚を覚えるしかないんだ。私がやってるやり方で言うなら、魔道具の中の魔力に呼びかけるって感じなんだけど、人によって違うみたいなんだよ。」
それに、剣使いが使えるかどうかさえ分からないのだ。だが、渡した手前、そんなことは言えるはずもない。かといって護身用に本物の短剣などを持たせていたら物騒なことこの上無い。なんとかこれを扱ってくれると良いのだが…。
「じゃあ、私、ケインに用があるから。」
思っていることを決して口には出さず、セクエは部屋を後にする。まあ、バリューガのことだから、なんとかなるだろう。気楽に考え、賢者の部屋に向かう。アトケインは今は暇を持て余しているらしく、壁に沿ってつけられている本棚から本を選んでは表紙を見て戻し、また本を選ぶことを繰り返していた。本の整理にも見えなくないが、実際には見て戻しているだけなので全く片付いていない。
「ケイン。ちょっと話があるんだけど…。」
セクエは声をかけた。不思議なことにアトケインはこの行為に夢中になっていたらしく、声に気づいて振り返るとこう言った。
「ん?ああ、セクエ殿。戻っていたのか。何か用か?」
セクエとしては呆れるしかない。さっき話があると言ったばかりではないか。仕方なくもう一度同じことを言う。
「話があるんだよ。」
「何だ?」
セクエは真面目な顔をして言う。
「最近、何かの気配を感じるんだけど、ケインは知ってるかな、って思ってさ。」
「気配?どこからだ?」
「村の外。だいぶ離れてるけど、それでも歩いて行けば十分もかからないくらいの所。」
「そうか…」
アトケインは何か考えているようだった。思い当たることが無いのだろうか。アトケインはセクエにさらに質問をした。
「どんな気配だ?」
「気配というか、魔力なんだけど、魔法使いにしては小さすぎる。でも、魔道具だとしたらかなり大掛かりなものになると思う。少なくとも、この村にはそんなに強い魔道具は存在しないはず。途切れ途切れでしか感じられないから、はっきりしたことは言えないけど…何か嫌な予感がする。」
「なるほど。魔力の多い者の予感は当たるというからな。近いうちに調べてみる必要がありそうだ。」
それから、アトケインはしばらく黙っていた。何を考えているのかセクエには分からなかったが、やがて申し訳なさそうに言った。
「すまない。セクエ殿にお願いしてもいいだろうか。」
「…どうして?」
何かあるのだろうか。まあ、賢者である以上、忙しいことは仕方ないが…。
「魔法使いである可能性が低いということは、それは剣使いである可能性が高いということだろう?こう言ってはなんだが、私はまだ、剣使いというものに馴染めていない。それならば、セクエ殿の方が得意なのではないかと思ってな。完全に私のわがままなのだが、構わないだろうか?」
そうか、とセクエは思う。確かに賢者という立場上、バリューガと会話する機会は多いだろうが、それでも長い間剣使いと関わったことはなかった。それに、今回は自分が嫌な予感がすると言ったのだ。不安がらせてしまったのかもしれない。
「分かった。良いよ。」
というより、この状況で嫌だとは言えないだろう。剣使いに慣れているといえば、確かにセクエの方がずっと慣れているのだから。
「そうか。本当にすまない。」
「そんなに謝らなくていいよ。仕方ないことなんだから。」
セクエは部屋を後にする。自分の部屋に戻り、とりあえず、と椅子に座ると、またあの妙な気配を感じてしまった。不快だ。本当に誰も感じていないのだろうかと不思議に思う。
(まあ、魔力が多いから敏感になってるんだろうな。)
ティレアの言葉じゃないが、人並みの魔力というものはやはり憧れる。他の人には感じられない何かを自分は感じてしまうのだから。
(でもまあ、そのおかげで村の危険を察知できるなら、それでもいいのかもしれない。)
いつの間にか気配は感じなくなっていた。もう日が暮れる。調べに行くのは明日にしよう。隣の部屋でバリューガが魔道具をいじる気配を感じながら、セクエはベッドにもぐった。
ーーーーーー
朝が来た。起きる。朝ごはんを食べ、家を出る。この時間は三番目に嫌いだ。ティレアはそう思った。自分よりもできのいい人たちが周りにいる所で目覚め、自分よりもできのいい人たちとともにご飯を食べ、そしてようやく家を出るのだ。嫌に決まっている。
歩きながら学校へ向かう。何人かの生徒たちに追い越されながらとぼとぼと歩く。この時間は二番目に嫌いだ。ティレアはそう思う。自分より才能のある年下に追い越されながら歩くのだ。しかも一人。こんなに寂しいことはない。だが、ここまではいい。まだ許せる。一番嫌なのは、一番嫌なのは…。
ティレアは学校の校門をくぐり、校舎の中に入る。まっすぐに自分の教室へ向かい、一言も何も言わずに席に着く。教室はまだざわざわしていて落ち着きがない。だが、やがて先生が教室に入ってくる。生徒たちの話し声が止まり、緊張感が高まる。起立、と言う声。礼、着席、とその声は続き、ティレアを含めた教室の生徒全員がそれに合わせて体を動かす。ティレアは教科書を机の上に置き、言われた通りの場所を開き、先生が読み上げる場所を目で追う。
(こんなことくらい、全部知ってるのに。)
実技ができないティレアは、その分知識だけは豊富だった。ティレアからすれば、教科書に載っていることは全て、空は青いです、という程度の常識であり、それをただ先生がベラベラと述べるのは実に退屈だ。
「おい、そこ。聞いているのか?」
とうやら退屈なことが態度に現れていたらしい。先生に目をつけられてしまった。
「ではティレア、ここの部分を読み上げなさい。」
(まただ…。)
いつもこうだ。なぜ自分が読まなければならないのだろう。他にも態度の悪い子はいるのに。しかし、反論する勇気はティレアには無い。仕方なく立ち上がり、言われた部分を読み上げる。
「えっと…『魔法には、それぞれ呪文が決められている。炎はヴァナス。風はエルマ。水はカルス。力はタズハム。その他多くの呪文が存在し、それを唱えることによって魔法使いは魔力に命令を与え、魔法を扱う…」
くすくす、と笑い声が聞こえた。思わず声を止めてしまう。
「バカだよな、あいつ。」
「あんなこと言って、魔法なんて全然使えないくせに。」
「この教科書、間違ってるんじゃない?」
「違うよ。あいつはきっと剣使いなのさ。」
そんな声が聞こえる。この瞬間が一番嫌いだ。自分が立って読んでいる部分を、自分は知っているだけで、実際にすることはできない。そしてそれをからかわれる。助けてくれるかと思ってちらりと先生の顔を見る。一瞬だけ目が合った。
「どうした?早く読みなさい。」
どうやらこの悪口に対して何も言うつもりはないらしい。まあ、当然か。私なんて、かばったところでなんの得にもならないのだから。
「また止まったぞ、あいつ。」
「さっさと読めよ。」
「文字も読めないほどバカなのか?」
くすくす、くすくす。
笑い声が自分の周りをぐるぐる回っているようだった。嫌だ、嫌だ。私だって、私だって…!どうして私だけ、どうして…。
いつものことだった。だが、今日は堪えることができなかった。ティレアは教科書を閉じ、あまり音を立てないようにして机の上に置くと、並べられた机の間を通り、転ばそうと突き出された生徒たちの足を避け、先生の前を通り抜け、歩いて教室から出ていった。普段目立つようなことをしないティレアがとった突然の行動に、周りは驚いたのか、それとも面白がっているのか、誰も止めない。誰も追いかけてこない。
(私がいなくても授業が進むなら、私なんて、いる意味が無いじゃない。)
どうせ教科書の内容はほぼ全て頭に入っているのだ。今さら読み上げる必要がどこにあるというのか。ティレアは呆然としたまま歩き続ける。校門についた所で、ティレアはようやく止まった。鍵がかけられている。魔法が使えれば、鍵を壊すこともできるだろうが、そんな芸当はティレアにはできない。ティレアだけができない。
(閉じ込められている…。)
唐突にそう思った。本来なら、この鍵は閉じ込めるためではなく、外部の人間の侵入を防ぐためのものなのだが、今のティレアには、どうしてもそうは思えなかった。
(でも、もしここから出られたとして、どこに行けばいいんだろう…。)
家には、絶対に行きたくない。今の時間なら、家族全員が家にいる。そんな中に自分から飛び込むなんてとんでもない。それに、こんなに早く帰ってきたら、学校で何があったのかと問い詰められる。答えるのでさえ辛いのに、その後さんざん小言を言われ、学校に連れて行かれるに決まっているのだ。
かといって、教室に戻るのも嫌だ。あんなふうに教室を飛び出して、しばらくしてから思い出したように教室に入ったら、それこそ生徒たちの笑い者にされる。先生からは、帰ればよかったのに、という、まるでゴミでも見るような視線を向けられるのだろう。
(味方が、どこにもいない…。)
当然と言えば当然だ。でも、だけど…
(私だって、魔法を使ってみたいのに。みんなみたいになりたいのに。みんなよりもずっと勉強してるし、知識だってあるし、筆記試験は一番なのに…どうして私だけができないの?)
どうしようもなく涙が溢れた。この涙は、自分に向けたものなのか、それとも生徒たちに向けたものなのか、はたまた先生に向けたものなのか、ティレア自身が分かっていなかった。悲しくて泣いているのか、悔しくて泣いているのか、辛くて泣いているのかも分からなかった。ティレアは校門のすぐそばに植えられている木の根元に座り込んで膝を抱えると、その膝に顔をうずめるようにして泣いた。鳴き声はあげなかった。ただでさえ目立つことをしているのだ。これ以上目立ちたくない。
ー私も、人並みの魔力を持っていたら、きっと、こんなに苦しくなんかなかっただろうし、もっと友達ができていたかもしれないから…ー
あの子の言っていた言葉がふと頭の中をよぎった。
(あの子に、会いたいなぁ…。)
初めてまともに話した人。初めて自分の立場に頷いてくれた人。あの子になら、バカにされたって構わない。あの子だって、少なからず私と同じような悩みを持っているはずなのだから。
ここで、ティレアはふと、少し前の自分なら、トモダチを呼び出していただろうな、と思った。自分はもうトモダチを必要としなくなっているのか、とも思った。だが、トモダチを呼び出す気にはどうしてもなれなかった。
(ああ、会いたいな。)
白い帽子をかぶったあの子に。青い目をしたあの子に。名前さえ知らないあの子に。会いたい。
ーーーーーー
「そろそろかな。」
明るくなった空を窓から見上げながら、セクエは呟いた。もうそろそろあの気配を確かめに行かないといけない。少し怖いが、後回しにするわけにはいかない。確かめに行かなければ。セクエは気持ちを奮い立たせ、毛糸の帽子をかぶって髪を隠すと部屋から飛び出した。姿を消すための透明化の魔法も忘れない。
(どうせ見えなくなるなら、帽子なんて必要無いような…。)
そんなことをふと思ったが、気にしない。セクエはまっすぐに飛んだ。木々の間を縫うようにして気配の方へと進む。
(あれ…?)
何かおかしい。それに気づいてセクエは速度を落とした。嫌な匂いがする。この匂いは何だろう?
(確実に、誰かいるみたいだね。)
相手を驚かせるとまずいかもしれない。そう思ってセクエは透明化の魔法を消し、地面に降りて歩いて進むことにした。昨夜も降ったのであろう雪が、足の下でギュッ、ギュッと音を立てる。慎重に進んでいくと、木が途切れている所があった。それほど広くはない。家を一つ建てたらそれで埋まってしまいそうなほどの広さでしかなかった。セクエは木の陰に隠れ、様子をうかがった。
広場のちょうど中央の辺りに、魔道具が置いてあった。自分が感じていた気配はこれのものだろう。地面に突き刺した杭のような物の先端に大きな宝石が付けられている。その周りには、数個の木箱や数人の人影が見えた。人影は、しゃがみこんでなにかしているようだったが、何をしているかまでは分からない。一つ、壺のような物も見える。妙な匂いはそこから来ていた。
(こんな所で何をしているんだろう?)
セクエが首を傾げていると、声がした。
「誰だ。」
驚いた。足音を立ててここまで来たのだから、気づかれていて当然なのだが、それでもセクエは思わず息を止めて静かにした。
「そこにいるんだろう?何もしない。出てきてくれ。」
セクエは警戒しながら、おそるおそる姿を現した。人たちの視線がセクエに集まる。気を抜いちゃいけない。そう思ってセクエは唾を飲み込んだ。
「こんな所で何をしているの。」
セクエは声に感情を出さないようにして言った。
「君が心配するようなことじゃない。私たちは悪いことをしようとしているわけじゃあないんだ。」
男が答えた。よく見れば、ここにいるのは全員が男だった。話しているのは中でも偉そうな、頭領といった感じの人だった。セクエは質問を続ける。
「何をしているかきいてるの。その質問に答えて。」
「それなら、まずこちらの質問に答えてもらおうか。君のような子供がなぜこんな森の奥にいる?」
セクエは一瞬答えるかどうかで迷った。下手に相手に情報を与えない方がいいのではないか。だが、相手のことを知るためには質問に答えなければならないようだった。セクエは仕方なく必要なことだけを短く答えた。
「…私は、ここの近くに住んでいる。この辺りから妙な気配がするから、怪しいと思ってここに来た。それだけ。」
嫌な匂いがツンと鼻をつく。セクエは思わず顔をしかめた。男は質問を続けた。
「この近くに人が住んでいるのか?聞いたことがないな。」
セクエはまた唾を飲み込んだ。嫌な匂いが気になってしかたがない。
「聞いたことがないなんて、そんなこと、私は知らない。あなたたちが知らないだけでしょ。そろそろ私の質問に答えて。」
セクエはそっけなく答える。男は立ち上がり、何もしない、というように両手を広げて見せた。そして続けて言った。
「まあ待て。最後にこれだけきかせてくれ。」
男は何が面白いのか、ニヤリと笑って言った。
「君は…魔法使いか?」
「…そうだよ、剣使い。」
彼らは剣使いだ。そのことに気がつかない訳がなかった。この男たちからは魔力を感じない。だからこそセクエは警戒しているのだ。男はそれを聞くと、さも満足したように笑い出した。そしてひとしきり笑うと、何かの道具を取り出し、セクエに見せた。筒のような形をしている。だが、持ち手がついていて、その部分を持つと、ちょうど相手に筒の口が見えるような形になっていた。
「これが何だか分かるか?」
「私の質問に…答えて。」
そう言いながら、セクエは何かがおかしいということに気づいていた。体に力が入らない。少しめまいもするようだった。男は質問に答える気は無いらしく、セクエを無視して続けた。
「この道具は魔法使いは知らないことが多い。これは『鉄砲』と呼ばれる道具でな。持ち手についている引き金を引くと、凄まじい速さで弾が飛び出す。目で追えないほどの速さだ。君にそれが想像できるか?」
セクエは男から目をそらさないようにして、自分の体の異変の原因を探った。見当はだいたいついている。あの壺から出てくる匂い。あれが何かを引き起こしているのだろう。すきを見て逃げ出したほうがいいかもしれない。
「だが、この鉄砲からは弾ではなく網が出てくる仕組みになっている。つまりは網鉄砲だ。」
体からは力が抜け続けていた。セクエは無理に立とうとはせずにその場に座り込む。彼らが何をしようとしているのかはだいたい分かった。あとは、なんとかこの場から逃げればそれでいい。
「だいぶ毒が効いてきたようだな。」
男は『鉄砲』とかいうものをこちらに向けてそう言った。
(なるほど、毒か。あの壺から毒が出ているんだ。)
「君はさっきから目的は何だときいていたな。それに答えてやろう。俺たちは狩人だ。この網鉄砲を使ってあるものを狩る。」
男はニヤリと笑う。
「獲物は…お前たち魔法使いだ。」
それを聞いて、セクエも少しだけ笑った。それが聞きたかった。逆に言えば、それさえ聞ければもうここには用はない。できるだけ余裕そうな口調でセクエは言う。
「この程度で、私が捕まえられるとでも?」
バカバカしい。こんなもの、メトに操られる時に使われた魔法と比べれば遊びのようなものだ。体は動かないが、魔法は自由に使える。本気で魔法使いを捕まえるなら、封じるべきなのは行動ではなく魔法だ。そんなことさえ分からない彼らに、セクエは捕まるはずもなかった。
「威勢だけはいいようだな。」
男は引き金を引く。バン、という音とともに、まさしく凄まじい勢いで網が飛んできた。だが、男とセクエの間には少しばかり空間がありすぎた。転移魔法を使って逃げる前に、セクエは網を見て、その勢いを確認するだけの余裕があった。網はセクエを捕らえることはできず、ただむなしく地面に広がっただけだった。
「消えた…?」
引き金を引いた男とは違う、別の男が呟いた。それを聞いて頭領の男は言う。
「違う。転移魔法だ。あの年齢で使えるとはすごいな。」
「どうします、お頭。あのガキに自分たちのことを知らされたら、まずいですよ?」
頭領は答える。その声は自信に満ちていた。
「問題ない。あの村には一人、剣使いがいる。村人全員に俺たちのことを伝えれば、そいつの立場が危なくなるだろう。あのガキはそんなことはしないはずだ。」
「どうしてそんなこと分かるんです?」
「高度な魔法を使う者は、それだけ賢いということだ。あいつはかなり賢い。そうでなかったら逃すわけがないからな。」
頭領は男たちを振り返り、言った。
「何も心配することは無い。俺たちはただ、計画通りに準備を進めればいい。明日の昼までには準備を終わらせろ。準備ができたらすぐに襲撃開始だ。いいな。」
ーーーーーー
(なんとか、逃げられたみたいだね…。)
村まで転移したセクエはまずそのことを理解し、そして安心した。セクエはなんとか立ち上がると、現在地を確認するために飛び上がった。体が重い。だいぶ毒がまわっているようだ。どれほど毒なのかが分からないので、できるだけ早くアトケインの所へ戻りたかった。だが、現在地を確認する前に、セクエは自分の方に三つの魔力が向かってくるのを感じた。思うように動けないため、避けることができず、結果的にその魔力と正面衝突することになった。
すると、その魔力から強い意思が流れ込んできた。どうやら今は読心術を制御できていないらしい。これはまずいな、と思いながらも、セクエは頭の中に響く声に耳をすませた。
『てぃれあ、トモダチ…』
『トモダチ、アブナイ。』
『トモダチ、タスケテ!』
その三つの声が頭の中を走り回る。
(ティレアが、危ない…?)
この魔力たちはそれを自分に伝えにきたのだろうか。まったく、いきなり襲いかかったり、かと思えば助けを求めてきたり、忙しい魔力たちだ。
(近くにいるのかな…。)
アトケインに報告に行かなければならないのだが、彼女のことが気になった。どうせ助けを求められているのだから、行ってみるのもいいだろう。セクエは魔力に向かって言った。
「分かったよ。ティレアはどこにいるの?」
魔力がセクエから離れて移動を始める。セクエはそれを追った。本当は一刻も早くこの毒をなんとかしたいのだが、セクエはティレアのことを良く思っていた。簡単に言うならば、仲良くしたいと思っていたのだ。助けを求められているなら、助けに行きたいというのは本心だった。
しばらく進むと、目の前に建物が見えてきた。家、ではないようだ。敷地も広い。こんな所にティレアがいるのだろうか。だが、心配する必要はなかった。ティレアは門のような所のすぐそばでうずくまっていたからだ。
「ティレア…?」
そっと声をかけてみる。前回と同じように驚かれたくなかったからだ。しかし、ティレアはやはりビクッとして顔をあげると、目の前の光景が信じられないように両目を大きく見開いた。
「え、あ、嘘…。」
口をパクパクさせながらそんなことを呟き始めた。そんなに驚かせただろうか?
(ああ、浮遊魔法を使っているからかな?確かにこの魔法が使える人は少ないし、私は魔法が苦手だと思っているみたいだし、仕方ないか。)
セクエは地面に降りて、ティレアのそばに寄った。そばまで来てから気づいたが、ティレアは泣いているようだった。
「どうしたの?何かあったの?」
「ど、どうしたのって…それは私が言いたいですよ!授業、受けなくていいんですか?」
(授業?ああ、そうか。ここは学校なのか。あれ、でも、だとしたらティレアはなんでここにいるんだろう?)
「私、学校の生徒じゃないよ?」
セクエとしては、普通に答えたつもりだったのだが、ティレアを余計に驚かせてしまったらしく、ティレアは立ち上がって大声を出した。
「ええっ?生徒じゃ、ないんですか?だったらどうしてこんな所にいるんですかっ!ここ、どこか分からないんですかっ?学校ですよ!学校!勝手に入ったら駄目なんですよ?」
セクエが知っている限り、ティレアはおとなしい性格、というよりむしろ臆病なくらいだった気がするのだが、そんな彼女にいきなりこんな大声を出されても困る。
「だって、ここ、壁だってそんなに高くないし、結界も張ってないし、出入りなんて簡単だよ?これで立ち入り禁止って方がおかしい気がするんだけど…。」
「それは、浮遊魔法を使える人が少ないからですよっ!普通の人は超えられませんよ!」
「そんなこと言われても…。」
セクエは辺りを見渡す。この辺りにはどうやらティレアしかいないようだ。
「ティレアは、何してるの?周りには誰もいないみたいだけど。」
「えっ?そ、それは…。」
ティレアはさっきまでの勢いをどこへやったのか、再び座り込んで膝を抱えてしまった。そして、呟くように言った。
「私、いじめられてる、から…。」
「何か言われたの?」
「当然じゃないですか。魔法を使えないのは私だけで…だからみんな、私のこと、バカって言ったり、剣使いだなんて言う人もいて…。それで…。」
「嫌になって授業を抜け出した、ってこと?」
ティレアは顔を合わせず、ただ黙って頷いた。セクエは上を見上げてしばらく考えた。セクエは、ティレアには別に魔法が使えないわけではないと思っている。ただ、自分の能力に気づいていないだけなのだ。どうしたらいいだろう…。
「じゃあさ。」
セクエはティレアに手を差し出した。
「逃げちゃえばいいんじゃない?」
ティレアはしばらくきょとんとして、何を言っているのか分からない様子だった。セクエはじれったくなってティレアの腕を掴むと、再び空に飛び上がった。
「え?ちょっと!え、え?」
わけのわからない悲鳴を上げながらティレアは落ちないように必死でセクエの腕にしがみついた。それを見てセクエは呆れて言う。
「手をつないでいれば、落ちたりしないよ。私も魔法でティレアの体を支えてるから。」
「ど、どこに行くつもりなんですかっ!」
「とりあえず、その辺り。」
「その辺りって…ていうか、学校はどうする気なんですか!」
「もう戻るつもりなんてなかったでしょ?学校にいると思われていたのに、いつの間にか学校の外にいた、なんて、なかなか面白いと思うんだけど。」
「全然面白くありませんよ。」
そんな話をしている間に、ティレアも浮遊に慣れてきたらしく、だんだんとセクエの腕にしがみつくのをやめた。だが、いつまでも飛んでいると疲れるので、慣れてきたティレアには申し訳ないが、セクエは人気のない所を選んで着地した。そこは村の端、剣使いを見つけた所から一番離れた所だった。
「こんなに魔法ができるなら、学校に来ればいいじゃないですか。親に相談すれば、きっと良いって言ってもらえますよ?」
着地するなり、ティレアは言った。セクエとしては少し困る。
「それは…無理かな…。」
「そんなことありませんよ。別に、資金だって必要ないわけですし。」
「そうじゃなくてさ。」
セクエは言う。少し、言いにくいことではあったが、それでも別に構わない。
「二人とも、もう…いないから。」
それを聞いたとたん、ティレアは申し訳なさそうな様子で言った。
「ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ…。」
「いいんだよ。別に。ずっと前からそうだったしね。今さら何も思わないよ。」
ティレアはそれでもなんとか話題を変えようとしたのか、こんなことを言った。
「そ、そういえば、名前。」
「え?」
「今度会ったら、言えるって行ってたじゃないですか。なんていうんです?」
ティレアの狙い通り、話題は変えられたが、この質問にも困った。もしティレアがセクエという名前を知っていたら、きっと怯えてしまうだろう。でも、言わないとそれはそれで怪しまれてしまう。少し悩んでから、仕方なく、セクエはぼそりと呟くように言った。
「…セクエ。」
「セクエ、ですか?」
ティレアが驚いたような顔をする。知っていたのかもしれない。だとしたら、自分はどうなるのだろう。村ごと敵に回すことになってしまうかもしれない。自分はそれだけのことをしたのだから。
「きれいな、名前ですね。セクエさんって。」
少し恥ずかしそうにティレアは言った。
「きれいって?」
「えっと、なんていうか、音が。」
(音がきれい、か。)
当然、今までそんなことを言われたことなどなかった。この名前を聞けば、たいていの人が自分を睨みつける。そんな程度の名前だと思っていた。正直に嬉しかった。
「…ありがとう。」
もう少し話がしたかった。だが、なんだか急に体がだるくなった。毒のことをすっかり忘れていた。
「ごめん。私、そろそろ行かないと…。」
そこまで言ったところで、セクエの中で魔力が急激に大きくなった。毒のせいでうまく制御ができないため、セクエは立ったまま魔力を抑えることができず、その場に崩れ落ちてしまった。体から溢れ出そうとする魔力をなんとか抑え、胸元のネックレスを手探りで探し出し、強く握った。
とたん、ネックレスは強く青く光りだし、セクエの中の魔力が少しづつではあるが治まっていった。セクエはほっとしたが、今度は毒のせいだろうか、体に力が入らない。
(寄り道しすぎたかな…。)
こんな自分を見て、ティレアは何を思ったのだろうか。慌てた様子でこちらに駆け寄り、背中にそっと手を添えた。
「だ、大丈夫ですか?具合が悪いんですか?」
そんなふうに声をかけていたが、セクエはそれに対して何の反応もすることができなかった。ただ、自分の息が荒いということだけは感じていたが、頭がぼうっとして、何も考えられなかった。
「あっ…これって、ひょっとして…。」
ティレアはふいにそんなことを呟いたかと思うと、いったんセクエから手を離し、それから再び背中に触れて、そしてゆっくりとさすった。ティレアの中のわずかな魔力がセクエの中に流れてくるのをぼんやりと感じた。
「大丈夫ですよ。きっと、すぐによくなりますから…。」
落ち着かせようとしているのか、ティレアはそんなことを耳元で囁いていた。ティレアが何をしているのか、セクエには分からなかった。セクエはティレアが使っているこの魔法のことを知らなかったし、意識もはっきりしていなかったからだ。だが、次第に体が楽になり、意識が戻ってきた。するとティレアはその手を離し、体を支えながらなんとか立たせると、心配そうな様子でセクエの顔を覗き込んだ。
「家まで、送りましょうか…?だいぶ、疲れているみたいですし…。」
セクエは首を横に振る。さすがに家までついてこさせるわけにはいかないだろう。セクエの家は賢者の館で、それを知ったらティレアはきっと卒倒するほど驚くだろうから。それに、疲れているのはティレアも同じだった。さっきの魔法で、魔力をほとんど使ってしまったのだろう。顔色が悪い。
「私は、大丈夫だよ。一人で帰れる。ティレアも、少し休んだほうがいいんじゃない?」
「…それもそうですね。じゃあ、さようなら。おだいじに。」
セクエは飛び上がって賢者の館を目指した。体には負担がかかるが、それでも歩いて行くよりはいいだろう。近くまで来ると、セクエは周りに人がいないことを確認し、すり抜けの魔法を使って賢者の部屋に飛び込んだ。その瞬間、村の外に出ないほうがいいとティレアに警告しなかったことがふと頭をよぎったが、今は報告することが大事だと気に留めなかった。