第四章:仮宿
「お部屋、二階のすぐ右となります」
食事を終え支払いを済ませると、先程の女将が奥の厨房から出て来て、俺達に向かってそう言った。
しかし、その階段は何所だ? と、首を傾げながら辺りを見渡せば、女将が指先で――厨房の暖簾と、勘定台の間の隙間を指差した。
好都合ではあるが……随分と目立たない場所にあるんだな。
しかも、一人ずつしか上がれない幅だ。
襲撃者対策には、これ以上ないくらいの好条件だった。
となれば――。
……そうだな、時間はまだ大分早いが、一度部屋を改め、少し休んだほうが良いかもしれない。俺なら二~三日なら、全く休まずとも動き続けていられるが、千鶴の方はそうはいかないだろうし。
そう判断し、顔を横に向けると、すぐに休む、という展開を予想していたのか、千鶴の左手が目の前に差し出された。
薄く目を閉じ、問答を拒否するように口も閉ざして澄まし顔の千鶴。
まあ、この場合は、受けない方が不自然だし、乗ってやろう。
手を取った瞬間、仲がよろしい事で、というひやかしの笑みを向けられたが、俺は特に表情を変えずに千鶴の手を引いて二階へと上がろうとした。
その時、はたと、何かに気付いた様子の女将から声を掛けられた。
「其方様、何とお呼び致しましょ?」
「俺はクスシ……ああ、薬の師匠で、薬師だ。それでいい。コイツは、千鶴だ」
一応、俺の方は偽の苗字で、千鶴はそのまま本名を告げた。自分の下の名を言わなかったのは、偽装の意味もあるし……そもそも、千鶴が俺を呼ぶ際には、おそらく下の名なのだろうと推察したからでもある。
苗字は、まあ、嫁ぎたてと言えば、多少は間違えても誤魔化せるだろう。
「はい、薬師御夫婦様ですね」
男の嫉妬という部分も考慮しての言動か、千鶴の名を改めて確認する事無く、女将は料金分の愛想で、俺と千鶴を見送った。
やれやれ、と、視線を天井へ向けながら首を斜に傾け、生暖かい視線を茶化してから俺は階上へと逃れる。
だが、階段の半分まで上がった所で、千鶴の様子がおかしいのに気付き、ふと立ち止まった。
黙々とついては来ているが、足取りに力を感じない。
耳を澄まして軽く辺りを探ってみる。二階に人の気配は無く、階下も夕餉に訪れる客の準備に忙しいのか、俺達を気にしている気配はない。
部屋まで行かずとも、これなら少しは時間を取れる、か。
「どうした?」
振り返り尋ねると、狭い階段の二段を挟み、俺と千鶴の視線が真正面からぶつかった。
質屋の時と同じになったなと思いながら、電車の際に訊きそびれた、夫婦という単語に千鶴が思う所を探るには良い機会か、とも思い、少し話してみる事にする。
「いや……お前が、ワタシの名を呼んだのは……初めてだろう? そういうことだ」
憮然とした顔で千鶴が言ったので、俺がその名を呼んだのが気に食わなかったのだと、すぐに察した。
しかし、家の事もあるだろうし、岩倉と呼ばれるのは嫌かとも思って気を利かせたつもりだったのだが……。
いや、もっと根本的に、呼び捨てだから気を悪くしたのか?
まったく、敬称付きで呼ばれる尊大な人間は、これだから。
「ああ、慣れない偽名では、かえって拙い場合も有るしな。……しかし、岩倉と呼ばれたいのか?」
それなら、別に俺の方は呼び名など幾らでも適応出来るので、今後名乗る場合には岩倉夫婦としても構わない、という雰囲気で、俺は最初の推論の確認をしてみた。
もし、これに同意しなければ、問題としているのは敬称の方なんだろうが、夫婦でさん付けなども出来ぬし、そこは、我慢させるしかない。
「そういう意味では無い」
憮然とした顔のままで、千鶴は――先程よりは、声に不満を滲ませて答えた。
なら敬称の方かと、早合点しそうになった所、千鶴がもう一言を付け加えた。
「悪くない、耳心地、だったと……言っておるのだ」
意外な返答に吃驚して、まじまじと千鶴を見れば、千鶴はようやく普通に照れた反応を示した。
……どうやら千鶴は、嬉しさから照れると、不機嫌に見える態度を取るらしい。
随分と変わった習性だな。
「そうか」
謎が解けた俺は、再び歩き始めようとして――千鶴に呼び止められた。
「それだけか?」
振り返る顔に浴びせ掛けられたのは、疑問の形を取った千鶴からの要求。
「ああ……尤も、そう言う千鶴は、俺の名を呼んだのは最初の一回だけだがな」
特に甘やかす理由も無かったので、俺は単なる事実を伝えて誤魔化す。
「それは……その」
「ん?」
図星を指摘されたからか、言い難そうにしている千鶴に、意地悪く追求する顔を近付ける。
間合いが五寸を切った所で、逆上したように千鶴が小さく叫んだ。
「は、恥ずかしいし、悔しいじゃないか!」
悔しい?
恥ずかしいは、理解出来ない事も無いが、悔しいと言われた理由に首を傾げると、千鶴は開き直ったのか、そんな俺に向かって理由までも披露した。
「お前は、ワタシをワタシと同じように想ってくれていないのに、ワタシだけが名前を呼ぶ度に、意識しているのでは」
「成程……なら無理強いはしまい」
さっきよりはやや冷めた目で返した俺は、千鶴が話したい事は概ね済んだようなので、再び踵を返して階段を上がり始める。
基本、千鶴の好きにはさせるつもりだが、それは俺自身も同じで、俺は俺が好きなようにしか動く気は無い。
そして俺は、はっきり言って、千鶴を娯楽以上の意味で見ていない。
つまり、返答で暗に示したのは、そういう事だ。
「食えん男だ」
微かに背後から千鶴がぼやくのが聞こえたが、俺はそれが聞こえなかった振りをして、二階に上がって最初の右手の襖を開けた。
部屋は和風で、壁は真っ白な漆喰、さすがに畳は新しくはないが、汚れが目立つようなことは無かった。地方ではあまり普及率の高くはない電灯もきちんと付いている事も考えれば、副帝都という事を踏まえても、かなりの上等な部屋であった。
「布団は敷いておくか?」
部屋の隅で、四段積みになった座布団の上に崩れ落ちるようにして座った千鶴に、尋ねてみる。
寝るには確かに早い時間だが、壁に身を預け、足も投げ出して座布団の上に乗っている千鶴は、どう見ても横になりたそうだ。
「ああ」
俺以外の人目が消え、疲れを改めて認識したからか、千鶴はざっくばらんに答えた。
やれやれ、と、何も疑問に思わずにかつての良家のお嬢様の立場で命令し続ける千鶴に、呆れた目を向けたが、ま、頂く予定の金の分は働いてやるか、と、自分で訊いた通りに、押入れから布団を出して床に敷いた。
ちなみに、押入れにあった布団の数は四つ。
本来は、子供連れ等、もっと大人数に貸す予定の部屋だったんだろう。
布団を簡単に敷き終われば、千鶴は、まさに敷き終えたその瞬間、布団の上に倒れこむようにして横になった。
しなやかな背中の曲線と、腰のくびれ、露な膝下、さらりと流れた黒髪。
俺を信頼し切っているのか、単に、そうした行為を考えられるほど精神は大人じゃないだけなのか、千鶴は、臥所を共にする恋人でも夫でもない男の前で、無邪気に寝転がっている。
尤も、そういう気はお互いに無いのだし、どちらでもいいか、と、短く嘆息し、無防備な姿を晒す千鶴に、現実感を取り戻させる一言を枕の横で俺は告げた。
「口座は幾つかに別けた、千鶴にも三つほど預けておく」
「何故だ?」
うつぶせの千鶴は、首だけを横に向けて俺の顔を見上げ、枕に口を押し付けたくぐもった声で訊き返してきた。
「用心に越したことはないだろう?」
含み笑いで返事した俺だが、千鶴はその内容を察しなかった。
上流階級は財布さえも自分で持たないから、危機管理がなっていないのは当然、か。
「ワタシは、それをどう使うかも知らぬし、実際、きちんと持っていられる自信も無い。だから、お前が――」
「俺を特別に思うな」
千鶴の甘えるような言葉を遮り、冷徹な目を千鶴に向ける。
突き放されたと感じたのか、布団の上で佇まいを直し、ほんの少し泣きそうになりながらも、それでも言い返そうとした千鶴を手で制し、本当は一番に千鶴が懸念すべき事を教えてやる。
「金を持って逃げるかも知れんぞ?」
冗談めかせて、ではあるが、含みのある表情を向けると、流石に千鶴もその可能性に気付き、目を険しくさせた。
事実、半分に分けたとしても、その後の人生に苦労の要らない額の金が、ここにはある。
再び心変わりするのには、充分な理由だろう。
「嫌だ」
心情を露骨に顔に出し、率直に答えた千鶴。
危険性は認識したらしいが、危険に対する予防線を張るのではなく、危険自体を否定することで、千鶴は安心したいようだ。
「好き嫌いの問題では無い。そういう可能性や、心変わりもある以上、用心しておくのはお互いの為に必要だと言っている」
子供を諭すように、ゆっくりと話す俺ではあるが、千鶴は全く耳を傾けてはくれなった。
「ワタシ独りでは、どうにも成る筈が無いだろう。だから、断る」
確かに筋は通っているのかも知れないが、いつまでも俺に頼りっ切りなら、そう遠くない未来に千鶴の人生は終わるだろう。
半永久的に俺が付き従う、なんてことは無い。
千鶴に組した理由が、面白そうだったから、である以上、より面白そうなことさえ見つかるなら、俺はいつでも千鶴を手放す。
千鶴は、いまいち、そうした俺の性質を理解していない節がある。
いや、自分にとって都合の良い部分以外は、見ない振りをしているのか?
おそらく、そうだろう。
遣られて嫌な事は、想定しない、したくない、というのが本音だろうな。
だから、こんな簡単に、想いを向けてくる。必要性という本能で理解している部分を、安易に美化した心情と誤解する。最も欲しい、恋人――もしくは、恋心という存在を、丁度、近くに居て、歳も近かった俺に当て嵌めようともしている。
誰もが通る道で、そうした未熟さ故の依存は普通なのかもしれない。
しかし、未熟な人間に世界は優しく出来ていないのも事実。
「では、俺が居なくなれば死ぬのか?」
優しさを一欠片も混ぜずに、俺は嘲笑を浮かべながら尋ねた。
「信じさせてくれ」
千鶴は、俺の態度に全く動揺せずに言い切り、真っ直ぐに俺の目を見た。
ほんの僅かな疑惑さえも抱いていない、信じきった瞳で。
「……それだけは、よせ」
「信じたい」
熟慮させようとしても同じ言葉しか発しない千鶴に、首を横に振って、千鶴が連呼しているその言葉の真意を教えてやる。
「信じるという事は、ある種、美徳かもしれないが、目を曇らせるという事と同じ意味だ。……だた、相手を盲信するだけでは、決して理解はし合えないぞ」
「……ワタシは、お前を信じている。だから、お前もワタシを信じれば良いではないか」
これ以上は言葉を重ねても無駄だと判断し、無言で通帳を差し出す。
どうしても受け取れないならそれで良い。
俺が千鶴の代わりを探す時期を早めるだけだ。
「どうしても、その手を引かないのか?」
「無論だ」
悲しそうに尋ねる千鶴に、平坦に答える。
俺の態度に表情を少し歪めた千鶴は、考えながら、つっかえながら話し始めた。
「もし……もしもの話だが、それなら、今後、ワタシを助けたお前に万が一のことがあっても、ワタシは、多少は生き延びられることになってしまうぞ? それで良いのか?」
良くない、と、言って欲しいとその顔に書いてあった。
だから、俺は本音で答える。
「俺にはそんな所有欲は無い」
「……分かった。だが、ワタシは、お前を優しい男だと思うことにするぞ?」
俺の目を覗き込んだ後に、千鶴はひどく中庸な……だが、無機質ではない表情で、確認するように俺に尋ねて来た。
「どういった理由で?」
なんとなく、千鶴がどの部分を指して言っているのかは分かっていたが、惚ける意味でも俺はそう訊き返した。
「本当の、ただの悪人が、お前のような事をするものか」
ほんの少し儚く笑った千鶴は、俺の手から通帳をひったくると、乱暴に上着の隠しに突っ込み、そのまま布団に突っ伏した。
まったく、困った女だ。
俺はそう告げる代わりに、薄手の毛布を千鶴目掛けて投げ掛け、自分は柱を背に足を組み、窓の外を見ながら、今後の方策を考え始めていた。