第二章:質屋 前編
「宿はどうする?」
列車を降りてすぐ、毅然とした――振りで、千鶴が俺に尋ねて来た。
照れ隠しなのは、顔を見れば分かる。
いや、顔を見ずとも、さっきまでの千鶴の寝相を思い出せば、それが原因の照れ隠しだと気付かない方がおかしい。
まさか、この歳で抱き癖があるとは思わなかった。
千鶴が寝入った後、俺は右手で頬杖をつき、左手をだらんとさせていたのだが、その左手を千鶴が急に掻き抱き、停車するまで離さなかった。
……いや、もう少し正しく表現するなら、女童がするように、腕に纏わり付いて甘えているような状態。
別に、変、ではない、と思う。
広い世には、そういう者も居ると聞いた事があるような、ないような。
ただ、まあ……。いや、寝入り端が大人しかったから俺も油断していた訳だし、今更それをどうこう言っても仕方がないので、俺も無かったことにした。
「外国資本の宿は止めよう。不平等条約も切れたので、この街では優先的に憲兵がうろつくから足が付きやすい」
俺の方も努めて真面目な顔をして、駅の出口へと向かって歩き始める。
「あ」
「うん?」
歩き出した途端、千鶴が短く声を上げたから、肩越しに振り返ってみる。
千鶴は、自分で声を出した癖に、俺が視線を向けると、赤い顔で俯いてしまった。
いったい何を? と、疑問に思ったのは一瞬で、中途半端に延ばされた千鶴の腕から、その意味を察した。
ああ、鉄道に乗る際には手を――。
……ああ、そういうことか。
さっきまでの事を考えれば、確かに躊躇いもあるだろうな。
概ね正確に事態を把握した俺は、短く嘆息して千鶴の手を取った。
少し戸惑ったような、それでも、少しは嬉しそうな千鶴の視線を感じる。
まあ、海都の駅前の雑踏で逸れられたら迷惑だしな、と、心の中で誰にとも無く言い訳して、俺は今度こそゆっくりと歩き出す。
「――それで、宿は、日本人経営の……老舗にするのか?」
どこか帝都と似た――というか、努めて帝都を模して作られた海都の陸の玄関口にはあまり関心を向けず、千鶴は俺に話し掛け続けている。
風景は見飽き、ついでに、さっきの席での誓いを、寝ている内に忘れてしまったらしい。
予想の範囲内だし、この程度なら目くじらを立てるつもりはないが、適度には会話の先を誘導する受け答えを考える俺。
「何故、老舗に限定する?」
「料亭もそうだが、そうした古い旅籠は顧客を第一に考えているものだ。だから、大臣達の会合も料亭や老舗旅館なのだしな。そもそも、かの帝国憲法も――」
したり顔で得意そうに話す千鶴は、前提条件が明らかに間違っていた。
――が、本人はそれに全く気付かずに、胸を張って話し続けている。
「成程」
千鶴の憲法草案作成に関する薀蓄を聞き流しながら、適当な頃合で相槌を入れる。
だろう? と、得意そうな顔を向ける千鶴。
千鶴の単純過ぎる思考を笑いながら、俺は解説した。
「しかしそれは、後ろ盾がある連中にしか通用しないさ。民間人の情報は、貴人とは別の宿帳に記載され、そっちは憲兵が来たら一発で開示されてしまう物だ」
「偽名を使えば良いではないか」
依然として、偉そうな態度で言い放つ千鶴。
間違っているのは、俺だと暗にその顔が言っている。
「なら、安宿になるぞ?」
「何故だ? お前は、商人の身分を偽装したのであろう?」
「軍用箋は使える場が限られるのさ。軍民共用の――この鉄道の路線などがそうだが、宿も軍民共用にする訳にはいかないだろう?」
軍用箋を忍ばせた背広の胸の隠しを軽く叩き、ついでに軽口を叩く調子で、千鶴の鼻っ柱も叩く。
ややこしくなるので口にはしないが、確かに軍用箋で軍民共用以外の宿も取れるには取れるのだが、その場合、経費がすぐさまに――この場合は、陸軍用箋なので、陸軍の経理課に請求されてしまい、あっという間にばれてしまう。
「では、どうするのだ?」
千鶴は憤然と尋ねて来た。
それは、無論、手詰まり感による苛立ちでは無く、俺の受け答えに対するものだろう。
それを知りながらも、敢えて俺は今後の方策を――頭も口も軽そうな女に教えていないのだが、いまひとつ、当の本人にその自覚がないのが、辛い所だ。
「まあ、任せておけ」
不満そうに見詰めてくる千鶴に、それだけを告げ、思い出したように懐中時計を取り出し、時刻を確認する。鉄道を降りてそんなに経ってはいないが――しかし乗車していた時間は四時間程であるため――、話題転換には丁度良い時間になっていた。
「そういえば、食事はどうする? もうじき昼だが」
時計が指すのは午前十一時。
昼食としては、やや早い時間だが、混む前に店を確保する事や、注文してから時間の掛かる高級店を視野に考えれば、店を探すにはむしろこのぐらいの方が好都合だ。
「……寝ていたせいか、まだ、食べられそうにない」
最初、俺の意図を少しは察したのか不貞た表情で口を噤んでいた千鶴だったが、朝食は自分から空腹を訴えた事を思い出し、恥ずかしさが込み上げたのか、今後の気遣いを期待する視線で、ぐずるように答えた。
千鶴には、分かったと軽く頷きながら、独り言のつもりで呟き、視線を巡らす。
「なら、まずは……荷物の選別をするのが先か」
丁度良い場所は――、この人の多い街で、そうそう都合の良い場所なんて無い、か。
ま、そうだな、人目が無い訳ではないが、旅行者や奉公先を探す人も居ることを考えれば、公園で荷物を確認する位の事は、そこまで不審では無いよな。
そう結論付け、駅前の広場の外れにあった噴水公園へ足を向ける。
手ぶらで気楽な顔で付いてくる千鶴に、荷物分は苛立ちながらも、軍隊教育の賜物の無表情で俺は先導して歩いた。
昼前の噴水公園は、思ったよりは空いていた。
しかも、不本意ながら、その場で俺達が目立ってはいないというおまけまでついて。
元々、基地周辺に遊郭は発展しやすいものだが、この辺りは要塞と交易港を兼ねているので、よりそういう風土なのだろう。
花街に働き口を求めに来たのか、行李を抱えた男女が――尤も、その多くは親子なので、そういう意味では俺たちの取り合わせは多少は異色ではあったが――、公園内のベンチに腰掛け、遠い目をして語り合っていた。
そういう知識がどの程度、千鶴にあるのかは分からないが、敢えて説明する必要も感じなかったので、他人は他人と割り切って俺は無視した。千鶴も、周囲の様子を少し不思議そうに見てはいたが、特に訊ねもせずに空いているベンチに座った。
「わ!」
「ん?」
不意に上がった千鶴の声に身構えると――。ベンチの上で千鶴が縮こまっている。浮浪者でも下にいたのかと腰をかがめてみると……。
「ただの猫だろ」
黒猫かと最初は思ったが、錆の縞が所々入っている猫だった。子猫と言うには大きすぎるが、大人と言うにはまた小さな猫だ。
首根っこを捕まえ、適当に放り投げようとすると――。
「こら、何をする」
何をする、は、こちらの台詞だと思ったが、言い返すより早く千鶴が猫を奪い取ってしまった。
「ほんとうの猫だ」
どこかうっとりした目で錆猫を見て千鶴が呟く。
「偽者の猫なんて居るものか」
呆れた顔を返し、およそ四貫程の大型鞄二つを――中身が分からないので、慎重に降ろしながら、ぼやくように俺は尋ねた。
「何を入れて来たんだ? 服にしては、随分な重さだったが」
尋ねられた瞬間、ふふん、と、少し上機嫌に笑った千鶴が、猫を抱きかかえ、待ってましたとばかりに話し始めた。
「女の荷を詮索するものではないぞ。だが、お前だから善しとしてやる」
千鶴の尊大な態度に、肩を竦めて見せる俺。
「俺は、軽く荷造り、と、言ったよな?」
「ああ」
悪びれもせずに頷いた千鶴。
「なら、これは何だ?」
明らかに咎める口調で問い質すと、千鶴は、俺のそんな対応も織り込み済みという顔で鞄の口の留め金を外し、胸を張って高らかに宣言した。
「逃げるのだから、先立つものは必要となるだろう? それに、ワタシ個人に対しても、岩倉の家はそれなりの慰謝料を出すべきなのだ……そう、それなりの嫌がらせをさせてもらわねば、やってなどおられぬのだ!」
……その荷物から、一番の嫌がらせを受けたのはこの俺だと思うんだが、唯我独尊のお嬢様は、そんな配慮や熟慮は持ち合わせていない。
しかも、逃避行中なのを分かっていながらも、そんなことを口に出すな、と、何回諫めれば学習するんだろうか。
まあ、周囲の、売られていく寸前のくたびれた雰囲気と比べれば異質だが、空元気や、女衒からの脱出を夢見る女、という先入観で見れば、さほどではない、か?
ならさしずめ俺は仲買人か、と、自嘲した後、改めて千鶴の表情を窺った。
「で? いつまでコレを持って逃げるのだ?」
辟易しながら、鞄の中身を一瞥する。
時計、装飾品、宝石――その他、よく分からない焼き物や、掛け軸等が乱雑に放り込まれていた。
急いでいたにしても、この詰め方は、無いだろう。これだけで、育ち――は、残念ながら上等か、なら、本人の性質が見て取れるというものだ。
言葉に苛立ちを混ぜた俺に全く気後れせず、千鶴は言い放った。
「うん? もう、売っても構わぬぞ? 元より、今日中に金に換えるつもりだったしな」
おそらく、すぐに売るのだから、もう文句を言う必要が無いだろう、と、本人は思っているのだろう。
千鶴の、自身の思い付きに対して、何の疑問も持た無い頭が、少し羨ましい。
こうした古物や貴金属は、目利きが出来る店は限られてくる。簡単な日用品で金を貸す、町の質屋では駄目だろう。しかし、それなりの業者へ売却すると、その宝物の由来から足が付く可能性もあって嫌なのだが……。
ただ、事実として、逃走資金の確保は行っておきたいし、何より――。こんな重さの物を背負っていたら、いざという時に、逃げる事が出来無い。
それに、駅前には質屋があるのは相場だから、そういう意味では丁度良いし、今後、こうした物を山ほど持ち歩くような生活になる事は無いのだから、注意しても意味は無いと悟り、俺は再び鞄の口を閉じ――ようとしたが、さっきの猫がにーとか鳴きながら、鞄にまとわりついてきたので手で追い払った。
「こら、ワタシの猫になにをする」
「なに?」
「決めたぞ、この子は、モモだ。百と書いてモモ。ワタシの千の字を一桁下げて譲ったのだ」
誰もそんな事を訊いていないんだが、千鶴は満足そうに語りだした。
「ちょっと待て、まさかとは思うが」
「拾う」
「宿に断られるだろう。弁えろ」
「少し大目に金を握らせれば、旅館の者が世話をしてくれるだろう。馬だってそうなのだから、猫で出来ない筈があるまい」
「邪魔だから捨てていけ」
冷たく命じるが、千鶴は不機嫌そうな顔で、猫を抱く腕も緩めなかった。
「なら、こうしようではないか。お前の当てで世話を頼んでみて、それで、断られたら、ワタシも諦めて、毎日ここに通うことにする」
お嬢様って連中の頭の中は一体どうなっているんだろうか? 猫なんて何処にだって居るだろうに。
「お前の家でも、猫の十匹ぐらいはいそうなものだろ」
「父上が鯉を贔屓にしていたんだ。だから、ワタシは猫さえ飼えなかった。それに、猫や金魚は遊女の動物だと」
ああ、まあ、確かにな。しかし……、いや、まあ、店についてから、諭した方が良いか。塒も決めずに時間を無駄にしたくは無いからな。
処置なし、と、肩を竦めた後、その呆れている肩に千鶴の重たい荷物を掛け、うんざりした顔で立ち上がる。
千鶴も、一歩も下がらないぞと言う顔はしていたが、大人しく俺について立ち上がった。
最後にひとつだけ嘆息し、駅の裏手のそういう店が集まりそうな場所を目指す俺。
随分と短慮なことだ。
質屋への道すがら、荷物の見積もりの値を聞くまでの俺はそんな事を思っていた。