第十六章:結末 前編
子爵は、前々から娘が本心では服従しきっていないのを見抜き、千鶴の反抗の牙を抜く手段が欲しかったのだ。
その時、大佐が連れてきた俺に子爵は目を付けたのだろう。
元々、大佐は俺の本性をそれなりには見抜いていた節があるし――と、いうか、猪突猛進な男しかいない同期の中で、ひとり斜に構えていたことが、大佐からの評価に繋がっていた――、それを聞き付けた子爵が、捻くれ者を上手く使って、千鶴を適度に世間擦れさせつつ、最後には全てを諦めさせる筋書きを描いた。
俺が浚いに来れば良し。
千鶴の呼び出しを無視した所で、損失は無い。いや、俺が来なければ来ないで、誰も千鶴を助けになんて来ないと、痛感させることが出来る。
子爵は、そう考えたに違いない。
と、いうか、その呼び出しにしたって、下女を使って千鶴を唆せた可能性も出てきたしな。どこまでが千鶴自身の思考によるものか、操られた結果なのか、境界がかなり曖昧だ。
――望まぬ婚姻という――退屈な日常という――地獄に降りて来た蜘蛛の糸に、俺と千鶴の両方が手を伸ばした瞬間に、全てが動き出した。
時節が丁度、合致した。
俺もそうだが、千鶴も子爵も、おそらく、その他の――例えば、この許婚のような、顔も知らない連中の歯車の全てが、一致してしまった。
ただ、それだけの話。
そう考えれば、適当に泳がせて置いた期間も、千鶴の気持ちが依存していくための時間を考えれば自然ではあるし、千鶴が家を難なく抜け出せた事も、合点がいく。
成程。
一番の貧乏籤を引かされたのは、どうやら俺らしい。
おそらく、子爵の筋書きの最後は、千鶴に最大の心的負担を与える為、信頼する人物――やや不本意だが、この場合は俺――を、目の前で殺し、罪悪感を植え付け、その後の人生を従順に、贖罪のみに当てさせる事だろう。
「小官は、お嬢様の教育用でしたか」
諦めたような深い溜息を吐き、その推論の正否を子爵に尋ねてみると、子爵は鷹揚に頷き、満足そうに答えた。
「聡いのも結構。中々に、惜しくなってしまうね」
抜けているように見えるのは振りで、かなり腹黒いな、この肥満中年は。
ま、愚鈍な人間よりは腹黒い人間の方が好感が持てるんだけどな、と、薄い笑みを浮かべる俺。
この場から逃げるのは不可能ではない。
前方に火力を集中出来る散弾銃とはいえ、弱点が無い訳ではない。扱うのが素人ともなれば、尚更。
しかし、その場合、千鶴を連れて、というのは難しい。
一番簡単な方法は、向こうがこんなにも御執心の千鶴を盾にして銃を封じ、路地の迷路に入り、都度、敵を漸減させつつ逃げ切る手段だが……。
楽しくない手段にも程があるな。
命あっての物種だが、矜持のひとつも持てない人生なんぞ、まっぴらごめんだ。
それなら、もうひとつの危険性の高い手段だが――千鶴が自発的にそれに気付いてくれる確率は、それほど高くない。俺からの助言無しでは、五分五分といった所だろう。
さて、どうしたものか。
……なんて、迷った時点で、どうしたいかなんて決まっているんだけどな。“遊び”なら、命を賭けてこそってね。人間、いつかは死ぬんだし、ここで死んだらその時だ。
「……なんでこんな男を誑かしたんだ!」
俺と子爵が、どす黒い笑みで楽しみながら牽制し合っている所に、場違いな高い声が割り込んできた。
随分と無粋だな、と、思いつつ視線を向ければ、想像以上に切羽詰った顔の――、千鶴の元許婚がいた。
緊張と興奮が、銃口の微かな震えに現れている。
後一歩で発砲するな、これは。
「おお、治幸くん。どうしたのかね?」
子爵が、気を宥めさせようとしたのか、敢えて惚けた調子で問い掛けると、それが逆に癇に障ったのか、さっきよりも高く大きな声でそいつは叫んだ。
「僕が、どれだけ時間を割いて、気を引こうと贈り物をして……手紙も、電話も!」
ギリギリの所で、噴き出してしまうのは堪えた。
笑い話のネタとしても二級だね。
掛けた手間と金に、女の心が応えるとは限らない、なんてのはそこらじゅうに転がっている小話じゃないか。……ああ、いや、それを言うなら、気位の高い男が女に袖にされて逆上するなんてのもよくある話かもしれぬな。
「なにが不満なんだ!」
怒鳴り声を向けられた千鶴は、しかし、へたり込んで怯えているだけだった。
返事は出来ないらしい。どういう理由かは知らぬが、俺には強気に出れるってのに、どうにも他人に弱い所がある。
軽い溜息の後、意思の統一をしていなかったのか、と、呆れた目で子爵を見れば、子爵も苦い顔をしていた。子爵としても、この反応は予想外だったのかもしれない。
しかし、……随分と肝の小さい男だ。
年下の女に拘ったかと思えば、ちょっと悪い虫が、たかったぐらいでもう棄てるとは。
おそらく、中途半端な憲兵の襲撃も、粗の目立つ港湾警備も、こいつがいたせいだろう。
……ああ、大佐は、もしかしなくても、これが血族に入るのを嫌がって、多少の情報提供をしていたのかもしれない、な。なら、大佐としては、俺にこれを始末させるのが目的……。いや、どうかな? 大佐ほどの人が、木っ端役人一人消せないとは思えない。
どうも、もう一枚ぐらいは、裏がありそうだな。
「ここまで尽くしてやったのに! もう……この段になって、そんな男と逃げるなんて!」
声の調子から察するに、完全に逆上してるな。
千鶴の姿が見えないから、子爵の前だからと抑えていたのがここに来て――多分、俺の後ろに隠れている千鶴の様子から余計に――爆発したんだろう。
用心金にかけていた許婚の指が、引き金に触れた。
俺を撃つ気だ。千鶴諸共に。
反射的に身体が回避体勢に――入ろうとした時、千鶴が俺の腰に手を添えた。身体の力を抜く。千鶴が覚悟を決めたというのなら……それでいい。それこそが、俺らしい結末だろう。
「……子爵はよろしいので?」
おそらく、当初の予定から随分と筋書きが変わったと思うこの展開に、嘆息しつつ尋ねてみる。
子爵は、千鶴とその許婚の双方を見比べ、しばし考えた後、諦めた――、というか、呆れたのと諦めたのが半々ぐらいの表情で溜息を吐いた。
「致し方あるまい。もう、資産価値がないのだからな」
その子爵の言葉が、最後の合図になった。
タン――。
と、軽い発砲音が、路地に残響している。
「ああ! あぁ! う、腕、ボクの、腕」
一拍置いて、散弾銃が地に落ち派手な音を立て、千鶴の元許婚が腕を押さえ喚き出した。
血はそれほどでもないが、腕が僅かに妙な角度で曲がっている。おそらく、弾が骨で止まった代わりに、骨そのものが折れたのだろう。
肩越しに振り返れば、青い顔をした千鶴が、拳銃を構えたままの姿で立ち竦んでいた。振り返った俺とは目も顔も合わない。
唇を震わせた千鶴は、地面に顔を向け、その瞳にはなにも映していなかった。
千鶴は、不安から俺の腰に手を伸ばしたわけではない。これまでの道中、しっかりと目に焼き付けていたはずだ。俺が腰に拳銃を隠していることを。
力を抜いたのは、不慣れな千鶴が拳銃を取り落とさないため。子爵との会話は、注意を逸らすため。
全てが終わると、子爵も許婚の男も思った瞬間に、千鶴は引き金を引いたのだ。
想像以上の結果だ。素晴らしい。
劇的な幕引き――、大逆転、完全に、欠ける事も無く、俺の望んだ結末が目の前にあった。
ただ、訓練もせずによく腕なんて狙えたな、と、感心したのは一瞬で、表情や態度を見る限り、どうやら千鶴は腕を狙って撃った訳ではなかったらしい。
殺す覚悟。
いいね。
それならそれで、面白い。
「ちちうえ……」
微かな震えを銃口に伝えながら、千鶴は縋るように子爵の方に顔を向け、弱々しい声で呼びかけた。
まるで、許しを請うように。
「――この! 馬鹿者が!」
子爵から返って来た怒声に、身を強張らせる千鶴。
「何故撃った! 自分のしたことが分かっておるのか! 岩倉家が今後どうなるか――」
喚く子爵と、身を竦ませる千鶴。
子爵が先程はっきりと千鶴を捨てたのに、未だに千鶴は子爵に敵意を向けられないらしい。
ま、俺程に非情になれる人間は珍しいようだし、これ以上は期待すべきではない、か。
許婚を打った時点で充分に及第点だし、どちらにしろこの場はもう詰んでいる。見苦しい場面を引き伸ばされても、興冷めだ。なにより、周囲の兵隊に先程の発砲音を聞きつけられ、踏み込まれれば、それなりに面倒だ。
なら、俺のするべき事はひとつ。
一歩目を踏み出すと同時に、地面を這うように姿勢を低く駆け抜け、散弾銃を拾い、床木で二人の脛を思い切り横薙ぎに払った。
「子爵、正当防衛ですよ。それと、お嬢様はお逃げになられたのですから、今後の事と云われましても、詮無き事でしょう?」
にやけた顔で二人を睥睨する俺。
「キサ……マ」
子爵が苦痛にもだえながらも、歯軋りするように言った。
散弾銃の銃口を二人に向ける。その顔は、恐怖で歪んでいた。
ふふ、と、腹の底から込み上げる感情を抑え切れず、ついに俺は笑ってしまった。
「ゆ、づる?」
楽しみつつも油断無く銃を構える俺に、背中から千鶴の声が掛かった。
身体の向きを少し変え、転がる二人を視界に入れつつも、目の端に千鶴を捕らえ、横目で千鶴を見ながら俺は返事をした。
「うん?」
「お前は……何故笑っていられるのだ?」
心の底からの笑みだと看破した千鶴が、非難の混じった声で問い掛けてきた。
「俺の目的は、こういうのだからさ」
即答する俺に、分からない、と、千鶴の途方にくれた顔が告げている。
やれやれ、と、今度は苦笑いを浮かべ、俺は何度も言っていることを再び口にする。
「言ったろう? 貴賎も、清浄も汚濁も無い、混沌とした情念の絡まる結末が見たいのさ。腹の奥に隠した本音、筋書きの無い物語、その劇的な結末」
今が正にその瞬間だ、と、言外に表情で告げる。
量り損ねた一手で立場がころころと変わり、悲劇も喜劇も、何もかもがこの瞬間にある。
これを楽しいと云わずして、なにを人生の醍醐味と云うのか。
「千鶴は楽しくないか? 撃った気分はどうだ? 鬱憤は晴れたか?」
高ぶる感情を隠しもせずに、今度は俺から千鶴に尋ねる。
千鶴は、俺の狂気の部分に最初慄いた顔をしていたが、ここに至るまでの全てから、すんなりと俺という存在を再認識したのか、辛そうに俯いてしまった。
「弓弦。……ワタシは、……怖い」
必死で口から千鶴が搾り出した言葉は掠れていた。
千鶴が『怖い』と、言い終えた瞬間、千鶴の目からは涙が溢れ出した。
涙滴が、地面に点々と染みを作っている。
千鶴が、怖いと、言うのを初めて聞いた。
逃げてから今日まで、どんな場面にもそれを言うことはなかったし、様子から、家や許婚を怖がっているとは察せても、千鶴自身ははっきりとそれを俺に伝えた事が無い。
そういう強がりが俺は嫌いではなかった。
「ワタシは、縛られていたが、守られても居たはずで、なのに……。そうだ、逃げていても、どこかでワタシは助けられると、そんな甘い思いもあって……。なのに、今、殺されかけて、そして、ワタシも、殺すつもりで、……撃った」
静かにゆっくりと、銃を持っていない左手を頬に強く当て、顔を歪め、膝を折り、祈るように崩れ落ちる千鶴。
「もう――。なにもかもが、もう」
その言葉を最後に、千鶴は声を殺して泣き始めた。




